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蜘蛛の処刑台
112. 道化と道化 -side落ちぶれた王にむらがる者
しおりを挟むひたひた
ひたひた……
■ ■ ■
ロッソ伯爵家には、有名な当主がいた。
この家の当主は代々気が強く、頑固な人物が多いことで知られている。しかし当代のフェランド=ロッソは、珍しくも人当たりが良く、魅力的で社交的な人格者だった。
魅力的で社交的で、家族想いの模範的な紳士。その甘い顔立ちに、すれ違った貴婦人はみな頬を染める。
そんな彼の唯一の悩みが、後継者たる長男の出来の悪さ。随分手を焼いている息子がいるようだと、男性陣からは共感や同情を買い、彼は敵のいない人気者として社交界で輝き続けていた。
今は昔……。
ロッソ伯爵家には、有名な当主がいる。
虚飾の王だ。
虐げていた長男の反逆によりすべての偽りが曝されてしまい、妻子からは見放され、使用人からは一人残らず「当主として不適格」の烙印を押されてしまった。
前代未聞の、全員退職。一斉解雇ですらなく、全員が己の意思でその日のうちに辞めた。
そして辞めた使用人の全員が、自らの才覚で悪評を覆し道を切り拓いた長男に付いて行った。
誰もいなくなったロッソ邸に急遽雇い入れられた使用人は、どれも長く居つかない。何故ならフェランド=ロッソという人物は威圧的で、独善的で、すぐに物を投げつけて破壊する狂気的な部分があったからだ。
そして使用人を道具か塵芥としか思っていない。
そんな噂が辞めた使用人からさらに広まり、ますますロッソの王都邸にはまともな使用人が集まらなくなった。
フェランド=ロッソは、今も人に囲まれている。
ただし、囲っている人間の質が以前とはガラリと変わった。
女を好み、酒を好み、賭博を好み……人品、家の経済状況、どれをとっても眉を顰められ距離を置かれる貴族ばかり。以前なら決して彼に近付けもしない、最底辺の貴族ばかりだ。
彼らはこぞってフェランドを持ち上げる。あなたはなんと素晴らしい御方なのかと。傍で見ていれば空虚で嘘くさいおべっかだ。そんなおべっか集団を侍らせ、彼は未だに王のつもりでいる。
とはいえ、そそのかされても女遊びや賭博には手を出さない。それは決して高潔な理由からではなく、単純に彼個人の歪んだプライドのためだった。
己のような『品格のある』紳士には不要なものと言い切り、そういう遊びに誘おうとする取り巻きは『下衆』と切り捨てた。
自分に相応しいのは、そのような低劣な女ではない。そして賭博場は遊びに金銭を賭けて一獲千金を狙おうとする、低俗な下等人種が集まる場所だ。
遊戯とは金品を賭ける卑しいものではない。崇高で知的なものであるべきだ。
その言い草に取り巻き達は「ごもっともですな!」「これは失礼いたしました!」と賛同するフリをしながら、内心でせせら嗤っていた。
―――そんな『下等人種』でなければ、相手にされなくなったくせに。
偶然それを耳にしていた者も、ひっそりと冷笑を浮かべてその場を去り、愉快な道化の冗談を面白おかしく広め立てた。
輝かしい場所に返り咲くことは永遠に不可能であり、もはや自分はロッソ家の王ではない現実を直視できず、過去の栄光に縋っている、哀れな男。
それが今のフェランド=ロッソだった。
明らかにフェランドの酒量は増えていた。過度の飲酒を示す証拠に、吐く息の臭いが変わり、白目の部分が濁っている。本人にその自覚があるかどうかは不明だ。
身だしなみも以前より崩れている。これは高級使用人がロッソ本邸に一人もいないためだ。優れた使用人ほど主人の装いを完璧に仕上げてくれるものだが、フェランドにとってはどの使用人も等しく『下』だ。かつてはそれなりに上手に本性を隠せていたのに、己のプライドが徹底的に傷付けられて以降、露骨に出るようになった。
―――本来であれば、これらはすべてオルフェオに与えるはずのものだった。
オルフェオをこのように育て、嘲りも冷笑も何もかも、あの息子が受けるべきものだった。
あれが思い通りにならなかったのがいけない。
自分は誰よりも優れ、誰よりも上に立つべき人間なのだ。
彼はまだそう信じていた。
そんなある日、彼を訪ねた人物がいた。
■ ■ ■
(まるで、廃墟だ……)
生き物の気配のない館の中を、幽鬼のごとき顔色のメイドに案内されながら、男は忙しなくきょろきょろ辺りを見回していた。
以前はロッソ伯爵領の本邸で、料理長を務めていた男である。
荒んだ顔つきに貧相な身なり。彼は本来の主人に会うべく、はるばる王都まで訪れたのだが……豪華な館の中を歩きながら、じわじわと恐怖が湧いてくるのを抑えられなかった。
彼の主人―――フェランド=ロッソであれば、自分の味方をしてくれるはずだと信じてここまで来た。けれど、どこがどうとは言えないけれど陰鬱な気配に満ちた建物の中に入り、この案内のメイド以外の人間に一人も会えぬまま主人の部屋の前に来た時、「ここは既に陥落した城なのでは」という予感が芽生えた。
「旦那様……お客様を、お連れいたしました」
久方ぶりのフェランド=ロッソその人の姿を目の当たりにし、ごくりと息を呑んだ。
―――荒んでいる。自分以上に。
装いも以前ほどきらびやかさがない。シワが寄り、形も崩れ、なのに手入れをする者がいないのだ。
この館の陰鬱な気配の理由がここに至ってわかった。……掃除の手が行き届いていない。廃墟のように感じたのは、あちらこちらに埃が溜まったまま手つかずになっていたからだ。
広大な館に、使用人がほとんどいない。だから物音ひとつなく、清掃も行き届かず、建物全体に生気がない。
この、元主人のように。
「なんだ……おまえは」
「あ……あの……わたくしめは……」
ギョロリと睨まれ、逃げ出したくなるも、この男以外に自分の苦境を救える者はいないのだと、元料理長は思い直した。
そして自分がいかに不当な理由で解雇され、オルフェオという男がいかに非道で無情で好き放題をしている悪童なのかを、途中から恐怖心も忘れて熱意たっぷりにまくしたてた。
「もう一度、わたくしめを料理長として取り立てていただけないでしょうか!?」
手もみをしながら、精一杯愛想よく―――実際は気持ちの悪いニヤつき顔で―――料理長は『お願い』した。彼の『お願い』をフェランドは今まで何度だって聞いてくれた。あの小生意気なお坊ちゃんに『言いがかり』をつけられた時だって、何度も。
しかし―――……
「…………」
「あの。旦那様……?」
「……何故私が、そうしてやると、思うのかね?」
「―――はい?」
「おまえに、そのような価値があると思うのかね」
「へ」
「そうだろう。よくよく考えてみるといい。おまえは、私に取り立ててもらえるような、どんな価値がある……?」
「…………」
男が暗い顔で帰ってゆくのを見送り、案内役のメイドは足早に門の陰に回った。
人目につかない場所で何者かと言葉を交わし、金子袋を受け取って即座に懐に仕舞うと、また足早に館の中へ戻ってゆく。
メイドに金を渡した男は、さらに別の場所へ移動し、仲間らしき男に伝えた。
「ロッソ本邸の元料理長だそうだ。ここで雇って欲しいと言いに来て、『おまえに価値はない』と言われ追い返されたらしい」
―――追跡不要。
■ ■ ■
よくよく考えるといい。
そうだろう?
優しげな声が木霊する。
その言葉の含む意味を彼はよく知っていた。
「……クソ野郎が」
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