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分岐点

5. 分岐

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 笑えって? この状況で?
 無理だ。笑えない。
 これでどうやって笑えというんだ。

 俺は相手を間違えていた。
 俺の中の怪物が爪と牙で切り裂きたかった相手は、この母子おやこではなかった。
 あの怪物が生まれた原因は、本当は―――

「どうした、オルフェ? 挨拶をしなさい」
「……申し訳ありません、父上。まさか自分に、新しい母と、弟ができるなんて……今初めて、聞きましたので……」
「それがどうかしたか?」

 ギョッと目を瞠ったのはイレーネだ。父上と俺の顔を何度か見比べ、俺の顔色から嘘ではないと察したのか、口を手で覆っている。
 イレーネだけではない。かつて主人とともに、出来の悪い跡取り息子への失望を漂わせていた執事のブルーノまでが、愕然として主人を凝視した。

 そうか。みんな、俺がとうに聞いていると思っていたんだな?
 そうだよな。普通は事前に説明があるものだ。別棟に愛人を住まわせるならともかく、正式に妻子として迎え、これから同じ建物内で暮らそうというのに、説明のひとつもないほうがおかしい。
 第一に、俺の母エウジェニアが亡くなったのは一年前。今は喪が明けた直後のタイミングだ。この時点で、既に常識と非常識のギリギリを攻めている。

 喪中に愛人を連れ込む輩に比べれば、かろうじて常識の範疇ではあった。
 しかしこの男の悪びれなさは、皆の胸に無視しがたい違和感を植え付けたようだ。

 前回はこの時点で俺が癇癪を起こしてしまったから、きっと誰もに気付かないままだった。

「幼いおまえには母親が必要と思ったのでな」

 いやいや、
 もしや愛息子へ母親をサプライズプレゼントとか仰るつもりではありませんよね?
 それって―――彼女に対して、凄まじく最低ではありませんか?

「オルフェ。挨拶をしなさいと言ったろう? いくら身内になる女性でも、礼儀はきちんと示さないか」

 ハァ……と溜め息をついた男に、せっかく閉じ込めていた怪物の檻が危うく崩壊するところだった。
 これみよがしに全否定してくるこの溜め息を、あの頃、俺は何よりも恐れていた……。
 
「……失礼しました。イレーネ様」

 せり上がりそうになる何かをぐっとこらえ、言葉を絞り出した。
 すると一瞬、彼は奇妙なものを見たように眉をひそめた。

「そのような他人行儀な呼び方をせず、義母上ははうえと呼びなさい、オルフェ」
「あ、あの、旦那様、わたくしはよいのです! オルフェ様、とお呼びしていいかしら?」

 イレーネが慌てて割り込み―――いや、挨拶に割り込んだのはこの男だったか―――にこっと笑いかけてくれた。

「混乱なさるのは無理もないと思いますの。どうか、あなた様の呼びやすいように呼んでくださいましね」
「まったく……すまないイレーネ。この子は人見知りではなかったはずなのだが」

 再び割り込んできた男の言い草に、イレーネの口元がひくりと引きつった。角度的に奴には見えなかったろう。
 よかった、彼女は常識的な人のようだ。……実は財産目当てが事実だったらどうしようかと、少し心配していたのだ。
 ブルーノも先ほどから顔色の変化が忙しい。彼でさえそうなのだから、他の使用人も我慢できずに視線をよこしてくる者がいる。
 そこには傲慢で無慈悲なお坊ちゃまへの恐怖はない。前回とはまるで異なり、彼らは当主であるフェランド=ロッソにこそ、何か信じられないものを見る時の目を向けていた。

 ―――聞き間違いかしら?
 ―――本気で仰っているの……?

 己の耳を疑いたくなる気持ちはよく理解できる。
 だがあいにく、この男は……フェランド=ロッソは俺に対し、前からこういう男だった。

 俺も確信したのはついさっきだから、偉そうには言えない。
 思えば違和感は昔から何度もあった。何がどうおかしいと明確に表現できないまま、前回の俺は肥大した怒りへ呑み込まれて終わってしまった。
 俺という醜悪でどうしようもない怪物が間近で暴れていたせいで、皆もこの男のに気付く機会が訪れなかった。
 ―――けれど今、流れが変わった。

 そうか。さっき一瞬浮かべた妙な表情は、俺が反応を見せたからか。

「仕方のない子だな。……朝食を用意させてある。食事の後で庭を案内しよう、イレーネ」
「え、ええ、旦那様。嬉しいですわ」

 おーい父上? 俺はまだ彼女の息子と挨拶していないんですけど、お忘れですかー?

「父上、お待ちください」
「なんだ、オルフェ」
「食堂には私の席も用意されているのでしょうか」
「当前だろう?」
「そうですか。せっかくなのですが、今回、私は遠慮させていただきます」
「何? 我が儘はやめなさい。おまえの母を歓迎する席なのに、おまえが不在では意味がないだろう」

 俺がいてもあなたにとって意味はないでしょうに―――叔父上。
 白々しく思ったが、もちろん口には出さなかった。

「申し訳ありません、体調がすぐれなくて。……イレーネ様、あなたが我が家に来てくださって、とても嬉しいです。後で落ち着いたら、私ともゆっくりお話をしてくださいね」

 ぎこちない笑顔になったけれど、結果的にはよかった。完璧に表情を取り繕えない子供の様子は、むしろ周囲には自然に映ったろう。あのブルーノの顔に、一瞬だけ俺への憐憫がよぎったほどだ。
 現在いまの俺は周りに注意を払う重要性を理解し、前回の悪童時代より、表情や視線の変化をそれなりに読み解けるようになっている。
 前はそれらを蔑ろにして失敗した。同じてつを踏んでなるものか。

「ええ、ええ! わたくしも嬉しいですわ、是非、お話してくださいませね!」

 イレーネは嬉しそうな泣き笑いを浮かべた。
 俺に対する引け目が若干窺えたものの、緊張と不安から解き放たれた笑顔に、俺も先ほどより自然な笑みを浮かべられた。
 そして、次は……。

「ジルベルト、だったね?」
「っ!」

 聖画から抜け出た天の御使いさながらの少年はビクリと震え、ぎゅっと母親のドレスを握りしめた。
 牢獄で見おろしてきたあの恐ろしい男と、これが同一人物とはな。顔を合わせた瞬間、あの恐怖が蘇って滅茶苦茶な態度を取りはしないか、なんて完全に杞憂だった。
 もちろん面影はあるけれど、七歳だぞ? 骨格も背丈も肉付きも十年分の違いがあるから、もう完全に別人にしか見えない。
 そもそも俺よりこの子のほうが怯えているじゃないか。

 少しでも天使を怖がらせないよう、慎重に距離をつめてひざまずいた。
 このぐらいの歳だと、たった二歳上でもかなり大きく感じるものだ。しかもこの子は十歳ぐらいまで、同年代の子供よりかなり小柄だったからなおさらだろう。
 きょとんと見返してくる天使の瞳の中に、初めて会う人への恐怖と、目線が下になった年上の少年への興味が混ざり合っている。
 自分でもびっくりするほど、この子への拒絶や憎しみが芽生えない。

「私はオルフェオ。君の義兄になる。今日はちょっと、無理だけれど……明日になったら、ゆっくりお話をしよう。仲良くしてくれると嬉しい」

 天使は目をぱちくりさせて……ぽ、と頬を染めた。
 そして俺をチラチラ見ながら、母親のドレスに隠れた。

「あらあら……」

 隠れつつ、何度も顔をちょこんと出してはチラチラ見てくる。
 小動物のごとき天使の行動にイレーネはほっこり笑顔になり、周りの者達も心なしかほっこり……

「体調が思わしくないなら部屋に戻って休みなさい。ブルーノ、オルフェの家庭教師にキャンセルの連絡を。では行こうか、イレーネ」
「……はい、旦那様。オルフェ様、お大事になさってね」
「はい。ありがとうございます」

 あんたは水を差さないと退屈で倒れる持病でもあるのか?
 不調を訴える『息子』の身を案じる言葉ひとつなく。
 ジルベルトにさえ、一言もなかった。
 そう、あのジルベルトに、一言も。―――俺より期待を寄せていたはずなのに。

 イレーネはよそ行きの微笑みでフェランドに答え、ブルーノはようやく取り戻した無表情で頭を下げた。
 彼らを見送り、俺は心配そうなメイドの視線を背中に感じながら自室に戻った。
 そうしたらドッと疲れが襲ってきて、吐いてしまった。


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