ぼくのくま

沖田弥子

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最後のデート 2

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 マークはちらりと視線を投げて、声を控えた。

「来たことあるじゃない。むかし付き合ってた彼女と……」
「ああ、あれな。よく覚えてるな」

 学生の時に交際していた女性が、水族館でダブルデートしたいと熱く語っていたことを思い出す。当時は億劫で、よくマークに愚痴を零したものだ。

「結局水族館は中止になったんだよ。先方の都合で遊園地に変更して、観覧車で目眩起こして吐いた。彼女、引いてたな」

 今となっては懐かしい思い出だが、観覧車という密室で吐いてしまったことで大分迷惑をかけた。後日、罵倒された雑言はもう忘れたい。

「そうだったんだ……。帰ってから寝込んでたもんね。何かあったのか気になってた」
「報告してなかったか?」
「うん。それ以来彼女と会わなくなったから、もしかして水族館に嫌な思い出あるかなって心配してた」
「気遣うなよ。むかしのことだし、彼女とは手も繫がなかったしな」

 こんな会話をしていると、彼は本当にぬいぐるみのマークなのだと実感する。
 幼なじみと話すのはこんな感覚なのかもしれない。胸の裡を広げられるのは安心できるが、恥ずかしい思い出が容赦なく再生されるので困りものだ。
 別館へ入り、数々の魚が泳ぐ水槽を見て回る。深い青は海の底を彷彿とさせた。
 エイが、ひらりと体を翻す。目の前を獰猛な眸をした鮫が横切った。色鮮やかな南国の熱帯魚たちが舞い踊る。暫し時間を忘れて、魚たちの饗宴を肩を並べて見学した。

「俺、ほっとしたんだ」

 マークは、ぽつりと呟いた。
 横顔を見上げると、彼の目線は水槽に注がれていた。ダークブラウンの眸が心なしか濡れている。

「何が?」
「瑛一郎さんが、彼女と別れたんだって確信したとき、ほっとした。おかしいよね。俺は、ただのぬいぐるみなのに。瑛一郎さんと付き合う資格もないのに、他の人と幸せになることを喜べないダメなぬいぐるみなんだ。あの後、瑛一郎さんに愛されるたびに落ち込んでたっけ……」

 ぐっと心臓を掴まれたような感覚に息が止まる。
 そんなこと、考えてたのか。
 瑛一郎がマークを溺愛していたとき、彼なりに葛藤したり苦悩していたのだ。

「ダメなんかじゃないだろ。僕はどうせ他の人となんて付き合えない。僕の愛情はマークだけのものだからな。……だから、死ぬことを心配しなくていい」

 他の人を愛して捨てられることは、即ち死を意味する。彼はそれを恐れているのだ。瑛一郎の愛情を通して、己の身を案じているだけ。
 当然だ。誰だって死ぬのは怖い。わかってはいても寂寥感が込み上げる。
 マークは内緒話をするように、瑛一郎に身を寄せた。

「俺は、いつ死んでもいいよ。でもそのときは瑛一郎さんの傍にいたいな」
「滅多なこと……」

 前方から歓声が湧いた。目をむけると、水中回廊を仰いだ人々が感激の声を上げているのだった。
 回廊の天から注ぐ柔らかな青の光。その合間を縫って、悠々と亀や魚の群れが泳いでいる。果てないように続くたゆたう水は、体に染み込むようだ。日常から乖離した幻想的な光景に目を奪われる。
 ふと、マークの長い指が指先に触れる。
 一瞬ぶつかったのかと思ったが、指は明確な意図を持ってするりと絡みついた。きゅっと掌ごと握られる。
 驚いて見上げれば、愛しげに眇められた双眸にぶつかった。
 
 ああ、好きだな。
 優しい眸にひそむ、おおらかな心。
 まだ幼かった僕は、一瞬で恋におちた。
 あの日とすこしも変わらない。恋心はどんなに月日を重ねても色褪せない。いつもいつまでも、胸の裡で輝いている。

「手、つなぐの恥ずかしい?」

 人目なんて気にならなかった。ふるりと首を横に振る。
 マークはいつ死んでもいいだなんて心にもないことを言って気を遣ってくれた。
 つないだ掌から、温もりがじわりと染みる。
 生きよう。瑛一郎はそう胸に刻んだ。
 マークのために、生きていきたい。大切にしたい。この心ごと。マークといつまでも共にいたい。彼が喜ぶことを、何かしてあげたい。

「マーク、僕に何かしてあげられることないか?」
「え。どうしたの突然」
「その、喜んでほしいからさ」

 唐突すぎて、ぱちぱちと瞬きをされてしまった。
 水中回廊が終わりに近づく。眩しい照明は最期の一閃のように射し込んだ。
 にこりと微笑んだマークは、ホールのむこうを指差す。

「じゃあ、あそこ見たい」

 土産物屋にはお菓子やグッズなど様々なものが陳列されている。土産物屋が見たいという、とてもささやかな願いに瑛一郎は苦笑を零した。

「いいよ」
「何か記念になるもの欲しいなぁ。……あ、これ買っていこう」

 マークはイルカの形をしたアクリルのキーホルダーを手に取る。何故かふたつ持ってレジへ向かった。

「はい、瑛一郎さんのぶん」
「サンキュ……」

 キーホルダーを付ける趣味などないのだが、当然のごとく手渡された小袋を苦笑いしながらポケットに入れた。デスクにでも飾っておこう。これを見るたびにきっと、マークのはしゃいだ顔を思い出す。
 そして当然とばかりに、再び手を握られる。一度離せば終わりという理屈じゃないらしい。
 ふんわりとした砂糖菓子みたいな笑みを崩したくなくて、そのままにさせておいた。
 出口のゲートが近づいている。
 ふいに、マークは呟いた。

「俺、人間になれて、本当に良かった」
「……どうした、急に」
「瑛一郎さんと出会えて、幸せだったよ」

 まるで別れの言葉のよう。
 今日という日は二度と戻らない。そしてひとつひとつが思い出になる。瑛一郎は記憶に刻みつけるように、つないだ手の温もりを確かめた。
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