ぼくのくま

沖田弥子

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「あらあら、ふふっ」

 居合わせた市民の間から嘲笑が漏れる。職員も何事かと首を伸ばして人垣の中心を覗いていた。

「瑛一郎さーん!」

 安全課フロア全域に響き渡る大声。
 椅子から立ち上がろうとした姿勢のまま、瑛一郎は凍りついた。
 朝、全裸でベッドに潜り込んでいた金髪の男が満面の笑みで、ぶんぶんと手を振っている。
 問題なのは、その格好だった。
 明らかに下着だ。
 ピンクのムイメロがアップで描かれたボクサーパンツを穿き、上半身は薄いTシャツ。しかもサイズが小さいのかピタピタで、限りなく全裸に近い。
 ここがビーチサイドならば、かろうじて水着と見間違えて納得できる格好だが、神聖な市役所内ではあまりにも浮きすぎている。
 瑛一郎は光の速さで駆け寄り、男の腕をがしりと掴んだ。

「ちょっと君、何しに来たの。これ、僕の下着だよね? 僕のムイメロだよね? これ一度も着てないのに、ちょっとこっちに来て」

 早口で捲し立て、人垣を掻き分けて男を引っ張り廊下の隅へと移動した。
 以前こっそりネットで購入したパンツだが、サイズが大きかったので箪笥の肥やしになっていたものだ。泥棒かもしれないとは思ったが、まさか下着泥棒とは予想外である。
 下着男は抗うこともなく、悪いと思ったのか、しゅんとしている。背が高いので項垂れていても瑛一郎より頭ひとつ高い。まったく無駄な高身長。

「ごめんね、瑛一郎さん。大事なパンツだったんだね。俺、体大きいからこれしか穿けるのなかったんだ」
「自分の服はどうしたんだよ。着てた服があるだろ」

 Tシャツも瑛一郎のものだ。足下へ視線を落とすと、何と彼は裸足だった。

「ないよ? 俺、生まれたときから裸だもの」

 遠慮なく重い溜息を吐き出してやる。
 額に手を遣る瑛一郎を見て、男は不思議そうに小首を傾げている。

「そうだな、生まれたときはみんな裸だな。それは間違いなく真理だ」

 不毛な会話を断ち切り、ここで待っていろと言い置いて再び光の速さで部署へ戻る。有無を言わさず休憩に入ると兎屋に訴えて、ロッカーへ寄ってから男の待つ廊下へと滑り込んだ。
 男はぼんやりと窓の外を眺めていた。下着姿なので体のラインがはっきりとわかる。筋肉質の長い足はすらりと伸びて、腰は引き締まっているのに肩幅は広い。モデルにしてもおかしくないような均整のとれた肉体だ。
 これでふつうの思考なら彼の人生も幸せだろうに。
 哀れに思えて、怒りは多少収まった。

「これ着て」

 着替えのワイシャツを腰に巻いてやる。腿が隠れるので多少は露出が減った。それでも不審者の匂いは満載だが。

「行こう」

 促して階段を下りる。黙って従うところを見ると悪気はないらしい。
 横断歩道を渡って隣のショッピングモールへ入る。人目が痛いが、売り場はすぐそこなので少々の我慢だ。
 紳士服売り場で彼の体に合いそうなサイズを探す。

「シャツのサイズ、何?」
「さあ。服着たことないから」
「わかったからそれはもういいから。L着てみて」

 とりあえずシャツとスラックスを試着させる。
 初夏で助かった。冬だったらコートにジャケットと大変な散財になったところだ。その前に彼が裸同然で市役所まで辿り着ければの話だが。この男の場合、真冬だろうがやってのけそうでコワイ。
 身震いしていると、試着室のカーテンがさらりと開かれる。
 洗練された空気感を纏う男の登場に、瑛一郎は目を見張る。
 高級な服でもないのに、彼が着ると一級品に見えてしまうらしい。スタイルが良いせいかもしれない。下着姿や全裸のときはルーズな印象を受けたが、服を着るだけでこうも表情が引き締まって見えるとは驚きだ。
 女性の店員も頬を染めてにこやかに男を見上げている。

「とてもよくお似合いです。こちらのシャツにはこのネクタイが……」
「いいです結構です。このまま着ていきますから」

 腰に巻いてきたシャツを回収して、瑛一郎は素早く会計を済ませた。
 やれやれ、これで好奇の目から解放されると一息ついたところで、男の足下が目に入る。

「あ。裸足なんだよな」

 靴も買ってやらなければならないのか。都合良く靴売り場は向かいだった。
 仕方ない。服は共有できても、靴はそういうわけにはいかない。

「靴のサイズ、何センチ?」
「さあ。靴履いたことないから」
「わかったわかった。二八センチくらいだな」

 革靴を勧める。押しかけてきた男に買ってやるならサンダルが適当なところだとは思うが、靴は上質のものを履いたほうが良い。安物はすぐに潰れてしまうからだ。

「どうだ?」
「うーん。何だかきついというか、苦しいというか」
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