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恋の話 2

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 考えてみたこともなかった。友人の話では恋人とドライブや映画に行くそうだけれど、歩夢の脳裏にはそういったイメージが湧いてこない。店のことがあるし、悠の面倒も見なければならない。その合間を縫って恋人と過ごすなら、それはわずかな時間だろう。
 ピアノ一曲分くらいの。

「俺のピアノを聴いてほしいですね……。もちろん、もっと上手くなってからの話ですけど」

 それをお付き合いといえるのかわからないけれど、歩夢の想像力では精一杯の答えだった。
 久遠は押し黙っていた。満足のいく答えではなかったのかもしれない。
 そろそろ店に戻らなければならない時間だ。配達のついでにピアノレッスンを受けるという我が儘を兄に許してもらっているのだし、久遠も作曲の仕事があるのだから、あまり長居するわけにはいかない。

「それでは、そろそろお暇します。サインを頂戴できますか?」
「……ああ。質問に答えてくれて、ありがとう。薔薇のきみ」

 久遠はいつものように歩夢の万年筆を受け取り、領収書にサインを記した。
 久遠には未だに本名を知らせていない。『薔薇のきみ』が定着してしまったことだし、久遠も重ねて訊ねてこないので、興味を失ったのだろう。
 万年筆を手渡される際に、ほんの少し互いの指先が触れた。
 途端、歩夢の胸がきゅうと甘く締めつけられる。
 なんだろう、これ……。
 指に移る久遠の熱は、歩夢の体の奥に染み渡っていった。そうして熾火のように何度も、燃えさかるのだった。



 店を閉めて夕飯が終わり、悠をお風呂に入れたあと、寝る前の少しの間だけが歩夢の時間になる。
 歩夢は自室に置いたキーボードの音量を低くして、練習に励んでいた。
 以前は無為にテレビを見ていたが、ピアノレッスンを始めてからは押し入れに仕舞っていたキーボードを取り出して毎日練習している。
 ピアノは指に譜面を教え込まないと弾けるようにならず、いかに練習を積むかが向上の肝になる。たとえ趣味の習い事であっても、レッスンで弾くときは先生に披露するという意味合いがあるので家での練習は不可欠だ。
 何より、久遠に褒めてほしいという想いが歩夢を練習に向かわせていた。

「ええと、ここが♯(シャープ)だから、隣の音も黒鍵だよね」

 万年筆で音符の傍に『♯』と書き込む。♯(シャープ)など黒鍵を弾く記号がついているとき、小節内の同じ音は♮(ナチュラル)の表記がない場合、自動的に黒鍵となる。『愛の夢』は特に♯や♮が入り乱れていて複雑なので、書き込みをして確認しないと楽譜を紐解けないのだ。
 歩夢はふと手許の万年筆に目を落とした。
 両親が亡くなる前に贈ってくれた万年筆には、『AYUMU』と金文字が彫られている。中学の入学祝いにと、両親は高価な品物を買ってくれたのだ。今も肌身離さず、大切に使っている。

「今度は、やめないでがんばりたいな……。いいかな、父さん、母さん」

 久遠とのピアノレッスンは穏やかな時間が流れて、とても心が安らぐ。歩夢はいつの間にか、水曜日を心待ちにするようになっていた。
 けれど、どこか薄氷を踏むような、足許が覚束ない感覚がある。
 神嶋久遠からピアノを教わるような身分ではないという臆病さが、そう思わせるのかもしれない。
 幸せはある日突然、粉々に壊されてしまうという辛辣な現実を、歩夢は身をもって知っていた。
 だからこそ……久遠さんとの時間を大切にしよう。
 久遠の触れた万年筆をそっと掌で包み込み、彼の横顔に思いを馳せる。
 心の奥深いところから湧き上がる、温かい水のような、この淡い想いはなんだろう。

「あゆたーん! なにしてゆの?」

 快活な声を迸らせながら、悠が小さな手で襖を開いた。お風呂上がりなので、細い髪はまだ濡れて跳ねたままだ。

「ピアノの練習だよ、悠」
「ぴあの、ぼくもやる」

 甘えて歩夢の膝にお尻を落とした悠は、鍵盤をでたらめに弾き始めた。保育園の先生がピアノを弾いているので、その真似だろう。
 悠のあとを追いかけてきた一樹が、部屋を覗いて声をかける。

「おい、悠。歩夢は練習してるんだ。邪魔するな」

 引き剥がそうとして一樹が脇を持ち上げると、悠は駄々を捏ねて暴れた。

「やーだー! あゆたんにだっこすゆ!」 

 小さな手足でもがき、歩夢のパジャマにしがみつく。
 常日頃からこの調子なので、パジャマはすっかり伸びてしまった。

「いいんだよ、兄さん。悠にピアノを教えてあげるね」
「そうか? 悠はまだドレミもわからないだろうけどな。歩夢に甘えたいだけなんだろ?」

 ほっぺを突かれた悠は唇を尖らせている。
 悠は母親がいないので、甘えられる相手が歩夢しかいないのだ。一樹は父親らしく、厳しく悠を躾けたいと考えている。

「歩夢お兄ちゃんとピアノの練習しようね」
「うん! ぼく、いい子にしてゆ」

 嘆息した一樹は子守を任せてリビングへ戻っていった。
 悠はいずれ大きくなってしまうのだから、今はできるだけ甘えさせてあげたい。
 歩夢は温かくて丸い悠を抱え直すと、小さな手を持って鍵盤に触れさせる。
 瞳をきらきらと輝かせる悠と一緒に、歩夢は音を鳴らした。
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