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第五章

ラクシュミの解放 2

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 ちがう、本当の邪神を、私は知っている。
 本物の邪神は、とても優しくて不器用で、善い神になりたいと願っている純真な神さま。
 ルウリの心が乱れる。騒ぎが大きくなり、星玉と対話していられなくなる。

「待って、ラクシュミ……」

 ラクシュミが沈黙しようとしている。再び永劫の時に身を沈める気配がする。
 その時、一筋の影が弧を描いた。
 腰の剣を抜いたヴィクラムに覆い被さり、攻撃を仕掛ける。

「なにを……この鳥は……」
「ティルバルール!」

 闇雲に振るわれる剣を避けて、ティルバルールはカマルの指に嵌められていた指輪を咥えた。パナの閉じ込められている鉄籠へ飛び降り、爪で錠を開ける。
 パナは勢いよく籠から転がり出た。

「だだ、誰も助けに来てなんて言ってないんだからなっ」
「恩に着せるつもりは毛頭ない。無事で何より」

 涙目のパナをよしよしと羽で撫で、指輪をくちばしに渡す。
 良かった、指輪を取り返せた。
 安堵するも束の間、怒号と嬌声が響き渡った。
 縄を解かれた星玉師たちが一斉に駆け出したのだ。出口へ向かって逃げる者、衛兵を殴りに行く者、止めようとした衛兵や逃げ惑う召使いたちが入り乱れ、場は騒然とする。

「ルウリ、星玉を解放しろ!」

 中庭の中心に、ラークが立っていた。密かに紛れ込んだ彼が、星玉師たちの縄を解いてくれたのだ。

「ラーク!」

 途端に、ルウリはラクシュミから引き剥がされる。
 首筋を、怜悧なものが掠めた。
 ヴィクラムに背後から羽交い締めにされて、刃を突きつけられていた。

「動くな、邪神め」

 ラクシュミを挟んで、ラークは足を止めた。鋭い金の眸がヴィクラムを睨みつける。

「ルウリを傷つければ、貴様を殺す」

 ラークはゆっくりと、右目を覆う眼帯に手をかけた。留め具が外される。

「見せてやる、俺の、緑星玉を」

 はらりと、眼帯が床に落ちた。
 現れたラークの右目は緑色に光り輝いていた。
 星玉の、眸。
 緑の星玉が真っ直ぐにルウリを捉える。脳に直接語りかけてくる。

 見えるか、星玉の、なか。
 解放、おまえにしか、できない。
 ルウリ、一緒に、解放しよう。

 吸い込まれるように、ルウリの心はラークの右目の星玉に入り込んだ。
 ラークの掌から、砂金が撒かれる。
 きらきらと黄金の雨が降り注ぐ。ヴィクラムの胸に挿されていた簪の星玉が、弾け飛んだ。
 ちいさな緑星玉から出でた内包物、金属のそれは剣柄だった。
 解放されて等倍に戻った剣柄を、ラークは握りしめる。

「ルウリ、頼む!」

 ……そんなところに、いたのね。どうして言ってくれないかなあ。出てきていいのよ、こわくないの。わたしもね、ほんとうは少しこわかった。不幸になるの、こわいよね。でも、閉じこもっていても何も始まらないの。あなたと一緒にいたい。あなたとなら、不幸になってもいいな……。

 きっと一瞬だった。
 右目から、閃光が迸る。眩い緑の光が辺りを包み、人々の視界を奪う。
 眸から出現したのは、刀身。
 抜き身の刀が握られた柄と重なり合う。
 邪の剣が完成する。
 青眼に構えたラークは殺気を漲らせた。全身から、邪気が溢れ出す。
 振りかぶった刹那、黒い邪気が飛散する。
 ルウリは、ぎゅっと目を瞑った。
 重い衝撃が響いた。
 鮮やかな緑が散り、生温いものが溢れる。どう、と轟音を立てて流れ込んだ液体が、服を濡らしていく。まるで緑の洪水のよう。

「えっ……水だわ」

 手に触れるのは、紛れもない真水だった。
 ラクシュミが崩れ去っていく。溶けたラクシュミから大量の水が流れ出し、中庭を伝い外へと溢れていった。まるで生きているかのような意思を持った動きでうねり、すべてが解放される。後には屑となった緑色の星玉が床に散らばった。
 唸り声を上げて、背後のヴィクラムが倒れ込む。カマルも後ろで、眠るように横たわっていた。

「どうなったの……?」

 息を確認すると、眠っているだけのようだ。ふたりの体には傷ひとつ付いていない。

「ラクシュミごと斬った。邪を祓ったんだ。ふたりとも、邪に取り憑かれていた。欲に駆られた人は憑かれやすいからな」
「そうだったのね。でも、ラクシュミは……」

 ラークは気まずそうに散らばる緑星玉を見回した。ちらりとルウリの顔を窺う。

「直せるか……?」

 力任せの解放に、ルウリは天を仰ぐ。
 ラクシュミは、長い間苦しんでいた。文字通り、解放してあげるのが良いのだろう。ラクシュミがあったからこそ、欲に駆られた人が邪に取り憑かれたのだろうから。

「小粒のほうが持ち運びできて便利じゃないかしら」
「だろうな」

 邪の剣を一振りすると、再び分解された刀身と柄は閃光を放ちながら縮んでいく。右目と簪の先端、それぞれの星玉に戻る。

「あっ……、戻っちゃったわ」
「長い時間は現存できないようだな。使うときに解放すれば済む話だ。鞘のようなものだと思えばいい」

 ということは、また使う機会が訪れるのだろうか。また邪に取り憑かれたものを祓うときに。ラークが善神になれる日まで。
 パナとティルバルールが、それぞれの主の肩に止まる。
 衛兵や召使い、残った星玉師たちは夢から醒めたように呆然と立ち竦み、後片付けに入っていた。

「ううん……ああ、頭が痛い。おや、カマルさま、こんなところで寝ては風邪を引きますよ」

 起き上がったヴィクラムは瞬いてカマルを抱き起こした。憑きものが落ちたように、すっきりとした顔つきをしている。

「うむ……ヴィクラム? 余は何をしていたのだ?」

 びしょ濡れの部屋を見て瞬きを繰り返したふたりは、医師と召使いに抱えられながら退出した。まるで何事もなかったようだ。

「私たち、夢を見ていたのかしら」
「夢じゃないさ。こっちに来てみろ」

 中庭に降りたラークに導かれて、パテオから外の景色を眺める。
 一陣の風が吹き抜けた。空中回廊となっているパテオからは、王都がはるか遠くまで見渡せた。

「わあ……!」

 まるで天空からのような絶景を臨む。
 ちいさな街、ちいさな人や動物。それらを丸ごと包み込むような果てない大地。
 ラクシュミから溢れた水の大群が川となり、路を縫って縦横に流れている。水の流れは遠い山々のむこうまで続いていた。

「これが、ラクシュミの奇蹟とやらだな。古代から干ばつの多いイディアに恵みをもたらすために、ラクシュミは水を溜め込んでいたんだ」
「素敵な奇蹟ね……」

 人々を、大地を潤すために解放を願った星玉の名は、未来に語り継がれていくだろう。
 ふたりと二羽は柔らかい風に吹かれながら、いつまでも雄大な大地を眺めていた。
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