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紅宮殿へ 2
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「落ち着いて、志音。侍従長の前で失礼ですよ」
早速名前を間違えそうになった志音に冷や汗を掻かされる。
「あっ、すみません。失礼いたしました。ミハイルさま」
姿勢を正した志音に、ミハイルは微笑を湛えながらも眉をひそめた。
「彼を侍従としてお側に置いて大丈夫ですかな? いえいえ志音殿の侍従としての能力を疑っているわけではないのです。ただ、まだお若いとはいえ男性ですから、あらぬ誤解が生じては困りますし。宮廷には皇族に仕えた経験の豊富な女官が沢山おります。姫のお側でお仕えするのは女性のほうがよろしいのでは?」
紅宮殿内には侍従用の部屋も付いている。主人が呼べば夜中であろうとも、即座に駆けつけられるようにするためだ。エルミターナ宮殿とは別棟なので、メイドがいなければ志音とふたりきりということになる。煌にとっては好都合なのだが、ロマンシア側として男女の間違いがあっては困るという見解はよく分かる。だからといってロマンシアの女官を配属されては一切被衣を外せなくなってしまうし、風呂にも入れない。それに唯一事情を知る志音と離れては色々と不都合が生じるのは目に見えていた。
侍従を降ろされるかもしれないという懸念に、志音は青ざめている。煌は慌てて言い募った。
「志音は私の家族も同然です。弟のような存在ですから、お互いのことをよく理解しています。侍従は志音以外には考えられません」
志音は跪き、手を付いた。床に額を擦りつけるように頭を下げる。
「ミハイルさま。わたくしは命を懸けて、主人に生涯お仕えすると誓っています。皇帝陛下の信頼を裏切るようなことは何ひとついたしません」
「分かりました。あくまでも提案しただけですから、お気になさらず。ツァーリにも志音殿は信頼が置けることをお話しておきましょう」
必死の嘆願に、ミハイルは困惑したように微笑んだ。メイドの仕事が終わったようで、扉前でメイドたちは礼をして退出していく。磨き上げられた革靴の踵を回転させ、華麗なターンで戸口に立ったミハイルはひとこと添える。
「それから、あかずの間には入らないでください。ツァーリのご命令でございます。何か御用がございましたら、いつでもお申し付けくださいませ。それでは失礼いたします」
完璧な礼を施してミハイルは音もなく辞した。紅宮殿の扉が閉じられる。途端に志音は相好を崩した。
「ああ、良かった。煌さまと離されちゃうところでしたね。ほっとしたらお腹が空きました。美味しそうなパンがありますね」
テーブルには夜食用のサンドイッチやケーキなどが並べられている。志音は小柄だが、育ち盛りなのでよく食べる。疲労感で満腹の煌は重い被衣と鬘を外し、溜息を吐いた。
「食べていいぞ」
「わーい、いただきます。このケーキ美味しいですよ」
悲壮な決意を示したかと思えば、けろりとしてケーキにかぶりついている志音に悪気は一切ない。ただ気分を変えるのが上手なのである。
力なくソファに凭れて紅茶のカップを傾ける。温かい飲み物が緊張した体を内側から解してくれるようだ。陶磁器に描かれた蔓模様を眺めていると、ぺろりと軽食を平らげた志音が意味ありげな眼差しをむけてきた。
「あかずの間って、中に何があるんでしょうね」
「さあ。命令なんだから入るなよ」
「鍵が掛かってましたよ。まさか……財宝が隠されてたりして⁉」
欠伸が零れ、強張った手足を伸ばす。全く疲労の見えない志音の元気には恐れ入る。これから探検しようなどと言い出されてはたまらないので、煌はカップを戻して立ち上がり、寝室へ足をむけた。
「そんなわけないだろ。どうして妃が住む新築の宮殿に財宝を隠しておくんだよ」
「ここがロマンシアの中心部ですから、財宝のありかというわけですよ」
楽しそうに目配せを送る志音の冗談に一応付き合う。
「じゃあ僕たちは伝説の秘宝にもっとも近い場所にいるんだな。それはすごい」
後に従ってきた志音は着替えを手伝い、脱いだ着物を丁寧に整えてから樫のクローゼットに仕舞う。
あかずの間だなんて、どうせ搬入する際に傷が付いたなどの理由で下げた家具が入っているのだ。王宮にもあったので探検したことがあるが、古い家具を積み重ねた荷物置き場だと知ってがっかりしたものだ。
柔らかい肌触りの寝巻に包まれ、煌は細い息を吐き出す。
長旅を終えて疲れた。今夜はすべてのしがらみから解き放たれて、ただ眠りたい。煌は天蓋付きのベッドに潜り、布団を被った。
穏やかに数日が経過した。紅宮殿には毎日メイドが訪れて清掃を行い、リネンを交換してくれる。食事は毎食運ばれ、風邪を召しているという紗綾姫のために栄養が考えられた食べやすい料理ばかりだ。その他にお菓子や夜食など、小腹が空いたときにいつでも腹を満たせるように滞りなく届けられる。クローゼットには様々な羽織り物や色鮮やかなドレスが収納されていて、いつでも暖炉は灯され、暖かく過ごしている。窓の外には薔薇園が広がり、麗しい景色を堪能できた。何不自由のない優雅な生活を送ることができている。……はずなのだが。
早速名前を間違えそうになった志音に冷や汗を掻かされる。
「あっ、すみません。失礼いたしました。ミハイルさま」
姿勢を正した志音に、ミハイルは微笑を湛えながらも眉をひそめた。
「彼を侍従としてお側に置いて大丈夫ですかな? いえいえ志音殿の侍従としての能力を疑っているわけではないのです。ただ、まだお若いとはいえ男性ですから、あらぬ誤解が生じては困りますし。宮廷には皇族に仕えた経験の豊富な女官が沢山おります。姫のお側でお仕えするのは女性のほうがよろしいのでは?」
紅宮殿内には侍従用の部屋も付いている。主人が呼べば夜中であろうとも、即座に駆けつけられるようにするためだ。エルミターナ宮殿とは別棟なので、メイドがいなければ志音とふたりきりということになる。煌にとっては好都合なのだが、ロマンシア側として男女の間違いがあっては困るという見解はよく分かる。だからといってロマンシアの女官を配属されては一切被衣を外せなくなってしまうし、風呂にも入れない。それに唯一事情を知る志音と離れては色々と不都合が生じるのは目に見えていた。
侍従を降ろされるかもしれないという懸念に、志音は青ざめている。煌は慌てて言い募った。
「志音は私の家族も同然です。弟のような存在ですから、お互いのことをよく理解しています。侍従は志音以外には考えられません」
志音は跪き、手を付いた。床に額を擦りつけるように頭を下げる。
「ミハイルさま。わたくしは命を懸けて、主人に生涯お仕えすると誓っています。皇帝陛下の信頼を裏切るようなことは何ひとついたしません」
「分かりました。あくまでも提案しただけですから、お気になさらず。ツァーリにも志音殿は信頼が置けることをお話しておきましょう」
必死の嘆願に、ミハイルは困惑したように微笑んだ。メイドの仕事が終わったようで、扉前でメイドたちは礼をして退出していく。磨き上げられた革靴の踵を回転させ、華麗なターンで戸口に立ったミハイルはひとこと添える。
「それから、あかずの間には入らないでください。ツァーリのご命令でございます。何か御用がございましたら、いつでもお申し付けくださいませ。それでは失礼いたします」
完璧な礼を施してミハイルは音もなく辞した。紅宮殿の扉が閉じられる。途端に志音は相好を崩した。
「ああ、良かった。煌さまと離されちゃうところでしたね。ほっとしたらお腹が空きました。美味しそうなパンがありますね」
テーブルには夜食用のサンドイッチやケーキなどが並べられている。志音は小柄だが、育ち盛りなのでよく食べる。疲労感で満腹の煌は重い被衣と鬘を外し、溜息を吐いた。
「食べていいぞ」
「わーい、いただきます。このケーキ美味しいですよ」
悲壮な決意を示したかと思えば、けろりとしてケーキにかぶりついている志音に悪気は一切ない。ただ気分を変えるのが上手なのである。
力なくソファに凭れて紅茶のカップを傾ける。温かい飲み物が緊張した体を内側から解してくれるようだ。陶磁器に描かれた蔓模様を眺めていると、ぺろりと軽食を平らげた志音が意味ありげな眼差しをむけてきた。
「あかずの間って、中に何があるんでしょうね」
「さあ。命令なんだから入るなよ」
「鍵が掛かってましたよ。まさか……財宝が隠されてたりして⁉」
欠伸が零れ、強張った手足を伸ばす。全く疲労の見えない志音の元気には恐れ入る。これから探検しようなどと言い出されてはたまらないので、煌はカップを戻して立ち上がり、寝室へ足をむけた。
「そんなわけないだろ。どうして妃が住む新築の宮殿に財宝を隠しておくんだよ」
「ここがロマンシアの中心部ですから、財宝のありかというわけですよ」
楽しそうに目配せを送る志音の冗談に一応付き合う。
「じゃあ僕たちは伝説の秘宝にもっとも近い場所にいるんだな。それはすごい」
後に従ってきた志音は着替えを手伝い、脱いだ着物を丁寧に整えてから樫のクローゼットに仕舞う。
あかずの間だなんて、どうせ搬入する際に傷が付いたなどの理由で下げた家具が入っているのだ。王宮にもあったので探検したことがあるが、古い家具を積み重ねた荷物置き場だと知ってがっかりしたものだ。
柔らかい肌触りの寝巻に包まれ、煌は細い息を吐き出す。
長旅を終えて疲れた。今夜はすべてのしがらみから解き放たれて、ただ眠りたい。煌は天蓋付きのベッドに潜り、布団を被った。
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