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氷の国へ
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牡丹のような大粒の雪が鈍色の曇天から続々と舞い降りてくる。白と灰色に覆われた世界は山の稜線すら掻き消していた。馬車の格子から外を覗いた煌は、足元から這い上がるような寒さに小袖の袷を掻き寄せた。
「さむい。凍えるってこんな感覚なんだな」
体の震えが止まらない。まるで身が引き絞られるようだ。温暖な瑠璃国で生まれ育ったので、初めて体験する異国の気候に身も心も驚いてばかりである。
隣に座る従者の志音は嬉々として窓に張り付き、雪景色を眺めている。
「わあ、すごい。雪でぜんぶ白くなってますよ」
「そうだろうな。むしろ黒い雪があったらお目にかかりたいよ」
御者台からくぐもった笑いが零れる。豊かな口髭を蓄えた御者の爺さんは、馬車の中に声をかけてきた。
「黒い雪もありますよ、姫さま」
姫さまという単語に、煌と志音は同時に口を噤む。煌は歴とした二二歳の男子だが、今は訳あって女物の着物を纏っている。
事の発端は、ロマンシア帝国の使者によりもたらされた。
ロマンシア帝国第四代皇帝、アレクサンドル・ロマンシアが、瑠璃国の姫である紗綾を妃に迎えたいという勅命だった。
北方の大帝国であるロマンシアに対し、南の小国である瑠璃国が否を唱えられるはずもない。皇帝は先の妃に病で先立たれたそうで、皇子がいるとのことだが独身だ。紗綾は瑠璃王の十一番目の姫であり、順当にいけば地元の貴族と結婚するべきだが、ロマンシア正妃になれるのだから大出世といえる。
皇帝がなぜ紗綾を指名したのかは謎だが、姉さま方は「十一番目のくせに生意気」と大層悔しがっていた。白ける旦那様方と共に苦笑いを零していた煌は、さぞ紗綾は鼻が高いだろうと思っていた。
ところが当人は皆の前では黙っていたが、煌とふたりになると泣きついてきた。
私には将来を誓い合った殿方がいます。画家です。地位はありません。でも愛しています。そうだ、兄さまが私の代わりにお嫁入りすればいいですわ。
そんなことが許されるはずがない。一緒に父上と使者に申し立てようと提案したが、紗綾は唇を噛んで俯くと「お腹に彼の子どもがいます」と告げた。
事の大きさに、煌は絶句した。
身重の妹を他国の妃として嫁がせることなどできない。かといって真実を話して嫁入りを断れば、お腹の赤子の命はないだろう。ロマンシアの勅命を蹴れば瑠璃国も無事では済まない可能性がある。それほどに両国の力の差は歴然としている。
煌は覚悟を決めた。
紗綾の身代わりとして、ロマンシア皇帝の元へ嫁ごう。
そうして出立の日に深く被衣をかぶり、ひっそりと旅立ってきた。
事実を知っているのは煌と紗綾の他には、幼い頃より仕えてくれている従者の志音だけ。一五歳の志音は瑠璃国に残していくつもりだったが、半ば無理やり付いてきてしまった。
紗綾の代わりにロマンシアへ旅立つなら、煌王子も瑠璃国にはいられない。後学のため諸国を見聞したいという遊学の申請を行ったところ、聞きつけた志音は「煌さまの赴くところ、地の果てまでも付いて参ります。止めても無駄です」と言い放ち早々に荷物を纏めた。仕方ないので事情を話したが、真実を聞いたからには自分も瑠璃国にいられないなどと、よく分からない理屈を展開して、船の隠し部屋に潜んでいた次第である。降参だ。
紗綾は既に夫となる男性と共に暮らしている。無事に出産して落ち着いたら、母には必ず知らせて結婚を認めてもらうようにと言い含めてある。三十番目の王子がいなくなっても、瑠璃国には何の支障もない。
二度と瑠璃国の地は踏まないつもりだ。
けれど凍えるような寒さに固いはずの意志は早くも折れそうになる。
「黒い雪って、そんなの聞いたことないよ」
馬車の前方に付いた小さな窓にはカーテンが備え付けられているので、御者台から中を覗き見ることはできない。御者の爺さんも中にいるのが男ふたりとは想像もしないだろう。朗らかな笑い声が響いたが、雪が振動を吸い込んでいく。
「雪解けの頃にね、道端に積もった雪が塵に汚れて黒くなるんですよ。黒い雪の正体はそれですわ」
瑠璃国は年間を通して暖かい気候なので雪が降ることはない。煌も志音も、雪を見たのは生れて初めてだ。へえ、と感心すると、気をよくした御者は話し出した。
「今はまだ冬の入りだから暖かいほうですよ、姫さま」
「これで……?」
「本当に寒い日は、氷の花が見られますよ」
氷の花という語句に、古い記憶が呼び起こされる。
むかし、異国の少年と約束したことがあった。いつか本物の氷の花を見せてあげると……。
子どもの時の話なので、今となっては彼が何者なのか知る由もない。本人もとうに忘れているだろう。けれど何の因果か、本物の氷の花を見たいという願いは叶うかもしれない。
「北の大地だけに咲く花だよね。どんな形なの?」
「それは姫さま、ご自分の目で確かめてください。言葉で伝えるのは難しいのでね」
ふうん、と呟いた煌は再び窓の外に目をむける。
純白の雪は音もなく、大地を染め上げていく。馬車は轍を刻みながら、ロマンシアの領土に踏み入れた。
「さむい。凍えるってこんな感覚なんだな」
体の震えが止まらない。まるで身が引き絞られるようだ。温暖な瑠璃国で生まれ育ったので、初めて体験する異国の気候に身も心も驚いてばかりである。
隣に座る従者の志音は嬉々として窓に張り付き、雪景色を眺めている。
「わあ、すごい。雪でぜんぶ白くなってますよ」
「そうだろうな。むしろ黒い雪があったらお目にかかりたいよ」
御者台からくぐもった笑いが零れる。豊かな口髭を蓄えた御者の爺さんは、馬車の中に声をかけてきた。
「黒い雪もありますよ、姫さま」
姫さまという単語に、煌と志音は同時に口を噤む。煌は歴とした二二歳の男子だが、今は訳あって女物の着物を纏っている。
事の発端は、ロマンシア帝国の使者によりもたらされた。
ロマンシア帝国第四代皇帝、アレクサンドル・ロマンシアが、瑠璃国の姫である紗綾を妃に迎えたいという勅命だった。
北方の大帝国であるロマンシアに対し、南の小国である瑠璃国が否を唱えられるはずもない。皇帝は先の妃に病で先立たれたそうで、皇子がいるとのことだが独身だ。紗綾は瑠璃王の十一番目の姫であり、順当にいけば地元の貴族と結婚するべきだが、ロマンシア正妃になれるのだから大出世といえる。
皇帝がなぜ紗綾を指名したのかは謎だが、姉さま方は「十一番目のくせに生意気」と大層悔しがっていた。白ける旦那様方と共に苦笑いを零していた煌は、さぞ紗綾は鼻が高いだろうと思っていた。
ところが当人は皆の前では黙っていたが、煌とふたりになると泣きついてきた。
私には将来を誓い合った殿方がいます。画家です。地位はありません。でも愛しています。そうだ、兄さまが私の代わりにお嫁入りすればいいですわ。
そんなことが許されるはずがない。一緒に父上と使者に申し立てようと提案したが、紗綾は唇を噛んで俯くと「お腹に彼の子どもがいます」と告げた。
事の大きさに、煌は絶句した。
身重の妹を他国の妃として嫁がせることなどできない。かといって真実を話して嫁入りを断れば、お腹の赤子の命はないだろう。ロマンシアの勅命を蹴れば瑠璃国も無事では済まない可能性がある。それほどに両国の力の差は歴然としている。
煌は覚悟を決めた。
紗綾の身代わりとして、ロマンシア皇帝の元へ嫁ごう。
そうして出立の日に深く被衣をかぶり、ひっそりと旅立ってきた。
事実を知っているのは煌と紗綾の他には、幼い頃より仕えてくれている従者の志音だけ。一五歳の志音は瑠璃国に残していくつもりだったが、半ば無理やり付いてきてしまった。
紗綾の代わりにロマンシアへ旅立つなら、煌王子も瑠璃国にはいられない。後学のため諸国を見聞したいという遊学の申請を行ったところ、聞きつけた志音は「煌さまの赴くところ、地の果てまでも付いて参ります。止めても無駄です」と言い放ち早々に荷物を纏めた。仕方ないので事情を話したが、真実を聞いたからには自分も瑠璃国にいられないなどと、よく分からない理屈を展開して、船の隠し部屋に潜んでいた次第である。降参だ。
紗綾は既に夫となる男性と共に暮らしている。無事に出産して落ち着いたら、母には必ず知らせて結婚を認めてもらうようにと言い含めてある。三十番目の王子がいなくなっても、瑠璃国には何の支障もない。
二度と瑠璃国の地は踏まないつもりだ。
けれど凍えるような寒さに固いはずの意志は早くも折れそうになる。
「黒い雪って、そんなの聞いたことないよ」
馬車の前方に付いた小さな窓にはカーテンが備え付けられているので、御者台から中を覗き見ることはできない。御者の爺さんも中にいるのが男ふたりとは想像もしないだろう。朗らかな笑い声が響いたが、雪が振動を吸い込んでいく。
「雪解けの頃にね、道端に積もった雪が塵に汚れて黒くなるんですよ。黒い雪の正体はそれですわ」
瑠璃国は年間を通して暖かい気候なので雪が降ることはない。煌も志音も、雪を見たのは生れて初めてだ。へえ、と感心すると、気をよくした御者は話し出した。
「今はまだ冬の入りだから暖かいほうですよ、姫さま」
「これで……?」
「本当に寒い日は、氷の花が見られますよ」
氷の花という語句に、古い記憶が呼び起こされる。
むかし、異国の少年と約束したことがあった。いつか本物の氷の花を見せてあげると……。
子どもの時の話なので、今となっては彼が何者なのか知る由もない。本人もとうに忘れているだろう。けれど何の因果か、本物の氷の花を見たいという願いは叶うかもしれない。
「北の大地だけに咲く花だよね。どんな形なの?」
「それは姫さま、ご自分の目で確かめてください。言葉で伝えるのは難しいのでね」
ふうん、と呟いた煌は再び窓の外に目をむける。
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