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閑話 影
おゆうの心中
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おゆうの保護者のつもりか。
どうやら小豆を通して、地上の動向を探っているようだ。
おゆうから離れて地獄に戻ってこい、だと?
俺は誰の命令もきかない。
アカザがどういうつもりなのかは知らないが、俺は、俺自身の信じる道へ進む。
そのとき、ひとりでも花湯屋を開業させると言い切ったおゆうの凜とした顔が思い浮かんだ。
「あやかしお宿か……」
温泉宿なんか、くだらない。
俺に何ができるというんだ。宿の仕事が何かもよく知らないのに。
本物の圭史郎は、おゆうの味方をしたそうだが、俺がそれに迎合する必要はない。おゆうも、怪我をした俺をあてにしていなかったじゃないか。
「だが、父親に借金をして建てたんだよな……。あいつひとりで宿なんかできるのか?」
あやかしお宿なぞどうでもいいはずなのに、俺は思い悩んだ。
地獄へ戻る気は毛頭なかった。
翌日は柔らかな日が射す晴天に見舞われた。眩しくて目が辛いのだが、人間の眼球なのでどうにか耐えられている。
浮かれているおゆうに手を引かれ、外出用の羽織を纏った俺は駕篭から降りた。
「兄さん、ここが銀山温泉ですよ。前にも来たんですけど、覚えてますか?」
「ああ……そうだったか。もう忘れたな」
おゆうに『花湯屋を見たい』と告げたら、駕篭を呼ばれて案内された。俺の怪我を慮ってのことらしい。
初めて訪れた銀山温泉をぐるりと見回す。黒鳶色の壮麗な宿が、川を挟んで向かい合わせに建ち並んでいた。静かな山間に造られた、厳かな景観だ。
宿はいずれも御殿のような立派なもので、正面に重厚な看板が掛けられていた。この中に参入して客を呼ぶのは、簡単なことではないと察せられる。
「花湯屋は……ここか」
真新しい木造の宿が眼前に広がっていた。外装は完成しているが職人が出入りしており、内部はまだ手を入れているらしい。ほかの豪壮な宿に見劣りしない佇まいだ。
「中に入ってみてください。ちょっと変わった作りになっているんですよ」
玄関をくぐると広間と帳場があり、そこから左右に分かれて廊下が続いていた。おゆうは嬉しそうに掌で指し示す。
「右側はあやかしのお客様、左側は人間のお客様が泊まる棟になっています。見た目は一軒の宿なんですけどね。裏の戸でも双方の棟をつなげて、宿の者が行き来しやすいようにしました」
おゆうに案内されて、ぐるりと宿の内部を見学する。
あやかしの泊まる棟には客間と大浴場があり、談話室や食堂もある。裏の木戸をくぐると、もうひとつの棟に移動できる。そこには同じように客間や大浴場が並んでいた。こちらは人間が泊まるほうだ。
この造りなら、あやかしと人間の客が遭遇して揉めることもないだろう。互いの客に配慮しつつ、それぞれをもてなせる。非常に効率的な建て方に思えた。
だが問題点がある。俺はそれを指摘した。
「行き来できると言っても、女中たちにあやかしは見えないよな? 暖簾を分けるなら、それぞれの棟に主を置いたほうがいい。おまえひとりじゃ手が回らなくなるぞ」
おゆうに上目で見られ、俺は墓穴を掘ったことに気づいた。
だから人間側の当主は圭史郎で、あやかしのほうはおゆうが担当するという話になっていたのか。
「その台詞は前に聞きました。ただ、『ひとりじゃ大変だろうから、俺が手伝うよ』という気遣いを兄さんはしてくれましたよね」
「……そうだったか。これからは俺の気遣いなんか期待するな。おまえが言い出したことなんだから、責任を持って宿をやれ」
早口で諭すと、何か思うところがあったのか、おゆうは押し黙った。彼女の肩にのった小豆が励ますように甲高い鳴き声を上げる。
「キュキュ! おゆう、できる。けーしろ、いなくてへいき!」
この小動物はなぜか俺を敵視しているが、アカザのしもべなら、それも納得だ。
もう少し、おゆうに優しい言葉をかけてやりたかったのだが、どうにも突き放した言い方になってしまい、ばつが悪くなった俺は踵を返す。
「あっ……兄さん、待ってください!」
小豆を帳場台に置いてきたおゆうは、外に出た俺を小走りで追いかけてきた。
橋の欄干から川面を眺める。山間の澄み切った風が体を撫でていった。
この辺りにあやかしの気配をいくつか感じる。客として迎え入れるなら、宿は困らないだろう。
俺なんか、いないほうがいい。
いわくつきの男だからな。
隣に立ち、ともに川縁の景色を眺めていたおゆうは優しい声を紡いだ。
「この川の名は、銀山川というんですよ」
「……そうか」
「小豆は帳場に置いてきました。私の気持ちを兄さんに、いえ、あなたに聞いてほしかったからです」
受け流しそうになったが、『あなた』と言い直された理由について思い当たり、俺はぎくりと身を強張らせた。
どうやら小豆を通して、地上の動向を探っているようだ。
おゆうから離れて地獄に戻ってこい、だと?
俺は誰の命令もきかない。
アカザがどういうつもりなのかは知らないが、俺は、俺自身の信じる道へ進む。
そのとき、ひとりでも花湯屋を開業させると言い切ったおゆうの凜とした顔が思い浮かんだ。
「あやかしお宿か……」
温泉宿なんか、くだらない。
俺に何ができるというんだ。宿の仕事が何かもよく知らないのに。
本物の圭史郎は、おゆうの味方をしたそうだが、俺がそれに迎合する必要はない。おゆうも、怪我をした俺をあてにしていなかったじゃないか。
「だが、父親に借金をして建てたんだよな……。あいつひとりで宿なんかできるのか?」
あやかしお宿なぞどうでもいいはずなのに、俺は思い悩んだ。
地獄へ戻る気は毛頭なかった。
翌日は柔らかな日が射す晴天に見舞われた。眩しくて目が辛いのだが、人間の眼球なのでどうにか耐えられている。
浮かれているおゆうに手を引かれ、外出用の羽織を纏った俺は駕篭から降りた。
「兄さん、ここが銀山温泉ですよ。前にも来たんですけど、覚えてますか?」
「ああ……そうだったか。もう忘れたな」
おゆうに『花湯屋を見たい』と告げたら、駕篭を呼ばれて案内された。俺の怪我を慮ってのことらしい。
初めて訪れた銀山温泉をぐるりと見回す。黒鳶色の壮麗な宿が、川を挟んで向かい合わせに建ち並んでいた。静かな山間に造られた、厳かな景観だ。
宿はいずれも御殿のような立派なもので、正面に重厚な看板が掛けられていた。この中に参入して客を呼ぶのは、簡単なことではないと察せられる。
「花湯屋は……ここか」
真新しい木造の宿が眼前に広がっていた。外装は完成しているが職人が出入りしており、内部はまだ手を入れているらしい。ほかの豪壮な宿に見劣りしない佇まいだ。
「中に入ってみてください。ちょっと変わった作りになっているんですよ」
玄関をくぐると広間と帳場があり、そこから左右に分かれて廊下が続いていた。おゆうは嬉しそうに掌で指し示す。
「右側はあやかしのお客様、左側は人間のお客様が泊まる棟になっています。見た目は一軒の宿なんですけどね。裏の戸でも双方の棟をつなげて、宿の者が行き来しやすいようにしました」
おゆうに案内されて、ぐるりと宿の内部を見学する。
あやかしの泊まる棟には客間と大浴場があり、談話室や食堂もある。裏の木戸をくぐると、もうひとつの棟に移動できる。そこには同じように客間や大浴場が並んでいた。こちらは人間が泊まるほうだ。
この造りなら、あやかしと人間の客が遭遇して揉めることもないだろう。互いの客に配慮しつつ、それぞれをもてなせる。非常に効率的な建て方に思えた。
だが問題点がある。俺はそれを指摘した。
「行き来できると言っても、女中たちにあやかしは見えないよな? 暖簾を分けるなら、それぞれの棟に主を置いたほうがいい。おまえひとりじゃ手が回らなくなるぞ」
おゆうに上目で見られ、俺は墓穴を掘ったことに気づいた。
だから人間側の当主は圭史郎で、あやかしのほうはおゆうが担当するという話になっていたのか。
「その台詞は前に聞きました。ただ、『ひとりじゃ大変だろうから、俺が手伝うよ』という気遣いを兄さんはしてくれましたよね」
「……そうだったか。これからは俺の気遣いなんか期待するな。おまえが言い出したことなんだから、責任を持って宿をやれ」
早口で諭すと、何か思うところがあったのか、おゆうは押し黙った。彼女の肩にのった小豆が励ますように甲高い鳴き声を上げる。
「キュキュ! おゆう、できる。けーしろ、いなくてへいき!」
この小動物はなぜか俺を敵視しているが、アカザのしもべなら、それも納得だ。
もう少し、おゆうに優しい言葉をかけてやりたかったのだが、どうにも突き放した言い方になってしまい、ばつが悪くなった俺は踵を返す。
「あっ……兄さん、待ってください!」
小豆を帳場台に置いてきたおゆうは、外に出た俺を小走りで追いかけてきた。
橋の欄干から川面を眺める。山間の澄み切った風が体を撫でていった。
この辺りにあやかしの気配をいくつか感じる。客として迎え入れるなら、宿は困らないだろう。
俺なんか、いないほうがいい。
いわくつきの男だからな。
隣に立ち、ともに川縁の景色を眺めていたおゆうは優しい声を紡いだ。
「この川の名は、銀山川というんですよ」
「……そうか」
「小豆は帳場に置いてきました。私の気持ちを兄さんに、いえ、あなたに聞いてほしかったからです」
受け流しそうになったが、『あなた』と言い直された理由について思い当たり、俺はぎくりと身を強張らせた。
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