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誤解 1
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「礼には及びません。土地の売却くらいでは到底足りませんけどね。借金は返済が完了すれば終わりますが、支援金は毎月のことです」
折角礼を述べているのに、嫌味のように別邸に金がかかることを強調してくる。
つまり母への支援が継続する限り、口淫しろと言いたいのだろうか。
「土地で足りないなら、蔵にある財宝を売ればいいだろう。名匠の壺や掛け軸が沢山あるぞ」
「安珠が金に無頓着かつ無知ということは承知しました。新しい商売を始めることにしましたので、それが軌道に乗れば家財を売る必要はなくなります。今から商談を行いますから、ピアノでも弾いて待っていてくださいね」
まるで安珠はピアノを弾くしか能がない馬鹿者のような言いざまだ。確かに帳簿に羅列した数字を眺めても今ひとつ理解が得られないが、椿小路公爵家のことは安珠に大いに関係のあることなのに邪魔扱いされては腹が立つ。
執務室の扉をノックした山崎が「大須賀さまがおいでになりました」と慇懃に告げた。商談の相手とは大須賀晃久のことらしい。パーティーや葬儀にも来てくれた友人の晃久は自分の会社を持ち、手広く事業を行っていると聞く。
「晃久と商談なのか? そういえば、うちに来る前は大須賀伯爵家に勤めていたんだよな」
晃久と鴇が知己ということを今さら思い出した。鴇が椿小路公爵家を訪れる以前のことを、安珠は何も知らない。
鴇は即座に立ち上がり、山崎に指示を出す。
「山崎さん、安珠をピアノの前にお連れしてください」
「かしこまりました」
山崎に安珠を任せて、素早く執務室を出て行く。あえて安珠を見ないように目線を逸らしていた。同席されると困ることでもあるのだろうか。
「商売のお話ですから、安珠さまの手を煩わせたくないのでしょう。さあ、どうぞこちらへ」
「ああ……そうだね」
山崎に促されてサロンにあるピアノの前に座る。ヒロが静かに近づいてきて、寄り添うように安珠の傍に腰を下ろす。安珠がピアノを弾くとき、ヒロは必ず隣に来るのだ。艶やかな黒い毛並みをひと撫でしてから、安珠は流麗なソナタの音色を奏ではじめた。
サロンの大きな硝子窓からは屋敷に出入りする人影が樹木越しに見える。暗譜できる曲なので楽譜や鍵盤は見ていない。安珠は窓の外に目線を配り続けた。
やがて曲を三周ほど巡ると、見知った人影が屋敷の玄関から出てくる。
安珠は即座に鍵盤から手を離し、玄関へ向かった。突然のことにヒロは驚いて立ち上がり、安珠の後を追いかけてくる。
「晃久、待ってくれ」
車寄せに停まっている車に乗り込もうとしていた大須賀晃久は精悍な顔をこちらにむけた。全く華美のない漆黒のビジネススーツを纏い、仕事用の鞄を手にしている。
「何だ」
「話がある。テラスに来てくれ」
幸い、鴇の姿はない。執務室に戻ったのだろう。
襲爵のことは当然知られているわけだが、晃久から情報を仕入れる必要があった。公爵の座を逃した安珠を華族連中は笑い者にしているだろうから、晃久にも良い気味だと嘲笑されることは覚悟の上だ。
安珠はヒロを伴い、晃久を裏庭に面したテラスに招き入れた。
陽射しの降り注ぐテラスは藤棚が造られており、そよ風に揺れる薄紫色の藤を眺めながらお茶を嗜むことができる。昔は母の憩いの場だった。
「会社に戻るから手短に済ませろ」
藤を愛でる情緒など皆無の晃久は、籐椅子に腰を下ろすと尊大に言い放つ。以前から安珠の美しさを褒め称える取り巻きとは一線を画していたが、相変わらずの傲岸さだ。
「公爵になれなかった僕に割く時間はないというわけか?」
優雅な所作で椅子に腰掛けた安珠は柔らかな木漏れ日に琥珀の眸を眇めた。公爵ではない安珠に、ご機嫌伺いに来る者などいない。久しぶりに会った友人に愚痴のひとつも言いたくなる。
「俺に恨み言を吐いても仕方ないだろう。御父上の判断だ。それに公爵家の財政は芳しくないようだな」
「そんなことはないよ。鴇が大げさなんだ」
商談をしたのだから晃久には見透かされているのかもしれないが、公爵家としての矜持があった。鴇は公爵としての自覚がないから、他人に金がないなどと恥ずかしいことを言えるのだ。
「資金繰りに行き詰まって没落する華族など珍しくないからな。椿小路家の公債はどの程度ある」
「……公債って、何だ?」
「おまえに金の話をしても時間の無駄だな。鴇に任せておいて正解だ。奴が俺に額ずいて頼み込む姿を、呑気なおまえに見せてやりたいところだ」
呆れた眼差しをむけてくる晃久の零した話に眸を見開く。公爵に就任した鴇は、伯爵の晃久より格上だ。彼がそこまで必死だなんて思いもよらなかった。
「僕は何も聞いてないんだけど、晃久の会社から金を借りるのか?」
折角礼を述べているのに、嫌味のように別邸に金がかかることを強調してくる。
つまり母への支援が継続する限り、口淫しろと言いたいのだろうか。
「土地で足りないなら、蔵にある財宝を売ればいいだろう。名匠の壺や掛け軸が沢山あるぞ」
「安珠が金に無頓着かつ無知ということは承知しました。新しい商売を始めることにしましたので、それが軌道に乗れば家財を売る必要はなくなります。今から商談を行いますから、ピアノでも弾いて待っていてくださいね」
まるで安珠はピアノを弾くしか能がない馬鹿者のような言いざまだ。確かに帳簿に羅列した数字を眺めても今ひとつ理解が得られないが、椿小路公爵家のことは安珠に大いに関係のあることなのに邪魔扱いされては腹が立つ。
執務室の扉をノックした山崎が「大須賀さまがおいでになりました」と慇懃に告げた。商談の相手とは大須賀晃久のことらしい。パーティーや葬儀にも来てくれた友人の晃久は自分の会社を持ち、手広く事業を行っていると聞く。
「晃久と商談なのか? そういえば、うちに来る前は大須賀伯爵家に勤めていたんだよな」
晃久と鴇が知己ということを今さら思い出した。鴇が椿小路公爵家を訪れる以前のことを、安珠は何も知らない。
鴇は即座に立ち上がり、山崎に指示を出す。
「山崎さん、安珠をピアノの前にお連れしてください」
「かしこまりました」
山崎に安珠を任せて、素早く執務室を出て行く。あえて安珠を見ないように目線を逸らしていた。同席されると困ることでもあるのだろうか。
「商売のお話ですから、安珠さまの手を煩わせたくないのでしょう。さあ、どうぞこちらへ」
「ああ……そうだね」
山崎に促されてサロンにあるピアノの前に座る。ヒロが静かに近づいてきて、寄り添うように安珠の傍に腰を下ろす。安珠がピアノを弾くとき、ヒロは必ず隣に来るのだ。艶やかな黒い毛並みをひと撫でしてから、安珠は流麗なソナタの音色を奏ではじめた。
サロンの大きな硝子窓からは屋敷に出入りする人影が樹木越しに見える。暗譜できる曲なので楽譜や鍵盤は見ていない。安珠は窓の外に目線を配り続けた。
やがて曲を三周ほど巡ると、見知った人影が屋敷の玄関から出てくる。
安珠は即座に鍵盤から手を離し、玄関へ向かった。突然のことにヒロは驚いて立ち上がり、安珠の後を追いかけてくる。
「晃久、待ってくれ」
車寄せに停まっている車に乗り込もうとしていた大須賀晃久は精悍な顔をこちらにむけた。全く華美のない漆黒のビジネススーツを纏い、仕事用の鞄を手にしている。
「何だ」
「話がある。テラスに来てくれ」
幸い、鴇の姿はない。執務室に戻ったのだろう。
襲爵のことは当然知られているわけだが、晃久から情報を仕入れる必要があった。公爵の座を逃した安珠を華族連中は笑い者にしているだろうから、晃久にも良い気味だと嘲笑されることは覚悟の上だ。
安珠はヒロを伴い、晃久を裏庭に面したテラスに招き入れた。
陽射しの降り注ぐテラスは藤棚が造られており、そよ風に揺れる薄紫色の藤を眺めながらお茶を嗜むことができる。昔は母の憩いの場だった。
「会社に戻るから手短に済ませろ」
藤を愛でる情緒など皆無の晃久は、籐椅子に腰を下ろすと尊大に言い放つ。以前から安珠の美しさを褒め称える取り巻きとは一線を画していたが、相変わらずの傲岸さだ。
「公爵になれなかった僕に割く時間はないというわけか?」
優雅な所作で椅子に腰掛けた安珠は柔らかな木漏れ日に琥珀の眸を眇めた。公爵ではない安珠に、ご機嫌伺いに来る者などいない。久しぶりに会った友人に愚痴のひとつも言いたくなる。
「俺に恨み言を吐いても仕方ないだろう。御父上の判断だ。それに公爵家の財政は芳しくないようだな」
「そんなことはないよ。鴇が大げさなんだ」
商談をしたのだから晃久には見透かされているのかもしれないが、公爵家としての矜持があった。鴇は公爵としての自覚がないから、他人に金がないなどと恥ずかしいことを言えるのだ。
「資金繰りに行き詰まって没落する華族など珍しくないからな。椿小路家の公債はどの程度ある」
「……公債って、何だ?」
「おまえに金の話をしても時間の無駄だな。鴇に任せておいて正解だ。奴が俺に額ずいて頼み込む姿を、呑気なおまえに見せてやりたいところだ」
呆れた眼差しをむけてくる晃久の零した話に眸を見開く。公爵に就任した鴇は、伯爵の晃久より格上だ。彼がそこまで必死だなんて思いもよらなかった。
「僕は何も聞いてないんだけど、晃久の会社から金を借りるのか?」
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