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娼館 1
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悪路のため、古びたトラックは大きく揺れて、荷台に座る細身の体を跳ね上がらせた。
大須賀邸から手荷物の鞄ひとつだけを持参して出てきた澪は曇天を見上げる。
雨が降りそうだ。
ここは、どこなのだろう。
汽車や車を乗り継いでやってきた土地はとても遠いところで、初めて訪れる場所だった。ひとりで帰ることは不可能だろう。もう大須賀邸に帰ることもないわけだが。
トラックはひたすら急勾配の山道を登っていく。やがて山の中腹にある小さな町に辿り着いた。旅館や飯屋が軒を連ねる界隈でトラックは停車する。
「ここだ。降りな」
運転してきた男は顎で澪に指図する。降り出した雨に濡れながら旅館らしき建物に入ると、主人らしい男が帳簿から顔を上げた。その目には、厄介者が来たという疎ましい色が滲んでいた。藤子が澪を見るときの目に似ている。
「ああ、来たか。金は」
「これだ。じゃあな」
「ご苦労さん」
男は無造作に封筒を渡すと、店を出て行った。汽車を下車したときに来ていた迎えの男なので名前も知らない。封筒の中身を確認した主人は舌打ちする。素早く懐に仕舞うと、また迷惑そうな目で澪を見た。
「女だったら、まだ使いようがあったのにな。おい、なに突っ立ってる。まずは外を掃除してこい」
もしかして、ここが今日から勤めるお屋敷なのだろうか。大須賀家の別邸なのだとばかり思っていたのだが、この寂れた旅館のようなところが華族の別荘とは思えない。
「あの……ここは大須賀伯爵家の旅館ですか?」
「何を言ってんだ。うちの持ち物だよ。娼館だ」
「娼館……」
娼館とは春をひさぐ女の人がいるところだ。澪はもちろん初めて足を踏み入れた。上の階から寝乱れた衣装の女の人が降りてきて、戸惑っていると主人の怒号が飛ぶ。
「掃除! さっさとしろ。お客が来る前に終わらせるんだぞ」
「は、はい」
手荷物を放り出した澪は、どしゃぶりの雨の中を箒を持って掃除した。
石炭が豊富に採れる炭鉱の傍にある山間の町は、炭鉱夫のために数々の旅館や飯屋が用意されていた。澪の勤めることになった娼館もそのひとつで、連日炭鉱夫が客として出入りしている。
澪はそこで炊事、洗濯、掃除の仕事を与えられた。早朝、まだ暗いうちに起き上がり、まずは二階建ての娼館の掃除を行う。その後は娼館で使用するシーツやタオルなどの洗濯をして干す。仕事の性質上、とてもたくさんの量を洗わなければならない。それが終わればようやく娼婦たちが起き上がってくるので、彼女たちの食事の用意をする。後片付けをしてから、泊まっていた客が帰って空いた部屋の清掃をする。他に手伝ってくれる者はいない。二階建ての娼館と、十数人の娼婦を世話するのはひとりではとても手が回らない。澪は日が経つごとに疲弊していった。体調を崩しても休むことは許されず、高熱でも仕事をこなさなくてはいけない。
大須賀伯爵家の庭師の仕事は、とても恵まれていた楽な仕事だったのだと痛感する。
娼館の主人は、「伯爵家で問題を起こした使用人を引き受けてやった」と、周りに吹聴している。伯爵夫人から金をもらったが額が少なかったらしく、不満を零しているとも娼婦たちから教えられた。彼女たちの話によれば、主人が闇取引などを手がけていたときに華族の邸宅にも出入りしていて、大須賀伯爵夫人とも知り合いになったらしい。山の裏手は海が臨める風光明媚な場所が広がっているそうで、そこに華族の豪華な別荘がいくつもあるのだという。避暑に訪れる華族相手に主人は怪しい薬を売ったり、娼婦を斡旋していたようだ。金持ち相手に儲けて、この娼館を経営するに至ったのだと、澪と年も変わらないほどの娼婦は語ってくれた。
澪はこの地に大須賀家の別荘があったとは全く知らなかった。晃久が両親と避暑に訪れたことは、澪の記憶の限りは一度もない。おそらく澪と母が屋敷に住む前は、そんなこともあったのではないだろうか。晃久が幼児の頃は家族で別荘を訪れていたのかもしれない。
澪と母が、晃久の家族を壊した。
その事実は深く胸に突き刺さる。最後に藤子に告げられた、悲劇を繰り返さないという言葉もまた怜悧な硝子のごとく澪の心を刺している。
深夜に仕事が終われば、廊下の隅にある物置に入る。そこが澪の寝床だ。黴臭く、夏場なので蒸し暑い。狭い物置は布団を敷く場所はなく、体を縮めて毛布だけをかけて寝た。
硬い板敷きは疲れた体を癒やしてはくれない。薄い板壁からは娼婦の喘ぎ声が響いてきて、とても眠れない。
暗闇の中でふと思い出すのは、晃久の笑顔だった。
口端を引き上げた、彼の独特の皮肉めいた表情が懐かしく胸に去来する。
もう会えない。二度と、晃久のあの笑顔を見ることはできない。
けれど、それで良いと思えた。
体を壊して汚れた今の自分の姿を、晃久の目に入れてほしくない。彼には、共に食事をした日の輝かしい思い出だけを覚えていてほしかった。あのとき晃久は宝石のような料理や煌めく夜景に目もくれず、澪だけを見つめていた。着飾った澪を見るのに忙しいと零していた。
あの瞬間が、もっとも幸福な時だったのだと今なら分かる。
涙が一筋、つうと薄汚れた頬を伝う。
会いたい。会いたい。会いたい。
会えなくて良いだなんて、強がりだ。でも無理にでもそう思わなければ、とても胸に溢れそうになる激情を押し込めておくことなんてできはしない。
晃久の力強い腕、低い声、薄い唇、熱い吐息。
あの唇で接吻してくれた。逞しい雄芯で貫かれ、きつく体を抱いてくれた。
理性だけでは抑えられない。
心が、晃久に会いたいと切望している。
けれど、そう強く願うたびに、大須賀家に自分の居場所などないという現実が眼前に横たわる。
晃久には幸せになってほしい。
そのためには、澪は邪魔なのだ。
突然喉から咳が出て、ほんの少しだけ血を吐いた。苦しさに、また涙が滲む。
瞼の裏に晃久の笑顔を思い浮かべるときだけが、澪を癒やす。
きっと澪が病気になって死んでも、記憶の中の晃久だけは、ずっと澪だけに微笑んでくれるのだから。
大須賀邸から手荷物の鞄ひとつだけを持参して出てきた澪は曇天を見上げる。
雨が降りそうだ。
ここは、どこなのだろう。
汽車や車を乗り継いでやってきた土地はとても遠いところで、初めて訪れる場所だった。ひとりで帰ることは不可能だろう。もう大須賀邸に帰ることもないわけだが。
トラックはひたすら急勾配の山道を登っていく。やがて山の中腹にある小さな町に辿り着いた。旅館や飯屋が軒を連ねる界隈でトラックは停車する。
「ここだ。降りな」
運転してきた男は顎で澪に指図する。降り出した雨に濡れながら旅館らしき建物に入ると、主人らしい男が帳簿から顔を上げた。その目には、厄介者が来たという疎ましい色が滲んでいた。藤子が澪を見るときの目に似ている。
「ああ、来たか。金は」
「これだ。じゃあな」
「ご苦労さん」
男は無造作に封筒を渡すと、店を出て行った。汽車を下車したときに来ていた迎えの男なので名前も知らない。封筒の中身を確認した主人は舌打ちする。素早く懐に仕舞うと、また迷惑そうな目で澪を見た。
「女だったら、まだ使いようがあったのにな。おい、なに突っ立ってる。まずは外を掃除してこい」
もしかして、ここが今日から勤めるお屋敷なのだろうか。大須賀家の別邸なのだとばかり思っていたのだが、この寂れた旅館のようなところが華族の別荘とは思えない。
「あの……ここは大須賀伯爵家の旅館ですか?」
「何を言ってんだ。うちの持ち物だよ。娼館だ」
「娼館……」
娼館とは春をひさぐ女の人がいるところだ。澪はもちろん初めて足を踏み入れた。上の階から寝乱れた衣装の女の人が降りてきて、戸惑っていると主人の怒号が飛ぶ。
「掃除! さっさとしろ。お客が来る前に終わらせるんだぞ」
「は、はい」
手荷物を放り出した澪は、どしゃぶりの雨の中を箒を持って掃除した。
石炭が豊富に採れる炭鉱の傍にある山間の町は、炭鉱夫のために数々の旅館や飯屋が用意されていた。澪の勤めることになった娼館もそのひとつで、連日炭鉱夫が客として出入りしている。
澪はそこで炊事、洗濯、掃除の仕事を与えられた。早朝、まだ暗いうちに起き上がり、まずは二階建ての娼館の掃除を行う。その後は娼館で使用するシーツやタオルなどの洗濯をして干す。仕事の性質上、とてもたくさんの量を洗わなければならない。それが終わればようやく娼婦たちが起き上がってくるので、彼女たちの食事の用意をする。後片付けをしてから、泊まっていた客が帰って空いた部屋の清掃をする。他に手伝ってくれる者はいない。二階建ての娼館と、十数人の娼婦を世話するのはひとりではとても手が回らない。澪は日が経つごとに疲弊していった。体調を崩しても休むことは許されず、高熱でも仕事をこなさなくてはいけない。
大須賀伯爵家の庭師の仕事は、とても恵まれていた楽な仕事だったのだと痛感する。
娼館の主人は、「伯爵家で問題を起こした使用人を引き受けてやった」と、周りに吹聴している。伯爵夫人から金をもらったが額が少なかったらしく、不満を零しているとも娼婦たちから教えられた。彼女たちの話によれば、主人が闇取引などを手がけていたときに華族の邸宅にも出入りしていて、大須賀伯爵夫人とも知り合いになったらしい。山の裏手は海が臨める風光明媚な場所が広がっているそうで、そこに華族の豪華な別荘がいくつもあるのだという。避暑に訪れる華族相手に主人は怪しい薬を売ったり、娼婦を斡旋していたようだ。金持ち相手に儲けて、この娼館を経営するに至ったのだと、澪と年も変わらないほどの娼婦は語ってくれた。
澪はこの地に大須賀家の別荘があったとは全く知らなかった。晃久が両親と避暑に訪れたことは、澪の記憶の限りは一度もない。おそらく澪と母が屋敷に住む前は、そんなこともあったのではないだろうか。晃久が幼児の頃は家族で別荘を訪れていたのかもしれない。
澪と母が、晃久の家族を壊した。
その事実は深く胸に突き刺さる。最後に藤子に告げられた、悲劇を繰り返さないという言葉もまた怜悧な硝子のごとく澪の心を刺している。
深夜に仕事が終われば、廊下の隅にある物置に入る。そこが澪の寝床だ。黴臭く、夏場なので蒸し暑い。狭い物置は布団を敷く場所はなく、体を縮めて毛布だけをかけて寝た。
硬い板敷きは疲れた体を癒やしてはくれない。薄い板壁からは娼婦の喘ぎ声が響いてきて、とても眠れない。
暗闇の中でふと思い出すのは、晃久の笑顔だった。
口端を引き上げた、彼の独特の皮肉めいた表情が懐かしく胸に去来する。
もう会えない。二度と、晃久のあの笑顔を見ることはできない。
けれど、それで良いと思えた。
体を壊して汚れた今の自分の姿を、晃久の目に入れてほしくない。彼には、共に食事をした日の輝かしい思い出だけを覚えていてほしかった。あのとき晃久は宝石のような料理や煌めく夜景に目もくれず、澪だけを見つめていた。着飾った澪を見るのに忙しいと零していた。
あの瞬間が、もっとも幸福な時だったのだと今なら分かる。
涙が一筋、つうと薄汚れた頬を伝う。
会いたい。会いたい。会いたい。
会えなくて良いだなんて、強がりだ。でも無理にでもそう思わなければ、とても胸に溢れそうになる激情を押し込めておくことなんてできはしない。
晃久の力強い腕、低い声、薄い唇、熱い吐息。
あの唇で接吻してくれた。逞しい雄芯で貫かれ、きつく体を抱いてくれた。
理性だけでは抑えられない。
心が、晃久に会いたいと切望している。
けれど、そう強く願うたびに、大須賀家に自分の居場所などないという現実が眼前に横たわる。
晃久には幸せになってほしい。
そのためには、澪は邪魔なのだ。
突然喉から咳が出て、ほんの少しだけ血を吐いた。苦しさに、また涙が滲む。
瞼の裏に晃久の笑顔を思い浮かべるときだけが、澪を癒やす。
きっと澪が病気になって死んでも、記憶の中の晃久だけは、ずっと澪だけに微笑んでくれるのだから。
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