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伯爵夫人の陰謀 

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 翌日の早朝、腫れた瞼に冷えた布巾を押し当てていた澪の耳に、屋敷の外へ出かける車の音が届いた。
 晃久が仕事に出かけるらしい。いつもよりは随分と早い時刻だ。忙しいのだろうか。それとも、榊侯爵家に改めて挨拶に出かけるのだろうか。
 気がつくと晃久のことばかり考えてしまい、首を振って頭から追いやる。
 もう会わないと、昨夜告げたばかりだ。こんなことではいけない。
 晃久が結婚しても、新しい奥様を迎えても、何もなかったように笑顔でいなければならないのに。
 鏡の前で無理に笑みを形作る。引き攣った頬は無様に歪んだ。

 支度を終えて、気持ちを落ち着けてから屋敷へ赴く。
 今日はまず、昨夜のパーティーの後片付けを行わなくてはならない。朝日の中に浮かぶ広間は白々しいほどで、昨夜の饗宴の面影は見られなかった。女中は既に掃除を行っており、男衆はテーブルを運んでいる。随所に飾られた花瓶を窺えば、花弁は散り急ぐように、ほろりと零れ落ちていた。
 花瓶を片付けようとした澪に女中頭のサノが声をかける。

「澪や。ここはいいから、応接室に行きなさい。奥様がお待ちだよ」

 ぴくりと手が止まる。澪は平静を装って振り向いた。

「はい、サノさん。すぐに行きます」

 サノの顔に憐憫の情が過ぎる。藤子に叱責されるのを見越してのことだと分かり、澪は恥じ入る思いだった。
 きっと昨夜のことで注意を受けるのだろう。使用人なのに上等なスーツを着て堂々と晃久の隣にいるなんて、やはり許されないことだった。
 澪は足早に廊下を渡り、応接室の扉をノックした。

「お入りなさい」
「失礼いたします、奥様。お呼びとお聞きしましたが……御用でしょうか」

 入室すると、扉のすぐ傍に控えて頭を下げる。
 藤子は緋色のソファに優雅に腰掛けて紅茶を嗜んでいた。広い応接室の窓からは眩い朝日が射し込んでいる。その陽射しに、グランドピアノが濡れ羽のように光を撥ねていた。
 昨夜は誇らしげな笑顔だった藤子だが、今は無表情を浮かべている。

「荷物をまとめなさい」

 澪を一瞥もせず無情に放たれたひとことに、咄嗟に返事ができなかった。藤子は苛立ったように眉根を寄せる。

「聞こえないの? おまえは今日から別の屋敷に勤めてもらうわ。情けとして手荷物をまとめる時間を与えてあげます」

 突然のことに狼狽してしまい、澪は視線を彷徨わせた。今すぐに、この屋敷を出て行かなくてはならないらしい。

「あの……そのお屋敷は遠いのでしょうか?」
「おまえが知る必要はありません」
「でも、その、若さまはご存じなのでしょうか?」

 晃久の名が出ると、藤子はきつく眦を吊り上げた。立ち上がりざま、紅茶のカップを澪にむけて投げつける。

「おまえがいるから晃久はおかしくなったのよ! おまえという泥棒猫の子はいつまでこの屋敷にいるつもりなの!」

 すぐ傍の扉に当たった陶器は音を立てて壊れた。撥ねた紅茶の飛沫が澪の頬を叩く。
 澪は激情をぶつけられて、戦慄することしかできない。

「申し訳ございません」
「本当に母親そっくりね。清純なふりをして男に取り入るのが上手だわ。夫を寝取られて、今度は息子まで奪われる私の気持ちがどんなに屈辱に塗れているか、おまえには分からないでしょう」

 藤子の言うとおりだ。澪たち母子は、藤子から夫を奪った。そして澪はまた息子の晃久を、彼女から奪おうとしているのだ。
 澪は深く頭を下げて罵倒を受け入れた。

「でもそれも、もう終わるのよ。悲劇を繰り返さないための、これは恩情です」

 伸介が澪の母親を愛人として持ち、澪が生まれたことから悲劇は始まった。
 晃久が結婚しても澪に惹かれて間違いが起これば、再び同じことが繰り返される可能性がある。
 何より、澪はオメガなのだ。妊娠するかもしれないのだ。
 そしてアルファである晃久は己の意思と関係なく、オメガである澪に引き寄せられる。

「ありがとうございます、奥様。今すぐに荷物をまとめます」

 もう大須賀家にはいられなかった。
 本来は母が亡くなったときに出て行くべきだったのだ。それが引き延ばされていただけ。
 未練なんて、何もない。
 こうすることが一番良いのだ。晃久のためだなんて傲慢を言うつもりはない。
 ただ、母からつながる罪を、いま精算するということだった。
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