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第五章
後宮の炎
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「ほほう。私を闇塩事件の証人として金城に招き、弁明を求めると……。慈聖皇后直筆の召喚状か。これはまた、すごいものを持参してきましたな」
召喚状の存在を初めて知った結蘭は唖然とした。皇帝ではなく、何故皇后の命令なのだろうか。皇后は病気で臥せっているので、黒狼も本人に会ったことがないはずだ。
事情はともかく、皇后の召喚令を無下に扱うことはできない。夏太守は、ぽんと手を打った。
「なるほど。仕方ない。王都へ行こう」
「太守……! いけません」
狼狽する劉青に、剣を収めるよう掌を水平に翳す。
「丁度良い。皇帝に塩の課税を下げてもらうよう直訴しようじゃないか」
「では、私も参ります」
「いけない。おまえは敬州に残りなさい。私のいない間、留守を頼んだぞ」
納得できず更に言い募ろうとする劉青を諭すように、夏太守は人差し指を立てた。
「珠鐶を盗んだ件があるだろう。あれで斬首されては、かなわないからね」
「あれは……盗んだのではありません! 拾ったのです。そんなつもりでは……」
結蘭たちを横目にして、劉青は気まずく口を噤んだ。事態を見守っていた村の者たちに、夏太守は向き直る。
「皆が仕事や居場所を失うことは決してない。すべて、私に任せてほしい。敬州は、必ず守る」
村民は信頼を込めて頷く。統治者としての矜持に、結蘭は尊敬の念すら覚えた。項垂れる劉青に旅の支度を申し付けた夏太守は、呑気に結蘭に声をかけた。
「まずは朝餉でもどうかね?」
三頭の馬が王都へ向かって街道を進む。夏太守は桜の蕾の品評を語りながら、まるで観光気分である。
敬州の太守が金城に召喚されるという伝令は、王都から派遣された使者によって届けられた。政府を敵視していた夏太守が、ついに闇塩の首謀者であると認めたという尾ひれをつけて。
敬州の領地から一歩出た途端に、結蘭たちは物々しい軍兵に囲まれる。
「何事ですか」
「結蘭公主さまと夏太守をお迎えにあがりました。太守はどうぞ、馬車へお乗りください」
用意された馬車を指し示す軍吏に、夏太守はご苦労と声をかけて悠然と馬を進めた。
「馬車に乗ったら景色が見えなくなるじゃないか」
あくまでも賓客という扱いだが、闇塩事件は既に周知のことのようだ。大勢の軍兵を従えて王城を目指すことになった結蘭は、こっそりと耳打ちする。
「黒狼が呼んだの?」
「いいや。おそらく、あいつの差し金だ」
「あいつって?」
「着けばわかる」
見慣れた街並みを越え、城郭を視界に捉えた。もう少しで金城へ到着する。
街角に群れている人々が、何事か騒いでいる。
「もし。何かありましたか?」
皆は王城の一点を指差し、叫んだ。
「火事だ! 天子さまの御住いが火事だぞ!」
見上げれば王城の一角から黒煙が立ち昇り、天を覆い尽くそうとしている。
結蘭は咄嗟に馬腹を蹴る。駆け出した子翼と共に朱雀門を潜り、黒煙が示す方角を一心不乱に目指す。
宮廷は混乱の極みにあった。奥へ進むほど、消火に走る衛士や逃げ惑う女官たちで路は溢れる。子翼が踏鞴を踏み始めたので、結蘭は降りて走り出した。
「結蘭! 火の元は永寧宮だ」
とうに下馬して走ってきた黒狼に続き、子翼も後を追ってくる。
永寧宮といえば李昭儀の宮だ。使者が走ったので、結蘭が想定するより早く闇塩事件は明るみになっている。嫌な予感が過ぎる。
宮の手前の路は、大量の宝物や家具で塞がれていた。その間を縫うように移動する人々が衝突する。
「通して、通してください!」
各宮の者が延焼を恐れて運び出しているのだ。池から汲み出された水が桶から零れ、路は水浸しになっている。
ようやく辿り着いた門前は、泣き叫ぶ女官や役人たちでひしめいていた。衛士が怒号を上げながら桶を手にして駆け込む。
煙の嫌な臭気が辺り一帯に立ち込める。庭の向こうにある奥の庫房は業火に包まれていた。
飛び散る火の粉に双眸を眇める。
「仏像のあった庫房が燃えてしまうわ……」
「李昭儀が証拠を隠滅したな」
圧倒的な火の勢いの前に成すすべもない。火の手は隣接する本殿に移り、燃え広がっている。延焼を食い止めるため衛士たちは槌で建物を壊し始めた。由緒正しい宮の破壊される姿に、号泣して地に伏せる女官たち。
召喚状の存在を初めて知った結蘭は唖然とした。皇帝ではなく、何故皇后の命令なのだろうか。皇后は病気で臥せっているので、黒狼も本人に会ったことがないはずだ。
事情はともかく、皇后の召喚令を無下に扱うことはできない。夏太守は、ぽんと手を打った。
「なるほど。仕方ない。王都へ行こう」
「太守……! いけません」
狼狽する劉青に、剣を収めるよう掌を水平に翳す。
「丁度良い。皇帝に塩の課税を下げてもらうよう直訴しようじゃないか」
「では、私も参ります」
「いけない。おまえは敬州に残りなさい。私のいない間、留守を頼んだぞ」
納得できず更に言い募ろうとする劉青を諭すように、夏太守は人差し指を立てた。
「珠鐶を盗んだ件があるだろう。あれで斬首されては、かなわないからね」
「あれは……盗んだのではありません! 拾ったのです。そんなつもりでは……」
結蘭たちを横目にして、劉青は気まずく口を噤んだ。事態を見守っていた村の者たちに、夏太守は向き直る。
「皆が仕事や居場所を失うことは決してない。すべて、私に任せてほしい。敬州は、必ず守る」
村民は信頼を込めて頷く。統治者としての矜持に、結蘭は尊敬の念すら覚えた。項垂れる劉青に旅の支度を申し付けた夏太守は、呑気に結蘭に声をかけた。
「まずは朝餉でもどうかね?」
三頭の馬が王都へ向かって街道を進む。夏太守は桜の蕾の品評を語りながら、まるで観光気分である。
敬州の太守が金城に召喚されるという伝令は、王都から派遣された使者によって届けられた。政府を敵視していた夏太守が、ついに闇塩の首謀者であると認めたという尾ひれをつけて。
敬州の領地から一歩出た途端に、結蘭たちは物々しい軍兵に囲まれる。
「何事ですか」
「結蘭公主さまと夏太守をお迎えにあがりました。太守はどうぞ、馬車へお乗りください」
用意された馬車を指し示す軍吏に、夏太守はご苦労と声をかけて悠然と馬を進めた。
「馬車に乗ったら景色が見えなくなるじゃないか」
あくまでも賓客という扱いだが、闇塩事件は既に周知のことのようだ。大勢の軍兵を従えて王城を目指すことになった結蘭は、こっそりと耳打ちする。
「黒狼が呼んだの?」
「いいや。おそらく、あいつの差し金だ」
「あいつって?」
「着けばわかる」
見慣れた街並みを越え、城郭を視界に捉えた。もう少しで金城へ到着する。
街角に群れている人々が、何事か騒いでいる。
「もし。何かありましたか?」
皆は王城の一点を指差し、叫んだ。
「火事だ! 天子さまの御住いが火事だぞ!」
見上げれば王城の一角から黒煙が立ち昇り、天を覆い尽くそうとしている。
結蘭は咄嗟に馬腹を蹴る。駆け出した子翼と共に朱雀門を潜り、黒煙が示す方角を一心不乱に目指す。
宮廷は混乱の極みにあった。奥へ進むほど、消火に走る衛士や逃げ惑う女官たちで路は溢れる。子翼が踏鞴を踏み始めたので、結蘭は降りて走り出した。
「結蘭! 火の元は永寧宮だ」
とうに下馬して走ってきた黒狼に続き、子翼も後を追ってくる。
永寧宮といえば李昭儀の宮だ。使者が走ったので、結蘭が想定するより早く闇塩事件は明るみになっている。嫌な予感が過ぎる。
宮の手前の路は、大量の宝物や家具で塞がれていた。その間を縫うように移動する人々が衝突する。
「通して、通してください!」
各宮の者が延焼を恐れて運び出しているのだ。池から汲み出された水が桶から零れ、路は水浸しになっている。
ようやく辿り着いた門前は、泣き叫ぶ女官や役人たちでひしめいていた。衛士が怒号を上げながら桶を手にして駆け込む。
煙の嫌な臭気が辺り一帯に立ち込める。庭の向こうにある奥の庫房は業火に包まれていた。
飛び散る火の粉に双眸を眇める。
「仏像のあった庫房が燃えてしまうわ……」
「李昭儀が証拠を隠滅したな」
圧倒的な火の勢いの前に成すすべもない。火の手は隣接する本殿に移り、燃え広がっている。延焼を食い止めるため衛士たちは槌で建物を壊し始めた。由緒正しい宮の破壊される姿に、号泣して地に伏せる女官たち。
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