24 / 45
第三章
夏氏の狗 3
しおりを挟む
傍に、いてほしいな。
どこにも行かないでほしい。
不安に駆られてしまい身を起こすと、黒狼は変わらず戸口に座していた。質問の返事がないので眠っているのかと思ったが、彼はいつもの鋭利な、けれど熱の籠もった眼差しを結蘭にむける。
「眠れないか」
「あ、うん。答えが返ってこないから眠っちゃったのかと思った」
「ああ……。大事なものか」
「沢山あって、一番が決められないの?」
「沢山あるのは結蘭だろう。まずは、虫だろ」
「う……。そうね」
「それから弟の皇帝と、それを取り巻く国のこと。奏州に残した屋敷のこと。母上との思い出、それから……」
黒狼の低い声音が眠りを誘う。結蘭は臥台に身を横たえた。
大事なものは沢山あるけれど、一番となると難しい。それに、もっとも大切なものが、欠けている。
結蘭は瞼を半分閉じながら口を開いた。
「黒狼は……?」
「目の前にある。俺の大事なものはひとつしかない」
「うん……。ある……」
そう。一番大事なものは、目の前の人。
ゆらゆらと揺れていた蝋燭の灯が消える。結蘭は、すうと寝息を立てた。
黒狼は口元に笑みを浮かべた。
「おやすみ」
濃い霧が立ち込める早朝、劉青の先導で一行は塩湖へ向けて出発した。
充分に身体を休めた子翼は、堂々とした足取りで山道を進む。
「良い馬ですね。何という名ですか」
劉青が誉めると、子翼は当然というように鼻を鳴らして応える。
「子翼です。小さいときから一緒なんです」
「軍吏のお嬢さんにしては乗馬が上手だ。馬と心が通じ合っているんですね」
「あ……ええ。そうですね。言葉はわからないですけど」
劉青の猜疑が浮かぶ眼差しが投げられる。
「そういえば宮廷には、虫の言葉がわかるという公主がいるとか。名は結蘭でしたか」
「あ。そ、そうですね」
どうしよう。もはや正体は九割ばれている。
結蘭が困っていると、黒狼は子翼を遮るように前へ進み出てきた。先頭を行く劉青の左側に馬を付ける。
「俺が禁軍だと、何故知っていた?」
詰問する口調に、劉青は眦の端だけで脇を見遣る。手綱を操作して若干馬身を傾け、距離をとった。
「見ればわかりますよ」
抜刀した場合、位置的に劉青のほうが剣を反さなければならないので一拍遅れる。
両者に漲る緊迫感に、霧さえも避けて通るようだ。
「どこかで会ったか? 俺が軍吏になったのは、つい最近なんだがな」
「そうですか。腕が立ちそうなので軍吏だと思っただけです。それよりも、塩湖がもうすぐ見えてきます。あの山の向こうです」
黒狼は劉青が腰に佩いている倭刀に目を配ったが、指を差された前方を見遣った。
霧が晴れて山並みが姿を現す。雪が降ってもいないのに、山々は雪化粧を施していた。
「寒くないのに、どうして雪が積もってるのかしら」
「これは塩です。風に運ばれて、この辺りの山は塩で白くなるんです」
幻想的な風景に目を奪われる。山を下りると、荒涼とした大地は一面の銀世界に覆われていた。
太陽に照らされた粒子が、きらきらと輝きを放っている。まるで宝玉が散りばめられた海のようだ。あまりの眩しさに、結蘭は双眸を眇めた。
「湖といっても、浅いんですね」
一般的な湖とは違い、雨上がりの水溜りくらいしか深度がない。水面に反射した天が、鏡のように映っている。もうひとつの天が現れる現象を、鏡張りというのだと劉青は語った。条件が揃ったときしか出現しない珍しいものだという。
「いずれ塩湖は消えてなくなってしまうのだそうです。夏太守はそれまでの辛抱だと、常々仰っています」
「消えてなくなる? どういうことです?」
どこにも行かないでほしい。
不安に駆られてしまい身を起こすと、黒狼は変わらず戸口に座していた。質問の返事がないので眠っているのかと思ったが、彼はいつもの鋭利な、けれど熱の籠もった眼差しを結蘭にむける。
「眠れないか」
「あ、うん。答えが返ってこないから眠っちゃったのかと思った」
「ああ……。大事なものか」
「沢山あって、一番が決められないの?」
「沢山あるのは結蘭だろう。まずは、虫だろ」
「う……。そうね」
「それから弟の皇帝と、それを取り巻く国のこと。奏州に残した屋敷のこと。母上との思い出、それから……」
黒狼の低い声音が眠りを誘う。結蘭は臥台に身を横たえた。
大事なものは沢山あるけれど、一番となると難しい。それに、もっとも大切なものが、欠けている。
結蘭は瞼を半分閉じながら口を開いた。
「黒狼は……?」
「目の前にある。俺の大事なものはひとつしかない」
「うん……。ある……」
そう。一番大事なものは、目の前の人。
ゆらゆらと揺れていた蝋燭の灯が消える。結蘭は、すうと寝息を立てた。
黒狼は口元に笑みを浮かべた。
「おやすみ」
濃い霧が立ち込める早朝、劉青の先導で一行は塩湖へ向けて出発した。
充分に身体を休めた子翼は、堂々とした足取りで山道を進む。
「良い馬ですね。何という名ですか」
劉青が誉めると、子翼は当然というように鼻を鳴らして応える。
「子翼です。小さいときから一緒なんです」
「軍吏のお嬢さんにしては乗馬が上手だ。馬と心が通じ合っているんですね」
「あ……ええ。そうですね。言葉はわからないですけど」
劉青の猜疑が浮かぶ眼差しが投げられる。
「そういえば宮廷には、虫の言葉がわかるという公主がいるとか。名は結蘭でしたか」
「あ。そ、そうですね」
どうしよう。もはや正体は九割ばれている。
結蘭が困っていると、黒狼は子翼を遮るように前へ進み出てきた。先頭を行く劉青の左側に馬を付ける。
「俺が禁軍だと、何故知っていた?」
詰問する口調に、劉青は眦の端だけで脇を見遣る。手綱を操作して若干馬身を傾け、距離をとった。
「見ればわかりますよ」
抜刀した場合、位置的に劉青のほうが剣を反さなければならないので一拍遅れる。
両者に漲る緊迫感に、霧さえも避けて通るようだ。
「どこかで会ったか? 俺が軍吏になったのは、つい最近なんだがな」
「そうですか。腕が立ちそうなので軍吏だと思っただけです。それよりも、塩湖がもうすぐ見えてきます。あの山の向こうです」
黒狼は劉青が腰に佩いている倭刀に目を配ったが、指を差された前方を見遣った。
霧が晴れて山並みが姿を現す。雪が降ってもいないのに、山々は雪化粧を施していた。
「寒くないのに、どうして雪が積もってるのかしら」
「これは塩です。風に運ばれて、この辺りの山は塩で白くなるんです」
幻想的な風景に目を奪われる。山を下りると、荒涼とした大地は一面の銀世界に覆われていた。
太陽に照らされた粒子が、きらきらと輝きを放っている。まるで宝玉が散りばめられた海のようだ。あまりの眩しさに、結蘭は双眸を眇めた。
「湖といっても、浅いんですね」
一般的な湖とは違い、雨上がりの水溜りくらいしか深度がない。水面に反射した天が、鏡のように映っている。もうひとつの天が現れる現象を、鏡張りというのだと劉青は語った。条件が揃ったときしか出現しない珍しいものだという。
「いずれ塩湖は消えてなくなってしまうのだそうです。夏太守はそれまでの辛抱だと、常々仰っています」
「消えてなくなる? どういうことです?」
0
お気に入りに追加
90
あなたにおすすめの小説
追放されましたが、私は幸せなのでご心配なく。
cyaru
恋愛
マルスグレット王国には3人の側妃がいる。
ただし、妃と言っても世継ぎを望まれてではなく国政が滞ることがないように執務や政務をするために召し上げられた職業妃。
その側妃の1人だったウェルシェスは追放の刑に処された。
理由は隣国レブレス王国の怒りを買ってしまった事。
しかし、レブレス王国の使者を怒らせたのはカーティスの愛人ライラ。
ライラは平民でただ寵愛を受けるだけ。王妃は追い出すことが出来たけれど側妃にカーティスを取られるのでは?と疑心暗鬼になり3人の側妃を敵視していた。
ライラの失態の責任は、その場にいたウェルシェスが責任を取らされてしまった。
「あの人にも幸せになる権利はあるわ」
ライラの一言でライラに傾倒しているカーティスから王都追放を命じられてしまった。
レブレス王国とは逆にある隣国ハネース王国の伯爵家に嫁いだ叔母の元に身を寄せようと馬車に揺られていたウェルシェスだったが、辺鄙な田舎の村で馬車の車軸が折れてしまった。
直すにも技師もおらず途方に暮れていると声を掛けてくれた男性がいた。
タビュレン子爵家の当主で、丁度唯一の農産物が収穫時期で出向いて来ていたベールジアン・タビュレンだった。
馬車を修理してもらう間、領地の屋敷に招かれたウェルシェスはベールジアンから相談を受ける。
「収穫量が思ったように伸びなくて」
もしかしたら力になれるかも知れないと恩返しのつもりで領地の収穫量倍増計画を立てるのだが、気が付けばベールジアンからの熱い視線が…。
★↑例の如く恐ろしく、それはもう省略しまくってます。
★11月9日投稿開始、完結は11月11日です。
★コメントの返信は遅いです。
★タグが勝手すぎる!と思う方。ごめんなさい。検索してもヒットしないよう工夫してます。
♡注意事項~この話を読む前に~♡
※異世界を舞台にした創作話です。時代設定なし、史実に基づいた話ではありません。【妄想史であり世界史ではない】事をご理解ください。登場人物、場所全て架空です。
※外道な作者の妄想で作られたガチなフィクションの上、ご都合主義なのでリアルな世界の常識と混同されないようお願いします。
※心拍数や血圧の上昇、高血糖、アドレナリンの過剰分泌に責任はおえません。
※価値観や言葉使いなど現実世界とは異なります(似てるモノ、同じものもあります)
※誤字脱字結構多い作者です(ごめんなさい)コメント欄より教えて頂けると非常に助かります。
※話の基幹、伏線に関わる文言についてのご指摘は申し訳ないですが受けられません
【完結】辺境伯令嬢は新聞で婚約破棄を知った
五色ひわ
恋愛
辺境伯令嬢としてのんびり領地で暮らしてきたアメリアは、カフェで見せられた新聞で自身の婚約破棄を知った。真実を確かめるため、アメリアは3年ぶりに王都へと旅立った。
※本編34話、番外編『皇太子殿下の苦悩』31+1話、おまけ4話
助けてください!エリート年下上司が、地味な私への溺愛を隠してくれません
和泉杏咲
恋愛
両片思いの2人。「年下上司なんてありえない!」 「できない年上部下なんてまっぴらだ」そんな2人は、どうやって結ばれる?
「年下上司なんてありえない!」
「こっちこそ、できない年上の部下なんてまっぴらだ」
思えば、私とあいつは初対面から相性最悪だった!
人材業界へと転職した高井綾香。
そこで彼女を待ち受けていたのは、エリート街道まっしぐらの上司、加藤涼介からの厳しい言葉の数々。
綾香は年下の涼介に対し、常に反発を繰り返していた。
ところが、ある時自分のミスを助けてくれた涼介が気になるように……?
「あの……私なんで、壁ドンされてるんですか?」
「ほら、やってみなよ、体で俺を誘惑するんだよね?」
「はあ!?誘惑!?」
「取引先を陥落させた技、僕にやってみなよ」
愛しのあなたにさよならを
MOMO-tank
恋愛
憧れに留めておくべき人だった。
でも、愛してしまった。
結婚3年、理由あって夫であるローガンと別々に出席した夜会で彼と今話題の美しい舞台女優の逢瀬を目撃してしまう。二人の会話と熱い口づけを見て、私の中で何かがガタガタと崩れ落ちるのを感じた。
私達には、まだ子どもはいない。
私は、彼から離れる決意を固める。
所詮は他人事と言われたので他人になります!婚約者も親友も見捨てることにした私は好きに生きます!
ユウ
恋愛
辺境伯爵令嬢のリーゼロッテは幼馴染と婚約者に悩まされてきた。
幼馴染で親友であるアグネスは侯爵令嬢であり王太子殿下の婚約者ということもあり幼少期から王命によりサポートを頼まれていた。
婚約者である伯爵家の令息は従妹であるアグネスを大事にするあまり、婚約者であるサリオンも優先するのはアグネスだった。
王太子妃になるアグネスを優先することを了承ていたし、大事な友人と婚約者を愛していたし、尊敬もしていた。
しかしその関係に亀裂が生じたのは一人の女子生徒によるものだった。
貴族でもない平民の少女が特待生としてに入り王太子殿下と懇意だったことでアグネスはきつく当たり、婚約者も同調したのだが、相手は平民の少女。
遠回しに二人を注意するも‥
「所詮あなたは他人だもの!」
「部外者がしゃしゃりでるな!」
十年以上も尽くしてきた二人の心のない言葉に愛想を尽かしたのだ。
「所詮私は他人でしかないので本当の赤の他人になりましょう」
関係を断ったリーゼロッテは国を出て隣国で生きていくことを決めたのだが…
一方リーゼロッテが学園から姿を消したことで二人は王家からも責められ、孤立してしまうのだった。
なんとか学園に連れ戻そうと試みるのだが…
あなたに忘れられない人がいても――公爵家のご令息と契約結婚する運びとなりました!――
おうぎまちこ(あきたこまち)
恋愛
※1/1アメリアとシャーロックの長女ルイーズの恋物語「【R18】犬猿の仲の幼馴染は嘘の婚約者」が完結しましたので、ルイーズ誕生のエピソードを追加しています。
※R18版はムーンライトノベルス様にございます。本作品は、同名作品からR18箇所をR15表現に抑え、加筆修正したものになります。R15に※、ムーンライト様にはR18後日談2話あり。
元は令嬢だったが、現在はお針子として働くアメリア。彼女はある日突然、公爵家の三男シャーロックに求婚される。ナイトの称号を持つ元軍人の彼は、社交界で浮名を流す有名な人物だ。
破産寸前だった父は、彼の申し出を二つ返事で受け入れてしまい、アメリアはシャーロックと婚約することに。
だが、シャーロック本人からは、愛があって求婚したわけではないと言われてしまう。とは言え、なんだかんだで優しくて溺愛してくる彼に、だんだんと心惹かれていくアメリア。
初夜以外では手をつけられずに悩んでいたある時、自分とよく似た女性マーガレットとシャーロックが仲睦まじく映る写真を見つけてしまい――?
「私は彼女の代わりなの――? それとも――」
昔失くした恋人を忘れられない青年と、元気と健康が取り柄の元令嬢が、契約結婚を通して愛を育んでいく物語。
※全13話(1話を2〜4分割して投稿)
元妃は多くを望まない
つくも茄子
恋愛
シャーロット・カールストン侯爵令嬢は、元上級妃。
このたび、めでたく(?)国王陛下の信頼厚い側近に下賜された。
花嫁は下賜された翌日に一人の侍女を伴って郵便局に赴いたのだ。理由はお世話になった人達にある書類を郵送するために。
その足で実家に出戻ったシャーロット。
実はこの下賜、王命でのものだった。
それもシャーロットを公の場で断罪したうえでの下賜。
断罪理由は「寵妃の悪質な嫌がらせ」だった。
シャーロットには全く覚えのないモノ。当然、これは冤罪。
私は、あなたたちに「誠意」を求めます。
誠意ある対応。
彼女が求めるのは微々たるもの。
果たしてその結果は如何に!?
優しい微笑をください~上司の誤解をとく方法
栗原さとみ
恋愛
仕事のできる上司に、誤解され嫌われている私。どうやら会長の愛人でコネ入社だと思われているらしい…。その上浮気っぽいと思われているようで。上司はイケメンだし、仕事ぶりは素敵過ぎて、片想いを拗らせていくばかり。甘々オフィスラブ、王道のほっこり系恋愛話。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる