また、恋をする

沖田弥子

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夢のあと

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 冷静に考えてみれば、茂蔵のわけはない。彼は夢の中にしか存在しないのだから。
 それに宮司の鑓水さんはふくよかで、優しそうな面立ちをしている。顔色が悪く、目つきが鋭い茂蔵とは受ける印象が違っていた。

「ほう。高校の部活動のね。取材でよく聞かれるんですが、うちの神社は竜宮城とは関連ありませんので、乙姫様はいないのかという質問は勘弁してくださいよ」

 鑓水さんは自分で言った言葉が可笑しかったようで、また笑っている。
 私は早速、目の前の逆鱗について質問した。

「あの、この逆鱗ですが、どういった経緯で神社にあるんですか?」
「お嬢さんは変わった質問をしますねえ。大概は本物の竜の鱗かと聞く人が多いんですが。しかもこの竜の鱗が、逆鱗だとご存じでいらっしゃる」

 逆鱗を眺めた鑓水さんは、鱗の輝きを目に映しながら語り出した。

「もうご存じかもしれませんが、かつての水池村ではひどい干ばつに見舞われましてね。江戸時代のことですよ。そこで村人は竜を神として奉り、雨乞いの儀式を行っていたんです。笑っちゃいけませんよ。本当に竜族は存在したんですから。この逆鱗は当時村にいた竜のものだそうです。青年の格好をしていたそうですけどね。ですが雨乞いをまやかしだとして、竜の青年を殺そうとしたところ、祟りが起きて村が水没するほど雨が降ってしまった。強欲は身を滅ぼすということですな。ここまでは本に書いてあることなのですが、実は人様にはちょっと言いにくい裏事情がありまして」

 私は慌てて鞄から筆記用具を取り出し、鑓水さんの話をメモした。西河くんは平静に鑓水さんに聞き返す。

「どんな事情ですか?」
「竜を殺害しようとした村人というのはね、私の祖先なんですよ」

 私は鉛筆を取り落としそうになった。
 鑓水さんは淡々と話を続ける。

「茂蔵という名だそうで、その人が村が水没してからたいそう後悔して、神社の宮司に転職して罪を悔いたんです。そこから竜宮神社が始まったわけです。逆鱗は元々茂蔵が持っていたわけではなくて、村娘が神社に奉納してほしいと願ったので、こうして今も祀られているわけです。その村娘がどうして逆鱗を所持していたのかは明らかにされていません。そういったことがね、茂蔵つまり初代宮司ですが、彼の書き残した書物に記されているんですよ」

 茂蔵は、私の夢の中だけの登場人物ではなかった。
 彼は実在した。
 夢の続きのような出来事を鑓水さんの口から語られて、鉛筆を持つ手が震える。
 神社に逆鱗を奉納してほしいと頼んだ村娘というのは、サヤのことだ。
 あの逆鱗は那岐の手に返されることなく、時を経て、目の前にあるのだ。
 ということは……私が那岐と出会った、あの夢の中の村は、水池村。

「でも、水池村は山奥にありますよね? ここは街の中で平地だから、全然地形が違うんじゃないですか?」
「移転したんですよ。わたしが小さい頃ですね。水池村は明治頃に水が引いて人が住めるようになったのですが、何しろ車が入っていけない山奥なので、過疎化して廃村になったんです。そのときに竜宮神社もこの土地に移転したというわけです。今も村の跡地はありますよ」

 晒された事実に、私は唖然とした。
 あの村は、実在したのだ。ただし、過去の遺物として。
 展示してある鑓水さんの著作を捲った西河くんは、挿絵のページを開いた。

「このイラスト、鑓水さんが描いたんですよね?」
「そうですよ。はは、下手で申し訳ない」
「竜神の社の前に、太線が引いてありますが……これは樫の木ですか?」
「そうそう。初代宮司の書物をもとにして、水没する前の水池村をイメージして描いたんですよ。今はその場所には何もないけれどね。どうにも私の手が滑ってしまい、樫の木を上手く描けないんだ……おや、きみ、よくそれが樫の木だと知っているね」

 首を傾げる鑓水さんに、西河くんは微笑んで、こう言った。

「僕はなぜか樫の木だと知っていたんですよね。前世の記憶でしょうか」
「ははは、そうかもね。祖先が悪いことをしたから、わたしは今生で人々の安寧を祈っていますよ」

 笑い合うふたりに反して、私の背には悪寒のようなものが這っていた。
 西河くんの言った、前世の記憶という言葉が、いつまでも耳の奥に残響していた。



 学校は夏休みに入り、街は開放感に満ちた学生で溢れた。
 ある晴れた日、駅で待ち合わせた西河くんと私はバスに乗り込む。
 水池村を訪れるためだった。
 鑓水さんに話を聞いたあと、西河くんと相談した結果、実際に水池村を訪問してみようということになった。水池村はすでに廃村になっているので、正確には旧水池村という名称だ。
 調べてみたところ、バスを乗り継ぎ、日帰りで行ける場所に旧水池村は位置していた。
 竜宮神社を訪れて鑓水さんの話を聞いて以来、私の胸には確信めいたものが広がっていた。
 もうすぐ、長い年月を経て、悪夢の全容が解き明かされる。
 私がなぜあの夢を見たのか、あの村での出来事はなんだったのか。
 旧水池村に行けば、すべてが判明する。そんな気がした。
 冷房の効いたバスの車内で、私たちは並んで座席に座る。私は背から下ろしたリュックを膝に抱えた。西河くんはチノパンにパーカーという軽装に、ナップザックだ。

「もしかして、西河くんは水池村に行ったことがあるの?」

 いつ、とは聞かなかった。鑓水さんは、木の種類が樫だと言い当てた西河くんに驚いていた。もちろん私も、樫の木だと知っていたわけだけれど。
 西河くんは小首を傾げる。

「あるというか、ないね。湖があるのは知ってる」

 答えになっていない。
 ただ、夢の中の村には川はあったけれど、湖は存在しなかった。
 バスは街を通り抜け、蛇行した山道を登っていく。
 寂れた停留所の看板前で、乗客がひとり、またひとりと降り、最後は私と西河くんのふたりだけになった。
 深い森林に囲まれた山間の道路で、私たちはバスを降りた。
 ここに辿り着くまで幾つかの家屋は点在していたが、もう集落はないようだ。西河くんは地図を取り出して確認した。

「ここから少し歩くけど大丈夫?」

 ナップザックを背負い直した西河くんは、道路脇から伸びた山道に入っていく。
 車が通れる道がないので山道を歩くしかない。かなりの秘境だ。

「うん、大丈夫。水池村に行ってみたいから」

 前を行く西河くんは振り返り、くすりと微笑む。

「疲れたら、おんぶしてあげるよ」
「え……ううん、本当に平気だから!」

 川で那岐に初めて出会ったとき、おんぶしてくれたことが脳裏を過ぎる。
 遠い昔のようにも思えるけれど、つい昨日のような錯覚も覚えた。
 私は前を行く広い背を目に映しながら、西河くんに続いて山道を登っていった。
 山は清涼な空気に満ちているけれど、体を動かしているので額に汗が滲んでくる。
 やがて狭い山道から、やや幅の広い緩やかな砂利道に出た。道の両脇は雑草が毟られて綺麗に整えられている。水池村までの通り道に、古びた雑貨屋が店を構えていた。車も通れない場所だけれど、観光客が来るのだろうか。

「あそこで休憩しようか」

 西河くんの誘いに頷く。山道を登って疲れたので、休みたいと思っていたところだ。
 雑貨屋の中は薄暗く、飲み物の入った冷蔵庫が稼働していた。店の前には休憩できる床几が置かれていたので、私はそこに腰を下ろした。
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