また、恋をする

沖田弥子

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予感

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「ごめん……私の勘違いだった。あの巾着袋は流されたんじゃなくて、始めから、持っていなかったみたいなの……」

 どう捉えても、私のくだらない嘘にしか聞こえない。
 那岐は連日、川でありもしない巾着袋を捜したばかりか、ひどい痛みを堪えて逆鱗を引き抜いてくれたというのに。
 私の思い違いで那岐を振り回してしまった。
 私は罪の意識から、深く項垂れた。

「ごめんなさい、那岐……。私のせいで、逆鱗を毟らせてしまって……」

 私の脳裏を、とある考えが掠める。
 もしかして、ぜんぶ夢だったのだろうか。
 学校や両親のこと、沙耶や西河くんのこと。
 すべて、身寄りのない生贄の私が生み出した夢想で、あれは現実ではなかったのだろうか。
 私は夢と現実の境がわからなくなってしまった。
 自分は一体、何者なのだろう。どうして、ここにいるのだろう。
 混乱する私の肩に、大きな手のひらが置かれる。それは確かな質感を伴っていた。

「謝らなくていい。俺の逆鱗は婚姻の証として、そなたに授けたものなのだから」

 那岐は柔らかな微笑みをむける。彼の優しい心遣いが、乾いた体に水が染み込むかのように滔々と満たされていった。
 愚かな私を責めることすらしない那岐の心根がありがたくて、私は顔をくしゃりと歪ませた。

「ありがとう……那岐……」
「気にするな。俺は、そなたが留まることになって、実は喜んでいる」

 逆鱗を再び香り袋に入れて袂に仕舞うと、那岐は私の手を取る。夜に眠るときにそうするように、自然に握りしめた。そうして手をつないで語りながら、川辺からの道を戻っていく。

「いざ、そなたがいなくなってしまうと思うと、胸が引き裂かれるような痛みを覚えた。逆鱗を引き抜いたときの比ではなかった。だから、そなたがまだ傍にいてくれるとわかって、安堵したのだ。そんな勝手な俺に謝る必要はない」
「勝手じゃないよ。そう思ってくれて、嬉しい」

 ああ、この人はそんなにも、私を想っていてくれるんだ。
 私もまた、那岐と同じ想いだった。
 夢から醒めないことに落胆し、那岐に対して申し訳ないと思ったけれど、それでも那岐と共にいられる時間があるということに、ほっと胸を撫で下ろした。
 まだ、この手を離さなくてもいい。
 道を下れば、村の田畑が広がる。むこうには、竜神の社が見えていた。
大木の樫が不穏にざわめいている。
 私は、ふいに嫌な予感に囚われた。
 竜神の社の前に描かれた、一本の太線が脳裏に浮かび上がる。
 それは、竜神を否定しているような。
 どこで見た景色だったろう。

「……うん?」

 ふと、異変に気づいた那岐は顔を上げた。
 雨乞いの儀式が行われる広場に、大勢の村人が詰めかけているようだった。今日は儀式の日ではないのに、どうしたのだろう。
 口論しているような怒鳴り声も聞こえる。辺りに殺気立った気配が充満していた。

「何かあったのかな?」
「そなたはここで待っていろ」
「私も行くよ。だって……」

 話し終わらないうちに、広場から周囲を窺いに来た村人が、那岐と私の姿を発見して声を上げた。

「いたぞ! こっちだ!」

 すぐさま鍬や鉾を掲げた村人たちが集まり、私たちを取り囲む。皆は目を吊り上げて、威嚇するように各々が手にした武器を那岐にむけた。

「これは何の真似だ」

 私を背に庇った那岐が落ち着いた声で問いかけると、鎌を構えた茂蔵が前へ進み出る。

「竜神はもう不要だと、村で取り決めた。最後に一度だけ挽回の機会をやる。大量の雨を降らせれば、貴様の命は助けてやってもいい」

 突然の宣言に瞠目する。上目線の茂蔵の物言いは、まるで罪を犯した者へ対するようだった。那岐は驚いた顔をして、茂蔵と取り囲んだ村人のひとりひとりを見遣る。

「そのような取り決めは初耳だ。村長の了解は得たのか」

 集まった村人は、那岐を批判していた茂蔵に与する者ばかりだった。那岐を擁護してくれた老人や、村長の姿はそこにはない。村の取り決めと口にした茂蔵の主張は怪しいものだ。
 だが茂蔵は自信ありげに口端を引き上げる。

「村長に助けを求めても無駄だ。村の年寄りどもは黙らせたからな。役立たずのこいつを連れて行け!」

 瞬く間に屈強な男たちの手により、那岐の体は縄で縛り上げられる。多人数の男たちに武器を構えられては、為す術もなかった。
 私も那岐から引き剥がされて、無理やり縄をかけられる。

「やめて、やめて! 那岐!」
「ニエは関係ない。咎は俺にある。ニエを放せ!」

 だが村人たちは意に介さず、縛った那岐と私を竜神の社まで引き摺っていった。広場にある樫の巨木に那岐を力づくで押しつけ、鋼の鎖で幾重にも巻きつける。
 鎖まで用意していた周到さに、これは計画されていたものなのだと思い知らされた。茂蔵たちは那岐を捕らえるつもりで捜していたのだ。
 どうして、こんなことに。
 鎖で樫の木に拘束された那岐を、私は愕然として瞳に映した。私の腕は後ろ手に回されて縛られ、肩に食い込むほどの力で村人に押さえつけられている。

「お願い、茂蔵さん! 那岐を解放してください!」

 これは雨を降らせるための、茂蔵の芝居ではないか。
 私はそれを期待した。
 きっと、そうだ。
 村人たちだって、本当は那岐がいなければ困るはずなのだ。今までだって、那岐は村のために雨を恵んでいたのだから。五百年、そうしてきたのだから。
 茂蔵は冷酷な目で、私を見た。まるで路傍の邪魔な虫を見るような目つきだった。

「案外、その生贄を殺せば雨が降るんじゃないか? 竜神の嘆きで大雨が降るという伝承があるからな。恋仲の娘が死ねば嘆きくらいするだろう」

 集まった村人たちは一斉に冷たい瞳を私にむける。
 無機質な殺意に、ぞっと背筋が冷えた。
 罪もない虫が踏み潰されるとき、人間はこのような目をするのだと、初めて知らされる。
 これは、芝居ではないのだ。
 彼らも遊びなどではないのだから。雨が降るか否かに、彼らの生活も命もかかっているのだから。
 那岐は底冷えのする声を絞り出した。

「ニエを殺せば、おまえたちを殺す」

 男たちはごくりと息を呑んで押し黙る。那岐の漆黒の瞳が、ぎらりと黄金色に輝いた。
 人外を色濃く意識させる悋気に、村人たちは気圧される。茂蔵は自らを奮い立たせるように怒鳴り声を上げた。

「貴様が雨を降らせないからだ! 竜神のせいで、村は迷惑を被っている。今後貴様らがどうなるかは天気次第だ。雨を降らせないのなら命で償ってもらう」

 ひどすぎる。
 那岐と私の命で償わせるだなんて、勝手すぎる言い分だ。
 けれど村人たちは、茂蔵の言うとおりだと深く納得していた。
 那岐は冷静に反論する。
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