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おかゆ
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ひどい風邪をひいた。
ここ数年で、いちばんひどい。
体のふしぶしが痛い。咳はでてない。鼻水もない。
熱があった。
三十八度の熱なんて、生まれてはじめてかもしれない。
会社は休めたからいいとして、冷蔵庫の中身がしょぼすぎた。
ビールと、カニカマと、さけるチーズ。開封ずみのキムチ。
「買いにいくか……」
ゼリー飲料とか、ヨーグルトとか、バナナとか。そういうものがほしい。
実家に電話しようかなと思いかけたところで、玄関のチャイムが鳴った。
びくっとした。
「真島……」
なんで?って感じだった。
真島は、高校のころにできた友達のひとりだ。
「すごい顔してるな。畑」
「だって。俺、呼んでねーし」
「うん。呼ばれてはいないな。
今日、うちの会社の創立記念日で、休みなんだよ」
「うつるから。帰れよ」
「帰っていいの?」
「や、まって……。買いもの、してきてほしい」
「いいよ。何が欲しいの?」
さっきまで頭に浮かべていたことを、そのまま伝えたら、真島は「じゃあ、行ってくる」と言って、玄関から出ていった。
ドアが閉まると、真島が来てくれたことが、現実じゃないような気がしてきた。
「やっべー……」
俺はゲイで、真島はストレートだ。
真島は、俺がゲイだってことは知ってる。
知られたのは、高校一年の五月ごろ。入学して、すぐのことだ。
放課後の教室で、なにげない会話をしていた時に、うっかり口がすべってしまった。
中学のころにつきあっていた人のことを話していて、「年上の男の人」と言ってしまった。もしかしたら、俺が「言いまちがえた」とでも言えば、ごまかせたのかもしれない。
俺の話を聞いていた真島の顔はまじめで、笑ったり、気味悪がったりしてはいなかった。それで、つい、本当のことを話し続けてしまった。
家に帰ってから、明日になったら、クラス中に広まってたりしねーだろうなと不安になった。
そんなことにはならなかった。つまり、真島は誰にも言わなかったってことだ。
いいやつだな、と思った。
いいやつだなが、いい男だなになるまで、そんなに時間はかからなかった。
結論から言うと、俺は、苦しい高校生活を三年間すごすはめになった。
手をのばしてはいけない人のことを、好きになってしまった。そういうことだった。
真島には、いつも女の影があった。彼女が切れたことは、俺が知るかぎり、ほとんどなかったと思う。
高校を卒業して、別の大学に行ってからも、真島とは友達でいた。
俺は大学デビューした。正確には、新宿で遊ぶことを覚えた。
何人かとつきあって、別れた。どの人とも、あまり長くは続かなかった。
無理もなかった。
「いろいろ買ってきた」
「ありがとう……」
「どういたしまして。おかゆとか、食べる? 作ろうか」
「えっ? や、いい」
「遠慮するなよ」
「じゃあ、たべる」
「すぐできるよ。冷凍のごはん、ある?」
「ある……」
いつでも食べられるように、茶碗一杯分ずつのごはんを冷凍してることを知ってるくらいには、俺のことを知ってる。
だけど、かんじんなことは知らないはずだった。
「いただきます……」
真島のおかゆを食べはじめた。
やばい。「真島のおかゆ」だって。パワーワードにも、ほどがある。
ちがう。なにかが足りない。「真島のおかゆ」じゃなくて、「真島が作ったおかゆ」だ。こっちの方が、より、ありがたみが増すような気がした。
すごいものを食べてる。味は、ほとんどわからなかった。
スプーンを持つ俺の手がふるえているのを、どう誤解したのか、俺の手からスプーンをとりあげて、小さな子供にするみたいに、食べさせてくれた。
なんかもう、抵抗する気力がなかった。抵抗したいとも、実のところ、思ってなかった気がする。
一生に一度のことかもしれない。好きな人の手が持ってるスプーンから、食べものを口に入れられるなんて。
風邪をひいただけで、こんなことになるのか。もっと早くに、ひいておくべきだった。
「熱あるだろ。寝られそう?」
「うん……」
「畑がよれよれしてるのって、めずらしいな。はじめて見たかも」
「バカは、風邪ひかねーはずなのにな」
「お前はバカじゃないよ。わかってるだろ」
まじめか!と言いたくなる言葉が返ってきた。返事に困った。
うす暗くした部屋のベッドで、横になることにした。
真島は、フローリングの床に座ってる。まだ、いるつもりらしい。
「まじで、帰れって。うつるから……」
「いいのか? 帰って」
「……」
「しんどくないなら、話をしよう」
「なんの?」
「先月に、俺の部屋で会っただろ。
二刀流の人と、あれからどうなったのかなって。気になってた」
「ないって。べつに、そこまで、好きじゃなかった。
……好きになれそう、ぐらい。デートはしたけど」
「したんだ」
「うん。はた目には、男どうしで遊んでるようにしか、見えねーだろうけど」
熱で、ぼうっとしてるからだろうか。
こんなことを、真島に話すべきじゃないと思ってるのに、うまくストッパーが働かない。
あー、だめだ。よくない気がする……。
「それで? 相手はなんて?」
「なにも。俺がひいたのは、わかったはずだし。
とくに、追われたりもしなかった。だから、たぶん、おわった」
「そうか」
真島は、笑ったみたいだった。熱のせいか、目の焦点が合いづらくなっていた。とにかく、俺からは、笑ってるように見えた。
笑うと、ふだんはかっこいい顔が、とたんに幼くなる。
大学の途中までは、眼鏡をかけてた。銀のフレームと、黒のがあって、俺は銀の方が好きだった。だけど、そんなことを真島に言ったことは、一度もなかった。
言いたくても言えないことなら、これまでに、いくらでもあった。
これからも、死ぬほど増えていくんだろう。
「もう、帰っていい。ほんとに。うつったら、悪いし」
「そういうところ、常識人なんだよな。畑は。
天然なのに」
「天然じゃねーよ」
ぶっきらぼうな言い方になってしまった。
「なあ。真島」
「うん」
「俺のところに来ようと思った理由って、なに?」
「そうだな……」
考えるような間があった。
きれいな形をした目が、じっと俺を見ている。
「第六感?」
「疑問形じゃなかったら、もっと、かっこいい感じだったのにな」
「そうだな」
「そういうの、わかる人だった?」
「さあ。今までは、なかったけど。
平日が休みかもしれない友達を頭の中でリストアップしてたら、畑の姿が頭に浮かんだ。
会えれば、遊べるし。会えなくても、このへんをぶらっとしようと思って」
泣きそうになった。
俺は、熱い友情に感謝して、この、重たい荷物みたいな気持ちを捨てる努力をするべきなんだろうか。
それとも、今ここで、なにもかもぶちまけて、すべてをなくすべきなんだろうか。
どちらも選べなかった。
「おかゆ、まだ作れる?」
「いいよ。食べられるんだったら」
「たべる」
「じゃあ、作ってくる。寝てていいよ」
真島が台所に行った。
俺は、布団を頭の上までかぶった。
自分で作った暗がりの中で、ちょっとだけ泣いた。
ここ数年で、いちばんひどい。
体のふしぶしが痛い。咳はでてない。鼻水もない。
熱があった。
三十八度の熱なんて、生まれてはじめてかもしれない。
会社は休めたからいいとして、冷蔵庫の中身がしょぼすぎた。
ビールと、カニカマと、さけるチーズ。開封ずみのキムチ。
「買いにいくか……」
ゼリー飲料とか、ヨーグルトとか、バナナとか。そういうものがほしい。
実家に電話しようかなと思いかけたところで、玄関のチャイムが鳴った。
びくっとした。
「真島……」
なんで?って感じだった。
真島は、高校のころにできた友達のひとりだ。
「すごい顔してるな。畑」
「だって。俺、呼んでねーし」
「うん。呼ばれてはいないな。
今日、うちの会社の創立記念日で、休みなんだよ」
「うつるから。帰れよ」
「帰っていいの?」
「や、まって……。買いもの、してきてほしい」
「いいよ。何が欲しいの?」
さっきまで頭に浮かべていたことを、そのまま伝えたら、真島は「じゃあ、行ってくる」と言って、玄関から出ていった。
ドアが閉まると、真島が来てくれたことが、現実じゃないような気がしてきた。
「やっべー……」
俺はゲイで、真島はストレートだ。
真島は、俺がゲイだってことは知ってる。
知られたのは、高校一年の五月ごろ。入学して、すぐのことだ。
放課後の教室で、なにげない会話をしていた時に、うっかり口がすべってしまった。
中学のころにつきあっていた人のことを話していて、「年上の男の人」と言ってしまった。もしかしたら、俺が「言いまちがえた」とでも言えば、ごまかせたのかもしれない。
俺の話を聞いていた真島の顔はまじめで、笑ったり、気味悪がったりしてはいなかった。それで、つい、本当のことを話し続けてしまった。
家に帰ってから、明日になったら、クラス中に広まってたりしねーだろうなと不安になった。
そんなことにはならなかった。つまり、真島は誰にも言わなかったってことだ。
いいやつだな、と思った。
いいやつだなが、いい男だなになるまで、そんなに時間はかからなかった。
結論から言うと、俺は、苦しい高校生活を三年間すごすはめになった。
手をのばしてはいけない人のことを、好きになってしまった。そういうことだった。
真島には、いつも女の影があった。彼女が切れたことは、俺が知るかぎり、ほとんどなかったと思う。
高校を卒業して、別の大学に行ってからも、真島とは友達でいた。
俺は大学デビューした。正確には、新宿で遊ぶことを覚えた。
何人かとつきあって、別れた。どの人とも、あまり長くは続かなかった。
無理もなかった。
「いろいろ買ってきた」
「ありがとう……」
「どういたしまして。おかゆとか、食べる? 作ろうか」
「えっ? や、いい」
「遠慮するなよ」
「じゃあ、たべる」
「すぐできるよ。冷凍のごはん、ある?」
「ある……」
いつでも食べられるように、茶碗一杯分ずつのごはんを冷凍してることを知ってるくらいには、俺のことを知ってる。
だけど、かんじんなことは知らないはずだった。
「いただきます……」
真島のおかゆを食べはじめた。
やばい。「真島のおかゆ」だって。パワーワードにも、ほどがある。
ちがう。なにかが足りない。「真島のおかゆ」じゃなくて、「真島が作ったおかゆ」だ。こっちの方が、より、ありがたみが増すような気がした。
すごいものを食べてる。味は、ほとんどわからなかった。
スプーンを持つ俺の手がふるえているのを、どう誤解したのか、俺の手からスプーンをとりあげて、小さな子供にするみたいに、食べさせてくれた。
なんかもう、抵抗する気力がなかった。抵抗したいとも、実のところ、思ってなかった気がする。
一生に一度のことかもしれない。好きな人の手が持ってるスプーンから、食べものを口に入れられるなんて。
風邪をひいただけで、こんなことになるのか。もっと早くに、ひいておくべきだった。
「熱あるだろ。寝られそう?」
「うん……」
「畑がよれよれしてるのって、めずらしいな。はじめて見たかも」
「バカは、風邪ひかねーはずなのにな」
「お前はバカじゃないよ。わかってるだろ」
まじめか!と言いたくなる言葉が返ってきた。返事に困った。
うす暗くした部屋のベッドで、横になることにした。
真島は、フローリングの床に座ってる。まだ、いるつもりらしい。
「まじで、帰れって。うつるから……」
「いいのか? 帰って」
「……」
「しんどくないなら、話をしよう」
「なんの?」
「先月に、俺の部屋で会っただろ。
二刀流の人と、あれからどうなったのかなって。気になってた」
「ないって。べつに、そこまで、好きじゃなかった。
……好きになれそう、ぐらい。デートはしたけど」
「したんだ」
「うん。はた目には、男どうしで遊んでるようにしか、見えねーだろうけど」
熱で、ぼうっとしてるからだろうか。
こんなことを、真島に話すべきじゃないと思ってるのに、うまくストッパーが働かない。
あー、だめだ。よくない気がする……。
「それで? 相手はなんて?」
「なにも。俺がひいたのは、わかったはずだし。
とくに、追われたりもしなかった。だから、たぶん、おわった」
「そうか」
真島は、笑ったみたいだった。熱のせいか、目の焦点が合いづらくなっていた。とにかく、俺からは、笑ってるように見えた。
笑うと、ふだんはかっこいい顔が、とたんに幼くなる。
大学の途中までは、眼鏡をかけてた。銀のフレームと、黒のがあって、俺は銀の方が好きだった。だけど、そんなことを真島に言ったことは、一度もなかった。
言いたくても言えないことなら、これまでに、いくらでもあった。
これからも、死ぬほど増えていくんだろう。
「もう、帰っていい。ほんとに。うつったら、悪いし」
「そういうところ、常識人なんだよな。畑は。
天然なのに」
「天然じゃねーよ」
ぶっきらぼうな言い方になってしまった。
「なあ。真島」
「うん」
「俺のところに来ようと思った理由って、なに?」
「そうだな……」
考えるような間があった。
きれいな形をした目が、じっと俺を見ている。
「第六感?」
「疑問形じゃなかったら、もっと、かっこいい感じだったのにな」
「そうだな」
「そういうの、わかる人だった?」
「さあ。今までは、なかったけど。
平日が休みかもしれない友達を頭の中でリストアップしてたら、畑の姿が頭に浮かんだ。
会えれば、遊べるし。会えなくても、このへんをぶらっとしようと思って」
泣きそうになった。
俺は、熱い友情に感謝して、この、重たい荷物みたいな気持ちを捨てる努力をするべきなんだろうか。
それとも、今ここで、なにもかもぶちまけて、すべてをなくすべきなんだろうか。
どちらも選べなかった。
「おかゆ、まだ作れる?」
「いいよ。食べられるんだったら」
「たべる」
「じゃあ、作ってくる。寝てていいよ」
真島が台所に行った。
俺は、布団を頭の上までかぶった。
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