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冷静でいることは、とても難しい。
とくに、恋をしている時には。
令和四年。二月。
わたしの住む街は、マスクをつけた怪人であふれている。道ばたで会う人の口もとが、笑っているのか、引きむすばれているのかさえ、わからない。
マンションの外にあるごみ置き場に、ごみを捨てにいく時ですら、マスクをつけるようになった。
こんなふうになるなんて、誰も思っていなかったと思う。
しかたがない。なにもかも。
会社に行くと、そこでも、怪人たちが働いている。
お化粧をする女性が、明らかに少なくなった。気持ちは、わからなくもなかった。
どうせ、顔の下半分は隠れてしまって、見えもしないのだから。ファンデーションがマスクにつくのがいやという声も、よく耳にしていた。
少し前まで、大半の人がリモートワークになっていた。今は、あの頃よりも、ずっと状況が悪いはずなのに、そうなっていない。不思議だった。
お昼休みはいつも、食堂で、自作のお弁当を食べることにしていた。
「丹野さん」
後ろから、声をかけられた。どきっとした。
山縣さんだ。
「はい」
三つ年上の、男の人。部署は別で、ふだんは、ほとんど顔を合わせることはない。
わたしの上司の甲斐さんと仲がいいのは、知っていた。
懇親会とかで、たまに、二人で会話をすることがあった。知的な人という印象だった。物腰が柔らかくて、中性的な感じがした。
ひかれていた。どんな人なのか、ほとんど知りもしないのに。
わたしの、一方的な片想い。
一週間前に、わたしが休憩室で缶ジュースを飲んでいた時に、山縣さんがふらっと現れた。その時に、向こうから連絡先を聞かれた。それっきりで、とくに連絡がくることもなかったから、深い意味はなかったんだと、自分に言い聞かせているところだった。
わたしのそばに立って、見下ろしてくる。
「今日は忙しい? 終わってから、食事でも」
「……え、はい。わかりました」
返事をしてから、もっとかわいい言葉が、どうして出てこなかったんだろうって、自分にがっかりした。
「行きます」
「うん。じゃあ、終業後に」
それだけ言って、いなくなってしまった。
デートだ。こんなふうに約束を交わして、デートするのは、大学生だった頃が最後だった。三年ぶり? もっとかもしれない。
何回か、デートをした。
山縣さんは、わたしが思っていたとおりの人だった。
気が合う。話も合う。こわいくらいだった。
二回目のデートで、告白してくれた。もちろん、受けいれた。
五回目のデートで、はじめて、山縣さんの部屋に行った。
三月の、三週目の土曜日。
どきどきしていた。山縣さんも、緊張してるみたいだった。
お昼ごはんは、わたしが作った。喜んでもらえて、うれしかった。
後かたづけはしなくていいと言われた。「自分でするから」って。
リビングでくつろぎながら、話をしている時だった。山縣さんから、「大事な話がある」と言われた。
「なんですか?」
「四月から、異動になるんだ」
「えっ?」
「岡山だって。それで……。何もせずに後悔するよりも、当たって砕けてみようと思って」
「はあ……。砕けたんですか」
「どうかな。どう思う?」
「もし、わたしのことなら……。今は、がっかりしてます……」
「そう?」
「はい。会えなくなっちゃう……。
それとも、会える?
会いにきてくれますか? 会いにいってもいいの?」
「うん。会ってくれる?」
「いいですよ。岡山……」
「ショックだった?」
「はい。遠いです。国内でよかったって、思うべきですか?」
「うーん。僕も、ショックだった。栄転じゃないと思った。左遷でもないけど。
新事業の立ち上げメンバーに選ばれた。そのこと自体は、嬉しかったけど」
「さびしいです。さびしくなります」
「だろうね。僕も、そうだと思う」
「もうすぐ、いなくなっちゃうんですね……」
ただ、さびしいという思いしかなかった。
目が合った。山縣さんの目の奥に、炎を見た。
情欲の炎が、ゆらめているのを見た。
「……山縣さん」
「いいの?」
「いいです。独身の男の人の部屋に上がるって、そういうことです……」
「そうとは、限らないと思うけどね」
山縣さんがマスクを外した。わたしのマスクも外されて、キスをされた。
この時まで、食事の時以外は、部屋の中でもマスクをしていた。
長いキスだった。きもちよかった。
山縣さんは、キスが上手だった。
「うまく、できないかも……」
「はじめて?」
驚いたような顔をされてしまった。
「ううん。でも、三年以上、してない……」
「そうなんだ。丹野さんは、それなりに経験がある人だと思ってた」
「したことがないわけじゃ、ないです」
「わかってるよ」
なぐさめてくれてるみたいな言い方だった。
山縣さんとのセックスは、よかった。
三年のブランクがあっても、大丈夫だったみたい。
最後までできた。そこまで痛くもなかったし、ちゃんと感じた。
「よかったですか?」
「うん。丹野さんは?」
「……よかった、です」
「顔が、すごく赤いよ」
「はずかしくて……。わたしたち、下の名前で呼ばないような関係なのに、しちゃったんですね」
「ああ……。うん。
ゆかりさん。ゆかりちゃん?」
「呼び捨てで、いいです」
「いきなりそれは、ハードルが高いね。僕のことは?」
「山縣さん」
「えー?」
「ハードルが高いです」
「じゃあ、同じ気持ちってことだ」
「ですね」
服を着て、マスクをつけた。もう、いいんじゃないかなって、思いかけたけれど、山縣さんがちゃんとつけているのを見て、思い直した。
「月に、どのくらい会えると思いますか?」
「うーん……。一回は、必ず会いたい。丹野さんは?」
「月二回? もっと多くても、いいですけど。交通費が……」
「そこなんだよな」
「ビデオ通話とか、きらい?」
「そんなことないよ。リモートの時に慣れた。そうする?」
「週末とか、平日の夜とか……。ずっと話したいわけじゃないです。つけっぱなしにしてたら、お互いに、気配を感じられるかも」
「面白そうだね。やってみようか」
とくに、恋をしている時には。
令和四年。二月。
わたしの住む街は、マスクをつけた怪人であふれている。道ばたで会う人の口もとが、笑っているのか、引きむすばれているのかさえ、わからない。
マンションの外にあるごみ置き場に、ごみを捨てにいく時ですら、マスクをつけるようになった。
こんなふうになるなんて、誰も思っていなかったと思う。
しかたがない。なにもかも。
会社に行くと、そこでも、怪人たちが働いている。
お化粧をする女性が、明らかに少なくなった。気持ちは、わからなくもなかった。
どうせ、顔の下半分は隠れてしまって、見えもしないのだから。ファンデーションがマスクにつくのがいやという声も、よく耳にしていた。
少し前まで、大半の人がリモートワークになっていた。今は、あの頃よりも、ずっと状況が悪いはずなのに、そうなっていない。不思議だった。
お昼休みはいつも、食堂で、自作のお弁当を食べることにしていた。
「丹野さん」
後ろから、声をかけられた。どきっとした。
山縣さんだ。
「はい」
三つ年上の、男の人。部署は別で、ふだんは、ほとんど顔を合わせることはない。
わたしの上司の甲斐さんと仲がいいのは、知っていた。
懇親会とかで、たまに、二人で会話をすることがあった。知的な人という印象だった。物腰が柔らかくて、中性的な感じがした。
ひかれていた。どんな人なのか、ほとんど知りもしないのに。
わたしの、一方的な片想い。
一週間前に、わたしが休憩室で缶ジュースを飲んでいた時に、山縣さんがふらっと現れた。その時に、向こうから連絡先を聞かれた。それっきりで、とくに連絡がくることもなかったから、深い意味はなかったんだと、自分に言い聞かせているところだった。
わたしのそばに立って、見下ろしてくる。
「今日は忙しい? 終わってから、食事でも」
「……え、はい。わかりました」
返事をしてから、もっとかわいい言葉が、どうして出てこなかったんだろうって、自分にがっかりした。
「行きます」
「うん。じゃあ、終業後に」
それだけ言って、いなくなってしまった。
デートだ。こんなふうに約束を交わして、デートするのは、大学生だった頃が最後だった。三年ぶり? もっとかもしれない。
何回か、デートをした。
山縣さんは、わたしが思っていたとおりの人だった。
気が合う。話も合う。こわいくらいだった。
二回目のデートで、告白してくれた。もちろん、受けいれた。
五回目のデートで、はじめて、山縣さんの部屋に行った。
三月の、三週目の土曜日。
どきどきしていた。山縣さんも、緊張してるみたいだった。
お昼ごはんは、わたしが作った。喜んでもらえて、うれしかった。
後かたづけはしなくていいと言われた。「自分でするから」って。
リビングでくつろぎながら、話をしている時だった。山縣さんから、「大事な話がある」と言われた。
「なんですか?」
「四月から、異動になるんだ」
「えっ?」
「岡山だって。それで……。何もせずに後悔するよりも、当たって砕けてみようと思って」
「はあ……。砕けたんですか」
「どうかな。どう思う?」
「もし、わたしのことなら……。今は、がっかりしてます……」
「そう?」
「はい。会えなくなっちゃう……。
それとも、会える?
会いにきてくれますか? 会いにいってもいいの?」
「うん。会ってくれる?」
「いいですよ。岡山……」
「ショックだった?」
「はい。遠いです。国内でよかったって、思うべきですか?」
「うーん。僕も、ショックだった。栄転じゃないと思った。左遷でもないけど。
新事業の立ち上げメンバーに選ばれた。そのこと自体は、嬉しかったけど」
「さびしいです。さびしくなります」
「だろうね。僕も、そうだと思う」
「もうすぐ、いなくなっちゃうんですね……」
ただ、さびしいという思いしかなかった。
目が合った。山縣さんの目の奥に、炎を見た。
情欲の炎が、ゆらめているのを見た。
「……山縣さん」
「いいの?」
「いいです。独身の男の人の部屋に上がるって、そういうことです……」
「そうとは、限らないと思うけどね」
山縣さんがマスクを外した。わたしのマスクも外されて、キスをされた。
この時まで、食事の時以外は、部屋の中でもマスクをしていた。
長いキスだった。きもちよかった。
山縣さんは、キスが上手だった。
「うまく、できないかも……」
「はじめて?」
驚いたような顔をされてしまった。
「ううん。でも、三年以上、してない……」
「そうなんだ。丹野さんは、それなりに経験がある人だと思ってた」
「したことがないわけじゃ、ないです」
「わかってるよ」
なぐさめてくれてるみたいな言い方だった。
山縣さんとのセックスは、よかった。
三年のブランクがあっても、大丈夫だったみたい。
最後までできた。そこまで痛くもなかったし、ちゃんと感じた。
「よかったですか?」
「うん。丹野さんは?」
「……よかった、です」
「顔が、すごく赤いよ」
「はずかしくて……。わたしたち、下の名前で呼ばないような関係なのに、しちゃったんですね」
「ああ……。うん。
ゆかりさん。ゆかりちゃん?」
「呼び捨てで、いいです」
「いきなりそれは、ハードルが高いね。僕のことは?」
「山縣さん」
「えー?」
「ハードルが高いです」
「じゃあ、同じ気持ちってことだ」
「ですね」
服を着て、マスクをつけた。もう、いいんじゃないかなって、思いかけたけれど、山縣さんがちゃんとつけているのを見て、思い直した。
「月に、どのくらい会えると思いますか?」
「うーん……。一回は、必ず会いたい。丹野さんは?」
「月二回? もっと多くても、いいですけど。交通費が……」
「そこなんだよな」
「ビデオ通話とか、きらい?」
「そんなことないよ。リモートの時に慣れた。そうする?」
「週末とか、平日の夜とか……。ずっと話したいわけじゃないです。つけっぱなしにしてたら、お互いに、気配を感じられるかも」
「面白そうだね。やってみようか」
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