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第五章

第五章

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(一)闇に潜む者

沖で操業中の漁船から国籍不明の船が停泊しているとの連絡が大船渡署に入ったのは深夜の十一時過ぎ。政捜の三田川からトナティウの諜報機関員が不法入国する可能性があるので、監視してほしいと要請され、署長名で漁業組合に協力を依頼したのは今日の昼前。まだ十二時間しかたっていない。ほぼ同時刻に付近を走行していた覆面パトカーが交差点近くに停車している東京ナンバーのRVを発見した。今夜は一台ではなく、すぐ後ろに幌のついた二トントラックも停車しているという。更に十分後、船から三艘のボートが降ろされ荷物を積んでいるという続報が届き、全てのパトカーに非常灯を消し、サイレンも鳴らさず、碁石浜海岸に向かうようにとの緊急指令が発せられた。 
 海岸の手前でパトカーを降りた警官たちはボートが着くであろうと予想される地点を取り囲み、陸揚げされている小舟や岩等に身を潜めた。 
 やがてRV車から四人、トラックから二人の男が現われ堤防の石段を降り、浜に向かって歩き始めた。指揮を取っている背の高い坊主頭は十八号である。
 「そろそろこちらに向かっているだろう。照らしてみろ」
 「はい」と答えた男が瞬きをすると、両眼から光が発せられ、水平線の彼方まで煌々と照らした。
 度肝を抜かれたのは、潜んでいた警官たちである。「アッ!」と声を漏らした者も何人かいたが、波音にかき消され気づかれずにすんだ。
 手柄を立てて、政捜転出への足がかりにしようと勇んでやってきた藤崎だが、この光景を見て、震えが止まらなくなり隣にいる村木に小声で言った。
 「化げ者ですかね」
 「バカこくでねえ。宇宙に行く時代に、そったら者いる訳なかっぺ」
 村木の声も震えている。
 エンジン音が近づきボートは推測どおりの位置に止まった。木箱を積んでいる。
 「鏡」
 陸側から呼びかけた。
 「黒曜石」
 「風」
 「煙」
 確認が終わると十八号が尋ねた。
 「全部でいくつだ」
 「三十箱です」
 操縦席の男が答えた。
 「六百キロだな。よし、降ろせ」
 十八号が顎をしゃくって命令したのと、警官たちが拳銃を構えて飛び出したのはほとんど同時であった。
 「動くな! 密輸入現行犯で逮捕する!」 
 身動き一つ出来ず全員逮捕されたが、十八号が腕時計のリュウズを指でニ、三回廻したのを誰も気づかなかった。更に十八号は両腕を抱えた二人の警官を振り廻すようにして向きを変え、海に目をやると光を発し、首を上下に振ると沖に停泊していた国籍不明の船舶は闇の中へ消え去った。

 取り調べに対して、分身たちは完黙で対抗して来た。だが、いかに黙秘しようとも、木箱から出て来たのはトナティウと国名が烙印された金の延べ板である。密輸入であることは歴然としており逃れようがない。刑事たちは時間をかけてじっくり取り組もうと、聴取を一旦打ち切り、朝食を取っていたが、せっかく喉を通った食事がつかえるような電話が入った。
 県警本部長直々のもので、彼らを直ちに釈放せよと署長に命令したのである。返事はもちろん否であった。
 「現行犯逮捕すよ。六百キロの金の延べ板さも押収しています。何故釈放せねばいがんのでがすか?」
 「長官からの厳命なのだ」
 本部長は早くも切り札を出した。
 「相手はトナティウの密輸団でがんすよ」
 「首相はそれを心配しておられるのだ」
 札がもう一枚あった。十八号の腕時計は無線装置になっており、リュウズを回してジャガーに知らせたのである。
 「トナティウが復讐のため、超高速ミサイルを発射すたら、数分後には日本に核が撃ちこまれてしまう。そうなったら。おすまいだ。んだべ」
 本部長は東京生まれなのに東北弁を使った。胸襟を開いているというスタイルである。
 「釈放さすなかったら、どうなりますだ?」
 署長が尋ねた。
 「直ちに人事異動だ! 平鹿郡山内村の駐在所辺りが似合いだっぺ」
 そこまで言われたのでは従わざるを得ない。金の延べ板つきで渋々釈放した。

 悠々と警察を後にするRVとトラックを睨みつけながら、藤崎が村木に言った。
 「後さ、つけますか?」
 「尾行もしてはなんねえと、本部長は言ったそうだ」
 「そんなバカな!」
 藤崎は怒りで、はらわたが煮え繰りかえっている。
 「そんなバカなが、何回も何回も繰り返される。それが官僚組織ちゅうもんだ。だから政捜が出来…… ン…… そうだ! 三田村次官さに連絡するべえ。密輸団さを乗せたRVと金の延べ板を乗せたトラッグが東京さに向かっていると……」
 「そうしますべ! 本部長も長官も、政捜には口出し出来ません」
 「君が電話しろ。大船渡の藤崎と申しますと、しっかり売り込むだ」
 「はい!」
 チャンス到来、政捜への道が開けるかもしれない。藤崎は震える手でスマフォをプッシュした。

 同日昼過ぎ。
 タロウと中之島は、赤羽御殿の近くにある皮膚科医院の待合室にいた。患者は一人もいないのに既に三十分近くも待たされている。以前に中之島が刈谷と来た時は、こんなことはなかった。応接間に通され、お茶菓子まで出してくれた。刈谷がいるといないでは扱いに天地の開きがある。
 茶髪の受付嬢には刈谷の秘書だと名乗ったが解雇されたのが、警察に通報されたのではないかという不安が何度となくよぎった。
 「先生、まだですかね」
 中之島が待ち切れなくなって尋ねた。
 「もう少しお待ちください」
 受付嬢はぶっきらぼうな返事をして、婦人週刊誌に目を落とした。接客態度がなってない。だから暇なのだと中之島は思った。
 更に十五分ほど過ぎてから、ようやく診察室に呼ばれた。
 「お待たせしてすいませんでした。トイレに行ってたもんでね」
 かれこれ一時間近い。ずいぶん長いトイレがあるものだと二人は感心した。丸い顔に丸い眼鏡。やけに肌の白い男である。
 「この度はおめでとうございます。私も応援した甲斐がありましたよ」
 中之島が解雇されたことは知らないようだ。
 「考え事をする時はトイレには入る癖がありましてね。その間はどんなことがあっても邪魔しないようにと、妻にも言ってあるのです」
 医師が考える人になってから訪問したようだ。
 「新首相はおかしいなどと言う者がいるので、私なりに総理の談話を検証しようと思い、当選後の新聞を全部持って入ったのですよ」
 昔から刈谷を支持している。
 「で、どうでした?」
 中之島はおかしいと言うのを期待して尋ねた。
 「おかしいとこなんかどこにもありません。首相のおっしゃるとおりです。日本とトナティウはどちらも太平洋に浮ぶ国。友好条約を締結し相互防衛条約を結ぶのは当然のことです。大国の道具に成り下がっている国連などはさっさと脱退すべきです。トラカエレル総統は偉大な方です。刈谷総理も偉大です」
 今にも演説を始めそうな口調で言った。テレビを通してのマインドコントロールが効いてるようだ。国民の何パーセントかが、この医師と同じ状態になっている。タロウは寒気を覚えたが、中之島はそれを利用することを考えた。政治家秘書二十年は伊達ではない。
 「先生にそう言っていただけると心強い。刈谷に伝えておきます。喜ぶでしょう。組閣も終わって国会は明日から開会。所信表明を明後日行いますが、歴史的演説になると思います。ぜひ聞いてください」
 「休診にしても聞きますよ。生きる指針ですからね」
 医師は見え透いたゴマスリをした。
 「実はその演説をするに当たって、問題が一つあるのです」
 「どんなことで?」
 「先生もご存じの通り、刈谷の両足はひどい水虫でして……」
 「あれはひどいなどという段階を超えています。皮を剥いで標本にしたいくらいです」
 「このところそのひどい水虫菌がますます増殖したようで、痒くてしょうがないらしいのですが、今は就任したばかりなので、寝る時間もないほど忙しく、診察にも伺えません」
 医師は、何だ、そんなことかと頷いた。
 「薬ですね。出しておきましょう」
 処方箋を書いてる間、話は中断した。
 「それと、もう一つお願いがあるのですが」
 「何でしょう? 何でもお聞きしますよ」
 商人のような医師である。
 「診断書を書いてほしいのです」
 「水虫のですか? 珍しいですな」
 アトピーやデキモノのなら、嫌と言うほど書いてるが、水虫は滅多にない。
 「座っている時は靴を脱いだり、掻いたり出来るのですが、所信表明は二時間くらいかかります。その間ずっと立っていなければなりません。掻くことはもちろん触ることも出来ません。刈谷はとても耐えられないと言うのです。それで素足に下駄でやりたいと議長に申し入れたら、診断書を持って来るようにと言われたのです」
 「なあるほど。いいですよ。書きましょう。しかし下駄履きの所信表明とは珍しい。わが国初の快挙でしょうな」
 怪挙であろう。
 「カルテに書いてある絵もつけてくれませんでしょうか?」
 タロウが言った。
 下手くそな足の裏が描かれていて、水虫の箇所がボールペンでガチャガチャと強調されている。
 「絵入りの診断書とは、これまた珍しいですな。まあいいでしょう。ところで、こちらの方には初めてお目にかかりますが……」
 タロウを見ながら尋ねた。 
 「新人の秘書です」
 中之島が答えた。
 「お名前は?」
 「ロングコート・タロウと申します」
 「こりゃまた珍しいお名前で、長生きはするものですな」
 まだ五十を越えたばかりである。合計四度も珍しがった。

同日夕刻。
 三田川は政捜本部で部下からの連絡を待っていた。大船渡署の藤崎という巡査からトナティウの密輸団と思しき連中が東京方面に向かったとの連絡を受けたのは午前十時過ぎ。直ちに十台を越える政捜の車が東北道に向かい、白河のインターチェンジでUターンした捜査員が宇都宮付近で、RVと二トントラックが並んで走行しているのを発見したのは午後三時過ぎである。
 その後トラックは浦和から外環状高速道路を経て川口で降り、アジトと思われる屋敷に入ったのを確認したが、RVの方は東北道から首都高速に進入し都心に向かっているが、夕方の大渋滞にハマリ、自転車程度のスピードしか出せないようだ。
 七時過ぎ、ようやく電話が鳴った。
 「今、霞ヶ関を降りました。国会方面に向かっています」
 数分後、再び鳴った。
 「RVは首相官邸に入りました」
 三田川が受話器を置くのと同時に、また鳴った。
 「三田川君かね、宝田だよ」
 大和党の総裁である。
 「ああ、先生……」
 三田川の挨拶が待ちきれぬように宝田がズーズー弁を続けた。
 「大事件だ! 日本、いや世界を揺るがす大事件が起きるかもしれんのじゃ!」
 「刈谷首相が絡んでいませんか?」
 「よく分がったね!」
 宝田が驚きの声を発した。
 彼も何かを掴んでいるようだ。
 「先生がお作りになった政捜です。抜かりはありません」
 「頼もしい限りだ。実はその件で、大至急君に会わせたい人物が二人、私の目の前にいる。君の方が来るかい? それともこっちが行くべえか?」
 「先生の方でいらっしゃってください。私は政捜百人に非常召集をかけねばなりません」
 三十分後。三田川は宝田が連れて来たタロウと中之島から、首相は偽者で、本物は既に殺害されているという衝撃的な話を聞かされた。
 三人を見送った三田川は庁舎の十階にある次官室の窓から外を眺めた。車のヘッドライトが交錯している。徒歩で数分の首相官邸は闇に閉ざされていて見ることが出来ない。
 トナティウのトラカエレル首相とは実はテスカトリポカという悪魔で、今の刈谷首相はその分身であるというタロウの話を全て信じた訳ではない。最初は頭がおかしいのが現われたのかと思った。だがタロウの目は焦点が合っており、虚ろではない。宝田が言うのだから中之島が刈谷の秘書だったことは間違いない。
 彼らは本物の刈谷首相には水虫があるが、偽者は綺麗な足をしていると言い、診断書まで見せた。また首相や新たに秘書になった連中の手のひらには生命線が無いとも言った。ビデオで確かめたが、手のひらを大写しにはしていないので断定は出来ぬが、就任前の手には、それらしい線が走っており、首相になってからの手には欠けているように見えた。
 電話をかけてきた大船渡署の藤崎巡査は密輸団が目から発した光は水平線の彼方まで届いたと言っていた。
 これら一連の出来事を人間の行為として捉えると理解出来ぬが、悪魔の所業とするなら説明がつく。
 タロウと中之島が語り終えると、宝田がこう言った。
 「実は総理の所信表明があまりにもトナティウ寄りの場合は、クーデターを敢行すべしとの声が自衛隊の一部に出ているとの噂も掴んでいるだっちゃ。もしそんなことになったら、日本の民主主義は死滅してしまう。混乱を避けるためにも所信表明の前に一網打尽にしてほしいのだ」
 「分かりました。即刻手を打ちましょう」
 明日から通常国会が開かれ、明後日には刈谷が所信表明を行う。
 “悪魔の手先に日本を蹂躙させるわけには行かぬ。私が阻止する”
 三田川は闇に潜んでいる悪魔とその手下たちに向かって銃口を向けた。
 政(まつりごと)の中枢霞ヶ関は静かに眠っている。 

(ニ)内乱勃発

体温計の数字が三十七度を下回ったのを見て、タロウはホッと胸を撫で下ろした。
 おばあちゃんが苦しげに喘ぎ出したのは、タロウが政捜から帰宅した直後の夜九時過ぎ。急ぎ変身し、おでこを触ってみると、火のように熱く、すでに四十度を越えていた。お尻から解熱剤を入れ、頭に氷枕をしたが、容易に下がらない。全身が黄疸のため真黄色で、腹はカエルのように膨れ上がり、譫言を言っている。もう駄目かと思ったが、十一時前後からようやく熱が引き始め、零時を過ぎた今、どうにか落ち着いてきた。
 夜明けには三田川たちと、首相官邸に踏み込む手筈になっており、三時には家を出て政捜本部に向かわねばならない。それまでは寝ずに看病するつもりである。
 タロウはおばあちゃんの手を握りしめて言った。
 「帰るまで頑張ってね。戻ったら病院に連れて行ってあげるからね」
 哀しいかな、タロウは救急車を知ってはいたが利用の仕方を知らなかった。
 突然テレビからニュース速報が流れた。
 「アメリカ国防省筋によりますと、トナティウの西部地区で暴動が起き、軍隊と住民の間で激しい銃撃戦が行われている模様です。日本の防衛省筋も既にこの情報を確認し、事態の推移を注意深く見守っていると語りました」
 どうやら海の向こうでも動き出したようだ。

 実際に反乱が起きたのはそれより三時間前、トナティウ時間の午前零時である。
 宮殿の寝室で眠りについたばかりのテスカトリポカは、暴動発生の知らせに叩き起こされ不機嫌そのものであった。
 「場所は?」
 「西の基地です。穴を掘って進入したようです」
 「人数は?」
 「それが、はっきり分かりません」
 側近中の側近である一号は戸惑っていた。
 「武器を持っているのか?」
 「その様です」
 「何故だ、何故持っているのだ?」
 「それも分かりません」
 「西地区の司令官は?」
 「二十六号でございます」
 テスカトリポカは少しだけ表情を和らげた。
 「奴か、それなら心配あるまい。それに兵士全員が一斉にサーチライトを照らせば、反乱軍は動くことも出来まい」
 一号は困惑を表に出して言った。
 「ところが敵も点灯しているのです」
 テスカトリポカはせせら笑った。
 「それは目ではなく懐中電灯であろう」
 「いえ、目からなのです」
 「バカを言うな、人間にその様な光を出せるはずは無かろう」
 「出しているのは分身です」
 「分身?」
 意味が分からずテスカトリポカは一瞬真っ白になったが、次の瞬間湯気を立てて怒鳴った。
 「九号を呼べ!」
 陸軍大臣である。
 「何を監督していたのだ。この大間抜けが! カラスの餌にしてやる! 九号、鏡の中に戻れ!」
 ドジョウヒゲの軍人は一言の抗弁も許されず、死刑宣告をされた。
 「西部地区に行って来る」
 言うが早いか、飛び出した。
 超特急で西にやってきたテスカトリポカが、上空から基地内を眺めると、あちこちで銃撃戦が繰り広げられており、一号が言ったとおり移民軍の中に分身たちが混じって光を発している。裏切り者を鏡の中に戻したいのはやまやまだが、そのためには番号を言わねばならない。 三桁の最初くらいまでなら、顔と番号が一致するが二百以上になると分からない。ましてや五桁では見当もつかぬ。
 「一万から一万八千四百三十二号、鏡の中に戻れ」と叫べば五桁全員の回収が可能だが、それでは基地を奪われてしまう。また敵味方が入り乱れているため得意の黒煙攻撃も出来ない。
 神の中の神と自ら称しているテスカトリポカだが、いつものバカ笑いも出ず、為す術もなく引き返した。 
 襲撃したのは、ジョニーとイワンが指揮する西と北地区の住民千人余りと、変身したチワワ五十匹に、呼応した分身百五十人である。対する分身軍は三千数百プラス警官一千。一対四の戦いであった。
 作戦は午後十一時三十分から開始された。先ずは変身したチワワや移民たちが、あらかじめ掘っておいた穴から進入し、待機していた分身たちと合流して武器を受け取ると、二十人から五十人単位に別れ、零時ちょうどに一つの町程もある基地のあちこちで攻撃を開始したのだ。連日訓練させられていたのが役に立ち、移民軍は果敢な攻撃を展開した。戦力を分散したのは、テスカトリポカに神通力を使わせないためである。不意を襲われた司令官の二十六号は配下全員に、人影を見たらサーチライトを発射し、照らされた方もライトを出して応答せよ。ライトを発射できなければ敵なので、直ちに撃ち殺せと命じたが、移民側についた兵士たちが同じようにしたので、命令通りにしか考えることが出来ぬ分身たちは、味方だと安心したところへ集中砲火を浴びた。
 ならばと、二十六号はライトの使用を禁止し、基地内の明かりも全て消し、合い言葉で、敵味方の選別をするよう命じたが、移民側も合言葉で答えるので、反って混乱した。
自身の頭で判断する事を禁じ、命令だけに従うようにしたことが裏目に出たのである。
 仕方なく、二十六号は合い言葉の使用も禁じ、自分が全ての命令を出すと指令を出した。彼は戦いのプロフェショナルである。第一次、第二次世界大戦。朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争などで、数々の功名を上げ、四桁からのし上がって来たゲリラ戦の名人である。敵がどこでどう展開しているのかを巧みに読み取り、兵士たちを将棋の駒のように動かしたので、攻守が逆転し、移民側が劣勢になってきた。
 しかし人生は分からない。一寸先は闇である。
 さて、これからという時、あろうことか、二十六号は突然大空を舞って、飛んで行ってしまったのだ。緒戦の劣勢を目の当たりに見たテスカトリポカが、態勢が立て直りつつあることに気づかず、怒りの余り鏡の中に戻してしまったのである。二十六号も九号同様、カラスの餌となる運命だけが待っていた。
 テスカトリポカは代わりに、空中を飛ぶことが出来る三号を派遣した。だが現場の兵士たちは二十六号から、自分の命令だけに従うようにと言われたままであり、正式に解除されていない。そのため三号からの命令は容易に伝わらず、司令官不在と同様になった分身軍はまたもや混乱し、移民側が再び攻勢に転じた。
 「この分なら、朝までに落ちるな」
 ジョニーが小銃を撃ちながら言った。
 「ここで勝つだけじゃなく、宮殿の兵力をこちらに引きつけねばならない。親衛隊は動くだろうか?」
 とイワンが言った。
 海岸線の要所要所に少数の守備隊はいるが、大きな基地は西と南。それに宮殿の三ヶ所だけで、核ミサイルのある宮殿の兵力を出来るだけ多く西に移動させるのがジョニーとイワンの役目である。
 「動かなければ、動かしてやるまでだ」
 とジョニーが言った、
 「妙案があるのかい?」
 イワンの問いに、ガムを膨らませてから答えた。
 「考えている最中だ」
 「テスカトリポカは宮殿の兵力は割きたくないだろうね。来て欲しくない南だけ動いて、宮殿は動かないということも考えられる」
 「南はサントスが全力で押さえてくれるだろうし、距離もあり、山もある。心配はない」
 ジョニーがそう言った時、拡声器からガラガラ声が届いた。
 「寝返った諸君に告げる!」
 臨時司令官の三号である。
 「親衛隊を初めとする我がトナティウの精鋭五千が、現在こちらに向かっている。反乱軍の命運はこれまでである。今なら裏切りは問わない。トナティウの旗の下に帰るのだ。援軍が来てからでは遅すぎる。カラスの餌になりたくなければ、直ちに投降せよ」
 五桁の分身など、ちょいと脅しをかければ、震え上がって降伏すると思っているようだ。
 「来てくれれば願ったり叶ったりだが、本当に向かっているものなら、わざわざ敵に知らせるものか。あんな脅しに乗ってはいけませんよ」
 とイワンが傍にいる分身に言うと、
 「何を言われても大丈夫です。決して屈しません。私たちはもう人形ではなく、誇りを持った人間です」
 と答えて、軽く微笑んだ。
 するとイワンの飼い主であるブブーノフが、ヨダレを垂らしながら相槌を打った。
 「そうだ、誇りだ、誇りだ。誇りがいちばん大事なのだ。その誇りを失った時、おれはアル中に、いや、アル中になったから誇りを失った。…… いやいや誇りを失ったからアル中に…… 今となっては、どちらが先か分からん。ともかく誇りを失ってはいかん。誇りさえ持っていれば、おれのようにはならん」
 ブブーノフの中毒症状はかなり軽減してはいたが、まだ完全には覚醒しておらず、虚ろな目をして小銃を抱えている。龍頭蘭中毒は痩せてくるのが特徴なのだが、彼の場合は、何故か益々脂肪がついてしまい、体重は百五十キロを超えていた。若い頃ファシスト打倒のために地下組織に加わったこともあるので、戦場 に行けば当時を思い出し、正気に戻るかもしれないと考えたイワンが連れて来たのである。
 「そうだ、誇りだ!」 ジョニーが突然言った。
 イワンが訝る。
 「テスカトリポカは自分を最高神だと言ってるだろう。その誇りを傷つけて、親衛隊を引き出してやろうじゃないか」 
 いたずら小僧のような顔をしてニヤリと笑った。
 また三号の声が響いた。
 「今一度告げる。援軍が来てからでは遅すぎる。人間共の甘言に騙れた諸君。早く戻るのだ。直ぐに降伏すれば罪は問わない。援軍が来てからではカラスの餌だ」
 ジョニーがやおらハンドスピーカーを抱え、マイクを握って言い返した。
 「この放送はデタラメである。親衛隊は来ない。テスカトリポカは我が身を守ることしか考えていない最低の神である。親衛隊も他の部隊も決して派遣しない。分身諸君、君たちこそ武器を捨てて降伏しなさい。もう一度言う。テスカトリポカは最低の神である」
 「黙れ人間! 貴様こそデタラメを言うな。援軍は既に宮殿を出発している!」
 両者の低次元な扇動合戦がしばしの間続いたので、ちっとも好転しない戦況にイライラしていたテスカトリポカの耳にも届いた。はるか離れた基地からの声だが、神の身故、聞こえてしまったのである。超能力もいいことばかりとは限らない。
 援軍を派遣すべきか、思案しているところに、こんなアジである。完全に逆上し、一号に命令を下した。
 「南と宮殿の部隊を全員西に派遣しろ! 親衛隊もだ」
 「それはいけません。ここが手薄になります」
 「最低の神等と言われて、黙っていられるか! おれ様はかつてヨーロッパの神々から、神の中の神と崇められた者ぞ。なのに、人間にバカにされたのだ」
 「ここを襲われ、核や超高速ミサイルを奪われたら、何とします!」
 「おれ様一人でやっつけてやる」 
 「それは無理です。今のあなた様には、大軍を破壊する力はございません」
 一号ははっきりと言った。脅威を誇った破壊力は四百八十余年前、ケツァルコアトルに脳の中枢を傷つけられて喪失し、今では鏡から黒煙を出すことくらいしか出来ない。 
 「半分、せめて半分は残しましょう!」
 滅多に反対しない一号が必死に説得したので、テスカトリポカは渋々ながらも同意した。

 西の基地で戦闘が始まる少し前、宮殿の方でもハオハオ率いる二千人の一団と百匹の神の使いが周囲を取り囲んでいた。サーチライトが等間いるが、同じ場所しか通らないのでそこを避ければ見つかる心配はない。だが彼らは素手であった。武器と呼ばれるものを持っているのは、夫の形見である日本刀を腰に下げたナタリー一人だけである。
 「隊長、武器はくるんやろな?」
 元社長がハオハオに尋ねた。
 「大丈夫、分身の皆さんが必ず届けてくれます」
 「ほんまかいな。この間演説ぶった神の使いもおらんし、お前らは信用でけん」 
 自分が信用出来ないことをしてると人も信用出来ない。
 「彼は重要な役目についており、直ぐ近くにいます」
 ハオハオが言ったとおりゴエモンはポチとキッドの三匹で、付近の穴に隠れていた。変身はしていない。
 突然、元社長の目の前の叢が隆起を始めた。
 「なななな、何やこれは!」
 「シッ、静かに」
 思わず大声を出した元社長の口をハオハオが押さえた。
 叢が二つに割れ、その間からドロだらけの顔が出て来た。
 「あなたは!」
 和雄がそう言うと、ニッコリと笑った。両国橋会議に出席した分身である。
 「武器をお届けにまいりました」
 穴から伸ばした手には小銃が光ってる。
 「穴堀りはこっちの特許なのに……」
 ハオハオが思わず口走った。
 「皆さんは穴掘りが得意なのですか?」
 和雄が尋ねた。
 「ええ、まあ…… さっ、武器を配りましょう。トンズー」
 適当にごまかした。
 武器庫は塀の向こう五十メートルほど先にあり、床からトンネルを通したのである。一万五千三百八十九号は銃や軽機関銃、手榴弾、拳銃、軍刀、弾薬などをまるで手品のように出してくる。穴の中に大勢の分身がいて、バケツリレーの要領で送っているのだ。
 レオ老人は十字を切り天に向かって「主よ、許したまえ」と祈り銃を受け取った。

 四号が指揮を取る装甲車と戦車部隊、兵員輸送車が宮殿から西の基地を目指してから十数分後、宮殿の上空を西から東に向かって緑色のサーチライトが走った。突入せよとのサインである。
 「同志諸君朋友諸君! 戦闘開始!」と言ってハオハオが立ち上がり、合図の銃弾を空に向かって放つと、寅吉が「行くぞっ!」と叫んで真っ先に穴から飛び出したので、和雄が慌てて後を追った。
 三沢が、
 ナタリーが、
 レオ老人が、
 元社長が、
 走る、走る。
 雲の合間から漏れる月光と、回転するサーチライトを避けながら、神の使いと目覚めた分身、人間の群れが、悪魔の館を目指し進軍を始めたのだ。

 夜間のため分からないが、南の基地はトナティウ富士が最も美しく見えると言われている場所で、前方を川、後方を海に囲まれ、それが堀の役目をしていた。
 戦いが始まる二時間ほど前のことである。基地の一隅にある水門から、前後をロープで繋いだ五隻のボートがプカプカと流れて来た。人は乗っていないが、シートが被せられた荷物で満載になっている。サーチライトは上空と海上だけを照らしており、地上と川に対してはまったく無警戒であった。外敵には備えていたが内なる人間は龍頭蘭の毒素に侵されているため反乱を起こすなどとは思っていなかったのだ。
 闇を縫って、十以上もの顔が水中から現われると、ボートの縁をつかみ、基地とは反対側に引っ張って行った。全員犬掻きだ。
 荷物の中身は銃や弾丸で、移民軍に呼応している分身たちが流したのだ。陸に上がった若者たちは、無言のうちに闇の中へと持ち去った。

 南の基地から三台の装甲車と五台の人員輸送車が西の基地を目指して出発し、鉄橋に掛かろうとしていた。装甲車や戦車が通れる頑丈な橋はここだけである。他は木材だけで出来ており、乗用車以上の重さには耐えられない。この基地はトナティウ誕生以後に建設されたもので、核開発に金を使いすぎたため予算が足りなかったのだ。
 一台目は橋の手前でパッシングをしてから通過し、二台目も同じようにして渡ったが、三台目は何もせずに橋の真ん中までやってきた。その瞬間、大音響が轟き鉄橋は噴煙と共に真ん中から崩れ落ち、装甲車は頭から川の中に飛び込んで行った。
 サントスが飛び出しラッパを吹き鳴らすと、それまで身を伏せていた移民たちが飛び出し、人員輸送車と溺れている分身目掛けて、銃弾を雨アラレと撃ちまくった。
 基地を囲んだのは千人の人間たちと、変身した五十匹のチワワである。人員輸送車に乗っていた分身の多くが移民軍の側に走り、分進軍に銃撃をくわえた。思わぬ展開に分身たちは城内に逃げこもうとしたが、城門は堅く閉ざされたままで、分身たちの多くは銃を捨てて降伏した。人員輸送車に乗っていた武器が配られ、移民軍全員にようやく銃器が行き渡った。
鉄橋の破壊により、基地内の戦車や大型車は出動出来なくなり、西の基地や宮殿に行くには海岸に沿って、普通車で迂回するか、トナティウ富士を徒歩で超えていくしか方法がなくなった。
 サントスが再びラッパを吹くと、ピタリと攻撃が止んだ。
 西は宮殿の兵力を引きつけるのが作戦だが,南は兵力の貼り付けが目的なので、出撃は不可能ということを敵に知らせれば、当面は十分である。
 不意打ちに驚いた分身側もホッとしたのか、それとも態勢が整っていないのか、反撃して来ない。
 サントスはその間に夜陰を利用して、五つある木製橋の周辺に、移民軍を二百人単位で集合させた。敵の兵力は警官を加えると四倍だが、分身たちが橋を通過する前に狙い撃ちにすれば、兵力の差を補えると判断したのである。

 宮殿ではハオハオの率いる一団二千人が、西の基地と同様兵力を分散し、広場のあちこちで分身軍と対峙していた。
 半数の五百が、西に移動したとは言え、親衛隊には精鋭が揃っている。それに加えて三千五百人以上の正規軍と、非常召集された警察官二千人もおり、三つの基地の中では最も強力な部隊である。だが、どこかまとまりに欠けていた。原因はテスカトリポカからの指令がプッツリと途絶えてしまったことにあるようだ。そのため互角の戦いとなって、一進一退の攻防を続けていた。
 小銃を撃っていた寅吉が和雄に言った。
 「いやだ、いやだ。漁師はやはり魚を相手にせねばいかん。人間や人間もどきと戦うのは、今回限りでしまいにしよう」
 「そうしよう、銃は網と違って肩が凝る。この戦いに勝利したら、トナティウを軍隊のない国にしたいなあ」
 和雄が答えると、後ろで聞いていたレオ老人が言った。
 「軍隊のない国か、理想だが、そこに行くためにはまだまだ多くの戦いをしなければならんだろう」
 「まだ血を流せと?」
 「テスカトリポカは人間の皮を脱ぎ、悪魔の正体を現したから分りやすい。だが世界には人間の皮を被った悪魔がまだまだいる。そやつらは人間の皮を被ったままだから始末に悪い。中には、自分は人間だと思い込んでしまっている悪魔もいる。わしの両親も兄弟も、そして子供たちまでも戦争で死んだ。わしは家族を何度も失った。悲しみの涙を何度も流した。だから戦争のない世の中を作ろうと夢見てきたが夢の数だけ挫折を味わった。
 そしてトナティウに来た。新しい国なので夢が実現出来るかもしれないと思ったのだ。だがトナティウは世界の滅亡を図る悪魔が支配する国だった。そして思った。平和は戦って勝ち取るものだと。世界中にいる悪魔を倒さねば、真の平和はやってこないと。この戦いに勝利したら、トナティウは自由を奪われた人々の側に立ち、真の平和を築くために、悪魔や独裁者が存在する限り戦い続けると宣言すべきだ」
 青年のようなキラキラした瞳で老人は語った。
 その時、ダダダダダダダダダダダ……というすさまじいばかりの機銃掃射の音がして、皆慌てて身を潜めた。 
 ようやくそれが止んだかと思う間もなく、黒ずくめの一団親衛隊が突入してきて、白兵戦が始まった。名花ナタリーラッセルは腰の日本刀を抜き放つと、襲い掛かってきた兵士を「仇!」と日本語で叫んで、亡夫譲りの袈裟掛けで斬り倒し、ブロンドの髪と青く光る刃を闇の中に躍らせた。

 戸村は薄暗い裸電球の下で、外から聞こえて来る喚声や銃弾の音をボンヤリと聞いていた。結果がどうであろうとも、自分の命はこれで終るであろう。連れ出しに来るのは悪魔だろうか? 人間だろうか? どちらが来ても処刑されるに違いない。同じ裁かれるなら、せめて人間たちに裁かれたい。戸村はそう願っていた。
 だがやってきたのは、人間でも悪魔でもなかった。
 「博士、博士!」と言う声に続いて、鉄の扉が開くと、三人の若者が姿を現した。ゴエモンにポチ、キッドである。二人はロングコート、一人はショートパンツ。戦場には最も不向きなスタイルだ。
 ポチとキッドが見張りに立ち、ゴエモンが「お迎えにまいりました」と言った。
 「君たちは?」
 「神の使いです」
 「冗談を言ってはいかん。私は悪魔に魂を売った男。神が迎えになど来るはずがない」
 「その悪魔退治に協力していただきたいのです」
 「私には腕力もなければ体力もない」
 「その代り知力がございます」
 「大量殺戮兵器を作る知力がな」
 戸村はニヒルな笑いを浮かべた。
 「その殺戮兵器を破壊してほしいのです」
 「それはだめだ。うかつにいじると放射線が漏洩する」
 「超高速ミサイルを発射するためのコンピュータは?」
 「あれは機能の一つや二つが壊れても、バックアップが働いて、作動するようになっており、発射出来ぬようにするためにはいくつもの回路を遮断せねばならぬ」
 「それが出来るのは考案者である先生だけです。悪魔の目的はこの世の破壊。発射ボタンを押すかもしれません」
 戸村の顔色が変わった。
 「そ、それだけはいかん。押させてはならぬ。か、肩を貸してくれ! 宮殿に行こう。装置を破壊しよう」
 小枝のようにやせ衰えた両腕を床につけ、これまたやせ衰えた両足で必死に立ち上がろうとしている。
 牢の外には武器を奪われ、縄で結わかれた監視の兵士が二人と、半分齧った玉葱が三個転がっていた。

 テスカトリポカの寝室では、二人の神が対決し、互いに荒い息を吐いていた。刃をあわせること数十合、決着がつかぬまま膠着状態が続いている。テスカトリポカからの指令がないのは、このためである。
 西の基地から戻ったテスカトリポカは一向に好転せぬ戦況に苛立ち、超高速核ミサイルを発射させてしまおうと考えたのだが、着衣が汚れているのに気づき神の権威に関わると、別の衣に着替えているところへケツアルコアトルが飛び込んで来たのだ。
 「アッハッハッハッハッハッ…… 久しぶりだな、テスカトリポカ。一騎打ちをいたそうではないか」
 自分の専売であるバカ笑いを先にされて、カチンときたテスカトリポカは「望むところだ。貴様を倒してから、この世に核の雨を降らしてやる。アッハッハッハッハッハッ……」と元祖バカ笑い返しをしてようやく調子を取り戻した。
 「一号、おまえは戦場で指揮を取っておれ」
 心配する一号を外に出し両者の対決となったのだ。
 テスカトリポカは広場に面した窓を背にし、ケツァルコアトルは廊下に続くドアの前に立っている。
 剣だけで勝負はつきそうにない。ケツァルコアトルは窓が開けば風を起こして、頭の羽根を飛ばし、テスカトリポカの目を射るであろう。一方のテスカトリポカはドアが開けば黒煙を吐き出し、ケツァルコアトルがむせている間に発射装置まで飛んで行き、迷うことなく発射ボタンを押すことであろう。互いにそれをさせまいとしているのだ。

 ゴエモンたち四人は銃火を避けながら広場を横切り、宮殿に向かっていた。ポチとキッドが戸村を支えている。
 「ウッ!」
 突然、キッドが胸を押さえて蹲った。
 「大丈夫か!」
 戸村が叫んだ。
 「大丈夫、おれにかまわず……」
 押さえた指の間から鮮血が流れ落ちた。
 「何を言うのだ。さっ、掴まれ!」
 それまで支えられていた戸村が逆にキッドを支えた。
 宮殿入り口はまだ遠い。

(三)それぞれの戦い

 時刻は午前四時を回ったばかり、ようやく明け始めた空に国会議事堂が浮かび上がってくると、立ち込めた朝靄を払うかのように「政捜」の腕章をつけた男たちが現われ、官邸の周囲百メートルに渡ってロープを張り巡らし立ち入り禁止にした。本邦初! 首相官邸の手入れである。
 黒塗りのリムジンが横付けにされると、三田川捜査次官、宝田東洋大和党総裁、中之島元首相秘書、それに変身したタロウが降り立った。
 チャイムを押すと、直ぐに「どなたですか?」という男の声がインターホンから聞こえた。もう起きてるようだ。
 「政財官犯罪捜査庁です」
 「せいざい? こんな時間に非常識な。アポを取ってから、出直しなさい」
 男は高飛車に言った。政捜を知らないようだ。
 「そうじゃありません。家宅捜査です」
 「家宅捜査? ここは首相官邸だよ。何か勘違いしてるのじゃない」
 「いいえ、令状もあります」
 「ちょ、ちょっと待ってくれ」
 うろたえながらインターホンを切った。
 タロウはやり取りを聞きながら、亡き一郎と節子の顔を思い浮かべていた。自分をこよなく愛してくれた人間は、二人を置いて他にはいない。テスカトリポカが蒔いた欲望の種を呑み込んだため惨めな最後を遂げた義父母の敵討ちである。どんなことがあっても悪魔の正体を暴かねばならない。受けた恩は返すのが忠犬ハチ公以来伝えられてきた犬の道である。
 “見ててね。おとうちゃん、おかあちゃん”
 二人にそっと呼びかけた。
 タロウたちを同行したのは三田川の判断である。裁判を通じ、証人尋問等の手続きを経て糾弾するのではどうしても時間がかかる。たとえ拘置所にいようと、偽者であることが歴然としていようと、判決が確定するまでは国民から直接選ばれた“首相”である。それでは国が動かなくなるばかりか、トナティウ側がどのような陰謀を企むか分らない。今日のうちに証拠と証人を並べ、偽者であることを認めさせようと考えたのだ。

 トナティウの一部で反乱が起きているとマスコミが伝えたのと前後して、本国からの連絡が途絶え、一睡も出来ずにイライラしているところに、政捜が来たとの知らせを受け、さしものジャガーも面食らったが、直ぐに冷静さを取り戻し、ニュースを聞き、部下共々アジトからタクシーを飛ばして来た十八号も含めて、分身を全員官邸の執務室に呼んだ。
 妙に蒸し暑い。ジャガーはスーツを脱ぎ、ソファーの背にかけ、カーテンの隙間から外を眺めながら言った。
 「あれは大和党の宝田……」
催眠術も鼻薬も効かなかった男である。
宝田は清濁併せ呑むタイプで、袖の下もかなり長く、潔白な男ではない。だが、ことイデオロギーに関しては決して妥協しない頑固な一面を持っていた。それ故に熱烈な保守層の支持を得ている。
「もしかすると、全てが露見したかもしれん。トナティウで内戦が始まったようだ。あちらはテスカトリポカ様がおられるから心配はないが、我々はたったの十八人。地下に潜伏しテスカトリポカ様からの指示を待つことになるが、逃れる前にミサイルを発射させる。何処に飛んで行こうが一向にかまわん」
 壁に小さな影が映った。マーガレットである。一隅に悠然と横たわった。 
 ジャガーは三千六号に言った。
 「いざという場合人質にする。貞子と冴子を呼んで、政捜が大和党の宝田と組んで、自分を追い落とすための陰謀を企んでいると伝えろ。お前は最後まで刈谷を演じ切るのだ。いいな」
 三千六号は受話器を取った。二人は公邸にいる。
 官邸と公邸は同じ敷地内にあり、入り口で待たされている三田川やタロウたちには内部の動きは見えない。
 次は十八号に命令した。
  「適当な理由をつけて、女たちを官邸の二階に集めておけ。一人も外に出すな」
ジャガーは腕の時計を示し更に続けた。
 「もしリューズが鳴ったら、壁の向こうの隠し部屋に入れろ」
 そこはクーデターなどで官邸が襲われたとき、一時的に身を隠すために作られた部屋で、忍者屋敷のように、壁の一部が扉になっており、少数の者にしか知られていない。
 「もう一度リューズが鳴ったら、先ず一人を殺して広間に捨てろ」
 「これ以上死者を出したくなかったら、脱出させろというわけですね」
 十八号はニヤリと笑った。
  「政捜が言う通りにしなかったら、また鳴らす」
 「二度でも三度でもお鳴らしください。その度に違う殺し方を致しましょう」
 目に狂気が宿っている。
 女性五人が官邸に移ったことを確認してからジャガーは十五号に言った。
 「政捜の連中を中に入れろ。但し、なんの捜査か知らんが始める前に責任者が首相にきちんと説明をしろと言うのだ。いいな」
 ジャガーは、カーテンを全開にして外を見た。十重二十重に囲まれていて、アリの這い出る隙間もない。
 数分後、捜査官たちが邸内に入るのを確認したジャガーはスーツを着ようとして、やけに軽くなっていることに気づいた。
 だがジャガーにそれを探す暇はなかった。三田川たちが上がって来たのだ。
 タロウは拳銃をくわえたマーガレットがチョコチョコと遠ざかって行くのを横目で見ながら執務室に入った。
 「やあ!」
 と言いながら、三千六号に手を挙げたのは宝田である。
 「何故、君が?」
 首相になるまでは年長者を立てて、宝田さんと言っていたが、当選後は見下してクン呼ばわりである。主義こそ違え刈谷は不遜な男ではない。こいつは偽者だと宝田は確信した。
 「立会人だっちゃ」
 軽くいなした。
 「そんな者は認めぬ。おまけに中之島まで、何故だ?」
 三千六号が色を為して怒ったが、三田川は無視して言った。
 「私は捜査次官の三田川と申します。こちらは次官補のロングコートです。本名は言えません」
 タロウを紹介しながら、三田川は三千六号ではなく、ジャガーに目をやった。
 ジャガーは三田川を睨みつけながらも、次第に視線をタロウに移して行った。
 “こいつ人間じゃない。かと言って、我々分身とも違う。動物の匂いがする。何者なのだ?”
 「ロングコートが首相と、和泉さんとおしゃいましたね。第一秘書さんにお尋ねしたいことがあるのです。お座りください」
 三田川がその場にあった椅子に二人を座らせたのと前後してドアが開き、貞子と冴子が、化粧気のない顔で入って来た。冴子はくるぶしまで隠れるロングスカートをはいている。
 タロウは拳銃を隠してきたマーガレットにウインクをしてから、ゆっくりと切り出した。
 「トナティウからの金の密輸入とか、スパイの密入国とか、いろいろありますが、お二人に最もお伺いしたいのは三件の殺人事件についてです」
 三千号六号の後ろに立っていた貞子と冴子が、殺人と言う言葉に思わず顔を見合わせた。

 サントスは静かにその時を待っていた。基地内に軍隊を閉じ込めること四時間、初期の目的は達した。あとは総攻撃あるのみだ。
 彼はメキシコの生まれ。学名どおりのカニスアメリカヌス(アメリカの犬)である。自身も、自分こそ始祖テチチの直系であると、密かに誇っていた。 それ故に、テスカトリポカがトラカエレルを名乗ったり、新島をトナティウと名づけたことに誰よりも怒りを覚えていた。
 トラカエレルとはメシカ帝国で三代の王に仕えた名宰相の名であり、トナティウはメシカの言葉で太陽を表す。
 しかしテスカトリポカに悪用されたことにより、トラカエレルには独裁者のイメージが、またトナティウは大地を育む陽光ではなく、地獄を照らすサタンの光を思わせるような言葉になってしまった。
この国を本物の太陽の国に変えねばならない。メキシコの誇りであるトラカエレルの名誉を回復せねばならない。学究肌で無駄吠えもほとんどしない静かなチワワだが、身体の中には燃え滾るメキシカンの血が流れていた。
 突然、基地のあちこちで大音響が響き、同時に火柱が上がった。複数の武器庫が爆発したのだ。それと同時に、西から東に向けて緑色の光が走った。移民軍に呼応している兵士から、攻撃せよとの合図である。
 サントスが進軍ラッパを高々と吹き鳴らすと、銃口が一斉に火を吹いた。
 基地内の兵士たちは武器庫の爆発に慌てふためいていたところに攻撃を受け、算を乱して逃げ出し、移民軍は一気に五つの橋を渡った。
 南の司令官はその時、テスカトリポカに代わって指揮を取っている一号から「貴様はクビだあ!」と電話で怒鳴られた直後であった。西に半数の部隊を移動させるつもりだったのが基地内に閉じ込められてしまい、何度もせかされたにも関わらず、動けなかったからである。クビ、即ちカラスの餌になることだ。そこへ反乱軍が突入して来たのである。司令官は恐怖に震える子羊でしかなくイの一番に降伏した。そのため指揮系統が崩壊し、分身軍はあっけないほど簡単に制圧されてしまった。

 B国の元皇太子夫妻が、疲れを癒している移民軍兵士たちの間をにこやかな笑みを浮べ、労いの言葉をかけながら回っている。さすがは挨拶と激励のプロ。殺伐とした人々の心を二言三言の会話で。春のような穏やかさに変えていた。
 「ウオオオ、オーン!」
 夫妻の耳に微かな遠吠えが聞こえ、声のした小高い丘に目をやると、小さな犬の姿を辛うじて確認することが出来た。
 「ウオオオ、オーン!」
 サントスは今一度勝利の雄叫びを挙げたが、その姿は始祖テチチに生き写しであった。

 南は落ちたが残る二ケ所は未だに激しい攻防を繰り返している。
 ジョニーとイワンが指揮を取る西の基地では宮殿からの援軍が到着以前に壊滅させようと懸命の攻撃を続けた結果、基地内の殆どを制圧し、分身軍の兵力は司令部に逃げ込んだ五百人ほどになっていたが、移民側も三百人以上の犠牲者を出し、兵力は七百前後に減っていた。
 一方分身軍は、ようやく指揮権を確立した臨時司令官三号が、起死回生の名案は無いものかと思案していた。援軍が来れば必ず逆転出来る。それまでは何としても持ち堪えねばならない。
 “そうだ。あれをやってやろう。敵は驚き、味方は士気を鼓舞するに違いない”
 個人技が得意な三号は、自分にしか出来ないパフォーマンスを思いつき、二階のバルコニーから敵陣を眺めた。標的に選んだのは先頭で指揮を取っている二人の男である。
 「人間共、これを見よ!」
 と叫ぶやいなや、両手を挙げ、勢いよく空中目掛けて飛び上がり、三回転宙返りをした。呆気に取られた移民軍は,銃を撃つことも忘れて眺めている。
 三号は奇声を発しながら、イワン目掛けて一気に下降すると、身体を抱き上げ、再び舞い上がった。全ては瞬時の出来事である。イワンは声すらでない。そのイワンを三号は空中でほうり捨てたのである。きりきり舞いをしながら落下した。
 「イワン!」
 我に返ったジョニーが悲鳴に近い叫びを挙げながら駆け寄り、抱き起こしたが頭から血を流し既に息絶えていた。
 イワンの身体がたちまち元のチワワに戻っていく。それを見ていたブブーノフが焦点の合わぬ目でノロノロと近寄ると、ジョニーから奪うようにして、遺体を抱き上げた。
 「誰が! 誰が? 可愛いイワンを!」
 ブブーノフの問いに、ジョニーは上空を指差した。
 「あいつだ、悪魔の手先だ!」
 「お、降りて来い! 悪魔!」
 ブブーノフが叫び、ジョニーが銃を乱射した。だが三号は宙を舞いながら、巧みに弾丸を避け、テスカトリポカ譲りのバカ笑いをした。
 「アッハッハッハッハッハッ…… 驚いたか、人間共! 今一度見せてやる!」
 今度はジョニー目掛けて急降下したが、寸前でブブーノフが飛び掛かったため、腕は空を切り、しがみついた巨漢と共に舞い上がらざるを得なかった。
 「イワンを返せ」
 ブブーノフは喚きながら足を三号の腰に巻きつけ、両の手で首を締め上げた。
 「く、苦しい、止せ!」
 三号は空中にいることをつい忘れ、前方に伸ばしていた腕を曲げ、ブブーノフの手を引き離そうとしたからたまらない。たちまち失速し、地面に頭を叩きつけ三号は即死したが、ブブーノフは三号の上に覆いかぶさり、苦しい息を吐きながら、「イ、イワンを返せ!」と言って、息絶えた。
 ジョニーが怒りに震えながら叫んだ。
 「突撃ィ!」
 数十分後。司令官を失った分身たちの殆どは抵抗することもなく降伏し、西の基地も南同様他愛無く陥落した。

 「この人、ご存知ですよね」
 タロウは一万八千三号の写真をジャガーと三千六号に見せた。平泉前沢インターチェンジの料金所で見つかった二枚の写真である。
 「さあ、知りませんねえ」
 ジャガーは自身も写っている写真を見ながら首を捻った。
 「ご存じない? でも隣にいるのは和泉さんじゃありませんか?」
 「これが…… 私ですか?」
 写真のジャガーはサングラスをかけている。
 「とぼけるつもりですか、まあ、いいでしょう。写真のことはあとでお聞きするとして、この男はその後殺されました」
 「それはお気の毒に」
 「直接手を下したのは、そこにいる背の低い方です」
 いきなり指差されて、宅急便は驚いた。
 「お、お、おれが……な、何で?」
 「見張りをしていたら、逃げ出そうとしたので刺した。確かそうでしたね」
 ジャガーは相変わらず平然と構えているが、内心では宅急便同様驚いていた。
 “何故、そこまで知っているのだ?”
 「殺された男はどこをどう調べても、身元が判明しませんでした。密入国では分かるはずがありませんよね」
 貞子と冴子がまた顔を見合わせた。
 「この男は一万八千三号と呼ばれていたのでしょう。位はかなり下のようですね」
 ジャガーは腕時計のリュウズを回したが、バンドが切れかかっているのを見落とした。
 「その一万八千三号が持っていた一枚の写真が何故かその後、田中一郎という男の手に渡っていた。それがこれです」
 写真を出した。
 「家捜しをしてでも、取り返したかったものですね」
 ジャガーを睨みつけながら言った。
 「トナティウのトラカエレル総統が閲兵している写真で、隅に写っているのが殺された一万八千三号。総統の横にいるのが和泉さん、あなただ。そして総統と握手している兵士が総理、あなただ」
 「この男、頭がおかしいんじゃないのか? 私がトナティウの兵士だなんて」
 三千六号が三田川に言ったが、タロウはジャガーから視線を移さず続けた。
 「田中一郎は写真を見て、総理が別人であることに気づき、大胆にも恐喝を試みた」
 「べつ……」
 貞子は言葉を飲み込んだ。
 「一郎は思惑通り多額のマネーを得ること出来たが、その日のうちに押しかけてきたあなた、つまり和泉秘書。又の名ジャガーに拳銃で撃ち殺された。あなたはそればかりか、罪もない奥さんまで非情にも撃ち殺した」
 ジャガーを除いた分身たちは真っ青になっている。名探偵イコール目撃者だと思うはずがない。
 「面白い話ですな。あなたは夢の話でもしているのですか?」
 動揺を隠してジャガーは言った。
 「いいえ、実際に起きたことを言ってるのです」
 タロウは確固として答えた。
 三千六号が宝田に言った。
 「政捜は直ちに解散させよう。事件をデッチ上げて、一国の総理を陥れようとしている。とんでもない組織だ。そうは思わんかね、宝田くん」 
 「思わねえだな、ニセ総理」
 宝田は嫌味タップリに切り替えした。
 「ニセ総理……」
 貞子がそう呟くと、タロウが言った。
 「入れ替わったのです。それは当確が打たれ、民心党の事務所に行くため、刈谷さんがお風呂に入った時でした」
 視線を貞子から三千六号に移した。 
 「風呂場の中で待ち伏せしていた三人。つまり死んだ一万八千三号とあなた。それに和泉さんの三人がかりで刈谷さんを殺し、あなたがそのまま首相に成り変わったのでしょう。遺体は一万八千三号が裏から運び出したが、階段を降りる時、足を滑らせ転んだようですね」
 三千六号は喉の渇きを覚えながらも、引きつった笑いを浮かべて言った。
 「どんなにそっくりでも身内までも騙せまい、そうだろう、貞子、冴子」
 同意を得るように二人を振り返ったが、頷いてはくれなかった。
 「人間なら確かにそうでしょう。しかし悪魔の手先である分身なら騙せます」
 「悪魔の手先、分身だと?」
 「そうです。トナティウとは、トラカエレルと名乗っている悪魔テスカトリポカが、この世を破壊するだけのために造った国であり、あなた方は、その国から派遣された悪魔の分身です」
 「こいつ気が狂ってるんだ。こんな奴の言うことを……」
 三千八号の言葉に被せるようにタロウは言った。
 「投票日の数日前。ゴールデンウイーク最終日に、テレビの候補者討論会で、司会者が突然、昨夜お揃いで東北道を走っていませんでしたかと尋ねました。それは複数の視聴者から、宮城県の白石近くで起きた事故渋滞にハマッていた車の中に、四人の候補者が乗っていたとの情報が入ったからです」
 「だがおらは乗っていなかった」
 と宝田が言った。
 「そうです。乗っていたのは宝田さんそっくりの分身です」
 「私もだ」
 三千六号が言った。
「いや、あなたは乗っていた。何故ならあなたは刈谷さんではなく、刈谷さんそっくりの分身だからです。あの夜、他の分身たちと岩手県の碁石浜海岸から日本に上陸し、一万八千三号の運転する車で東京に向かっていたのでしょう。助手席には和泉さん、いや、ジャガー、おまえがいたのだ!」
 タロウはジャガーに対する怒りを押さえられなくなっていた。
 「首相候補ソックリの人間を、四人も揃えられるはずがないだろう」
 三千六号は足掻いた。
 「先ほども言ったように人間には出来ません。しかし分身なら可能です」
 タロウは自身の高ぶりを押さえにかかった。
 「では、残りの三人はどこにいるのだ?」
 「必要なのは当選した人物にそっくりの分身だけ。もうトナティウに帰ったのでしょう」
 三千六号は尚も足掻いた。
 「私が偽者だという証拠でもあるのかね。犬だって懐いている。マーちゃん、靴下を脱がせておくれ」
 それが命取りになるとは思いもよらない。
 マーガレットはタロウを見て頷くと、三千六号の足元に駆け寄り、靴下脱がしを始めた。
 「ありますよ。一つ目はあなたの手の甲には生命線がないということです」
 三千六号は思わず手の甲を握り締めた。
 「首相になる前に刈谷さんが色紙に押した手形があります。それには、はっきりと生命線が刻まれています」
 中之島がカバンから出して示した。
 「後援会の方からお借りしたものだ」
 タロウはマーガレットを見た。既に脱がし終わっていて、ニッコリと笑った。
 「手の次は足です。これは奥様もお嬢様もご存知でしょう。刈谷さんは左右どちらも酷い水虫でしたよね」
 「ええ、その通りです。湿気の多い時など、痒い痒いと、大騒ぎをしていました」
 貞子は過去形で言った。
 中之島は診断書を取り出すと三千六号の目の前に突き出した。
 「念の為医者に行き、診断書と水虫の状況を絵に描いてもらった。これがそうだ」
 「どうです、せっかくマーガレットが靴下を脱がしてくれたのだ。足の裏を見せてくれませんか?」
 タロウが迫った。
 最早これまでと、ジャガーは右手を再びリュウズに伸ばそうとしたが、いつの間にか忍び寄っていたマーガレットが身を躍らせ、切れ掛かっていたバンドに飛びついたので、時計は音を立てて床に落ちた。
 「チェッ!」
 ジャガーは舌打ちをした。
 「どうした?」
 タロウが人間には聞こえぬ波長で尋ねると、彼女は女たちが閉じ込められていることを伝えた。
 「三田川さん、二階の広間の壁の向こうに隠し部屋があり、そこに三人のお手伝いさんが閉じ込められているそうです」
 三田川は直ちに調べるよう部下たちに指示した。
 「もう一つ言おう。刈谷さんと田中夫妻は遺体となって、ここの地下室に眠っている」
 タロウがそこまで言って一歩下がったのは、そろそろ本職の三田川に引き継ぐべき時と判断したこともあるが、玉葱の効果が薄れて息苦しくなってきたせいでもあった。
 「全員、政捜本部まで来てもらおうか、尋ねたいことが山ほどある」
 三田川が言ったと同時に、ジャガーは冴子に飛びつき後ろから首を抱えるようにした。手には刃が光ってる。
 「動くな! 動くと娘の命はないぞ!」
 冴子の美しい顔が恐怖で歪んだ。
 「畜生!」
 三田川が小さく呻いた。
 他の分身たちも、拳銃やナイフを取り出し身構えている。 
 「ポケットにエレベーターの鍵がある」
 ジャガーは十五号にエレベーターの稼動を指示した」
 ジャガーと冴子、それに「十五号、十六号、十七号、三千六号等八人が乗り込んだが、宅急便が乗ったところで、定員オーバーのブザーが鳴った。
 「降りろ!」
 ジャガーが命令する前に、十七号が宅急便を外に突き出しドアを閉めた。
 残された分身たちや隠し部屋にいた十八号がその場で逮捕されたのは言うまでもない。
 「娘を助けてください! お願いです、冴子を助けてください!」
 貞子が三田川に取り縋った。タロウの姿はいつの間にか消えている。 

 一号は宮殿内の司令室でズラリと並んだ監視モニターを順番に眺めていた。放送局周辺で押されているのが気になるが、それ以外では優劣は判然としていない。最後に宮殿入り口のモニターを見て、ハッとした。四人の男が忍び込むのが見えたのである。一人は見覚えのある顔だ。
 「博士!」
 “戸村が何故?”
 少しだけ考えたがすぐに分かった。一号は受話器を取ると宮殿の守備についている親衛隊に指令を送った。外から見るとタワーになっている部分である。
 「戸村博士がミサイル装置を破壊するため宮殿に潜り込んだ。直ちに捜索を開始せよ。見つけ次第撃ち殺せ」

 降り注ぐ銃弾をかい潜り、何とか城内に潜入したゴエモンたちはエレベーターを避け、階段を使って三階まで上がってきたが、そこで、「いたぞ!」「こっちだ!」という声と足音を聞いた。
 「見つかったようだな」
 「お、おれが阻止する。二人は、博士…… 博士を連れて……」
 負傷しているキッドが、苦しげに息を吐きながら言った。 
 「しかし……」
 パーンという音がして、ゴエモンの顔面スレスレを弾丸が通過した。
 「銃を捨てろ!」
 先頭の親衛隊隊員が叫んだ。キッドが返事代わりに発射すると、隊員が吹っ飛んだ。かつての西部劇映画を彷彿とさせるような、鮮やかな拳銃捌きである。
 「さっ、早く!」
 「すまん」
 ゴエモンはそう言うと、ポチと共に戸村を抱えるようにして更に上階へと向かった。コンピュータ室は二十五階である。息を切らしながらも、何とか十五階まで来たが、今度は上から足音が聞こえてきた。
 「他を使え! ここは僕が守る」 
 ポチがそう言いながら小銃を放つと、兵士が一人転落してきた。
 ゴエモンは戸村の手を握って走り、別の階段を上がってようやく二十五階に辿りついたが、コンピュータ室はコの字に曲がった廊下の反対側、一番奥にある。二人は足をもつらせながらも又走った。体力の限界は当の昔に越えている。つんのめるようにして部屋の前まで来たが、鍵がかかっていて、入ることが出来ない。
 「体当たりしましょう」
 ハアハアと肩で息をしながら、ゴエモンが言った。
 小さな男と痩せた男が、代わる代わるドアに立ち向かうこと十数回、一念岩をも通すである。遂にドアが開いた。だがその時再び足音が聞こえ、三十人前後の親衛隊が近づいて来た。
 「私が阻止します。博士は発射装置を……」
 「頼む!」
 戸村は部屋の中に転がるようにして飛び込み、四つん這いで発射装置に向かって行く。
 ゴエモンはコンピュータ室のドアを閉めた。親衛隊がやって来る。一対三十の対決である。
戸村はけたたましい銃撃音を背にしながら、超高速ミサイル発射装置と向かい合った。コンピュータには機械的なトラブルや、スパイによる破壊工作を防ぐため、様々なバックアップ機能がついている。そのため、まずAを解除し、次にBを切断し、CをDに切り替えてと言う具合に順を追ってZまでの作業をしなければ破壊出来ないようになっていた。そしてさすがの天才も拘禁暮しの影響を受け、軽い健忘症にかかっており、記憶の糸を辿らねばならぬ箇所が随所にあった。

 和雄たち移民軍の一隊は果敢な攻撃が功を奏し、放送局を占拠することに成功した。真っ先に飛び込んだのはまたしても寅吉である。後を追いながら和雄は呆れ果てていた。七十にはとても見えない。
 雪崩のように飛び込んで来る移民軍に追われ、分進軍は裏口から全員が退却した。
 三沢はそれを知ると、「やったぁ!」と一言叫んで、その場にへたり込んだが、レオ老人が、
 「三沢さん、こんなところで休んでいる暇はありませんよ。あなたには大切な役目があります」
 と言いながら、引きずり起こそうとした。
 「大切な役目って、何をするんですか? 私はもう動けません」
 三沢は駄々子のように床に尻をつけたまま抵抗した。
 「両軍全ての国民に呼びかけるアナウンスです。原稿は私に任せてください。その昔、フィリピンで独裁者を倒した時と同じ手を使いましょう」
 “アナウンスが出来る!”
 三沢はスックとばかりに立ち上がった。

 十分後。ラジオとテレビから三沢の声が同時に流れた。
 「戦いは終わりました。悪魔テスカトリポカはシッポを巻いて地の底に逃げ帰りました。神の使いである皆さん、移民軍の皆さん、後方支援の皆さん、人間として目覚めた分身の皆さん、龍頭蘭中毒で今尚苦しんでいる国民の皆さん、勝利を祝って名花ナタリー・ウッドさんが歌う“喜びの歌”をお聞きください。勝利万歳!」
 ラジオを聞いている者は美声に、テレビを見ている者はプラス美貌に酔い痴れた。
 アナウンスもさることながら歌が効果的であった。分進軍は命令が届かなくなった場合に備えて、全員が手のひらに入るような小型ラジオを携帯しており、半数以上の者が放送を耳にした。戦いの最中にノンビリと歌など流すはずがない。敗北したと思ったのだ。
 “生みの親テスカトリポカ様はいない”
 宮殿の外で戦っていた分身たちは戦意を喪失し、武器を捨て、次々と投降を始めた。

ゴエモンは右腕に強烈な痛みが走り、持っていた拳銃を落とし、右肩を押さえたが、流れる血潮で上半身は既に真っ赤である。左腕でポケットに入っている玉ねぎを掴むとガブリと噛んだ。
親衛隊は弾丸が飛んで来なくなったので、盾で身を隠すことも無く、コンピュータ室に向かっている。ゴエモンが盾にしていた机の前まで来た時である。
ギャオーという叫び声を挙げて黒い塊が先頭の兵士を襲った。狼に変身したゴエモンである。兵士たちは算を乱して逃げ出した。
狼は倒れている机に左右の前足を乗せて身構えている。体制を立て直した兵士の一人が狼に弾丸を撃ち込んだ。だが当たったのに倒れない。もう一発撃った。やはり倒れない。兵士たちは銃を乱射した。それでも倒れない。
血染めの狼と化したゴエモンは薄れ行く意識と戦い、兵士たちを睨みつけていたが「終わる」と言う戸村の声を辛うじて聞くと、微かにほほ笑んで両の目を静かに閉じた。
 「戸村、こっちを向け!」
 背後からの声を無視して戸村は振り返ることなく、Z番目の作業を完了し、己が開発した大量殺戮兵器に、自らの手で封印をした。これにより五十基の超高速核ミサイル全てが、鉄屑と化したのである。
 戸村は座ったまま椅子を半回転させた。
 入り口には、黒い制服を着た十人ほどの親衛隊が立っており、ドアの向こうには白黒のブチ模様をしたロングコート・チワワの遺体が転がっている。
 「もう超高速核ミサイルを発射することは出来ぬ。悪魔が侵そうとした人間の尊厳は守られた」
 戸村はポケットから金蛇勲章を取り出し、兵士たちに投げつけながら言った。
 「さあ、私を撃ちなさい」
 両手を広げるのと同時に、銃口が一斉に火を吹いた。

(四)陥 落

 地下室は剥き出しのコンクリートで、何の化粧もほどこされておらず、隅の方に刈谷と田中夫妻の遺体が入った箱が置かれており、そこから漂う異臭とカビの臭いが部屋全体を覆っていた。
 ジャガーは十七号と二人のボディガードに命令した。
 「おまえたちはここで冴子の見張りをしてろ。発射ボタンを押したら、盾にして脱走する」
 ミサイルを発射させるためには、四つのボタンを同時に押さねばならない。ジャガーは、十五号に十六号、三千六号を引き連れて、エレベーターの直ぐ前にある扉の向こうに消えた。
 チワワに戻ったタロウは、冴子のロングスカートの下に蹲り一緒に降りては来たが、この先どうすればいいのか、方法が浮ばなかった。だが考えている暇はない。もしボタンを押されたら、どこの国かは分からぬが、核ミサイルが飛んで行く。
 とは言っても、徒手空拳では如何ともし難い、何かないかと辺りを見回すと、一隅に長さ一メートルほどの鉄パイプが転がっているのが目に入った。工事で使って、置き忘れたものであろう。
 傍に行くと、口にくわえていた玉葱を思い切り噛んだ。
 「あれっ、犬がいる!」
 見張りのボディガードが素っ頓狂な声を挙げるのと同時に変身し、両腕で握りしめた鉄パイプを男の眉間に降り下ろし、後ろを振り返り、矢のような速さで、十七号ともう一人もノックアウトした。
 「エレベーターで逃げてください」と冴子に言うつもりだったのだが、変身するタロウを見て、彼女は失神していた。
 冴子を運ぶ時間はない。玉葱を拾い、十七号が落とした拳銃を持って扉の向こうに踏み込んだが、そこは部屋ではなく廊下だった。二十メートルほど先にドアが開け放たれている、タロウは部屋の前に行き叫んだ。
 「ボタンに触ると撃つぞ! 手を上げて出て来い!」
 不意を襲われたジャガーたち四人は凶器を取り出すことも出来ぬまま両手を挙げ、渋々と出て来た。 
 「ニセ総理、鍵を閉めろ」
 三千六号に鍵を閉じさせていると、背後で微かな音がした。見ると、十七号が鉄パイプを振り上げ襲い掛かろうとする寸前であった。無我夢中で引き金を引くと,銃声が響き、十七号は悲鳴を挙げてその場に倒れた。タロウは次の瞬間、ナイフを翳したボデイガード二人にも銃弾を浴びせ、ジャガーたちを振り返った。十五号と十六号は拳銃を、ジャガーと三千六号はナイフを構えている。
 何処にそんな素早さがあったのか、タロウは身を伏せて弾丸を避けると、次々と拳銃を発射して、十五号と十六号、三千六号の三人を瞬時の間に倒し、ジャガーの胸元へ照準を合わせ引き金を引いたが、カチャッという虚しい音がしただけであった。
 ジャガーがニヤリと笑った。
 「お生憎だったな。それには六発しか弾丸(たま)が入らないのだ」
 一歩下がったタロウにジャガーが尋ねた。
 「ところでおまえは何者なのだ? 人間ではあるまい」
 一対一で、凶器を持ったジャガーと渡り合ったのでは、とてもかなわない。タロウは一か八かで、奥の手を使うことに決めた。 
 「ぼくの本当の姿を見たら、お前は腰を抜かすだろう」
 「おれが腰を抜かすだと?」
 「そうだ。お前が本物のジャガーに変身出来ることは知っている。だが怖くはない。何故ならぼくは、ジャガーより強い狼だからだ!」
 昔々流行った少年漫画の主人公のようなセリフを言った。
 「狼はジャガーより強いだと、笑わせるな」
 「ぼくはこれまでに三匹のジャガーを倒してきた。嘘だと思うのなら変身してかかって来い。証拠を見せてやる!」
 プライドを傷つけられたジャガーは持ち前の冷静さを欠いた。
 「小癪な、目にもの見せてやる!」
 ナイフをその場に置くと、ワイシャツの胸元を両手でかきむしり「ギャオー!」と叫んで破り捨て、たちまちのうちに本物のジャガーに変身した。目は爛々たる光を放ち、口元からは大きな牙が覗いている。
 「ようし、それならぼくも変身だ! ちょっと待ってろ」
 凄みに欠けるが、タロウは玉葱を取り出し食べ出した。人間に変身するのと同様、胸が一瞬苦しくなったと思ったら、次の瞬間狼になっていた。
 二匹の野獣は、互いに唸り声を挙げながら睨みあった。
 扉の向こうから聞こえた銃声で気がついた冴子はチワワは先日マーガレットと一緒にいたチワワであり、チワワが変身した青年は捜査次官補ロングコートタロウだということに気づいた。
 銃声は止んだが、物音が一団と大きくなってきた。
 冴子は気絶しているボディガードの内ポケットから拳銃が覗いているのを見つけた。
 まるでヘビー級とフライ級の試合である。ジャガーの方がはるかに大きい。いきなり突進して来た第一撃は大きくジャンプしてよけたが鋭い前足攻撃を次々と繰り出してくる。力の差がありすぎた。タロウは攻撃する隙を見い出せないまま、ジャガーの爪に身体のあちこちを破られ、流れ出た血が目に入り、視覚も奪われ、廊下の隅に追いやられてしまった。
 ジャガーが勝ち誇って大きく咆哮し、前脚を挙げて飛びかかろうとした瞬間、パーンという乾いた音がした。
 ジャガーは下半身に激痛が走り、一方の後ろ足をその場に折った。臀部付近から一筋の血が流れている。
 それを見たタロウは、痛みをこらえて立ち上がると、宙を飛んで首筋に噛み付いた。ジャガーは全身で振りほどこうとしたが、もがけばもがく程食い込んでくる。チワワの歯ではない。狼の牙である。先ず皮を裂き、次に肉を切り、最後に頚動脈を突き破ると、噴水のように血が吹き出した。ジャガーは両の前足をバタツかせ、尚ももがいていたが、次第に力を失い、やがて、がっくりと首を垂れた。
 冴子はジャガーと戦っているのは政捜の捜査次官補だと思いこんで、窮地を助けようと無我夢中で拳銃を発射したが、助けたのは狼だと知って再び気絶した。
 タロウは血の海の中で立ち上がり、高らかに勝利の雄叫びを挙げた。

 臨時放送局員となった沢村やナタリー、レオ老人を残して和雄たちの部隊は、未だに戦闘の続いている宮殿入り口に駆けつけた。
 移民軍は石像やピラミッドを盾にして、宮殿内で抵抗する親衛隊に銃撃を浴びせていたが 精鋭揃いの親衛隊の中でも、更に選びぬかれたメンバーのため容易に倒せないでいた。しかし放送局や他の戦線から、五百を越す援軍が駆けつけたことにより、ようやく攻勢に転じることが出来た。
 一方、分身軍の指揮をとる一号は、命令が次第に届かなくなりあせっていた。テスカトリポカは既に退却したとの撹乱放送が宮殿内の兵士にも徐々に浸透してきたのである。
 「テスカトリポカ様は地の底に逃げてしまわれた」 
 「我々は見捨てられた」
 風評が宮殿内を流れると、さすがの親衛隊も浮き足立ち、七つある入口が、一つ、又一つと突破され、城の上部へと退却を始めた。
 一号は監視室を出て宮殿内を走り、「テスカトリポカ様は宮殿の中におられる。放送はデマだ」と叫んで回ったが、効果はなかった。姿を見たのは西の基地で戦闘が始まった直後だけ、その後は誰も見ていない。本当にいるのなら自ら先頭に立つはずである。
 「退くな! 止まれ、反撃するのだ!」
 一号は懸命に叫んだ。だがあれほどまでに徹底されていた上意下達は、死という名の恐怖を前にして、もろくも崩れ去り、大幹部の十八人衆も含めて、従う者はほとんどいない。自分に告ぐ地位にいる二号がさっさと降伏したと聞いて唖然とした。
 巻き返すにはテスカトリポカ自身に出てもらうしかない。一号は二人の神が対決している寝室に走った。

 和雄はようやく息切れしてきた寅吉を追い越して、宮殿内に突入し、逃げる敵を追って一気に階段を駆け上がったが、三階まで来たところで、スムースチワワの遺体を目にした。
 見たことがある。
 「キッド……」
 和夫はそっと抱き上げた。無数の弾丸が身体を貫いてる。廊下には十人前後の親衛隊が倒れていた。
 まだ敵を追っている最中である。隅に安置して、短い合掌をし、更に上がって、今度はポチを見つけた。直ぐ上の踊り場には、親衛隊の屍が折り重なっていた。
 沢村の妻里美は幼い時から危ういところを何度となく犬たちに助けられたという。
 “今度もポチが…… まさか、世界一小さな犬が……”
 だが、これまでにも戦場のあちこちで、チワワが倒れている光景を見て来た。和雄はゴエモンが時折姿を消すことや、ハウスの中にトナティウ行動規範に似た本のようなものがあったことを思い出し、“もしやチワワたちは神の……”という思いと、“もしかしたらゴエモンも……”という不安が同時に湧いて来た。

 ケツァルコアトルもテスカトリポカも長時間の対決で疲れ果て、肩で息をしながら片膝を床につけた姿勢で睨み合っていた。
 「テスカトリポカ様!」という声と同時に扉が開き、一号が顔を出した。
 「ここに来るなと言ったであろう!」
 テスカトリポカは口では叱りつけたが、内心ではホッとしていた。これ以上向き合っていても勝負はつかない。一号の方でもかまわず言った。
 「敵が宮殿内部に侵入しました!」
 ケツッァルコアトルがニッコリ笑った
 「兵士たちにお顔を見せて下さい。さすれば巻き返せます」
 一号は懇願した。
 「こんな城欲しいなら、くれてやれ。兵士の代わりは又鏡から出せばよい。気にするな」
 テスカトリポカにとって、分身はパチンコ玉のようなものである。いくらでも出せる。玉の一つである一号は思わず顔を歪めた。
 「それより超高速核ミサイルを発射するのだ」
 テスカトリポカは一号の気持ちを慮ることなく言った。
 「それが破壊されました」
 「何いー! 破壊だと?」
 「コンピュータをやられました。ミサイルの発射も核爆発も、もう出来ません」
 テスカトリポカは忌々しげに舌打ちをした。
 「何と言うことだ。長い時間をかけて来たいうのに……」
 「テスカトリポカよ。人間自身の手で、この世を破壊させるというおまえの企みは、どうやら無に帰したようだな」 ケツァルコアトルは、床に降ろしていた膝を立てながら言った。
 「黙れ、ケツァルコアトル! 四アウウ三カンキンまでにはまだ時間がある。これからも欲望・敵意・不和の種を蒔き、その日までに人間共の手で必ずこの世を破壊させるように仕向けてやる。最後に笑うのはおれ様だ。分かったか、アッハッハッハッハッ……」
 まだ最後ではないのに笑った。
 「一号、鏡の中に戻れ! 又会おう、ケツァルコアトル!」
 一号を回収したテスカトリポカは背後の窓を開け黒煙を吐きながら、何処へともなく消え去った。
 その瞬間、ケツァルコアトルは緊張の糸が切れ、その場にしゃがみこむと、大きく息を吐いた。
 「どれ、後は任せても大丈夫じゃろう。疲れた。金星に戻って、骨休めでもしよう」
 独り言を言いながら立ち上がると、ヨタヨタと空の彼方に飛んで行った。

 里美は診療所で負傷兵の世話をしていたが、ふとテレビに目をやると、最愛の夫が映っているではないか。手を休め、うっとりと眺めた。日本のケーブルテレビで競馬中継をしていた当時に比べて、滑舌がずっと良くなっている。背中で眠っている徹に言った。
「ほら、お父さんよ。いい男ね。そうだ、今度はポチに威張ってやらなくちゃね。今までは犬に助けてもらったけど、今度はお父さんが助けたんだよって」
 だが、ポチはもういない。
 加藤家の女性二人は、自宅で町内の人達と炊き出しをしながら、ペットの身を案じていた。
 「ゴエモンの姿が見えませんねえ」
 静子が言った。
 「昨夜からいないのです。戦争を見に行ったのでしょうか?」
 君代が問う。
 「変わった犬だから、そうかもしれませんね。流れ弾に当たって怪我などしないといいけどね」
 二人とも、夫の心配はちっともしていない。船が空中を飛んでバラバラになっても助かった強運の持主なので、弾丸の方で逃げて行くと信じている。
 君代は戦いが終わったら、昔取った杵柄で、再び教鞭をとるつもりでいる。子供たちはトナティウに来てからというもの、教育の名の下にトラカエレル賛美を叩き込まれ、信じ込んでいる。先ずは心を解きほぐすことから始めねばならない。

 「ト、トナ、トナティ、万歳。トラ、カカエレ、ル総統、バ、万歳……」
 長身の男が回らぬ舌で、ブツブツ呟きながら宮殿内の広場を彷徨っていた。ボサボサに伸びた金髪、頬はこけ、目は虚ろである。上半身は前をはだけたボロボロのワイシャツ姿で、裾のほどけたズボンはチャックが下がり、黄ばんだ下着が覗いている。龍頭蘭中毒が未だに覚めないというよりも既に回復不能な状態になっていた。
 かつては米国の上院議員だった男で、トナティウ出現の折、米国との国交に尽力した経歴を持ち、次期大統領候補とも言われたエリート政治家の哀れな姿であった。
 元社長は男とすれ違った時、どこかで見た外人だと思ったが、直ぐに忘れて、辺りの景色に目をやった。
 彼は戦線を一時間ほど前に離脱し、これまで遮られていたため見ることが出来なかった広場を、あちらこちらと見回っていた。部隊が放送局から宮殿に移動する際、既に勝敗は見えた。一人ぐらい欠けてもいいだろうと、勝手に決めて戦線を離れたのである。
 戦火の跡には必ず金儲けの種が転がっている。半分焼け爛れた材木を集めて一儲けした奴もいるというではないか。何かあるだろうと目を皿のようにして歩いてると、「社長さん」と呼ぶ声が聞こえた。振り向くと、左の袖に緑色の腕章を巻いた分身が立っていた。腕章が移民側の印である。 
 「やあ、一万と、えーと……」
 「五千三百八十九号です」
 「おお、そうやったな。無事やったんや」
 「社長さんもご無事で何よりです」
 突然、元社長の頭の中で、あることが閃いた。
 「どないや一万と……」
 「五千三百八十九号です」
 「わいと一緒に世界旅行をする気はあらへんか?」
 「世界旅行?」
 「それも金儲けを兼ねた旅行や。分身の中で気の合った者がおるのなら、その連中も連れて行こうやないか」
 元社長は見世物を考えたのである。
 “鏡から生まれた悪魔の分身”
 これだけでも人々の耳目を十分に集めるはずだ。男しかいないので、色気はないが、パレードの時に見たテスカトリポカのような奇妙な格好をして、歌ったり踊ったりすれば、大受け間違いなしである。
 「残念ですが、私は行けません」
 「行けん? なんでや?」
 「いずれ鏡の中に戻されるからです」
 「戻される? 悪魔とはもう縁が切れたんやろ?」
 一万五千三百八十九号は寂しそうに首を横に振った。
 「我々はしょせん分身です。テスカトリポカが地の底に行かない限り、番号を言われれば、どこにいようと鏡の中に戻されてしまいます」
 「すると、カラスの餌に……」
 「はい、奴は戻した一体一体を念入りに調べ、移民側についた分身は残らずそうするでしょう」
 「それが分かっていて君は……」
 「覚悟の上でした」
 「集会の時、なんで、それを言わんかったんや?」
 「もし本当のことを言ったら、皆さんは私たちに同情して、第一線に立つことを許してくれなかったでしょう。それでは意味がないのです。人間の皆さんと手を取り合い、命を賭けて、この美しい地球を悪魔の企みから守らなければ、私たちは人間に近づけないのです。自分の身を安全な場所に置いていたのでは、操りが飾りに変わっただけの人形でしかないのです」
 淡々と語った。爽やかな顔である。
 元社長は衝撃を覚えた。
 カラスの餌にされることが分かっていながら、地球を守るために銃を取った。四十余年の人生の中で、そのような人物と出会ったことは一度もない。自分をも含めて、ひたすら自己の欲望にのみ走っている連中しか知らない。
 “純”という単語は一万五千三百八十九号のためにある言葉なのかもしれない。元社長はそう思った。
 「そんなことはあらへん。君は立派や。わいは恥かしい。何でも経済的利益という尺度でしか考えて来んかたわいなんぞより、君の方がはるかに人間らしい。君は人形なんかとちゃう。確固とした意思を持つ人間や」 
 元社長は、一万五千三百八十九号の両手を握りしめた。

 和雄は流れる涙も拭おうともせず、物言わぬゴエモンの遺体を抱きしめていた。
 「ゴ、ゴエモン!」
 ようやく上がってきた寅吉が,驚いて駆け寄った。
 「ゴエモンは神の使いだったんだ」
 「ゴエモンが神の使い……」
 「そうだよ、ゴエモンだけじゃない。ポチもキッドも、トナティウにいるチワワは皆、神の使いだったのだ」
 寅吉は無言のままゴエモンに頬ずりをした。目から大粒の涙が溢れている。
 「ゴエモン、忘れないよ。おまえのことも、ポチのことも、キッドのことも、大勢のチワワたちが人間と手を携え、世界を救ったことを……」
 和雄はゴエモンを抱きしめながらコンピュータ室に入った。
 戸村が椅子に腰掛けたまま、誰にも触れさせまいとでもするかのように、発射装置にうつぶせに倒れこみ、両手を広げたまま息絶えていた。
 父子は窓から外を眺めた、戦いを終えた兵士たちが三々五々休んでいる姿が点となって見える。西の空に目をやると、トナティウ富士が今日も変わらぬ姿を見せていた。
 「ゴエモン、悪魔が造ったこの国を、必ず平和で豊かな国に作り替えて見せるから、見守っていておくれ」
 和雄は亡きペットに誓った。
 その時である。突然、地上にいた人間たちが、クルクルと舞いながら、空に向って飛んで行くのが見えた。
 「な、何だ! どうしたんだ?」
 森羅万象の生き字引と言われ、大概のことなら知っている寅吉も、人が飛ぶのは初めて見た。良く見ると、飛んでいるのは分身たちである。テスカトリポカが上空から呼び戻しているのだ。
 元社長は涙をポロポロこぼしながら、天に向って叫んだ。
 「おおきに! 一万五千三百八十九号! 君は分身でも人形でもない。すばらしい人間やァ! さいならぁ! 人間一万五千三百八十九号! さいならぁ!」
 それまで呆然と空を眺めていた人々も、元社長の声に触発され、全員が帽子やタオルを振りながら、「ありがとう!」「さようなら!」と惜別の声を送った。

 宮殿から急遽派遣され、西の基地で、移民軍と対決寸前になっていた分身軍も、テスカトリポカに呼び戻されたため、全員が瞬く間に空の彼方へ飛んで行ってしまい、全ての戦闘は移民軍の圧倒的勝利のうちに終息した。

 宮殿のバルコニーでは、悪趣味なトナティウの国旗を引きずり降ろした人間姿のハオハオが神の使いの旗を振り、その周りを十匹前後のチワワが駈けずり回って喜びを爆発させていた。
 旗にはチワワの始祖テチチを抱いたケツァルコアトルが描かれていたが、実物よりも遥かに若い神の顔だった。
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