CALL~鬼来迎~ 

黒駒臣

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第二章

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                   1

 最初は何が起こったのかわからなかった――
 授業が始まって数分後、事務室のほうから怒鳴り声と悲鳴が聞こえた。
 驚いて顔を上げるとみんなもきょろきょろとお互いの顔を見合っている。
 斜め前の宮島が好奇心丸出しの目で文也を振り返った。
 河津が「何なんだ? いったい」と、参考書を閉じてドアに向かう。
 それを見て生徒たちも立ち上がろうとしたが、
「君らはじっとしてろ」
 そう言うと河津は事務室に向かって走っていった。
 言いつけを無視して文也と宮島を含む二十人の生徒たちは廊下に出た。
 五年クラスから塚田が来て「教室に戻りなさい」と一喝し事務室に走っていく。
 誰も言いつけを守らず、廊下に出てきた五年生たちも合流した。不安と好奇心の混じった視線をみんなで見交わし事務室のほうに集中する。
 塚田が入ってすぐに大きな悲鳴が上がった。
 今まで聞いたこともない激しい声に文也の体は固まった。宮島も真奈香も他のみんなも茫然と事務室の入り口を見つめたままだ。
「あっ――」
 五年生の一人が事務室を指さした。
 両手を上げた河津が後ずさりしながらゆっくりと廊下に出てくる。
 現実味が感じられなくて映画やドラマで観るワンシーンみたいだと思った。
 だが河津を追い詰めながら一緒に出てきたのは全身血に濡れたあの赤い目の大男だった。
 大きな鉈を振り上げ河津に狙いを定めている。
 ぶんっと音が鳴り河津の頭に鉈が食い込んだ。河津の絶叫とともに大量の血飛沫が廊下に飛び散った。
 文也の後ろで女子たちの甲高い悲鳴が上がる。
 その声で男の赤い目がこっちを向いた。歪んだ笑みを浮かべ、仰向けに倒れた河津の頭から鉈を引き抜く。
 刃に付いた血と脳の欠片が男の足元にぼとぼと落ちた。
「早く教室に入れっ」
 誰かが叫んだと同時にみな四年クラスに飛び込んだ。
 金縛りのようになっている文也の腕を宮島が引っ張ってくれた。だが動くことができない。あきらめた宮島は逃げ、文也は廊下に一人取り残された。
 ほんの短い時間だったが気付くと机や椅子でバリケードが築かれ、その影がドアの小窓に映っていた。
「開けてっ。宮島開けてっ」
 文也は必死にドアを叩いた。
 鉈を持った男がゆっくりと動く。
 それを見た文也はさらに強く叩いた。
 だが、男は事務室に戻っていった。
「野地、ここはもう開けられないよ。早く二階の先生たちに知らせて。俺たちはここで110番するから」
 ドアの向こうから宮島の声がする。
 一人っきりは心細かったが仕方ない。
「う、うん。わかった」
 文也は膝の震えを抑えてうなずいた。
 男はまだ事務室から出てこない。
 とにかく今のうちに二階に移動しなくては。
 四年クラスの前から離れ階段に向かって走った。
 教室の中から「電話が繋がらないよ」とすすり泣く女子たちの声が漏れてきたが、それにはまったく気付かなかった。
 階段を駆け上がって踊り場に到達した時、事務室のほうからべたべたと粘着質な足音が聞こえた。急いで手すりの角に身を縮め階下を覗く。廊下に赤い足跡を残し、男が四年クラスに向かった。
 ドアの破壊音し、バリケードが倒される激しい音とけたたましい悲鳴や泣き叫ぶ声が耳に届く。
 騒ぎを聞きつけた二階の講師たちが階段を下りてきた。手すりの陰に座り込んで動けない文也を一瞥し、階下に下りていく。
 危険を伝えなければと思っても声が出ない。
 すぐに講師たちの絶叫が轟き、文也は飛び上がるように立つと耳を塞いで階段を駆け上った。
 階段ホールに集まる中学生と六年生を押しのけ三階に向かう。
 途中で三階の講師や生徒たちが下りてくるのに出くわしたが誰も文也を気に留める者はなく、文也も自分が逃げるだけで精いっぱいだった。
 三階のホールにも高校生や予備校生が集まり、階下を窺いながら騒いでいた。
 真下で絶叫が起こる。
 もう二階まで迫って来たんだ。どこかに隠れないと。
 屋上から非常階段で外に出られるのはわかっていたが、ドアには鍵がかかっている。その鍵は事務室にあった。
 文也は階段ホールを左に曲がって三階の男子トイレに駆け込んだ。
 二つ並んだ個室の手前に飛び込み、すぐ思い直して一番奥の用具入れに隠れた。
 乱雑に詰め込まれたデッキブラシやバケツ、巻いたホースの間に潜り込んで三角座りし、見つからないよう祈りながら膝の間に顔を埋めた。
 すぐそこで大きな悲鳴が上がり、文也はぎゅっと膝を抱きしめた。
 とうとう三階まで来たっ。
 助けを求め泣き叫ぶ声が廊下に散らばっていく。
 心臓の鼓動が激しく鳴り、喉からせり上がってくる悲鳴を文也は手を噛んで押さえつけた。
 あいつがここに来ませんようにと目を閉じて祈る。
 鉈で割られた河津の頭が脳裏に浮かんだ。
 みんなあんなふうに殺されてるんだろうか。ううん。そんなことないよ。きっと誰か逃げ出せてる。
 そうだよ。宮島は脚が速いからきっと逃げてる。あんなおっさんなんかに負けるもんか。
 それにパトカーももうすぐ来る。みんな通報したんだ。いっぱいお巡りさんが駆けつけてくるよ。
 だが、どんなに耳を澄ませて待っていてもパトカーの音はまったく聞こえてこなかった。

 最後の悲鳴が聞こえてからどれだけの時間が経ったのだろう。今どんな状況なのか用具入れに隠れたままの文也には何一つわからなかった。
 パトカーも警官も来た様子がない。ということは、誰も警察に通報できなかったのだろうか。逃げ出せた者がいなかったのだろうか。
 宮島も殺されたんだろうか。
 涙がこぼれ頬を伝い落ちた。口を押さえていても嗚咽が漏れる。
 だが、すぐ近くでびちゃびちゃと粘着質な足音がして、文也は息を飲んだ。
 僕は最後の一人なんだ。あいつは僕の顔を知ってる。だからきっと探してるんだ。
 足音はしばらくの間あちこち歩き廻っていたが次第に遠ざかり、やがて静かになった。
 気付かれなかったことに安心したが、これからどうすればいいのか途方に暮れた。
 あっ――
 文也はズボンのポケットに入れていた携帯電話を思い出した。あまりの怖さに忘れていたのだ。
 モップやブラシを倒さないよう注意しながら、そっと電話を取り出すと110番を押す。
 だが、受話口からは何の音も聞こえない。アンテナと電池を確認したがどちらも減っておらず、首を傾げながらもう一度かけ直した。
 だが結果は同じで、何度やっても繋がらない。
 110番がだめなら母の携帯番号にとかけてみたが、こっちも結果は同じだった。
 二十回目ぐらいにやっとノイズ混じりの、今にも切れてしまいそうな小さな呼び出し音が鳴り始めた。
 その音が止み、母と繋がったとほっとしたが、いつまでたってもごおぉという突風の音しか聞こえない。
 繋がった先がだだっ広い草っぱらのようで怖くなり、文也は電話を切ってしまった。
 もう少し後でかけようといったんあきらめ、男の足音が近づいて来ないか集中することにした。

 かくりと首が落ちて、文也は居眠りから目覚めた。身を引き締めて気配を窺ったが、あたりは何事もなかったかのようにとても静かだった。夢でも見ていたんじゃないか、そんなふうにまで思えて来た。
 突然、手の中で携帯電話が鳴り出した。
 張り詰めた空間に響く音は恐ろしいほど大きく聞こえ、驚いた文也は慌てて送受ボタンを押した。
 冷汗を滲ませながら、足音が近づいてこないか神経を集中させ電話に出る。
 さっきと同じ風の音がした後、送話口を爪で引っ掻くようなノイズが聞こえた。
 その向こうでとても遠い母の声がした。

                   2

「もし――し」
 ノイズの間から息子の声が聞こえた。携帯電話から遠く離れてしゃべっているような小さな声だった。
「もしもし! どうしたのっ。なにがあったのっ」
「お母さ――助け――さつじ――いる――」
「何? 何がいるって?」
 引っ掻き音がひどくて声が聞き取り辛い。だが、緊急事態が起きているというのはわかった。
「――殺人鬼――――」
 今度はそこだけはっきりと聞こえ、祐子は気が遠くなりそうになった。だが、今気絶するわけにはいかない。
 断続的にしか聞こえてこないので状況がいまいちわからなかったが何とか聞き出せたのが、塾内で殺人事件が起きたが文也はとりあえず無事だということだった。
 こちらの声も聞き取り辛い上に、110番も繋がらないという。
 そう言えばさっき何度かけても繋がらなかった。やっと繋がっても声は遠いしノイズもひどい。
 何がどうなっているのだろう?
 だが悠長に考えているひまはない。
「文也、お母さんが110番するからね。だからそこにずっと隠れているのよ。絶対に出ちゃだめ。今すぐそっちに行くから。
 じゃ、いったん切るよ。また連絡するからマナーモードにしておきなさい。いいわね?」
 文也が理解できるまで何度か繰り返し伝えた後、終話ボタンを押した。だが、次に繋がるだろうかとすぐ後悔した。
 大丈夫よ、きっと。お巡りさんだってすぐ駆けつけてくれる。それまで無事でいてね、文也。
 そう祈りながら110番にかけた。
 スムーズに呼び出し音が鳴り、すぐに応答があった。携帯電話の調子が悪いわけではないようだ。
 祐子は名を名乗ると北尾塾で殺人事件が起きていることを伝え、息子が逃げ出せずにまだ建物内にいると訴えた。
 詳しい状況を聞かれてもわからず、とりあえず現場に向かうという返事を聞き、祐子は電話を切るとすぐ健夫に連絡した。
 すでに帰宅していた健夫も祐子の話を信用しなかった。だが、夫の声を聞いたとたん泣き出した祐子に異常を感じたのかすぐ塾に向かうと約束してくれた。
 落ち着いて行動するようにと健夫から注意され電話を切った時、控室のドアからチーフが顔を覗かせた。怒りで顔が歪んでいる。
「ちょっと野地さんっ、あんた何してんの。まだ勤務中よっ」
「早退します」
 バッグをつかんでドアの前に立ちはだかるチーフを突き飛ばし控室を飛び出す。
「ちょっと、待ちなさい。野地さん! 待ちなさいっ」
 声を振り切り、従業員用口から駐輪場に急ぐ。バッグの内ポケットから自転車の鍵を取り出そうとして、まだアニメのキーホルダーを握りしめていることに気付いた。
 早くあの子を助けなきゃ。
 それをスカートのポケットに突っ込むと祐子は開錠した自転車を勢いよく漕ぎ出した。

                   3

 身じろぎもせず体を丸めているのも、尻の下のタイルの硬さも文也の心をくじくには十分だった。じっとしているのが辛かった。
 あれから母からの連絡がない。すぐ出られるよう電話を握りしめていたが、もう二度と繋がらないような気がする。その不安も拍車をかけた。
 それにあまりにも静かだった。
 あの男はもう逃げたのではないか。そう思えてならない。一人逃がしてしまったかもしれないのに、いつまでも殺人現場に留まっている犯罪者などいないだろう。通報されれば自分の身が危うくなるのだから。
 でも実際、文也はまだこんなところに閉じこもったままで何もアクションは起こせていなかった。
 いやきっとお母さんが何とかしてくれている。
 そう思うと勇気が出た。
 絶対出るなと言われていたが、盾にしていたモップやホースなどを一つずつ脇に退け、文也はゆっくり立ち上がった。
 携帯電話をポケットに戻し、大きく伸びをすると手足や腰のこわばりが解けて気持ちよかった。
 ドアを少し開けそっと気配を窺い、用具入れを出る。
 トイレにも廊下にも照明が点いているのになぜか海の中のように薄暗く、魚市場のにおいを濃くしたような臭気があたりに充満していた。
 びちゃり。
 タイルに溜まった血を踏んでしまった。廊下から排水口に向かって多量に流れ込んでいる。
 避けようにも避けられない血溜まりを踏みながら入口に辿り着く。目の前の廊下には真っ赤に染まった死体がいくつも転がっていた。込み上げる吐き気を押さえ、頭を出して左右を確認する。
 血の川になった廊下には右にも左にも死体が転がっていた。人型を留めているものがほとんどなく、解体されたマネキンのように見えた。
 やはり逃走したのかここに男の姿はない。だが油断してはだめだ。潜んでいるだけかもしれない。
 一瞬ためらったが早くこの建物から逃げ出したくて文也は思い切って一歩を踏み出した。
 脂の浮いた血の川には様々な死体が横たわっていた。
 河津のように頭を割られた女子生徒。それに重なった首の千切れかけた男子。顔が縦半分ないものや口の上から横半分ないもの、腹を裂かれたものからは内臓が飛び出し、腕や脚を断ち切られたもの、さらに耳や五指の細かいものまでばらばらに散乱していた。
 吐き気がこみ上げて文也は口を押さえた。見たくはなかったが目を閉じて移動はできない。文也は靴底のぬめりに怖気をふるいながら血の川を階段に向かってゆっくり進んだ。
 柔らかいものを踏みつけ思わず悲鳴を上げそうになった。足の下の血溜まりに薄くなった顔が沈んでいる。その顔の持ち主が削ぎ落された顔面から血の糸をぶら下げて壁にもたれていた。
 階段にも死体が折り重なり、千切れたパーツが散乱していた。血が滝のように落ちていたが、すでに流れはねっとりと止まっている。
 転がっている眼球を踏まないよう一段目に足を降ろした。
 白い壁にも手すりにも血飛沫が飛び散り、滑り落ちないようにつかんだ手が真っ赤に染まった。歯を食いしばり叫び出したい衝動を抑えて一歩一歩注意深く階段を下りる。
 二階の廊下にも無残な死体が累々と転がっていた。
 それを横目で通り過ぎ、文也は黙々と一階を目指す。
 やがて最後の段になり、血溜まりの中へ足を降ろす。
 一階のトイレの前には血塗れの同級生十数人が倒れていた。上の階と同じく人の形を留めた死体は一つもなく、宮島かどうか確かめたくても怖くてできない。
 きっと宮島は逃げてどこかに隠れている。
 そう信じて文也は左に曲がり玄関のほうに向かった。
 事務室の前では河津が仰向けに倒れたままだった。額の真ん中がぱっくりと割れイケメンの見る影もない。見開かれた白濁した瞳が宙を見つめている。
 文也は耐えられずに目を背けた。
 そのため気付かなかった。
 河津の濁った眼球が文也の動きを追っていることに――

                   4

 佑子は自転車を漕ぎながら携帯電話を操作した。違反しているのはわかっていたが致し方ない。
 だが、何度かけてもさっきかけた時以上に繋がらなかった。
 電池の残量が充分ありアンテナも三本立っているのに発信音すらしない。110番するためにやむを得なかったとはいえ通信を切ったことを悔やんだ。
 しかし、いったい何が原因なのか。警察や健夫とはいとも簡単に繋がったというのに。
 佑子の中で苛立ちが募る。それは勢いよくペダルを踏むエネルギーとなった。
 電話の向こうで聞き覚えのある風の音がし始めた。
 思わず自転車を止め、その音に全神経を集中する。音はすぐに止み、がりがりという激しいノイズの中で弱々しい呼出音が鳴り始める。
 文也に繋がった証しだと佑子の心は躍った。
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