死せる君と。

木蔦空

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第壱章──出逢いと別れ──

死せる君と。玖話

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「逃げろ」
夢の中でふと聞いた事のある声がそう言った。間違いない。私の幼馴染おさななじみであり、私を苦しめた男──櫻桃おと朔夜さくやの声だ。二度と聞くことは無いと思っていた、男にしては少し高めな声。夢だと分かっていても、あの日の出来事が脳裏のうりにフラッシュバックして、身体がガタガタと震えるのを止めることが出来ない。れに、あの男朔夜の言葉の理解に苦しむ。一体何から逃げろと言うのだ。其れに声はしても姿が見えない。私はこれから如何どうしたらいいのか。解決の糸口を探っていると、途端とたんに謎の浮遊感が生まれてまた意識が途絶えた。

気が付くと、鼻を刺す刺激臭がする。と、同時に首への違和感に気づく。よく見ると、誰かが私の首を絞めている。ウィーリだ。だが感覚が鈍っているのか苦しくはない。
「苦しむ前に殺してあげようと思っていたのだが、思いのほか目覚めるのが早かったな」
私にまたがり、相変わらず抑揚よくようのない声で喋る彼は、殺人鬼さながらの表情をしていた。義眼の為か、形の変わらない左眼とは打って変わって、右眼は極限まで黒目が縮小し、焦点が合っていない。口が裂けるような笑みを浮かばせる彼の私を絞める手は震えており、私は此の状況に未だかつて無い恐怖を抱いていた。

あの男に襲われた時よりも、幼い頃経験した大地震よりも更に強い恐怖が、私の判断力を鈍らせる。『逃げなければ殺される』頭では分かっているのに身体が動かない。
「あんなに死にたがってたじゃないか。舞子に死ぬ勇気が無いと思ったから私が手伝ってあげてるのではないか」
表情の変らぬまま喋る彼は最早もはや死神であった。動かす事に集中して、やっとの思いで動かした右膝みぎひざは、彼の腹部にめり込んだ。小さい嗚咽おえつこぼした彼は腹を抱えてうずくまった。その隙を狙い、必死に逃げ出すが、すかさず斧を構えて彼は追いかけてくる。小屋から半襦袢はんじゅばんで裸足の儘飛び出した私は街目掛けて走り出した。彼処あそこなら遠くとも誰か私をかくまってくれるのではないかとか思ったのだ。空は暗雲が立ちこめ、今にも雨が降りそうである。直ぐ後ろで追いかける彼が投げた斧の刃先が首の左側を掠めたが、不思議と痛みは無かった。然し思いの外大量に流れ出る鮮血はどろどろとして温かく、寝衣しんいとして着ていた白い半襦袢を真紅しんくに染め上げていく。骨を直撃していないまでも、何程どれほどの傷を負ったかが容易に分かる。混乱と夜の暗さの所為か、何時も街まで行くのに通る道が見えず、パニックで動悸どうきが激しくなった。此処ここに来て私の不幸体質が炸裂さくれつしたのだ。後にも先にもみちが無くなった私は一心不乱いっしんふらんに走り、数分も経たないうちに何故かあの街を目に捉えた。彼はえて家から街までの間違った道程どうていを私に教えていたのだ。希望が見えた私は脇目も振らず走り続け、或る街灯の下に辿り着いたが、其の頃には脚は棒切れのように感覚が無く、意識が朦朧もうろうとして立つのがやっとの状態だった。街灯がある為に真夜中であっても街を歩く人々は居たが、私を見た瞬間皆目を見開き動きを止めた。無理もない、左半身を血に染めた子供が其処に居たのだから。

反応はしても手を差し伸べる人は誰も居なかった。やはり私はあの時死ぬべきだったのかもしれない。ふとそう思った時、私は誤解していたことに気づいた。皆口は開いているのに声を出していない。そう、音が消えたのではなく私の耳自体が壊れていたのだ。だがもう遅い。気がついた時には視界がぐるんと周り、頭が地面に落ちた。手足のみならず体の感覚も無くなっていた。

第壱章 終
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