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滅びの足音
しおりを挟む鈴虫が鳴いていた静かな夜だった。静まりかえった双葉家の屋敷で、1階のトイレへと向かっていたのは祈里だった。突然トイレで行きたくなったのだ。
時間は21時半だった。まだ父が仕事をしている時間だろう。足音を立てずに父の部屋の前を通ろうとした時だった。
「はい…近日中に《鬼人の実験》をしたいと考えています」
「……っ」
(《鬼人の実験》…?)
祈里は咄嗟に、廊下の端へと引き返し、座り込んだ。
《鬼人》とは…《鬼繋がりの儀式》にて鬼神から《鬼の力》を与えられた者のことを言うのだが一一何故父が、そんな話をしているのか、祈里には分からなかった。
「村の子どもたちの名前と各家の当主の名前はメールでお送りした通りです…その中でも、特に注目している子どもがいます。
そうです…最も、鬼の血を色濃く受け継いでいる《五十嵐 秋鳴》のことです」
(え…?秋鳴くん…?)
秋鳴の名前が出た瞬間一一祈里の中で嫌な予感が膨らんでいった。
幼い祈里でも分かる。この話は聞いてはいけなかった。咄嗟に祈里は両手で両耳を塞ぐと父の部屋から遠ざかっていった。
***
いつも通りに朝がやって来た。昨日と同じく、五十嵐家で儀式の歌の練習をし、終わった後は、冷えた麦茶を飲みながら、夏休みの宿題に取り組んだ。
早く終わらせておけば、その分楽だからだ。
「………」
「………」
朝ご飯の時に父の様子を見てみたが、特に変わった様子は見られなかった。祈里も不自然に見られないように、いつも通りに過ごすことにした。
夕暮れ時、蜩が鳴いている中一一途中の道で愛桜と伊環と別れた祈里達は何を話すでもなく、歩いていた。
伊萬里はちらりと姉の顔を見ると、静かに話しかけた。
「姉様…昨日何かありましたか?」
「え?」
「朝から顔色がすぐれないので…気になっていたのです」
伊萬里の問いかけに祈里は驚いたが、すぐに笑顔になって答えた。
「なんでもないの。少し眠れなかっただけだよ」
「本当ですか?」
「本当だよ」
「……」
祈里は心の中で『平常心、平常心』と自分に暗示をかけた。伊萬里は少し疑っていたが、暫くして、頷くと言った。
「何かあったら、わたしにいってくださいね。
わたしは姉様の味方ですからね」
「うん…!ありがとう!伊萬里!」
一一ごめんね。伊萬里。わたしの大好きな妹。
昨日の夜のことは話せない。あなたまで巻き込めない。
わたしが…何とかするしかないんだ。
わたしは、双鬼村の繁栄と平和のために祈り続けてきた氷見子様の血を…最も受け継ぐものなのだから。
祈里は伊萬里とたわいのない話をしながら、心の中で、決意を固めていたのであった。
小さな祈里の背中を、遠くから、黒い影が見つめていた。
***
一一夕食までの時間はあっという間だった。伊萬里と共に、部屋へと戻ろうとした時、遊糸が声をかけてきた。
「祈里」
「はい!父様!」
「あとで私の部屋に来なさい。話したいことがある」
「あ…はい…!分かりました」
「………」
祈里は一瞬目を見開いたが、すぐに返事を返した。片付けが終わった台所から遊糸と祈里の姿を一一伊萬里は心配そうに見つめていた。
***
祈里は緊張した面持ちで、遊糸と共に部屋へと入った。障子を閉めた遊糸は、祈里に「そこに座りなさい」と言った。
小さな声で「はい」と答えた祈里は正座をした。遊糸は座らずに箪笥の方へと向かうと、祈里に問いかけた。
「祈里…昨日、私の部屋の前にいたね?」
一一心臓が、掴まれたような感覚がした。
「…はい…」
「ふふ…お前は素直でいい子だね…」
「……っ」
父が祈里へと向けた物一一それは拳銃だった。
出そうになった悲鳴を堪える。遊糸は顔に笑みを貼り付けながら、祈里にゆっくりと近づきながら言った。
「私が娘の気配を捉えられないほど、鈍感だと思ったか?」
「………」
祈里は正座を崩すと、後ろへと下がっていく。
怖い。大好きなはずの父が、怖くて仕方ない。
障子にぶつからないように後ろへと下がり続ける祈里を、遊糸は笑みを貼り付けたまま、追いかけてきた。
祈里が壁に当たった瞬間、動きが止まってしまった。
「あ…!」
「短い鬼ごっこだったね。祈里」
「………」
遊糸は、祈里の目の前にしゃがみ込むと言った。
「どこまで聞いた?」
「……」
「祈里…黙っていたら、分からないよ。怒らないから言ってごらん?」
「……」
「…やれやれ…どうしたものかな…」
沈黙を貫く祈里に、遊糸は苦笑すると、額を軽く掻いた。祈里はちらりと拳銃を見つめる。拳銃は握られたままということは、いつでも撃てるということだ。
だが、このまま黙っていても事態が好転しないのも分かっていた。
問題は…父がどこまで許してくれるかにかかっているのだ。
祈里は小さく、深呼吸すると…父を見つめながら言った。
「…父様…」
「ん?」
「昨日の夜…おトイレに行こうとしたら、父様の部屋から声が聞こえてきたんです…」
「それから?」
「…父様が、誰かとお話されているのを聴きました…《鬼人の実験を近日中に行う》ということだけ、聞こえました」
「……なるほど…分かった」
「!」
遊糸は目を伏せると、小さくため息をついた。すると、拳銃をおろしかと思えば、弾薬が装填される弾倉を祈里へと見せた。
弾倉の中は空っぽだった。祈里は驚き、目を見開いた。
「これはまだ試作段階の銃だからね。弾は入っていないんだ」
「……」
「怖がらせてしまったね。祈里…」
「父様…許して、くださるのですか?」
「もちろんだ。ただし…私との約束を守れたらの話だけどね」
「約束…?」
胸を撫で下ろしたのも、一瞬の事だった。遊糸は銃を箪笥の中へとしまうと振り向き様に言った。
「今日ここで話したことを誰にも言わないこと。これさえ守ってくれたらいいんだ。
賢い祈里なら、出来るよね?」
「……はい…守ります…」
「いい子だ」
「………」
優しく笑った遊糸は、祈里に再度近付き、頭を撫でた。祈里はただ、されるがままになっていた。
【あの時のわたしは、何も知らなかった。
あの出来事が、全ての始まりであるということを。
そして一一双鬼村と、わたし達に《滅びの足音》が迫ってきていることを知らなかったのです】
END
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