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第一章・きらいなじぶん
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「お姉ちゃんはわざわざ、私には青蘭医大は無理だって言いにきたわけ?」
低い声が出る。苛立ちを露わにした私に向かって、お姉ちゃんは呆れたようなため息を漏らした。その見えないため息は、私の胸を深く抉る。
「そうじゃないよ」
「じゃあ、なに?」
私には、そう言っているようにしか聞こえない。
コツを掴むのが早く、大体のことはそつなくこなせる天才形のお姉ちゃんと違って、私は不器用だ。
人並み以上の努力をしないと、お姉ちゃんには追いつけない。
おまけに幼い頃からお姉ちゃんと比べられてきたせいか、人前で努力することも苦手だった。
美里や葉乃の前では、強がっているだけだ。
塾に行っていないのは本当だが、実際は放課後、門限まで毎日ファミレスで勉強している。
できて当たり前。私の家は、そういう家。
失敗した。
こんなことなら、帰ってこなければよかった。
いつものように近所のファミレスで勉強していればよかったんだ。そうすれば、こんな惨めな思いしなくて済んだのに。
――勉強サボろうとしたから、バチが当たったのかな……。
お姉ちゃんはきっと、必死に勉強する私に呆れているんだろう。
そんなに努力しても、この程度なんだとか思っているんだろう。
「柚香、あんたもうすぐ十七歳でしょ。ちゃんと現実を見なさいよ。いつまでもお母さんに甘えてないで」
――甘える?
「べつに……甘えてなんか」
「いい加減、ちゃんと考えなさいよ」
「……考えてるつもりだし」
「つもりじゃダメでしょ」
「…………」
私は、甘えているのだろうか。
「……うるさいなぁ」
「私は柚香のことを思って言ってんのよ」
――柚香のことを思って?
なにそれ。
私のなにを思ってるっていうんだろう。
私のなにが分かってる?
私の本心に気付いてるなら、やること違うでしょ。わざわざ追い詰めるようなこと言わないでよ。
なにかが切れるような、プツンという音が聞こえた気がした。
「……意味分かんない。……お姉ちゃん、私のなにを思って言ってるの? 私の気持ちなんてなんも分かってないくせに」
「はぁ?」
「しかもなに。じぶんは受かったからって上から目線? 何様なわけ? そーゆうの、マジでウザくてストレスだからやめて」
お姉ちゃんの眉間に皺が寄る。
お姉ちゃんの鋭い眼差しに睨まれ、私も負けじと睨み返した。
なんで親でもないお姉ちゃんに責められなきゃいけないの?
夢がないのって、そんなに悪いこと?
夢を持っていることって、そんなに偉いことなの?
「……柚香っていつもそう。言い合いになっても感情的に喚くだけ。言いたいことがあるならもっと具体的になにが不満なのか、はっきり言ってみなさいよ」
――仕方ないじゃない。
怒ってるときに頭なんて回らないよ。
感情が先に立つに決まってるじゃん。
「……言わない」
「なんで?」
言いたいことなんて、いっぱいある。
みんながお姉ちゃんみたいに夢を持てるわけじゃないし、面談のときだって、お母さんはずっとお姉ちゃんの自慢話ばっかりだった。
私の面談なのに。私はこんなに頑張っているのに。
……だけどそれは、結局じぶんが平凡な人間であると言っているようなもの。
わざわざ口にしたって、虚しくなるだけだ。
だから言わない。
「お姉ちゃんになんか、言いたくないから」
「……あっそ」
物心ついた頃から、お姉ちゃんには『医者になる』というはっきりとした意思があった。
終着駅が決まっているお姉ちゃんは、目的地に着くまでただ電車に乗っていればいいだけ。
そんなひとに、私の気持ちなんて分からない。迷子の私の気持ちなんか。
黙り込んだままの私に、お姉ちゃんがまたため息をつく。
私は涙がこぼれ落ちないように、ぐっと手を握った。
「ま、べつに私の人生じゃないし、どうでもいいけど。ただ、大学は高校なんかよりもずっと自由なんだからね。入ってから思ったのと違ったとか、お母さんに言われたからとか、そういう下らない文句を言うのはやめなよ」
突き放すような言いかたに腹が立ち、私はとうとう声を荒らげる。
「分かってるよそんなこと! だから、そういうのがウザいって言ってんじゃん!」
「あぁ、そう! だったらもう勝手にすれば!」
お姉ちゃんはクマクッションを投げ出し、立ち上がった。その拍子にクッションが床に落ちる。
「ちょっと! クッション落ちたんだけど!」
私を無視して、扉へずんずんと歩いていく。
バタン、とけたたましい音を残して、お姉ちゃんが部屋を出ていく。
耳鳴りがするくらいの静寂が戻る。
途端に虚しさが荒波のように押し寄せてきて、私は下唇を噛み締めた。
みるみる、目に透明な涙の膜ができる。
「……なによ」
くだらない?
文句を言うな?
そんなこと、いちいち言われなくても分かってる。
私は無造作に落ちたクッションを取り上げ、ベッドに投げる。
ベッドの上で弾んだクッションが、再び床に落ちた。
「あぁ、もう!」
そもそもこれまで、一度も文句なんて言っていない。それなのに、なんでわざわざ言われなきゃならないんだろう。
クッションを拾うため、軽く屈むと涙が頬をすべり落ちた。
両手でごしごしと目元を拭うけれど、涙は引くどころか溢れてくる。クッションに、小さな染みがぽつぽつと広がる。
「私だって……」
お姉ちゃんみたいに夢があったら。
そう、何度思ったか分からない。
お姉ちゃんと違って、私にはなにもないから。
お母さんに言われるままに勉強して、なにが悪いの?
だからこそ分かる。国立有名大学の医学部に現役合格したお姉ちゃんは、天才だ。
――柚香もお姉ちゃんみたいに立派にならないとね。
お母さんの口癖。
――柚香ちゃんは、立派なお姉ちゃんがいていいわねぇ。
いつも、だれからもそう言われてきた。
――柚香ちゃんもきっと、お姉ちゃんみたいに優秀なんでしょうね。
いつだって、私はおまけ。
お姉ちゃんはすごい、と言われることがあっても、柚香ちゃんはすごい、と言われることは決してない。
どれだけ努力しても、お姉ちゃんには追いつけない。
「バカみたい……」
どうしていつもこうなんだろう。
いつも感情を抑圧しているせいか、お姉ちゃんの前では抑えられなくなる。
じぶんがいやになる。
お姉ちゃんの言いたいことは分かる。
私はお姉ちゃんみたいにはっきりと医者になりたいと思ってるわけじゃない。志もないのに同じ医大を目指すなんて、お姉ちゃんには目障りに映って仕方がないのだろう。
――でも、だからって。
分かっていることをわざわざ言わないでよ。
そんな目で見ないでよ。
これでも、私なりに頑張っているんだよ。
お姉ちゃんを前にすると、私はどんどんいやな人間になる。
やっぱり、家で勉強なんてするんじゃなかった。
低い声が出る。苛立ちを露わにした私に向かって、お姉ちゃんは呆れたようなため息を漏らした。その見えないため息は、私の胸を深く抉る。
「そうじゃないよ」
「じゃあ、なに?」
私には、そう言っているようにしか聞こえない。
コツを掴むのが早く、大体のことはそつなくこなせる天才形のお姉ちゃんと違って、私は不器用だ。
人並み以上の努力をしないと、お姉ちゃんには追いつけない。
おまけに幼い頃からお姉ちゃんと比べられてきたせいか、人前で努力することも苦手だった。
美里や葉乃の前では、強がっているだけだ。
塾に行っていないのは本当だが、実際は放課後、門限まで毎日ファミレスで勉強している。
できて当たり前。私の家は、そういう家。
失敗した。
こんなことなら、帰ってこなければよかった。
いつものように近所のファミレスで勉強していればよかったんだ。そうすれば、こんな惨めな思いしなくて済んだのに。
――勉強サボろうとしたから、バチが当たったのかな……。
お姉ちゃんはきっと、必死に勉強する私に呆れているんだろう。
そんなに努力しても、この程度なんだとか思っているんだろう。
「柚香、あんたもうすぐ十七歳でしょ。ちゃんと現実を見なさいよ。いつまでもお母さんに甘えてないで」
――甘える?
「べつに……甘えてなんか」
「いい加減、ちゃんと考えなさいよ」
「……考えてるつもりだし」
「つもりじゃダメでしょ」
「…………」
私は、甘えているのだろうか。
「……うるさいなぁ」
「私は柚香のことを思って言ってんのよ」
――柚香のことを思って?
なにそれ。
私のなにを思ってるっていうんだろう。
私のなにが分かってる?
私の本心に気付いてるなら、やること違うでしょ。わざわざ追い詰めるようなこと言わないでよ。
なにかが切れるような、プツンという音が聞こえた気がした。
「……意味分かんない。……お姉ちゃん、私のなにを思って言ってるの? 私の気持ちなんてなんも分かってないくせに」
「はぁ?」
「しかもなに。じぶんは受かったからって上から目線? 何様なわけ? そーゆうの、マジでウザくてストレスだからやめて」
お姉ちゃんの眉間に皺が寄る。
お姉ちゃんの鋭い眼差しに睨まれ、私も負けじと睨み返した。
なんで親でもないお姉ちゃんに責められなきゃいけないの?
夢がないのって、そんなに悪いこと?
夢を持っていることって、そんなに偉いことなの?
「……柚香っていつもそう。言い合いになっても感情的に喚くだけ。言いたいことがあるならもっと具体的になにが不満なのか、はっきり言ってみなさいよ」
――仕方ないじゃない。
怒ってるときに頭なんて回らないよ。
感情が先に立つに決まってるじゃん。
「……言わない」
「なんで?」
言いたいことなんて、いっぱいある。
みんながお姉ちゃんみたいに夢を持てるわけじゃないし、面談のときだって、お母さんはずっとお姉ちゃんの自慢話ばっかりだった。
私の面談なのに。私はこんなに頑張っているのに。
……だけどそれは、結局じぶんが平凡な人間であると言っているようなもの。
わざわざ口にしたって、虚しくなるだけだ。
だから言わない。
「お姉ちゃんになんか、言いたくないから」
「……あっそ」
物心ついた頃から、お姉ちゃんには『医者になる』というはっきりとした意思があった。
終着駅が決まっているお姉ちゃんは、目的地に着くまでただ電車に乗っていればいいだけ。
そんなひとに、私の気持ちなんて分からない。迷子の私の気持ちなんか。
黙り込んだままの私に、お姉ちゃんがまたため息をつく。
私は涙がこぼれ落ちないように、ぐっと手を握った。
「ま、べつに私の人生じゃないし、どうでもいいけど。ただ、大学は高校なんかよりもずっと自由なんだからね。入ってから思ったのと違ったとか、お母さんに言われたからとか、そういう下らない文句を言うのはやめなよ」
突き放すような言いかたに腹が立ち、私はとうとう声を荒らげる。
「分かってるよそんなこと! だから、そういうのがウザいって言ってんじゃん!」
「あぁ、そう! だったらもう勝手にすれば!」
お姉ちゃんはクマクッションを投げ出し、立ち上がった。その拍子にクッションが床に落ちる。
「ちょっと! クッション落ちたんだけど!」
私を無視して、扉へずんずんと歩いていく。
バタン、とけたたましい音を残して、お姉ちゃんが部屋を出ていく。
耳鳴りがするくらいの静寂が戻る。
途端に虚しさが荒波のように押し寄せてきて、私は下唇を噛み締めた。
みるみる、目に透明な涙の膜ができる。
「……なによ」
くだらない?
文句を言うな?
そんなこと、いちいち言われなくても分かってる。
私は無造作に落ちたクッションを取り上げ、ベッドに投げる。
ベッドの上で弾んだクッションが、再び床に落ちた。
「あぁ、もう!」
そもそもこれまで、一度も文句なんて言っていない。それなのに、なんでわざわざ言われなきゃならないんだろう。
クッションを拾うため、軽く屈むと涙が頬をすべり落ちた。
両手でごしごしと目元を拭うけれど、涙は引くどころか溢れてくる。クッションに、小さな染みがぽつぽつと広がる。
「私だって……」
お姉ちゃんみたいに夢があったら。
そう、何度思ったか分からない。
お姉ちゃんと違って、私にはなにもないから。
お母さんに言われるままに勉強して、なにが悪いの?
だからこそ分かる。国立有名大学の医学部に現役合格したお姉ちゃんは、天才だ。
――柚香もお姉ちゃんみたいに立派にならないとね。
お母さんの口癖。
――柚香ちゃんは、立派なお姉ちゃんがいていいわねぇ。
いつも、だれからもそう言われてきた。
――柚香ちゃんもきっと、お姉ちゃんみたいに優秀なんでしょうね。
いつだって、私はおまけ。
お姉ちゃんはすごい、と言われることがあっても、柚香ちゃんはすごい、と言われることは決してない。
どれだけ努力しても、お姉ちゃんには追いつけない。
「バカみたい……」
どうしていつもこうなんだろう。
いつも感情を抑圧しているせいか、お姉ちゃんの前では抑えられなくなる。
じぶんがいやになる。
お姉ちゃんの言いたいことは分かる。
私はお姉ちゃんみたいにはっきりと医者になりたいと思ってるわけじゃない。志もないのに同じ医大を目指すなんて、お姉ちゃんには目障りに映って仕方がないのだろう。
――でも、だからって。
分かっていることをわざわざ言わないでよ。
そんな目で見ないでよ。
これでも、私なりに頑張っているんだよ。
お姉ちゃんを前にすると、私はどんどんいやな人間になる。
やっぱり、家で勉強なんてするんじゃなかった。
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