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第一章
02 壊れた男
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シシィが連行された後、フィデリオに少し一人にしてくれと言って部屋から出した。彼も一人になって心の整理をつける時間が必要だ。
それに気づいたのだろう、隣室から何者かが内扉で入室してくる気配があった。
「殿下、お疲れさまでした。さぞ、お辛かったでしょう……」
そう言って私を労わってくれたのはマリアだ。
彼女は隣国からの留学生で、今回シシィの罪を詳らかにするための切っ掛けを作ってくれた女性だ。
「いや、国を担うべき立場の私が、こんなことで辛いなどとは言っていられない」
「今、ここには殿下と私しかいません。そして、私は決して殿下のことを余所で話したりしません。だから、今は肩ひじ張らなくていいんですよ。殿下はとても立派でした」
「マリア……。ならば、私のことを殿下と呼ぶのはやめてくれ。いつものように」
「はい、アル様。マリアはいつでもアル様の味方です。ずっとお傍におります」
完璧だと思われていた婚約者の裏の顔を知り、信頼を裏切られ傷ついた私を癒やしてくれたのはマリアだ。煌びやかで眩いばかりの色彩をまとったシシィと違い、黒髪と黒い瞳のマリアは夜のように穏やかに私を包んでくれる。
彼女が居なかったら、私は立ち直るのに時間がかかったかもしれない。
それでも私は王太子だ。表面上は動揺の欠片も見せずに振る舞うことは出来ただろう。その分、隠れた傷がいつまでも治らず、じくじくと膿んでいったに違いない。
その傷を自分の前では隠さずによいと、いつでも味方であると言って膿む前に癒してくれたマリアには、感謝の言葉もない。
「ありがとう、マリア。君さえよければ、ずっと私の傍にいてほしい」
◇◇◇
――あの時は、本当にそう思っていたんだ。
残虐で非道なシシィではなく、惜しみなく哀憐の情を向けてくれる彼女こそ、私の隣にいてほしい人だと。
それが間違いだと分かったのは、立太子の礼から三か月後のこと。
その半月前に、心身ともに弱ったシシィは、毒杯を与えられる前にただの風邪であっけなくこの世を去った。対外的には「ファルナーゼ公爵令嬢が医薬の力及ばず重篤な病で儚くなった」と発表された。
「王太子殿下、ファルナーゼ公爵からお時間を取って頂きたいとの申し出がございました」
「珍しいな」
「左様にございますね」
ファルナーゼ公爵は、公にはされなかった娘のシシィが犯した罪を知り、宰相の座から降りて屋敷に籠っていると聞く。そういえば、フィデリオがここ数日、体調がすぐれないと言って登城もしていない。フィデリオに何かあったのだろうか。
予定を調整させ、なるべく早くに時間を取ろう。
私付きの官吏にその旨を伝えると、また、執務に戻る。
ああ、ここのところマリアに会えていない。仕事が立て込んでいるのは王太子となったからには仕方のない事だが、彼女に会いたい。疲れているときは彼女に会って元気を貰いたいと、つい、考えてしまう。
「アルナルド殿下。お茶をお持ち致しました」
「マリア!」
幻かと思って、入室してきた彼女を何度も見直してしまうと、マリアがいつもの優しい笑みを浮かべて首を傾げた。
「どうしました?」
「いや……今、君に会いたいと思っていたところだったから幻かと思って」
私がそう言うと、ころころと鈴の音のような笑い声が彼女の唇から零れる。こぼれたそれを拾って瓶詰めに出来たらいいのに。
そうして、彼女に会えない時のよすがにしたい。
「だが、どうして王城に?」
私は公務が立て込んでいて通えていないが、マリアはこの時間は学園に居るはずである。
「まぁ、忙しくて休日も分からなくなってるんですね」
「……今日は、休日か」
「そうです。お疲れのアルナルド殿下の為に、焼き菓子を持ってきました。甘いものは疲れをとるでしょう?」
「ありがとう。マリアはいつも私の為に――」
言いかけたとき、執務室の扉が乱暴に開かれた。
「誰だ!無礼な!」
入ってきたものを見ると、体調がすぐれないからと休んでいた筈のフィデリオだった。
公爵家に養子に入ったからと、身だしなみには人一倍気を使っている筈の彼が、髪も服も乱れて目は血走っている。
「フィデ……」
「殿下、どうしてシシィを殺したんですか」
思いもよらぬことを言われてとっさに言葉を返せなかった。シシィの罪を彼も知っていて断罪には納得していた筈なのに、いまさら何を言っているのかと。
「シシィは罪など犯していなかった……。ああ、どうして私は誰よりも愛しいシシィのことを信じてやれなかったんだろう。殿下が揺るぎのない証拠があると言っても、私だけはシシィを信じてやるべきだった」
「フィデリオ、いったい何を……」
私が声を掛けてもフィデリオは聞かない……と言うか、聞こえていないようだった。
「シシィシシィシシィ……!義父は信じていたんですよ、シシィがそんな罪を犯すはずがないと!そして、宰相の座を辞してからずっと、シシィの無実の証拠を集めていた。シシィが死んでも義父は諦めなかった。はははははっ!義父は!諦めなかった!私は諦めてしまったのに!義父と義母は諦めなかった!これって、私が本当の家族ではなかったという事でしょうかねぇ、殿下」
狂っている。
フィデリオはシシィを大事にしていたから、彼女の罪が暴かれたこと、報いを受けたことに耐えきれなかったのだろうか。そのせいで常軌を逸してしまったのかもしれない。
「マリア・アルトワ!君だね。罪をねつ造して陥れて殿下を唆して私の可愛い可愛いシシィを殺したのは!殿下と一緒になってあの私の唯一を殺した気分はどうだい?楽しかったかい?殿下を手に入れるためになら何でもすると言っていたそうだねぇ。それが上手くいって、今、君はどういう気持ちだい?」
「え、そんな、フィデリオ様……誤解です。私はそんな事……」
「フィデリオ!言っていい事と悪い事があるだろう!君の正気じゃないのは見て分かっているが、それでも――」
私が止めてもフィデリオの狂気は留まるどころかますます激化して、血走った目から滂沱とあふれる涙をぬぐいもせずに笑い続けている。
このままでは、彼の心も体ももたない。そう思って再び声を掛けようとした時、フィデリオは私に紙の束を差し出してきた。
それに気づいたのだろう、隣室から何者かが内扉で入室してくる気配があった。
「殿下、お疲れさまでした。さぞ、お辛かったでしょう……」
そう言って私を労わってくれたのはマリアだ。
彼女は隣国からの留学生で、今回シシィの罪を詳らかにするための切っ掛けを作ってくれた女性だ。
「いや、国を担うべき立場の私が、こんなことで辛いなどとは言っていられない」
「今、ここには殿下と私しかいません。そして、私は決して殿下のことを余所で話したりしません。だから、今は肩ひじ張らなくていいんですよ。殿下はとても立派でした」
「マリア……。ならば、私のことを殿下と呼ぶのはやめてくれ。いつものように」
「はい、アル様。マリアはいつでもアル様の味方です。ずっとお傍におります」
完璧だと思われていた婚約者の裏の顔を知り、信頼を裏切られ傷ついた私を癒やしてくれたのはマリアだ。煌びやかで眩いばかりの色彩をまとったシシィと違い、黒髪と黒い瞳のマリアは夜のように穏やかに私を包んでくれる。
彼女が居なかったら、私は立ち直るのに時間がかかったかもしれない。
それでも私は王太子だ。表面上は動揺の欠片も見せずに振る舞うことは出来ただろう。その分、隠れた傷がいつまでも治らず、じくじくと膿んでいったに違いない。
その傷を自分の前では隠さずによいと、いつでも味方であると言って膿む前に癒してくれたマリアには、感謝の言葉もない。
「ありがとう、マリア。君さえよければ、ずっと私の傍にいてほしい」
◇◇◇
――あの時は、本当にそう思っていたんだ。
残虐で非道なシシィではなく、惜しみなく哀憐の情を向けてくれる彼女こそ、私の隣にいてほしい人だと。
それが間違いだと分かったのは、立太子の礼から三か月後のこと。
その半月前に、心身ともに弱ったシシィは、毒杯を与えられる前にただの風邪であっけなくこの世を去った。対外的には「ファルナーゼ公爵令嬢が医薬の力及ばず重篤な病で儚くなった」と発表された。
「王太子殿下、ファルナーゼ公爵からお時間を取って頂きたいとの申し出がございました」
「珍しいな」
「左様にございますね」
ファルナーゼ公爵は、公にはされなかった娘のシシィが犯した罪を知り、宰相の座から降りて屋敷に籠っていると聞く。そういえば、フィデリオがここ数日、体調がすぐれないと言って登城もしていない。フィデリオに何かあったのだろうか。
予定を調整させ、なるべく早くに時間を取ろう。
私付きの官吏にその旨を伝えると、また、執務に戻る。
ああ、ここのところマリアに会えていない。仕事が立て込んでいるのは王太子となったからには仕方のない事だが、彼女に会いたい。疲れているときは彼女に会って元気を貰いたいと、つい、考えてしまう。
「アルナルド殿下。お茶をお持ち致しました」
「マリア!」
幻かと思って、入室してきた彼女を何度も見直してしまうと、マリアがいつもの優しい笑みを浮かべて首を傾げた。
「どうしました?」
「いや……今、君に会いたいと思っていたところだったから幻かと思って」
私がそう言うと、ころころと鈴の音のような笑い声が彼女の唇から零れる。こぼれたそれを拾って瓶詰めに出来たらいいのに。
そうして、彼女に会えない時のよすがにしたい。
「だが、どうして王城に?」
私は公務が立て込んでいて通えていないが、マリアはこの時間は学園に居るはずである。
「まぁ、忙しくて休日も分からなくなってるんですね」
「……今日は、休日か」
「そうです。お疲れのアルナルド殿下の為に、焼き菓子を持ってきました。甘いものは疲れをとるでしょう?」
「ありがとう。マリアはいつも私の為に――」
言いかけたとき、執務室の扉が乱暴に開かれた。
「誰だ!無礼な!」
入ってきたものを見ると、体調がすぐれないからと休んでいた筈のフィデリオだった。
公爵家に養子に入ったからと、身だしなみには人一倍気を使っている筈の彼が、髪も服も乱れて目は血走っている。
「フィデ……」
「殿下、どうしてシシィを殺したんですか」
思いもよらぬことを言われてとっさに言葉を返せなかった。シシィの罪を彼も知っていて断罪には納得していた筈なのに、いまさら何を言っているのかと。
「シシィは罪など犯していなかった……。ああ、どうして私は誰よりも愛しいシシィのことを信じてやれなかったんだろう。殿下が揺るぎのない証拠があると言っても、私だけはシシィを信じてやるべきだった」
「フィデリオ、いったい何を……」
私が声を掛けてもフィデリオは聞かない……と言うか、聞こえていないようだった。
「シシィシシィシシィ……!義父は信じていたんですよ、シシィがそんな罪を犯すはずがないと!そして、宰相の座を辞してからずっと、シシィの無実の証拠を集めていた。シシィが死んでも義父は諦めなかった。はははははっ!義父は!諦めなかった!私は諦めてしまったのに!義父と義母は諦めなかった!これって、私が本当の家族ではなかったという事でしょうかねぇ、殿下」
狂っている。
フィデリオはシシィを大事にしていたから、彼女の罪が暴かれたこと、報いを受けたことに耐えきれなかったのだろうか。そのせいで常軌を逸してしまったのかもしれない。
「マリア・アルトワ!君だね。罪をねつ造して陥れて殿下を唆して私の可愛い可愛いシシィを殺したのは!殿下と一緒になってあの私の唯一を殺した気分はどうだい?楽しかったかい?殿下を手に入れるためになら何でもすると言っていたそうだねぇ。それが上手くいって、今、君はどういう気持ちだい?」
「え、そんな、フィデリオ様……誤解です。私はそんな事……」
「フィデリオ!言っていい事と悪い事があるだろう!君の正気じゃないのは見て分かっているが、それでも――」
私が止めてもフィデリオの狂気は留まるどころかますます激化して、血走った目から滂沱とあふれる涙をぬぐいもせずに笑い続けている。
このままでは、彼の心も体ももたない。そう思って再び声を掛けようとした時、フィデリオは私に紙の束を差し出してきた。
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