保元らぷそでぃ

戸浦 隆

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第一章(一)讃岐長命寺

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 侍藤五君
 召しし弓矯はなど問はぬ
 弓矯も篦矯も持ちながら
 讃岐の松山へ入りにしは
    「梁塵秘抄 四〇六」

*弓矯(ゆだめ)は弓の、篦矯(のだめ)は矢の曲がりを矯正する道具
*「梁塵秘抄」は平安末期に流行した今様・催馬楽などの歌詞を集めた歌謡集。編者は後白河法皇


   (一)讃岐長命寺

 長寛二年(一一六四年)八月二十五日。
 ずいぶん衰えはしたがまだまだ暑さを含む大気と残り蝉の声を、矢が唸りを上げて裂いた。矢は十間(けん・約十八メートル)先の的に、高らかに音を立てて突き刺さる。二つの的にそれぞれ五本ずつ連射し、外した矢は一本も無い。
「見事! 見事じゃ!」
 讃岐国司藤原季能(すえよし)が感嘆の声を洩らした。
 射芸を終えた武者は片肌を脱いでいた右腕を袖に収め、弓を背後に回してひざまずく。
「いかがでございます、新院様。当節これほどの弓の使い手はおりますまい。さすがに後白河院様が選ばれただけのことはありますな」
「雅仁の名は口に出すな!」
 新院の苛立ちが激しい語調となって季能に放たれた。
 眼窩(がんか)が落ち窪み痩せ細った新院は、とても四十六歳とは思えない。生の残骸が辛うじて身を支えているようで、眼ばかりが異様に光っている。
 季能は新院の叱責(しっせき)を鼻先でかわすように言った。
「おお、そうでございました。私としたことが、ついうっかりと………。これは申し訳ないことを致しました」
 言いようは丁寧だが、上面(うわつら)だけつるりと撫でて事を済ますような横柄(おうへい)さが滲み出ている。
 新院の左脇に座していた初老の男が、すかさず口を挟んだ。
「季能殿、言葉には重々気を遣われるがよろしかろう。世が世ならば、我らなどこうして直接お顔を拝することさえ叶わぬお方なのですぞ」
 穏やかな中にも、相手を据え打つ響きが籠もっている。
「ふん」
 季能は仏頂面(ぶっちょうづら)を横に向けた。
 季能をたしなめたのは、阿野郡(あやぐん・現在の香川県坂出市郊外)一帯を束ねる綾高遠(あやのたかとう)である。高遠は保元の乱で讃岐に流された新院を、御在所(ございしょ)が造られるまでの三年間、自邸の御堂に預かった。新院と娘との間に皇子と皇女が生まれている。御在所は直島、鼓ヶ岡と移されるが、高遠は陰になり日向(ひなた)になり新院を気遣い助力を惜しまなかった。
 一方、藤原季能は新院を罪人として扱うよう都から下知(げじ)されていた。上からの命には忠実に従うことしか頭にない地方官僚だ。いくら高貴な身分であれ罪人は罪人として扱って何が悪い、という思いが季能にはある。ただ、新院は後白河院の兄に当たる。間違いがあってはならない。すべて自分の責任になるのだ。
 こういうことがあった。
 新院が五部の大乗経を書写し、安楽寿院の鳥羽陵に納めて欲しいと都へ送った。鳥羽陵は新院の父である鳥羽上皇が眠る陵墓で、その菩提を弔うためであった。だが、後白河院の側近信西(しんぜい)入道が、「呪詛(じゅそ)の疑いあり」として突っぱねた。謀反を企てているのではないかと、平康頼を讃岐に派遣して来た。咎(とが)めは無かったものの厳しい叱責を受けた季能は、「一歩間違えば首が飛ぶ」と思った。それ以後、季能は新院の御在所の警備を強化し、日常生活の事細かなところに至るまで制限を加えた。
 新院は、季能にとって扱いにくい。その扱いにくさの裏返しから、季能は新院にぞんざいな物言いをするのである。しかし、新院には高遠が絡んでいる。国司といえども自衛集団を組織する豪族と事を荒立ててしまっては、治まるものも治まらない。季能は面白くなかった。仏頂面も出ようというものだ。
 高遠が新院に向き直り、気を転じようとした。
「新院様の無聊(ぶりょう)をお慰めなさろうとの上皇様のお計らいでありますれば、射芸を見事為し遂げた者にひと言お声を掛けるが君たる者の礼かと」
「うむ………」
 高遠に促され、新院は武者に眼をやった。
「名は何という」
「伊勢の伊藤五郎と申します」
「顔を上げるがよい」
「はっ」
 細面(ほそおもて)ながら陽に焼けた精悍な顔立ちだ。両の眼の鋭さが一層顔を引き締めている。何ごとにも動じない意志の強さ、柔軟な状況把握と判断力、俊敏な行動力といった武士として備えるべきものを、五郎は体中から発散させている。
「得意とするは弓か?」
「弓は保元の争乱以降、特に励んでおります。ですが、まだまだかと」
「保元………」
 新院が眉間(みけん)にひと筋、ひくつきが走った。
 病の出掛かる気配を察し、高遠が即座に割って入る。
「武芸諸般は幼い頃より通じておろうが、弓にこだわるは何かゆえあってのことかな?」
「敵ながら、抜きん出た弓の名手に出会いました」
「ほう。それはどなたであろう」
「源為朝殿」
「為朝? 八郎為朝か!」
 新院の顔が明るく爆(は)ぜた。
 五郎は、新院の急激に振れる感情の振幅の大きさに異常なものを感じた。新院の顔に注意深く眼を据えながら、五郎は答えた。
「左様でございます」
「話せ。八郎のことならば聞きたい」
 源為朝──源為義の八男。母は摂津の国(現在の大阪府から兵庫県にわたるところ)江口の遊女という。十三歳の時、あまりの乱暴を持て余した父により九州に追放される。豊後の国(現在の大分県)阿蘇平四郎忠景の婿となり、三年で九州を平定し鎮西(ちんぜい)八郎為朝と名乗った。鎮西とは九州を統括する大宰府を改称したものである。だが、蛮勇猛威をもって領地を奪われたとして訴えられ、朝廷が召したが応じない。そのため父が検非違使(けびいし・都の警護、裁判を司る役職)を解任されることになった。やむなく上洛するが保元の乱が起こり、父とともに新院側につく。身の丈(たけ)七尺というから、ゆうに二メートルを越す偉丈夫である。左腕が右腕より四寸長く、生まれつき弓を引くのに適した体躯だった。筋力に優れ、常人の用いる弓よりは一尺長い八尺五寸の強弓(ごうきゅう)を使いこなしたという。
「七月十一日、未明のことでございました。私は父景綱、弟六郎とともに安芸守(あきのかみ)殿の軍三百余騎に加わり、二条通りから大炊御門(おおいのみかど)の西の門へ駒を進めました」
「清盛の軍か」
「はい。安芸守殿が敵方に名乗りを上げ、それに応じたのが為朝殿でした。その名を聞いて、どよめきが広がりました。安芸守殿は気がひるんだのか進もうと致しません」
「八郎に太刀打ち出来る者などいるものか」
「業を煮やし先陣を切ったのが、我ら三十騎。父が士気を鼓舞(こぶ)するように名乗りを上げるのももどかしく、真っ先に弟の六郎と私が飛び出しました」
 五郎の脳裏に、鮮やかに為朝の姿が蘇(よみがえ)った。
 為朝が先細の矢をつがえ引き絞るのが見える。矢は放たれたが、その軌跡は見えなかった。突然、前を駆ける六郎の体が傾(かし)いだ。六郎の鎧(よろい)の右脇腹から抜け出た白い光が、自分目掛けて飛んで来る。とっさに左手で体をかばった。鋭い衝撃が腕を襲う………。
 五郎は左腕をかざして見せた。肘(ひじ)と手首の真ん中辺りに、黒ずんだ丸い傷跡がある。
「為朝殿から戴いた栄誉の傷です。弟の体を射抜き、私の射向(いむけ)の袖を貫いて、矢はようやく止まっておりました」
 新院は黙ったまま、じっと五郎の傷跡に眼を留めていた。
「私は馬から跳び降り、落馬した六郎に駆け寄りました。六郎はまだ息はあるものの動ける様ではありません。私は六郎の首を斬って落とし、自軍に取って返しました」
「自分の弟の首を、か………」
 新院は重い鉛を嚥(の)み込んだ。争乱の前も、最中(さなか)も、その後も何度も何度も嚥み込まなければならないものだった。その度に頭の芯が膿(う)み崩れてゆく………。
 五郎は、新院の眼を見詰めながら続けた。
「敵の手に掛かるは、武士の恥でありますれば」
 感情を切って捨てたような五郎の声だった。
「それにしても、何という弓勢(ゆんぜい)であったことか。六郎の鎧は、初陣のために父が作らせた特製のものです。その鎧の前後ろ二重(ふたえ)を射抜き、さらに私の鎧の袖をも裏かいたのです。鎧を二、三重ね着でもしなければ、とても立ち向かえるものではありません。為朝殿の放つ矢は、動きの激しい馬上の将をことごとく過(あやま)たず射抜きます。鬼神が乗り移ったのではないかとさえ思われ、みな声を無くし意気は消沈するばかりでした。よほど悔しく思われたのか、安芸守殿の嫡男重盛殿が討って出ようとなされました。が、安芸守殿始め側近の者が無理やり押しとどめました」
「清盛め、さぞかし慌てたことであろう。それで軍は退(ひ)いたのか?」
「中に伊賀の山田小三郎惟行(これゆき)という荒武者がおりました。徒歩衆(かちしゅう)一人しか連れ得ない身ではありましたが、剛の者です。軍功を挙げたかったのでしょう、ただ一騎でも立ち向かうと安芸守殿に申し出ました。浮き足立っていた誰の耳にその声が届きましょう。応じる者も無いまま、惟行殿はだだ一騎走り出ました。後に続くは徒歩衆一人のみ………。

 為朝が言い放った。
『引き返すがよい。汝(なんじ)が主(あるじ)、清盛でさえ相手にとって不足。清和源氏の血を継ぐ九代為朝の敵ではないわ』
 惟行が応じた。
『これは筑紫の御曹司(おんぞうし)の言葉とも思えません。平氏は桓武天皇の後胤(こういん)。古(いにしえ)より源平両家は天下の両輪、左右の翼でございましたぞ。その平氏の郎党の射る矢の、源氏の身に立つか立たぬか、ご覧あれ!』
 惟行は、三人張りの弓(三人掛かりで弦を張った弓)を引き絞る。
 為朝も矢をつがえ、同時に射合う間合いを計った。だが、為朝は惟行の一の矢を受けてやろうと思った。怖(お)じて討って出て来ない敵の中からだだ一人射合おうとする惟行の、武士としての誇りを慮(おもんぱか)ってのことだ。
 惟行は為朝の内甲(うちかぶと)を狙って)矢を放った。矢は為朝の鎧障子(肩の上の半円形の鎧の一部)の鉄板を縫った。少しずれていれば危うく首の骨を砕かれるところだった。
『平氏の郎党、殊勝なり! 為朝の矢、ひと筋取らす。あの世への土産とせよ!』
 為朝は、狙いを少し下げた。
 ひょおうっ!
 唸りを上げて飛び出した矢は惟行の馬の鞍の前部を割り、草摺(くさずり・鎧の胴の下に垂れて大腿部を保護する部分)の重なりを射抜き、鞍の尻まで貫いた。
 驚いた馬が棒立ちになる。
 惟行の体が放り出された。が、鎧が鞍ごと矢に縫われている。上体が逆さに宙吊りとなった。
 馬はむやみに走り回る。
 引き摺られる体の重さで草摺の糸が切れ、惟行は落馬した。
 これを見て、為朝の家臣高間(たかま)三郎以下が飛び出す。惟行の徒歩衆は長刀(なぎなた)で応戦するが難なく斬り伏せられた。惟行の首が取られ、高々と掲げられる。勝ち鬨(どき)の声が上がった。

………この有様を見届けて後、安芸守殿率いる軍は退き、鴨川の東、新院様の立て籠もる白河北殿へ向かったのです」
 新院はうな垂れた首を左右にふりながら、五郎に訊いた。
「八郎の、その後のことは知っておるか」
「兄義朝殿と一戦交えた後、近江の国(現在の滋賀県)に隠れ、九州に逃れるところを捕らえられました。弓が使えないよう左右の腕の筋を抜かれ、伊豆大島に流されたと聞き及んでおります」
「………そうか。生きておるか………」
 ふっと、新院の口から吐息が漏れた。続けて出掛かった言葉は意味不明のくぐもりとなり、喉の奥に嚥み下された。また、重い鉛が沈んでゆく。
 保元の乱では親子、兄弟、親類縁者が敵味方に分かれ戦った。新院は弟の後白河院と、源為朝は父為義とともに兄の義朝と、平清盛は伯父の忠正と………。しかも乱後の処置は非情だった。敗者となった新院側の公家たちは死罪。減刑を条件に投降したにもかかわらず斬殺された者も多数いる。武士の場合はもっと苛酷だった。肉親に首を刎(は)ねさせたのである。死罪は平安時代初期から途絶えていた。それを復活させたのは信西入道である。信西は冷徹な合理主義を貫く学者あがりの自信家で、妻の「紀の二位」が後白河院の乳母であったことから政治の実権を握っていた。
 こういう状況下で、為朝が死罪にならなかったのは奇跡に近い。その才能が惜しまれたというだけではない。為朝が兄義朝と対峙した時、殺傷力の小さい鏑矢(かぶらや)を用いたという。そういう人間味をあわせ持つ為朝に、敵味方かかわりなく魅力を覚える者が多かったのだろう。
「私は為朝殿に一歩でも近づきたく弓に励むようになったのです。その甲斐あってか、北面の武士(院の御所の北面にあって、院中を警護する武士)に取り立てられ、後白河院にお仕え致しております」
 五郎は淡々と語りながら、新院を見詰めている、
 生死の戦いをくぐり抜けて武芸を磨くうち、研ぎ澄まされた肉体や精神がほとんど本能的に相対する者の能力を嗅ぎ取るようになっていた。坐っている高さから推し測る背丈、袖に隠れた腕の長さ、肩や指の動きから知れる利き手、眼の動きや据えどころから読み取れる胆力の度合い、口や鼻孔から漏れる息づかいや言葉の端々からは感情を制御する力の有無を。
「雅仁めが………」
 五郎が口にした「後白河院」という言葉に、新院がまたもや過敏に反応した。瞳孔(どうこう)が異様に縮んでいる。一点を注視していながら、その眼には何も映ってはいないのだ。むしろ放心しているように、五郎には思えた。
「ウ、ウウ、ウ………」
 新院がうめいた。体が小刻みに震えている。
「い、いかん!」
 高遠が新院の両肩を抱える。
「季能殿、きょうはこれにて打ち切りに」
「またか。仕方あるまい」
「ウオ、オオオ………」
 新院が高遠を撥(は)ねのける。高遠は勢いよく後ろに転んだ。どこにこれだけの力があるのか、と思われるほどの凄まじさだった。
 新院が自分の額を床に打ちつけ始める。ゴツン、ゴツンと鈍い音が弾けた。
 起き上がった高遠が新院に取りすがる。抱き起こそうとするが、新院の狂暴はもはや手のつけようが無い。高遠の腕を振りほどき、喉の奥から叫び声を絞(しぼ)り出し、ひたすら額を打ち続ける。
 季能は手を貸そうともしなかった。ただ冷ややかに見ているだけで、発作(ほっさ)の治まるのを待っている。
 その時、風が舞った。
「御免!」
 五郎が瞬時に新院の前に跳び込んだのだ。
 俯(うつむ)いた新院のうなじの盆の窪(くぼ)に手刀が落ちる。新院の呼吸と動きが、一瞬止まった。五郎の左手が新院の右肩に掛かる。すると新院の上体が操り人形のように起きた。鳩尾(みぞおち)を五郎の拳がトンッと突く。新院の体からすうっと力が抜けた。
 無駄を削(そ)いだ一連の動作が、まるで水のように流れた。高遠も季能も、五郎が舞を舞っていると思った。それほど五郎の身のこなしは優雅だった。
「ご無礼仕(つかまつ)りました」
 いつの間にか元の下座に畏まり、五郎が一礼する。
 気を失い仰向(あおむ)けに倒れている新院の額から赤い血がひと筋、鬢(びん)に流れてゆく。
 誰も声を発しなかった。
 蝉の声が、残響のように境内に戻って来た。
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