鎌倉らんぶりんぐ(上)

戸浦 隆

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一 歴研の豆タンク

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 江ノ電に乗りたいーーー。
 眼をキラキラ輝かせながら、桐生瑞希(きりゅう・みずき)は葛西亮二(かさい・りょうじ)の返事を待っている。
 子供みたいなことを言う、と亮二は思った。亮二より一学年下の瑞希は、今年二十一になる。女としては背が高く、一七〇センチ近くはゆうにある。モデルにするには少し肉付きが良過ぎるが、健康的な明るい笑みが頬から消えることが無い。気取らず臆することなく話す瑞希は、初対面の人間にはつい身構えてしまう亮二に余分な力を入れさせなかった。まるで喉越しの良いタピオカのように、瑞希はするりと亮二の腹に落ちて来た。
 軽い感じはしない。上品な感性と大人びた落ち着きが、何かの折にふっと香水のように匂い立つ。時折ぞんざいな言葉を使うが、それも相手との距離を縮めるのに役立っている。その瑞希が、遠足を待ちかねる幼稚園児よろしく江ノ電に乗りたがっていた。
「江ノ電かぁ。いいな。私も行こうっと」
 カウンター席の瑞希の隣に坐っている千巻陶子(せんまき・とうこ)が便乗しようとした。
「あら、駄目よ」
「へっ。何で?」
「だって亮二さんと私のデートなんだから」
「十歩以内には、足踏み入れないからさあ」
「監視付きなんて、デートした気になんないわ」
 陶子は、右手の人差し指で形の整った鼻筋に沿って黒縁の眼鏡を摺り上げた。眼鏡の奥の眼が、カウンターの中で洗い物をしている亮二に向けられている。
 小さな居酒屋である。カウンター席が十あまり、その背後にテーブルが三つ。二十人も入ればいっぱいだ。冬なら暖房要らずでいいが、夏場はサウナ風呂のような店だ。調理人である店主のタツヨシとアルバイトの亮二が、せわしなく狭いカウンターの中で立ち働いている。その亮二の方へ顎(あご)をしゃくりながら、陶子が言った。
「こう見えてもこの子、手が早いんだから。保護者としてはだなあ、あなたの身を案じているわけよ」
「保護者? いつから勝手に私の保護者になってくれてたの、陶子さん?」
「あなたが私の隣の部屋に引っ越して来た時からよ、ウサギちゃん」
 二ヶ月前、瑞希はワンルーム・マンションに引っ越した。扉を開け放したまま荷を解いていると、入口に仁王立ちした小柄な女性が声を掛けて来た。近づいて挨拶を交わすと、瑞希の背丈の三分の二ほどしかない。それが陶子だった。
 品定めするような鋭い視線と速射砲のような指図の合間にこぼれ落ちた話の内容を繋ぎ合わせて解った陶子の事情は、こうである。陶子が瑞希の通う大学の院生であること。前に住んでいた隣人が夜昼逆の生活で度々深夜パーティーを開き、寝不足かつ勉強不足に悩まされていたこと。再三の猛抗議で追い出したばかりだから、やっと落ち着けるようになったことなどなど。それ以来、二人は時々話を交わすようになった。今日は延び延びになっていた引っ越し祝いに、陶子が行きつけの居酒屋に瑞希を連れて来たのだった。
「あなたに亮二君紹介したげたの、私でしょ。後見人の顔、立ててくんないかなあ」
「亮二さんはそれでいいの?」
「いいよね、亮二君」
 瑞希と陶子の二人同時の問い掛けに、亮二はちょっと返事に窮した。
 陶子は亮二の二年先輩に当たる。所属する歴史研究サークルに亮二が入った時には、部長を務めていた。正論を振りかざす小さな美人部長は、鼻っ柱が強い。太刀打ち出来る者は誰もいなかった。亮二の先輩の男子諸兄は、敬意と口惜しさを込めて陶子を「豆タンク」と呼んでいた。「歴研の豆タンク」ーーーその通り名を持つ陶子に、亮二はいまだに頭が上がらないでいる。
 困った顔で皿を拭いている亮二をジロリと見て、タツヨシは大きな眼をさらに大きく剥(む)いた。
「モタモタすんな、亮二。二番テーブルの『サザエの肝(きも)和え』と『里芋のコロッケ』、上がってるぞ。男はなぁ、仕事と色事は相手を待たすもんじゃねぇ。サッサと動け!」
「はいっス」
「『ス』は要らねぇだろうが。『酢』だって使い所を間違やあ、気とおんなじで利かねぇんだよ」
「はい」
 亮二はあわててカウンターを出て、テーブルへ皿を運ぶ。瑞希は亮二の後を眼で追った。
 陶子は二人を横目で見ながら、盃をクイッと空けた。
「相変わらず威勢がいいね、タッチャン」
「オウともよ。威勢がよくなきゃあ、やってらんねぇよ」
 三十を少し越したタツヨシは、威勢ばかりでなく体格もいい。レスラーかラガーマンかと思わせる巨体だから、狭いカウンターがいっそう狭い。趣味が高じて二年前に始めた「伽武羅屋(かぶらや)」という居酒屋を一人で切り盛りしている。威勢と体格に比べると男振りは少々落ちるが、さっぱりした性格が居心地よくさせるのか、女性客のファンが多い。
「その威勢のいいとこで、
私も『サザエの肝和え』貰っちゃおう」
「ハイよ。『サザエの肝和え』、いっちょう!」
「ついでに威勢よく私をカミさんに貰っちゃわない?」
「ついでに貰っちゃカミさんになる人に申し訳ねぇ。欲しけりゃ紋付き羽織袴でビシッと決めて貰いに行かぁ」
「じゃあ、ビシッと決めて貰いに来てよ」
「おう。体を浄(きよ)めて待ってな。そのうち貰いに行っからよ」
「そのうちそのうちって、いつなのよ」
「そうだなあ。五十センチ超える石鯛釣ったら、そいつを祝いにぶら下げて迎えに行ってやる」
「誰よ。色事の相手は待たすもんじゃないって言ったの」
「果報は寝て待てだ。当てにして待ってろって」
「当てにして寝てるうちにバアさんになっちゃうわ。アテが来るまで冷や酒、お代わり」
「ほい。亮二、カウンターに冷や酒!」
「はい」
 亮二が急いで戻り、陶子に酒を出した。
 陶器の皿に乗ったグラスの酒をこぼさないように受け取りながら、陶子が亮二に言う。
「で?」
「は?」
「『は?』じゃないでしょうが、『は?』じゃ。どうなのよ、さっきの話」
「ああと。出来れば、二人だけの方が」
「やっぱオジャマ虫? 私って」
「と言うか、先輩と一緒だと緊張しますから。自分が自分でなくなるんです」
「何言ってんの。どうせカッコつけて自分で自分を隠すくせに。私が居ようが居まいが同じことだと思うけど」
 陶子には何を言ってもしっぺ返しを食らう。亮二は溜息が出そうになった。
 タツヨシが「サザエの肝和え」を陶子の前に出しながら言った。
「人の恋路は邪魔しねぇの。はい、お待ち」
「男運が無いのかなあ、私って」
「そう言うなって。食べてみな。機嫌、治るからヨ」
 タツヨシに勧められ、サザエの殻の中に盛られた肝和えを口に運ぶ。陶子の眼が眼鏡の奥で丸く開いた。
「どうよ、機嫌は」
「うん! 治った!」
「だろう。酒のアテにゃあ最高よ」
「どうやって作んの、これ」
「サザエの身を外すわな。そしたら身は酒でさっと炒めて細切りにする」
「うんうん。それから?」
「肝があるだろ、クルクルッととぐろを巻いたヤツ。そいつを酒でじっくり火を通すのヨ。漉(こ)し器で漉して、醤油・味醂・練り胡麻・味噌・豆板醤を加えて摺る。後は三つ葉をまぜこんで和えるだけ。簡単だろ」
「口で言うのは何でも簡単だけどね。実際やってみると納得いかないことが多いのよ。私の可愛いウサギちゃん。はい、食べてみて」
 差し出された器に瑞希も箸を伸ばした。濃厚な味を頭の中で描いていたが、口の中に入れてみると意外にあっさりしている。ほのかな甘みと辛さが広がり、サザエの身の歯応えが自己主張していて小気味よい。風味が後を引き、酒を呼ぶ。酒の味が解るほど呑む機会があるわけではないが、なるほどタツヨシが「酒のアテには最高だ」と言うのは頷ける気がした。
 二人でサザエを堪能した後、陶子が空になったサザエの殻を手でひっくり返して言った。
「やっぱ右巻きかぁ」
「左巻きもあるんですか?」
「たまにね。亮二君みたいのがいるのよ」
「え? 亮二さんて左巻きなんですか」
 そりゃあないよ、と亮二は右手を顔の前で左右に振って否定した。
 陶子は亮二の仕草を無視して続けた。
「ま、珍種には違いないわね。鎌倉産のサザエは左巻きって知ってる?」
「そうなの?」
「源頼朝が舟遊びをした時、左巻きのサザエを撒(ま)いたの。だから左巻きのサザエは鎌倉で獲れたものなの」
「知らなかったわ」
「本気にしないで。伝説よ」
 何がおかしいのか、陶子が思い出したようにクスクス笑う。
 瑞希は陶子に尋ねる眼を向けた。
「亮二君はね、『鎌倉殿』って呼ばれてるの」
「鎌倉殿?」
「頼朝のことよ。おっとりしているようで、妙なところにこだわる。女にだらしないエエ格好しぃのぼんぼん。ね、何となく似てると思わない?」
 瑞希は亮二をまじまじと見た。
 亮二は、また始まったかと、うんざりした顔をしている。
「生まれも鎌倉だしね。『鎌倉殿』と言うより『鎌倉のサザエ君』って言った方が当たってると思うんだけどな」
「サザエ君………」
「サザエの貝殻は据わりが悪いでしょ。だから家に落ち着かない尻軽な人のことを言うのよ」
「ふうん。でも、なぜ私に紹介したんですか。女にだらしないエエ格好しぃのぼんぼんのサザエ君を」
「お尻を叩く人が要るのよ。私じゃビビって殻に閉じ籠もっちゃうからね。瑞希ちゃん見た時、ピンと来たの。この人なら上手に叩けるって」
「アハハッ。叩くの大好き。思いっきり叩いていいんですか?」
「天の邪鬼みたいなとこあるから、亮二君は。でもいいヤツよ。叩き方次第ね」
「叩き甲斐がありそうで嬉しいな」
 二人の会話が聞こえない振りをして拭いた皿を片付けている亮二に、陶子が聞こえよがしに言った。
「卒業も目の前だというのに、何考えてるんだか。就職決まってないの、君だけだぞぉ。鎌倉殿ォ」
 言われて亮二は肩をすくめた。
「会社なんて堅苦しいだけで、性に合わないスから」
「そんなこと言って、ここのアルバイトだって卒業後までなんでしょ」
 タツヨシが亮二の頭を拳骨でコンコンと小突いた。
「後がつかえてんだ。早いとこどっかへ潜り込め」
「はあ。まあ、そのうち」
「張り合いのねぇ野郎だよ、まったく」
「ホントに」
 言いながら、陶子はバッグからティッシュを取り出した。街頭で配っている何々ファイナンスと会社名の入った宣伝用の携帯ティッシュだ。袋の取り出し口から引き出したティッシュで丁寧にサザエの殻を拭う。それからハンカチで貝殻を包むと、そっとバッグの中に仕舞った。
 瑞希が不思議そうに訊いた。
「どうするんですか、それ」
「栄螺の灯火」
「さざいのともしび?」
「サザエの殻に油を入れて火を灯すの。昔の人はね、金山の坑内に入る時なんか明かりにしてたのよ。私の部屋に金は無いけど、ちょっとオシャレなインテリア・ライトにしようかなって」
「素敵。私も欲しいな」
 タイミングよく、瑞希の前にサザエの貝殻がそっと置かれた。眼を上げると亮二が微笑んでいる。
「いや、陶子先輩がサザエ談義を始めたからね。多分こういう展開になると思って用意してたんだ」
 照れながら言う亮二の言葉は、決して言い訳ではなかった。亮二の心配りは先を読んでの配慮で、結果を求めての計算ではない。だから役に立たなかったからといって落胆することもないし、してやったりと得意がることもない。相手が喜べばそれでいいのである。キザな行為というのは鼻につくものだが、それは見返りを期待したり自分をよく見せようという意識が働くからだ。だが素直な気持ちから出た行為には、相手も素直に気持ちを受け取るものである。結果的に点数を稼ぐことになる場合もあるが、それは天からのご褒美と思えばいい。
 瑞希は喜んで、頭を下げた。
「ありがとう」
 陶子が羨ましそうに鼻を鳴らした。
「やるじゃない、鎌倉殿」
「歴研で無駄に四年間鍛えられたわけじゃないですから」
「おまけに私のより大きいんだもんね。憎いなあ、この色男」
 タツヨシが慰めるように陶子に言った。
「拗(す)ねるなって。亮二たちのデートの日によ、俺がいいとこ連れてってやっからよ」
「どこよ」
「房総沖のクルージング」
「なんだ。クルージングって言ったら聞こえはいいけど、毎度お馴染みの小型船舶五目釣りじゃない。でも、小姑(こじゅうと)役やって怨まれるよりはマシかもね」
「釣りたての魚が刺身で食えるんだ。文句ねぇだろ」
「文句ねぇよ。じゃあ、私のお相手はタッチャン、と。ハイ、決まり。お二人さん、仲良く行ってらっしゃあい」
 初デートなのだ。豆タンクに付きまとわれたのでは堪(たま)ったものではない。亮二はほっと胸を撫で下ろした。その亮二の内心を見透かしたように、陶子が言葉を付け加えた。
「鎌倉殿、お忘れ召(め)さるな」
「は?」
「『報告』よ。後できっちり聞かせて貰うからね。覚悟しといて」
「いけね! 忘れてた」
 陶子の言う「報告」とは、デートの中味のことではない。
 歴研メンバーにはノルマがある。大学構内から半径二十五キロメートルより遠くへ移動する場合、行った土地の歴史的事柄をレポートすることが義務付けられているのだ。「報告」を皆で検証し討論の議題とする。調べた史実が誤っていれば、再度調べ直さなければならない。歴史の勉強にはなるし、思わぬ史実に驚くこともある。ただ、陶子ほど歴史に詳しい部員も史実を掘り起こすことに熱心な部員もいなかった。いい加減な「報告」をすると、徹底的に叩かれる。豆タンクの高性能レーダーの捕捉能力は信じ難いほど正確なのだ。砲撃の標的になった歴研メンバーの誰もが、そのことを嫌というほど思い知らされていた。
 卒業を間近に控えていた亮二は、うっかり「報告」のことを忘れていた。今さらデートをご破算にするわけにもいかない。江ノ電ではなく、映画を見たり喫茶店で話をするという方向転換も瑞希の笑顔を見れば難しい。観念するしか手は無さそうだった。手を弄(ろう)したところで、すぐにバレる。何しろ豆タンクの兵舎は、瑞希の部屋のすぐ隣に設置されているのだから。
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