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四、兵頭先生
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「眼鏡を掛けるようになったのか」
兵頭(ひょうどう)先生が教室の窓際に坐る陶子に声を掛けた。
「はい。急に黒板が見えずらくなったものですから」
「それじゃあ、俺の男前の顔がよおく見えるだろ。ヒャッヒャッ」
男前どころか、兵頭先生はみんなに「ネズミ男」という不名誉な渾名(あだな)を付けられるほど「ゲゲゲの鬼太郎」の「ネズミ男」にそっくりな顔をしている。おまけに体が細く、背が低い。声は甲高く、動きが俊敏だ。居眠りやカンニングを目ざとくみつけると、教壇から瞬時にすっ飛んで来て生徒のオデコにデコピンを食らわす。そうして、あっという間に教壇に舞い戻り、何気ない顔で授業を続ける。まさに「ネズミ」のようなすばしこさだ。
「美人は得だな。眼鏡を掛けると頭がなお良くなったように見える。俺も掛けるか。ヒャッヒャッ」
シャックリのような笑い声を残し、兵頭先生は黒板の方へ歩き出した。
陶子は兵頭先生の心配りが有り難かった。級友と疎遠気味になっている陶子に、出来る限り声を掛けてくれるのだ。陶子が副会長を務める生徒会室にもちょいちょい顔を覗かせ、何でもない話をひと頻(しき)りして陶子の周りの雰囲気を和ませて出て行く。陶子には学校の中の数少ない味方のような存在だ。だから陶子は夏休みに入る前の集中講座で、兵頭先生の担当する古典を選択した。授業はユーモアがあって頭に入り易い。時には本題から脱線するが、脱線した先の話の方が陶子にはむしろ興味深かった。授業の内容とは遠く離れた所に、実は歴史に埋もれながら古典に生きる人々の息遣いが聞こえる。兵頭先生の脱線話は、恭一のしてくれた話と共通するものが感じられるのである。
「さあてと、もう仕上がったみたいだな。回収!」
テスト用紙が後ろの席から前に渡され、順次集められる。集まった用紙の束を教壇の机の上でトントンと揃えながら、兵頭先生はクラスを見渡した。
「本日のテストは『徒然草』からの出題だった。作者はみんな知ってるな」
「兼好法師です」
教室の真ん中最後尾の席の男生徒が答えた。
「そうだ。じゃあ、本名は?」
「吉田兼好」
「そう言うよな、十人が十人とも。ところがどっこい。それは本名じゃない。通称だ、ヒャッヒャッ」
兵頭先生は黒板に白墨を走らせ、「卜部兼好」と書いた。
「読めるか?」
誰も声を上げない。兵頭先生は、ニヤニヤ笑いながら生徒に眼を走らせている。
陶子が手を挙げた。
「おう! 千巻。言ってみろ」
「うらべ・かねよし、です」
「ほお。よく知ってたな」
兵頭先生の細い眼がもっと細くなった。
「うらべ・かねよし。これが本名だ」
「じゃあ、なぜ吉田になったんですか?」
先ほど答えた男生徒が訊いた。
「吉本。お前、手を挙げてから言えよ。口先男はモテんぞ」
吉本という生徒は舌をペロッと出した。それが返事だった。
吉本晃はひょうきんな性格で、屈託が無い。クラスの人気者だ。陶子の所属する剣道部のキャプテンで、腕は立つが勉強はからきしという典型的な体育会系男子である。同じ部員でもあり、最近起こった事件に振り回されて元気の無い陶子に彼流のやり方で気遣いをしている。古典などチンプンカンプンの吉本がこの集中講座に参加したのも、陶子のことが気懸かりだったからだ。
「兼好法師はな、京都の吉田神社の神官の三男だった。名前としては神社の名前の方が通りがいいだろ。ところで、千巻。苗字の『卜部』とはどんな意味だ?」
「はい」と、陶子は立ち上がった。
「神社の神官は神のお告げを伝える役目を持っています。卜部の『卜』は亀の甲羅を焼いて占いをする『卜占(ぼくせん)』から来ています。亀の甲羅に穴を掘って熱した表面に水を掛けると、音を立ててひびが入るんです。そのひびの形を文字にしたのが『卜』です。『部』というのは、たぶん大和時代の人民が振り分けられた………」
掛け始めたばかりの黒縁の眼鏡はまだ馴染まない。時折気になる陶子は小さいが形のいい、筋の通った鼻に沿って眼鏡を擦り上げながら続けた。
「職業や住んでいる地域に付けられた総称です。だから、『卜部』は『卜占を行う特殊技術を持った部民』という意味だと思います」
「なるほど。さすがに歴史は詳しいな」
恭一のお陰だ。ずいぶんたくさんのことを恭一から教わった。だから歴史や言葉に惹かれ、自然と身に着くようになったのだ。その恭一は陶子の側にいない。胸の奥がズキンと疼(うず)く。
腰掛ける陶子に頷いた兵頭先生は、クラスのみんなに尖ったネズミ顔を向けた。
「卜部氏は千巻の言う通り、神祇官(じんぎかん)の卜占として神事に仕えた氏族だ。卜部氏は平安時代に吉田と平野の二派に分かれたが、室町末期に平野は絶え吉田卜占だけが残った。兼好は後二条天皇に仕え、二十代の時に従五位左兵衛佐(さひょうえのすけ)まで進む。相当なスピード出世だぞ、これは。が、いいことばかりが続くとは限らん。それが世の中の通り相場というもんだ。信頼を置いてくれていた後宇多院が亡くなって落ち込んだ兼好は三十代で出家した」
「後二条とか後宇多って言われてもピンと来ないんですけど」
「口より先に手だろ、吉本」
「あっ。はい!」と、吉本晃が手を挙げた。
「ピンボケだなあ、お前」
教室のそこここでクスクスと笑いが起こる。
「後醍醐天皇は知ってるか?」
「そこまでピンボケじゃないです。小学生だって知ってます、そんなの。鎌倉幕府を倒して『建武の新政』を始めた天皇です」
「なるほど。ピントが合ってるのは小学生レベルまでか。高校生だろ、お前。もう少し水準を上げろよ」
ペロッと、吉本晃は舌を出した。
「泣きたくなるぜ、まったく」と言いながら、兵頭先生は言葉を続けた。
「後宇多院の第一皇子が後二条、第二皇子が後醍醐だ。兼好が『徒然草』を書いたのは四十代後半、『建武の新政』の始まる三年ほど前と言われている」
兵頭先生はくるりと後ろを向くと、黒板に何やら書き始めた。
夜も涼し寝覚めの仮庵手枕も
真袖も秋に隔て無き風
「これは兼好法師が友人の頓阿(とんあ)法師に送った歌だ。この歌にはある言葉が隠されてる。まあ、いわば暗号みたいなもんだ」
暗号………。陶子はハッとした。
「これは和歌をたしなむ者の知的遊びだな。誰か解る者、いるか?」
誰も手を挙げない。一同を見回し、兵頭先生は続けた。
「まあ、無理だろな。お前らのボンクラ頭じゃ。ヒャッヒャッ」
「ひどい言われよう!」
「解れと言う方が無理ですって、先生」
あちこちで声が上がる。
「よしよし。ヒントをやる。『沓冠(くつかぶり)』だ」
皆がキョトンとした顔を見合わせた。
ニヤニヤ笑っていた兵頭先生が、また板書する。今度は別の歌を一行ずつに分け、平仮名で書いた。
からころも
きつつなれにし
つましあれば
はるばるきぬる
たびをしぞおもふ
「これは『伊勢物語』の中に出て来る歌だ。初句から結句までの頭の文字を読んでみろ」
吉本晃が、今度も手を挙げずに言った。
「か・き・つ・は・た。何だ、こりゃ」
「お前、デコピン食らわすぞ」
吉本晃は、またペロッと舌を出した。
「『かきつばた』と読むんだ、これは。『かきつばた』という花の名を、それぞれの句の頭に織り込んで旅の心を詠(うた)ったものだ。これを『冠』という。では『沓』は?」
廊下側の後ろから二番目の席の女生徒が手を挙げた。
「ほい、松方」
すっと立ち上がった女生徒は、良く通る声で答えた。
「足です。それぞれの句の一番下の字に『沓』を履(は)かせるんです。『冠』と連ねたら意味のある言葉になるんでしょ」
「その通り」
松方沙耶は、満足げにニコリと頷いた。学年でトップの成績を争う子で、陶子と同様に生徒会副会長を務めている。陶子は学科によって得意不得意があるのだが、松方沙耶はオールラウンド・プレイヤーで苦手科目が無い。ただ、歴史と古典だけは陶子に分がある。互いに負けん気の強い性格だから、譲れない気持ちが強い。兵頭先生のお気に入りの生徒になりたいという気持ちも手伝い、松方沙耶は集中講座に参加した。そうして、もちろん自己アピールの機会を逃さない。松方沙耶は坐る前に肩に掛かるロング・ヘアーを両手でしなやかに後ろに払った。
吉本晃が口の中でぶつぶつと言った。
「も・し・ば・る・ふ………」
「吉本。この歌は『冠』だけだ。『沓』は無い」
「えーっ! 詐欺じゃないですか、それって!」
兵頭先生がひゅっと動いた。途端に吉本晃の額からピシッと音がした。
「い、ってぇ!」
「言っただろ。今度はデコピンだって」
教壇に戻った兵頭先生がみんなに言った。
「兼好法師の歌は『沓冠』だぞ。さあ、みんな。解いてみろ」
みんながノートに歌を書きうつし、音を拾い出す。陶子も各句ごとに区切り、漢字を平仮名に置き換えてみた。
よもすずし
ねざめのかりほ
たまくらも
まそでもあきに
へだてなきかぜ
吉本晃がまた、ぶつぶつ言う。
「よ・ね・た・ま・へ。し・ほ・も・に・ぜ………。あっ」
今度は手を挙げた。沓冠が解けたわけではない。デコピンを避けるためだ。
「さっぱり解りません」
「『よね』とは、米のことだ」
「米給え、か。でも、先生。『沓』の方は?」
「まったく、お前は。前が駄目なら後ろから、だ」
「ぜ・に・も・ほ・し………。そうか、銭も欲しい!」
「解ったか。『米をくれ。金も欲しい』だ。身に染みる秋の夜風を詠いながら、米と金の無心をしているわけよ。無心はあからさまには頼みにくい。だから、歌の中に隠して伝えたんだ。昔の連中は頭がいい。お前ら、負けるなよ」
陶子は体が震えるのを覚えた。
「先生………」
「何だ、千巻」
「他にも『沓冠』の歌がありますか?」
「おお、あるとも」
兵頭先生はもう一首、板書した。
逢坂も果ては往き来の関もゐず
尋ねて問ひこ来なば帰さじ
「これはどうだ。兼好法師ではなく、平安時代の『栄花物語』だが」
同様に、ノートに平仮名書きに直す。
あふさかも
はてはゆききの
せきもゐず
たづねてとひこ
きなばかへさじ
また吉本晃のぶつぶつが始まった。
「あ・は・せ・た・き。じ・こ・ず・の・も………。いや、違うなあ。逆か。も・の・ず・こ・じ………。さっぱり解らん」
「濁音を清音にしてみろ」
「あはせたき、しこすのも。反対か? あはせたき、ものすこし。あっ!」
手を挙げた吉本晃に、兵頭先生が頷いて指名した。
「解ったか、吉本」
吉本晃は、鬼の首でも取ったように得意げに言った。
「会わせたき者少し。何人か会わせたい人がいる、ということだよな、やっぱ」
「いい線行ってるが、ズレた。無理か、やっぱ小学生レベルの吉本では」
「いい線行ってるんですか。じゃあ、まあまあ合格ですよね」
「合格不合格に『まあまあ』は無い。一点でも足らなきゃ、チョン」
兵頭先生は右手で手刀を作ると、自分の首を斜めにさっと斬り下ろした。
「正解はだ、『合わせた着物少し』。つまり表と裏を合わせて作った、裏地のある着物を袷(あわせ)というんだが、それを縫ったから少しお配りします、という意味だ」
「『冠』の最後の『き』と、『沓』の最初の『も』をくっつけて『着物』ってしていいんですか。変則技じゃないですか、それって」
声が大きくなり、慌てて吉本晃は額を押さえた。皆がどっと笑う。
陶子はノートに、恭一の和歌を一行分けの平仮名で書き出した。頭の中に刻みつけてあるから、書くのは容易い。
さとすずめ
とまやのかりね
とどまるも
びゃくえのすそも
のかぜさよふく
沓冠で音を拾う。「さととびの」「めねももく」だ。意味を成さない。読みを逆にしてみる。「のびととさ」「くももねめ」となり、やはり意味が通らない。沓冠ではないのか。悔しいが、読み解く力は今の自分には無さそうだ。兵頭先生なら何か気付くかも知れない。そう思って顔を上げた時、授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
陶子は兵頭先生の後を追った。廊下の端で追いつき、先生の名を呼んだ。兵頭先生は「おう」と応えて振り返り、立ち止まった。呼び止めたものの、陶子としてはこんなところで事情を詳しく話したくは無い。だが、切羽詰まった陶子の気迫を兵頭先生は敏感に悟ってくれた。
「よし。放課後、用務員室に来てくれ。竹崎さんに話して、部屋を空けておいて貰うから」
兵頭先生は片眼をつぶってウィンクすると、何事も無かったかのようにスタスタと教員室に向かった。
兵頭(ひょうどう)先生が教室の窓際に坐る陶子に声を掛けた。
「はい。急に黒板が見えずらくなったものですから」
「それじゃあ、俺の男前の顔がよおく見えるだろ。ヒャッヒャッ」
男前どころか、兵頭先生はみんなに「ネズミ男」という不名誉な渾名(あだな)を付けられるほど「ゲゲゲの鬼太郎」の「ネズミ男」にそっくりな顔をしている。おまけに体が細く、背が低い。声は甲高く、動きが俊敏だ。居眠りやカンニングを目ざとくみつけると、教壇から瞬時にすっ飛んで来て生徒のオデコにデコピンを食らわす。そうして、あっという間に教壇に舞い戻り、何気ない顔で授業を続ける。まさに「ネズミ」のようなすばしこさだ。
「美人は得だな。眼鏡を掛けると頭がなお良くなったように見える。俺も掛けるか。ヒャッヒャッ」
シャックリのような笑い声を残し、兵頭先生は黒板の方へ歩き出した。
陶子は兵頭先生の心配りが有り難かった。級友と疎遠気味になっている陶子に、出来る限り声を掛けてくれるのだ。陶子が副会長を務める生徒会室にもちょいちょい顔を覗かせ、何でもない話をひと頻(しき)りして陶子の周りの雰囲気を和ませて出て行く。陶子には学校の中の数少ない味方のような存在だ。だから陶子は夏休みに入る前の集中講座で、兵頭先生の担当する古典を選択した。授業はユーモアがあって頭に入り易い。時には本題から脱線するが、脱線した先の話の方が陶子にはむしろ興味深かった。授業の内容とは遠く離れた所に、実は歴史に埋もれながら古典に生きる人々の息遣いが聞こえる。兵頭先生の脱線話は、恭一のしてくれた話と共通するものが感じられるのである。
「さあてと、もう仕上がったみたいだな。回収!」
テスト用紙が後ろの席から前に渡され、順次集められる。集まった用紙の束を教壇の机の上でトントンと揃えながら、兵頭先生はクラスを見渡した。
「本日のテストは『徒然草』からの出題だった。作者はみんな知ってるな」
「兼好法師です」
教室の真ん中最後尾の席の男生徒が答えた。
「そうだ。じゃあ、本名は?」
「吉田兼好」
「そう言うよな、十人が十人とも。ところがどっこい。それは本名じゃない。通称だ、ヒャッヒャッ」
兵頭先生は黒板に白墨を走らせ、「卜部兼好」と書いた。
「読めるか?」
誰も声を上げない。兵頭先生は、ニヤニヤ笑いながら生徒に眼を走らせている。
陶子が手を挙げた。
「おう! 千巻。言ってみろ」
「うらべ・かねよし、です」
「ほお。よく知ってたな」
兵頭先生の細い眼がもっと細くなった。
「うらべ・かねよし。これが本名だ」
「じゃあ、なぜ吉田になったんですか?」
先ほど答えた男生徒が訊いた。
「吉本。お前、手を挙げてから言えよ。口先男はモテんぞ」
吉本という生徒は舌をペロッと出した。それが返事だった。
吉本晃はひょうきんな性格で、屈託が無い。クラスの人気者だ。陶子の所属する剣道部のキャプテンで、腕は立つが勉強はからきしという典型的な体育会系男子である。同じ部員でもあり、最近起こった事件に振り回されて元気の無い陶子に彼流のやり方で気遣いをしている。古典などチンプンカンプンの吉本がこの集中講座に参加したのも、陶子のことが気懸かりだったからだ。
「兼好法師はな、京都の吉田神社の神官の三男だった。名前としては神社の名前の方が通りがいいだろ。ところで、千巻。苗字の『卜部』とはどんな意味だ?」
「はい」と、陶子は立ち上がった。
「神社の神官は神のお告げを伝える役目を持っています。卜部の『卜』は亀の甲羅を焼いて占いをする『卜占(ぼくせん)』から来ています。亀の甲羅に穴を掘って熱した表面に水を掛けると、音を立ててひびが入るんです。そのひびの形を文字にしたのが『卜』です。『部』というのは、たぶん大和時代の人民が振り分けられた………」
掛け始めたばかりの黒縁の眼鏡はまだ馴染まない。時折気になる陶子は小さいが形のいい、筋の通った鼻に沿って眼鏡を擦り上げながら続けた。
「職業や住んでいる地域に付けられた総称です。だから、『卜部』は『卜占を行う特殊技術を持った部民』という意味だと思います」
「なるほど。さすがに歴史は詳しいな」
恭一のお陰だ。ずいぶんたくさんのことを恭一から教わった。だから歴史や言葉に惹かれ、自然と身に着くようになったのだ。その恭一は陶子の側にいない。胸の奥がズキンと疼(うず)く。
腰掛ける陶子に頷いた兵頭先生は、クラスのみんなに尖ったネズミ顔を向けた。
「卜部氏は千巻の言う通り、神祇官(じんぎかん)の卜占として神事に仕えた氏族だ。卜部氏は平安時代に吉田と平野の二派に分かれたが、室町末期に平野は絶え吉田卜占だけが残った。兼好は後二条天皇に仕え、二十代の時に従五位左兵衛佐(さひょうえのすけ)まで進む。相当なスピード出世だぞ、これは。が、いいことばかりが続くとは限らん。それが世の中の通り相場というもんだ。信頼を置いてくれていた後宇多院が亡くなって落ち込んだ兼好は三十代で出家した」
「後二条とか後宇多って言われてもピンと来ないんですけど」
「口より先に手だろ、吉本」
「あっ。はい!」と、吉本晃が手を挙げた。
「ピンボケだなあ、お前」
教室のそこここでクスクスと笑いが起こる。
「後醍醐天皇は知ってるか?」
「そこまでピンボケじゃないです。小学生だって知ってます、そんなの。鎌倉幕府を倒して『建武の新政』を始めた天皇です」
「なるほど。ピントが合ってるのは小学生レベルまでか。高校生だろ、お前。もう少し水準を上げろよ」
ペロッと、吉本晃は舌を出した。
「泣きたくなるぜ、まったく」と言いながら、兵頭先生は言葉を続けた。
「後宇多院の第一皇子が後二条、第二皇子が後醍醐だ。兼好が『徒然草』を書いたのは四十代後半、『建武の新政』の始まる三年ほど前と言われている」
兵頭先生はくるりと後ろを向くと、黒板に何やら書き始めた。
夜も涼し寝覚めの仮庵手枕も
真袖も秋に隔て無き風
「これは兼好法師が友人の頓阿(とんあ)法師に送った歌だ。この歌にはある言葉が隠されてる。まあ、いわば暗号みたいなもんだ」
暗号………。陶子はハッとした。
「これは和歌をたしなむ者の知的遊びだな。誰か解る者、いるか?」
誰も手を挙げない。一同を見回し、兵頭先生は続けた。
「まあ、無理だろな。お前らのボンクラ頭じゃ。ヒャッヒャッ」
「ひどい言われよう!」
「解れと言う方が無理ですって、先生」
あちこちで声が上がる。
「よしよし。ヒントをやる。『沓冠(くつかぶり)』だ」
皆がキョトンとした顔を見合わせた。
ニヤニヤ笑っていた兵頭先生が、また板書する。今度は別の歌を一行ずつに分け、平仮名で書いた。
からころも
きつつなれにし
つましあれば
はるばるきぬる
たびをしぞおもふ
「これは『伊勢物語』の中に出て来る歌だ。初句から結句までの頭の文字を読んでみろ」
吉本晃が、今度も手を挙げずに言った。
「か・き・つ・は・た。何だ、こりゃ」
「お前、デコピン食らわすぞ」
吉本晃は、またペロッと舌を出した。
「『かきつばた』と読むんだ、これは。『かきつばた』という花の名を、それぞれの句の頭に織り込んで旅の心を詠(うた)ったものだ。これを『冠』という。では『沓』は?」
廊下側の後ろから二番目の席の女生徒が手を挙げた。
「ほい、松方」
すっと立ち上がった女生徒は、良く通る声で答えた。
「足です。それぞれの句の一番下の字に『沓』を履(は)かせるんです。『冠』と連ねたら意味のある言葉になるんでしょ」
「その通り」
松方沙耶は、満足げにニコリと頷いた。学年でトップの成績を争う子で、陶子と同様に生徒会副会長を務めている。陶子は学科によって得意不得意があるのだが、松方沙耶はオールラウンド・プレイヤーで苦手科目が無い。ただ、歴史と古典だけは陶子に分がある。互いに負けん気の強い性格だから、譲れない気持ちが強い。兵頭先生のお気に入りの生徒になりたいという気持ちも手伝い、松方沙耶は集中講座に参加した。そうして、もちろん自己アピールの機会を逃さない。松方沙耶は坐る前に肩に掛かるロング・ヘアーを両手でしなやかに後ろに払った。
吉本晃が口の中でぶつぶつと言った。
「も・し・ば・る・ふ………」
「吉本。この歌は『冠』だけだ。『沓』は無い」
「えーっ! 詐欺じゃないですか、それって!」
兵頭先生がひゅっと動いた。途端に吉本晃の額からピシッと音がした。
「い、ってぇ!」
「言っただろ。今度はデコピンだって」
教壇に戻った兵頭先生がみんなに言った。
「兼好法師の歌は『沓冠』だぞ。さあ、みんな。解いてみろ」
みんながノートに歌を書きうつし、音を拾い出す。陶子も各句ごとに区切り、漢字を平仮名に置き換えてみた。
よもすずし
ねざめのかりほ
たまくらも
まそでもあきに
へだてなきかぜ
吉本晃がまた、ぶつぶつ言う。
「よ・ね・た・ま・へ。し・ほ・も・に・ぜ………。あっ」
今度は手を挙げた。沓冠が解けたわけではない。デコピンを避けるためだ。
「さっぱり解りません」
「『よね』とは、米のことだ」
「米給え、か。でも、先生。『沓』の方は?」
「まったく、お前は。前が駄目なら後ろから、だ」
「ぜ・に・も・ほ・し………。そうか、銭も欲しい!」
「解ったか。『米をくれ。金も欲しい』だ。身に染みる秋の夜風を詠いながら、米と金の無心をしているわけよ。無心はあからさまには頼みにくい。だから、歌の中に隠して伝えたんだ。昔の連中は頭がいい。お前ら、負けるなよ」
陶子は体が震えるのを覚えた。
「先生………」
「何だ、千巻」
「他にも『沓冠』の歌がありますか?」
「おお、あるとも」
兵頭先生はもう一首、板書した。
逢坂も果ては往き来の関もゐず
尋ねて問ひこ来なば帰さじ
「これはどうだ。兼好法師ではなく、平安時代の『栄花物語』だが」
同様に、ノートに平仮名書きに直す。
あふさかも
はてはゆききの
せきもゐず
たづねてとひこ
きなばかへさじ
また吉本晃のぶつぶつが始まった。
「あ・は・せ・た・き。じ・こ・ず・の・も………。いや、違うなあ。逆か。も・の・ず・こ・じ………。さっぱり解らん」
「濁音を清音にしてみろ」
「あはせたき、しこすのも。反対か? あはせたき、ものすこし。あっ!」
手を挙げた吉本晃に、兵頭先生が頷いて指名した。
「解ったか、吉本」
吉本晃は、鬼の首でも取ったように得意げに言った。
「会わせたき者少し。何人か会わせたい人がいる、ということだよな、やっぱ」
「いい線行ってるが、ズレた。無理か、やっぱ小学生レベルの吉本では」
「いい線行ってるんですか。じゃあ、まあまあ合格ですよね」
「合格不合格に『まあまあ』は無い。一点でも足らなきゃ、チョン」
兵頭先生は右手で手刀を作ると、自分の首を斜めにさっと斬り下ろした。
「正解はだ、『合わせた着物少し』。つまり表と裏を合わせて作った、裏地のある着物を袷(あわせ)というんだが、それを縫ったから少しお配りします、という意味だ」
「『冠』の最後の『き』と、『沓』の最初の『も』をくっつけて『着物』ってしていいんですか。変則技じゃないですか、それって」
声が大きくなり、慌てて吉本晃は額を押さえた。皆がどっと笑う。
陶子はノートに、恭一の和歌を一行分けの平仮名で書き出した。頭の中に刻みつけてあるから、書くのは容易い。
さとすずめ
とまやのかりね
とどまるも
びゃくえのすそも
のかぜさよふく
沓冠で音を拾う。「さととびの」「めねももく」だ。意味を成さない。読みを逆にしてみる。「のびととさ」「くももねめ」となり、やはり意味が通らない。沓冠ではないのか。悔しいが、読み解く力は今の自分には無さそうだ。兵頭先生なら何か気付くかも知れない。そう思って顔を上げた時、授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
陶子は兵頭先生の後を追った。廊下の端で追いつき、先生の名を呼んだ。兵頭先生は「おう」と応えて振り返り、立ち止まった。呼び止めたものの、陶子としてはこんなところで事情を詳しく話したくは無い。だが、切羽詰まった陶子の気迫を兵頭先生は敏感に悟ってくれた。
「よし。放課後、用務員室に来てくれ。竹崎さんに話して、部屋を空けておいて貰うから」
兵頭先生は片眼をつぶってウィンクすると、何事も無かったかのようにスタスタと教員室に向かった。
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といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。
とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない!
フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!
伏線回収の夏
影山姫子
ミステリー
ある年の夏。俺は15年ぶりにT県N市にある古い屋敷を訪れた。大学時代のクラスメイトだった岡滝利奈の招きだった。屋敷で不審な事件が頻発しているのだという。かつての同級生の事故死。密室から消えた犯人。アトリエにナイフで刻まれた無数のX。利奈はそのなぞを、ミステリー作家であるこの俺に推理してほしいというのだ。俺、利奈、桐山優也、十文字省吾、新山亜沙美、須藤真利亜の6人は大学時代、この屋敷でともに芸術の創作に打ち込んだ仲間だった。6人の中に犯人はいるのか? 脳裏によみがえる青春時代の熱気、裏切り、そして別れ。懐かしくも苦い思い出をたどりながら事件の真相に近づく俺に、衝撃のラストが待ち受けていた。
《あなたはすべての伏線を回収することができますか?》
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
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