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後編

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『こんなんじゃ、だめにきまっているでしょう! 照明はもっと明るくして頂戴! 昼と夜の区別がつかなくなって、おかしくなりそうよ!』

『このおもちゃは飽きてきたわ。それに、この間のご飯は何だったのかしら? 魚の切り身はもう少し大きくしてくださらないかしら?』

「………」

 クローディアスは鯨の水槽の上でしゃがみこんで下を向いている。クローディアスが幼い頃入り浸っていた場所の丁度真上に位置しており、周りには水を循環させるためのパイプがいくつも走っている。魔法でパイプを作らないのは、万が一魔力不足に陥っても、水槽内の水があふれかえることがないようにするためと、研究用の魔力を温存するためだ。

「少しくらい感謝してくれたっていいだろう? オリヴィア」

 新しく入ってきた鯨の名前はオリヴィア。メスの鯨で、ノアよりも一回り小さい。小さいと言いつつも、その体長はゆうに20メートルを超えており、口を広げればクローディアスなど丸呑みできそうだ。

『感謝というのは一人前の働きができて初めていうものよ。クローディアス』

 オリヴィアはそういうとまた水中へと逃げ帰ってしまう。ノアとは違い、オリヴィアは意思疎通魔法を難なく受け入れてくれている。要はおしゃべりだ。なのに、オリヴィアときたら、やれ照明が暗いだの、エサが気に入らないだの、見に来る人達のおしゃべりがうるさいだの文句を言い続けている。ノアとは偉い違いだ。

「ノアはそんなこと一言も……」

 そう言いながら、はっとクローディアスは口を閉ざした。ただでさえやかましいオリヴィアが一番うるさくなるのは、ノアの事を切り出した時だ。ノアの記録は前任者が責任を持ってつけてくれていた。その記録をもとにクローディアスはオリヴィアの管理を始めたのだが、オリヴィアは全く通じていない。意思疎通魔法を受け入れてくれている事だけが唯一の救いだった。もしかすると、クローディアスに文句を言いたいだけかもしれないが。



「今日もオリー嬢とケンカしてきたのかい?」

 そう言って館長は苦笑しつつ、クローディアスに紅茶を注いでくれた。オリヴィアの事は何度も相談してきたからか、館長の表情は、まるで子どもを見守る親のようなものだった。クローディアスの両親は、はじめこそ鯨の管理を任されることを喜んでいたが、次第に話さなくなってしまった。

 ――― 僕にもっと魔法の才能があればなぁ。

 簡単な意思疎通魔法では、会話することしかできない。だが、上位の魔法ともなれば、相手の意思を操ることだってできてしまう。実際、凶暴な動物を管理している動物園では、日常的に行われていると聞く。

(でも、それだと……きっと、ノアは怒るだろうな)

「ケンカっていうか、あっちがワガママなんです。まったく。あんなに広い水槽をもらえて、照明も自由にできて、人から尊敬を集められる。それなのに、文句を言う方が分かりませんよ」

「文句かぁ……。確かに、オリヴィアがあんな性格になるのは私たちにも予想はできなかった。ノアのように、大人しい……何事にも無関心な鯨になると予想していたからね」

「無関心……ですか」

 ノアの記録を見ていても、よく出ていた単語だ。無反応、無関心、そんな言葉がよく出てきていた。だからこそ、あの日の出来事が特殊だったことが実感できた。

「オリヴィアは確かにおしゃべりだけれど、とても良い研究のデーターになってくれている。だからこそ、君の働きにかかっているんだ」

 ごくり、とクローディアスはつばを飲み込んだ。期待してもらっている。こんな自分がここにいられるのは、ノアのお陰なのだから。



 毎日、おてんば娘に振り回される日々が続き、クローディアスがほとほと困り果てていると、ある日突然オリヴィアはクローディアスに問いかけた。

『あなた、歌を知っているかしら?』

「当然。人間は歌を歌っている。歌を歌う職業があるんだ」

『そうじゃないわ。私たちの歌よ』

 そう言われ、クローディアスは目を丸くした。オリヴィアに音楽を楽しもうという心があることに驚いた。

「僕の前任者が、ノアの歌を録音してくれている」

『それを聞かせてくれてもいいかしら?』

「どうして?」

『あなたがよく、この私とそのノアという鯨を比べるから、腹が立つの』

「分かった」

 歌といっても、いいのだろうか。ノアがある時間帯になると鳴きはじめるので、気になった前任者が録音をしてくれていた。魔法陣を木の板にかき、水に沈めて魔法をかける。ノアの歌を水の中に響かせる。

 ノアが鳴きはじめるのは、開館する数分前と、閉館してすぐの時間帯。クローディアスは聞いたことはなかった。でも、録音している音を聞くと、かつての輝きが脳裏に焼き付くようで、胸が締め付けられる。



『ふぅん』

「な、なんだよ」

 聞き終えたらしいオリヴィア顔を水面に叩きつけて深く深く沈んでいく。

『人間はこの歌を解析することはないのね』

「あぁ。ノアには魔法が効かなかったから」

『その歌が解析できれば、あなたは認められるかしら』

「そりゃ、そうだろうな……。ノアについての研究はまだ続けられている。君がここにいるのも、その研究の一環だ」

『そう。あなたは、ノアが好きだったのね』

「あぁ。僕の一番の友達だ」

『友へ』

「?」

 オリヴィアが再び水面に戻ってくるとふしゅーと潮を吹いた。そしてそのままくるくると回りながら水中へ潜っていく。

『ノアは、ここにいることは不満ではなかったみたいね。でも、変わり映えの無い日々に嫌気がさす日もあったみたいね』

「そんなことが分かるのか!?」

『歌はね。人間のように歌詞があるわけではないの。旋律もあるかどうか。でも、歌を通して私たちはどのような鯨だったのか、どんな生き方をしてきたか分かるの』

 だとしたら、重大な発見だ。クローディアスが記録の魔法陣をかこうとすると、バチンという音がして魔法陣が書き消えた。生まれて一年も経ってないだろう鯨にすら魔法で負けているのだ。クローディアスがかき消された魔法陣を呆然と眺めていると、脳に旋律が流れてきた。



 ぽこぽこ。

 ほわほわ。

 ゆらゆら。

 柔らかなライトのきらめきが目の前に現れた。これは水中から上を見上げるような景色だ。

(感覚共有魔法か!)

 ノアが使っていた魔法と同じものだ。オリヴィアの魔法に違いない。水中に投げ込まれたクローディアスは大小の泡に体をくすぐられていく。

 視界もまた、水中のそれだ。さいわい、水中眼鏡を使ったように視界はぼやけてはいないようだ。耳を澄ますと、何度も聞いていた、ノアの歌が聞こえてくる。それに合わせて、オリヴィアの声も重なっていく。



(君もまた、そうなのかい?)

(君は一人なのかい?)

(君は怖くないのかい?)

(君は――――)

 多くの問いかけがクローディアスに向かってくる。二つの声で重なっていく問いかけはすべて”君”で始まっている。質問だけの歌は、クローディアスが聞いたことのあるどの歌とも異なっていた。



 はぁ、と息を吐き、すぅと息を吸う。

(君もまたそうなのかい?)

「僕もそうだった」

(君は一人なのかい?)

「僕は一人だった」

(君は怖くないのかい?)

「僕は怖かった」

  

 どうして、答えようと思ったのだろう。”彼”はもういないのに。クローディアスは声を上げていた。今まで忘れていた声の上げ方で、懸命に叫ぶ。

「僕は、怖かった。僕が僕でなくなってしまいそうで、僕はいることの意味を知りたかった」

(君は怖かったのかい? なにが怖かったのかい? 君は何を知りたかったのかい?)

『あなたの幸せを祈らせて』

「オリヴィア?」

 急に入り込んできて、はっきりと聞こえてきたオリヴィアの声にクローディアスは驚いた。どんな心境の変化なのだろう。

『あなたの事をノアは心配していたの。えぇ、私は”彼”でもあった。でも、もう、その必要はないのね』 

「オリヴィアが……ノア?」

 目の前に現れたオリヴィアの体の文様が書き換えられていく。

「あ……あぁ……」

 忘れもしない。あの、やわらかな文様は……ノアだ。

「僕は……もう、大丈夫だよ。君がここに連れてきてくれた。だから、仲間もできた。魔法が使えなくたって、大丈夫。僕には、君がいてくれたから」

 その言葉を聞き終えたとたん、懐かしい文様は剥がれるように水に溶けていく。あの日に見たような、眩しい、色彩をまとい始める。それに包まれ、クローディアスは思わず目を閉じた。



「ありがとう、僕の最高の友達」



 再び目が覚めると、クローディアスははっと時計を見上げた。すると、時計の針は少しも動いていなかった。

「おい、なにかしたのか?」

『なにを言っているのかしら。確かに、少しばかり居眠りをしていたようだけれど、自己管理がなってない人に私の世話をされたくないわ。さっさと、仮眠室に言って休んだらどうかしら』

 ふん、とオリヴィアがもう一度潮を吹いた。もしかしたら、あの出来事は夢だったのかもしれない。でも、だとしても、あの色彩にまた出会えてよかった。

「オリヴィア」

『なによ』

「君の友に僕はなれるかい?」

『うぬぼれないで頂戴』

 その言葉とは裏腹に、嬉しそうな雰囲気が漂っていた。クローディアスは記録をつけようとして、筆をおいた。あそこまで高度な感覚共有の魔法を使ったと記せば、オリヴィアの研究はもっと過酷なものになるかもしれないからだ。

「いつか、他の鯨にも会わせてやるからな」

 クローディアスの中に、長い間なかったものが生まれようとしていた。クローディアスは今日の記録をつけると、本を閉じた。そして、他の水槽に移動しようとしたとたん、ふと耳に届いた声があった。



「――――――」

 

 その声に、クローディアスはうなずくとドアを閉めた。
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