泡沫

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16.笑み

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***
 
 
ディアナが目を覚ますと、見慣れない天井が映る。
自分の部屋の天井ではない、ということに気づくまでに数秒かかってしまった。
 
(……どこ?)
 
ぼんやりとしながら、ふと何かの気配を感じて隣に目を移すディアナは、固まってしまう。
なぜなら。
ディアナのすぐ隣で、レオナルドがスースー、と寝息をたてて眠っていたのだ。
 
(……ななな、なんで、)
 
あまりにも驚きすぎて、レオナルドの寝顔をしばらく凝視してしまった。
すると、タイミングがいいのか悪いのか、レオナルドがうっすらと目を覚まし、目と目が合って。
 
「あぁ……起きてたのか」
 
レオナルドは至って冷静……というか、すました顔でそう言うと、むくりと上半身を起こし、ベッドから降りた。
そして、
 
(……!)
 
何のためらいもなく、着替るためか、服を脱ぎ出す。
程よくついた筋肉質な体が視界に映り、ディアナは無意識に見とれてしまう。
美しい、とぼんやり思ったのだ。
 
「……気分はどうだ」
 
どことなく、いつもの嫌味っぽさがないように感じるのは、気のせいだろうか。
 
いや、気のせいに決まっている。
きっと何か裏があるに違いない。
 
ディアナは我に返ると体を起こし、慌てて視線をそらす。
人間の着替えなんて、別になんとも思わないはずなのに……なぜ、こんな妙な気分になるのだろうか。
 
美しく思うなんて、あり得ない。
  
自分が今ここにいるのは、復讐のため。
それだけなのだ。
こんなことで動揺している場合ではない。
 
……ディアナはそう、自分に言い聞かせる。
 
(復讐……)
 
ふと昨夜のことを思い出し、ディアナは胸が苦しくなるのを感じた。
 
地下牢独特の、異様な空気。
目の当たりにした、数々の拷問器具……。
 
(ラキ)
 
ギリ、と歯を食いしばるディアナは、自分が今涙を流していることに、すぐには気づかなかった。
 
「ディアナ」
 
着替えを終えたレオナルドが近づくなり、ベッドに腰掛ける。
そして、ディアナの頬に流れる涙を指で拭ったあと。
……また、昨日のように、唇に触れてきた。
 
ーーガシッ、
 
とっさに平手打ちをしようとしたが、振り上げた手は、レオナルドにしっかりと掴まれる。
そして、
 
「気の強い女だな……」
 
そう呟き、フレオナルドはフッと、笑みを浮かべたのだ。
 
その笑みを見たディアナは、ただただ驚いた。
なぜなら、
 
(な……なんで?)
 
ディアナに見せていた冷たい笑みでもなく。
ソフィアの前で見せていた、作られた優しい笑みでもなく。
 
……ごく普通の、青年の笑みだったのだ。
 
いや、ディアナが驚いたのはそういうことではない。
 
(なんなの、これ)
 
レオナルドの笑みを見て……胸が高鳴ってしまった自分に、驚いたのだ。
  
「……なんだ。人の顔をジロジロ見て」
 
先ほどの笑みは、見間違えだろうか。
レオナルドはジロリとディアナを睨むと、無愛想にそう口にする。
 
ハッとしたディアナは、慌ててレオナルドから体を離れ、ベッドから降りようとした……のだが。
 
ーーコンコン、と部屋のドアをノックする音が聞こえてきて、ディアナは降りるタイミングを失った。
 
「陛下、おはようございます。朝食をお持ちしました」
「あぁ、ありがとう」
 
レオナルドは立ち上がり、ドアを開けに向かう。
そして、
 
「悪いが、彼女の分も持ってきてくれないか」
 
ニコリと、爽やかな笑みを浮かべながら、ベッドの上に座るディアナをチラリと見て、そう口にした。
 
(……相変わらず切り替えが早いのね。ていうか、誤解されるんじゃないの?)
 
ディアナにしてみれば、もう少し詳しくラキの話を聞きたいので、願ってもない話だ。
しかし婚約者であるソフィアがいるというのに、何もなかったとはいえ、他の女と一夜を明かしたことを知られて、大丈夫なのだろうか。
 
(……別に、どうでもいいけど)
 
なぜ、自分はそんなことを気にしてしまうのか。
まったく、意味が分からない。
 
「え? あ、あの、陛下……なぜディアナ様と、」
「早くしてくれないか?」
「は、はい、ただいま!」
 
使用人は驚いた様子で、ディアナとレオナルドを交互に見ていたが、すぐに部屋をあとにする。
  
 
***
 
 
朝食を終えて、城内を散歩していたソフィア。
ヒソヒソと、ただならぬ雰囲気で何かを話している使用人たちに気づき、声をかけた。
 
「どうかしたの?」
 
すると、使用人たちは顔を見合わせて、一斉にソフィアのもとへと駆け寄る。
 
「ソフィア様!」
「ソフィア様はまだご存知ないのですか? 陛下のことを」
 
いったい、何のことだろうか。
 
「レオナルド? な、何の話?」
 
ソフィアが不思議に思って首を傾げて聞くと、思いもよらない事を聞かされた。
それは、
 
「陛下が、陛下があの客人の女と一夜を共に過ごしたんだそうです!」
 
レオナルドとディアナの、噂。
 
(……え?)
 
ドクン、ドクン、と動悸が激しくなるのを嫌でも感じる。
ひどく動揺しているのは、なんなのだろうか。
 
「いくら顔がキレイで陛下の命の恩人とはいえ、身の程知らずな!」
「ソフィア様がこんなに良くしてくださってるのに、ひどい裏切りだわ!」
「けど、陛下がつまり……不能だっていう噂は、所詮噂だったってことですよね」
 
唖然としているソフィアは、その言葉を聞いて、何も答えられずにいた。
なぜなら、ソフィアは確かに、レオナルドが不能だということを本人から聞かされていたから。
だから世継ぎはヴィクトルの子になるんだと、聞かされていたから。
 
「……何か理由があって、一緒に過ごしたんじゃないかしら? 何もなかったと、思う」
 
きっとそう。
そうだと信じたい自分がいることに気づき、ソフィアは動揺してしまう。
 
(どうして、動揺してるの?)
 
ディアナがこの城にやってきた日、裸でレオナルドと共にいたあの光景を思い出し……ソフィアはギュッと、胸が痛むのを感じた。
 
あの時は、何も感じやしなかったというのに。
  
「ソフィア様は優しすぎます! もし、あんな素性のよく分からない女が先に子どもを生んだりしたら……」
「一刻も早く城から追い出しましょう!」
 
過熱する使用人たちに、ようやくソフィアは我に返った。
 
「追い出すなんて……。ディアナは記憶がないのよ。それにきっと……レオナルドが許さないわ」
 
自分だけでも、彼女の味方でいたいと思っていた。
誰かにひどい目に合わされたであろう彼女を、同じ女として放ってはおけない、と。
なのに。
 
(……本当に、レオナルドと何もなかったの?)
 
どうしても、裏切られた、という感情を拭い去ることができずにいた。
裏切るもなにも、レオナルドとは形だけの婚約者だというのに。
……ちょうどその時。
 
「何事だ、騒がしいな」
 
背後から、ヴィクトルの声が聞こえてきて。
 
……やはり、いつものように胸がドキドキと高鳴るのを感じた。
 
「ヴィク……」
 
ホッとした表情を浮かべるも、ヴィクトルには違うように映ったらしい。
少し眉間にシワをよせると、
 
「……なにかあったのか? 顔色が悪い」
 
そう、心配そうに聞いてきたのだ。
  
 
***
 
 
「……食欲がないのか?」
 
レオナルドの部屋で。
ワゴンに乗せられたフルーツやパンにまったく手をつけないディアナは、レオナルドのその問いにプイと顔を背けた。
 
まだ、おかしな感じがする。
なぜか、隣に座るレオナルドの顔を直視できないのだ。
 
そんなディアナの態度に、レオナルドはムッとしたらしい。
 
「随分な態度だな……。人がせっかく情報を提供してやったのに」
 
そう不機嫌そうな口調で言うと、レオナルドはスープを一口飲む。
 
(それは、確かにそうだけど)
 
ディアナが知りたいのは、ラキを殺した人間だ。
それを聞き出さなければならない。
復讐を果たさなければ、ここにいる意味がない。
すると、
 
「昨日の話だが……」
 
思いがけず、レオナルドから昨日の話題を出され、少し驚いてしまう。
だからつい、パッとレオナルドの顔を見上げると。
 
(……ち、近いんだけど、)
 
思っていたよりもレオナルドとの距離が近かったため、動揺してしまった。
かぁ、となぜか頬が熱くなるのを感じ……さらに困惑してしまう。
  
(私のこと、嫌いなんじゃないの? キスしたり部屋に泊めたり笑いかけたり……なんなのよ!)
 
レオナルドがディアナの視線に気づき、目と目が合う。
そして、真剣な眼差しを向け、
 
「人の話を聞いてるのか? ……三年前に人魚を殺した者には、それなりの処分を下す。だから、もうこの話は忘れるんだ。いいな」
 
それだけを言うと、食事を再開する。
 
……違和感を感じずには、いられなかった。
 
(……どうして?)
 
なぜ、レオナルドはディアナにそんなことを言うのだろうか。
まるでディアナに対して、警告しているかのように。
 
(そういえば……私がなぜ人魚のことを知りたがってるのか、理由を聞かないの?)
 
レオナルドの横顔から、視線を指輪に落とす。
 
……レオナルドはもしかして、ディアナが人魚なのだと知っているのではないだろうか。
いや、それならばディアナを生かしておく理由などないはずだ。
 
(それとも、何か企んでいる?)
 
無意識に指輪をギュッと握りしめながら、そんなことをグルグルと頭の中で考えていると、
 
「オレの気が変わらないうちに……さっさとこの城から出て行った方がいい」
 
ポツリと、レオナルドが無表情にそう口にした。
 
 
***
 
 
ディアナはベッドから降り、スタスタとドアへと向かった。
 
部屋に戻るつもりなのだろうか。
それとも、また、人魚について調べ回るつもりなのだろうか。
すでに、ヴィクトルや他の者に怪しまれているというのに。
 
「ディアナ」
 
ガチャ、とドアを開けるディアナを呼び止めると、振り返る。
あの憎しみに満ちた瞳ではなく、どこか、不安げな瞳をしながら。
 
「……これを、渡しておく」
 
ため息まじりに、ベッドサイドのテーブルの引き出しから、一つの鍵を取り出すと。
レオナルドは歩み寄り、それをディアナに差し出した。
不思議そうな顔でレオナルドを見つめるディアナの手首を掴むと、その手に鍵を握らせる。
 
「……城から浜辺に出る扉に、鍵をつけた。一つやるから、好きな時に使え」
 
レオナルドの言葉を聞くなり、ディアナは驚いた表情を浮かべた。
 
それもそうだろう。
レオナルド自身、驚いているのだから。
 
『どうして?』
 
そう、口をパクパクとして聞かれ、
 
「別に……なんとなくだ」
 
咄嗟に出たのは、そんな愛想のない言葉だった。
 
(身に危険が迫った時の、逃げ道に)
 
そんなものを用意するなんて、どうかしてる。
  
「この城にいたら、死ぬことになるぞ」
 
またディアナの涙を目にして、レオナルドは何とも言えない妙な気分になってしまった。
彼女の涙を、苦しむ姿をこれ以上見たくないと思ったのだ。
 
……だからといって、唇を重ねる理由にはならない。
城を出るよう促す理由には、決してならない。
これではまるで……。
 
(くそ……どうかしてる)
 
人魚とは、凶暴で冷酷な化け物のはず。
なのに、なぜディアナは、こんなにも儚げに見えるのだろうか。
 
ーーグイ、と袖を引っ張られ、ハッとするレオナルド。
ふとディアナに視線を落とすと、少し戸惑った表情を浮かべていて。
 
「……なんだ?」
 
動悸が激しくなるのを感じながら、平静を装って無愛想に問う。
ディアナは口をゆっくりと、動かした。
 
『ここに、いる』
 
おそらく、そう言っているのだろう。
ディアナは何のために人間の姿となり、城にやってきたのか……考えるまでもない。
 
人間が憎いのだろう。
復讐のため、やってきたに違いない。
……命を落とす覚悟だったに、違いない。
 
レオナルドが、城で再会した時の憎しみがこもった瞳を思い出していると。
ディアナはその鍵をギュッと強く握りしめた。
そして。
 
『ありがとう』
 
そうパクパクと口にして。
 
……かすかに、ほんのかすかにだが、レオナルドに笑みを浮かべたのだ。
作り笑顔ではない、素の笑みを。
 
「……なんだ。下手な愛想笑いしかできないと思ってたが、そうでもないんだな」
 
そんな嫌味を口にすると、ディアナはムッとした表情を浮かべる。
 
「あぁ……そういえば猫をかぶるのはやめたのか。そっちの方がよっぽどいい」
 
プイと眉間にシワをよせながら顔をそむけるディアナが、あまりにも子どもに見えて、思わず笑ってしまった。
すると、
 
「レオナルド……おはよう」
 
ソフィアの曇った声が、すぐ近くから聞こえてきた。
そういえば、ドアを開けたままだったことに今更気づく。
視線を通路に向けると、ソフィアがやはり、どこか曇った表情を浮かべて立っていた。
 
ソフィアに誤解されて困ることは、何一つない。
しかし……。
 
「兄上。……ずいぶん仲良くなったんだな、彼女と」
 
ソフィアの隣に立つ、弟ヴィクトルに誤解されると、少々厄介である。
 
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