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テントに戻ってからも、眠れそうになかった。小さなランプを灯したまま、酒の瓶を荷物から出して、カップに注ぐ。トッカも飲むか? と瓶をあげてみせれば、うなずいてカップが差し出された。トッカのカップへも酒を注ぎながら、明日のことを考える。国境付近の北の森で、いまだかつてないほど魔物が多く出没したという話。明日は現場へ到着次第、所属する隊の仲間たちと、戦いの最前線に向かうことになっている。
手にした木のカップには、度数が強めの果実酒が入っていて、それをゆらゆらと揺らしながら、ランプの炎で酒の表面がいつもより黒く映るのを、なんとなく眺める。予言師ではないが、嫌な予感がする。人生いつも一人きり、これといって武功も持たず、目立たず。かといって誰かの足を引っ張るでもなく、国の警備隊の一員として生きてきた。生きている見知らぬ誰かを守るために、命を張って戦いの最前線で魔物を食い止める。望んで選んだ仕事ではなかったが、何の役にも立たない人生よりはマシだろう。そう自分に言い聞かせて、危険と隣り合わせの、いつ死ぬかもわからない仕事に覚悟を決めていた。
「なぁ、トッカ」
「ん」
狭い簡易テントだ、布団代わりのマントを敷いて座れば、互いの膝が付くほどの距離。魔法使いはカップの酒を一口含んで、ゆっくりと飲み込んだ。とても大事な話だ、酒に濡れた舌で唇を湿らせると、慎重にことばを探した。
「明日……俺に何かあったら、俺を置いて、すぐ逃げろ」
「……断る」
即答か、そうか。案の定、堅物で無口な男は、自分に与えられた仕事を真面目に遂行するつもりらしい。どうやら言い方が、まずかったようだ。トッカはふてくされたような顔をして、手にしたカップの酒をぐびりとあおっている。
「俺を守るのが、たとえお前の仕事だとしても。俺はお前の荷物になりたくない、無駄死にさせたくないんだ。お前は逃げてくれ、頼むから」
俺を守ろうとしなければ、この男が死ぬことなどあり得ないのだ、無敵の鎧をまとう男が。むしろ有事の際には、俺がこの男の足枷になる。カップの中身を、一気に飲み干したのだろう。喉を見せていたトッカが、白い髪を揺らして勢いよく正面に顔を戻した。怒りをはらんだ顔が、にらんでくる。互いの膝が触れるほどの近い距離で、白い髪の奥で力強く燃えるような薄紫色の瞳と、視線が絡む。じっと目をそらさないトッカの瞳には、大して見栄えもしない疲れた中年男が映っていた。
もしかしてトッカは溜まっているのかもしれない。そういえばこの数日の演習中、いつも魔法使いと一緒で、自由行動などなかった。明日死ぬかもしれないのが、この仕事だ。死と隣合わせの戦いに、恐怖と紙一重、昂ぶる気持ちもある。そもそも行軍の間、個人的な時間も場所もない。身体を休める簡易テントだけが、かろうじて個人的な場所といえるだろう。それとて軽量化のため、一人で使えるテントの余分はない。二人ないし三人で一組のテントを使う。だから、どうしても自己処理したければ、そこでするしかない。互いに気づかぬふりをして、背中を向けてシコシコと妄想しつつ精液を絞り出すか。もしくは夜も相棒として、互いのモノを握り合って処理するか。
何年もこんなに近い距離にいながら、魔法使いとトッカには仕事の相棒ということ以外、何もない。それもそうだ、相手がおっさんでは、いくら溜まってたって勃つのも無理ってものだろう。よって、たとえトッカが溜まっているのだとしても、手伝えることは何もなかった。しいていうなら、マントへくるまって横になり、速やかに寝入ってしまうのが優しさだろう。魔法使いはちゃんと気を使えるおっさんなのである。この話は終わらせることにした。若いトッカに必要なのは、明日を憂いたおっさんの頼み事より、溜まったものをすみやかに処理する今の時間だ。
「俺に、もし、何かあったらでいいから……頼むよ」
「そのときは、担いで逃げる」
まさかそんな答えが返ってくるとは思わず、吹き出した。
「……ぶはっ、頼もしいな。んじゃ、そいつで任せた」
「ん」
明日向かうのは、戦いの最前線だというのに。担いで逃げると言った本人は、大真面目にうなずいている。おやすみと挨拶をし、魔法使いは横になった。酒のせいか年のせいか、目をつぶるとすぐに寝入ってしまった。
目が覚めるとすでに明け方近く。いつも通り、背中にはまだ眠るトッカの体温がある。それをなるべく起こさぬようにと身体を起こし、テントの外へ出れば、そこかしこで静かに出立の準備が始まっていた。
「俺は死なない」
小さな声で口に出す。戦いに赴く前の儀式みたいなものだ。右も左もわからぬ新人魔法使いの頃、部隊長が何度も繰り返せと教えてくれたことば。自分に言い聞かせることで、生き残るのが当たり前なのだと、心が錯覚するように。
「俺は死なない」
「お前は死なせない」
すぐ後ろから聞こえた声に、ピクリと反応する。鎧をまとわぬトッカは、足音が聞こえにくいし気配が薄いのだ。さきほどまでテントで寝ていたはずのトッカが、すぐ隣に立っていた。
「トッカも死ぬなよ。必ず生き延びろ」
本気で言ったのに、横で白い髪を風になびかせている男は、ふっと笑ってみせた。ジョークがおかしくて、思わず笑ってしまったような様子に、わけがわからず首をひねる。若い男の考えることなんて、しょせんおっさんにはわからないのだろう。
ほどなくして出立の号がかかり、全員が静かに移動をはじめた。
国境付近の森は、思った以上にひどい状況だった。昔から国境を守るためにと、頑丈な石壁が二重にはりめぐらされているため、魔物たちの変化に気づくのが遅れたのだろう。外側の石壁を覆うように魔物がいるのを見てはじめて、魔物の氾濫だと気がついた。そこから都へ早駆けを放ったので、こんなことになったのだ。
第一部隊が現場に到着したとき、外側の石壁はところどころ崩れていた。新たに魔物が入ってこないよう、石壁を内側から修復する作業を進めるのがやっとで、森の方の魔物は手つかずの状態だった。疲れ切った兵士が言うには、魔物は切り捨てても次から次へ、沸いてくるようだと。まずはこれ以上石壁に魔物を近づけさせないように、石壁と魔物の間に隙間を作る。そして少しずつ、魔物を森へ追いやるというのが、部隊長の案だった。
「おっさん、頼むぞ」
「うん、わかったー」
「こんなときにも気が抜ける返事だなぁ、おい」
「え、そぉ? これでもかなり緊張してるんだけど」
石壁の上から眺めた森の方面には、地面が見えないほどの魔物がひしめいていた。こんな数の魔物、見るのも初めてだ。
「俺も鎧ほしー」
「今さらかよ。鎧つけたら、重くて動けねぇって嫌がったの、おっさんだろが」
「そうなんだけどぉ。生身であそこに突っ込むかと思うと……ねぇ」
「だーから、普段から鍛えとけってみんな言ってんだぞ」
「あははぁー」
笑ってごまかすが、誰一人笑ってくれない。トッカはすでに鎧を身につけている。
「んじゃ、いきますかー」
「いっとくけどおっさん、石壁、壊すなよ」
「気をつけるー、トッカいくよー」
「ん」
魔力を練り上げ、いくつもの魔法球を浮かせて、放つ。球の着地と同時に、大きな爆発が各所で起こる。地響きが続き、揺れないはずの大地が、石壁の上に立つ者の足元をぐらつかせた。
「近い、近い! もっと離れたとこに撃てって、おっさん」
「んんー、やってるつもりなんだけど。誤差っていうか」
「石壁崩れたら、誤差じゃ済まねーからな?」
「頼むぜ、おっさん」
「わかったー」
再び魔力を練り上げる。もう少し大きく、遠く。放った魔法球は勢いよく飛んで、固まっていた魔物たちを、地面ごとえぐって消滅させた。
「やった」
「いいぞ」
両肩に下げたベルトから魔力回復のポーションを出して、蓋を外しあおるように飲む。魔力が回復する瞬間、体がブルッと震える。
「魔力回復ポーションの木箱を、ここへ持ってこい」
部隊長の指示でポーションの木箱が、魔法使いの横にどんどん積み上げられていった。
ポーションを飲み過ぎると、魔力酔いという症状に陥る。減った魔力は元々、時間を掛けて元に戻るものだ。それを一気に無理やり、完全回復の状態に持っていくのだから、体に負担もかかる。横に積まれた大量のポーションを横目に、もしこれを全部飲んだとしたら、どうなってしまうか想像もつかない。魔力酔いも、過ぎた酒と同じ。摂取しすぎれば、まずいことはわかる。ただ、どんなふうになるのかは、自分ではわからない。たまに起こる魔力酔いだったが、魔法使いには一切の記憶が残らなかった。トッカに出会う前は、翌日部隊員たちから、腫れものに触れるように接されていた。なぜかは教えてくれなかったのだが、だいぶ迷惑を掛けたのだろう。今はトッカが側にいてくれるので、安心して全面的に任せてしまっている。魔力酔いになったとしても、魔物の氾濫がおさまって、自分が生きていればよいではないか。魔法使いは淡々と魔法球を放ち続け、次のポーションの蓋を外すと、景気よく飲み干した。
魔法を練って放ち、ポーションで回復、また放つ。ただそれだけを延々続け、すでにもう何も考えられなくなっている。立ったまま誰かに食べ物を口に入れられた。たいした休憩時間もとれずに、日暮れまで石壁に立ち、攻撃魔法を放ち続けた。途中から自力で立っていられなくなったから、トッカに寄りかかり支えてもらった。ほとんどトッカ椅子である。
日が暮れて魔物の姿が目視できなくなり、その日の攻撃は終了した。
「トッカぁ、ごめん、あとよろしくー」一日中、体を支えてくれたトッカに、感謝のことばを伝えられたかわからない。とにかく疲れて、眠くて。周りの声も音も、ぜんぜん聞こえない。魔法使いは、そのまま意識を手放した。
目覚めたとき、すでに空は明るかった。開いた鎧窓からは、爽やかな風が通り抜けていく。シーツがしっかりかかった寝台で、布を掛けて寝ていたようだ。前日までの汗や汚れもなく、全身がさっぱりしている。自分で水を浴びた記憶なんてないから、誰かがやってくれたのだろうが、数日間の汚れを溜めた体をきれいにするのは、大変だったろう。気を失ったおっさんの体だ、重かったに違いない。誰もいないので、大して広くはない部屋を見回すと、トッカの荷物が置いてあった。やっぱり面倒をみてくれたのは、トッカだった。
魔法使いは起き抜けの、よく回らない頭で妄想する。美人さんでマメで無口、戦えば無敵だし、いっそのこと俺の嫁にしたいくらいだ。待てよ、トッカならおそらく引く手あまた。そもそも取り柄も金もない、中年魔法使いの嫁になって何の得があるというのか。自分でそこまで考え、ひとりで落ち込む。いいんだ、おっさんはひとりでも、さみしくなんてない。しかしあれだな、やはり体はダルい。今朝の俺、髪さらっさら、ほっぺはつるっつる、妙に艶々なんだけど。なんか若返ってない? これもポーションのおかげなのかな。喉が乾いた、水飲みたいなぁって思ってたら、部屋の扉が開いてトッカが入ってきた。手には水差しとカップを持っている、さすが俺の心の嫁、できる男だ。
そんなくだらない妄想を知るはずもなく、トッカは水差しからカップに水を注ぎ、魔法使いに手渡してくれた。受け取るとき、思ったより手に力が入らず、カップを取り落としそうになった。
「大丈夫か」
「うん、ありがとー」
もらった水を一息に飲んで、二杯目も飲み干して。昨日の礼と、体まできれいにしてもらった礼を言う。
「ほかにはなんか、迷惑かけなかった?」
「迷惑ではない」
迷惑ではないってことは、なにかあったのだ。魔力酔いのせいで、暴れたりしたのか、やだやだ。トッカに真剣な顔で「覚えてないのか」って聞かれたけれど、何も記憶がない。こわいから内容は聞かないでおく。
「そういやなんで部屋なの?」
「昨日の功労者だから」
「個室なんだ、すごい」
二人で一部屋だが、普段はテントだ。破格の待遇である。それにしても、あんなにポーションを飲んだのに、まだものすごく喉が渇いている。やはりポーションと水は別物ってことか。もう一杯水をもらって飲んで、ぷはーっと息をつく。トッカが口のはしから顎まで、指で拭ってくれた。水が垂れていたのだろう、なんとよく気のつく男だ。
「なぁ、トッカの荷物はそこにあるのに、なんで寝台にマットねぇの?」
トッカの視線が空っぽの寝台を見て、そして俺を見る。
「……マットが、汚れてるから」
「ふぅん?」
寝台には普通、動物の毛を詰めたマットを置く。マットのない寝台は、ただの木の板だ。野営に慣れているとはいえ、せっかくの寝台なのに、体が痛かっただろう。一人でマットを使って申し訳ないことをした。
その日の魔法使いは、勇者扱いだった。食堂兼広間という部屋へ案内されていくと、第一部隊の仲間たちに驚いた顔で見られた。あんまり黙って凝視するものだから、魔法使いが思わず「生きてるよ?」と言ってしまったくらいだ。
「………無事か、おっさん」
「おっさんだよな?」
「おいおい、おっさーんっ!」
「生きてたかよ、おっさん」
「昨日すごかったじゃねーか!」
「体はなんともねーのか?」
あっという間、でかい男どもにぐわっと囲まれて、頭をぐしゃぐしゃされたり、肩をつかまれたり、背中を叩かれたり。みんな無駄に力強いから痛い、いたい。大きな声でやたらと褒められ、もみくちゃにされた。
「まず、食事」
トッカの静かな一言で、あれだけうるさかった仲間たちが、しんっとする。トッカの発言力はすごい。トッカに連れられ、カウンターでそれぞれ盆に入った食事をもらい、適当なテーブルに座る。第一の皆も、おとなしくテーブルに戻って座ったけれど、そこかしこから視線を感じる。トッカはまったく関係ないという顔で、食事を口に運んでいる。魔法使いは普段、これほど人から見られることなどないので、落ち着かない。皿からとった食べ物がぽろぽろ落ちるし、うまく食べられなくて、口の周りがベタベタしてしまう。見かねたトッカが服のポケットから布を出して、無言で拭ってくれる。「ありがとー」これは毎度のことだ。いつもおっさんの面倒をみさせて、すまないと思う。
食事を終え、温かい飲み物をもらってくる。それでもまだ、周囲からの探るような視線は、おさまらなかった。魔法使い、あいつがひとりで魔物を、化け物、聞こえてくるのはそんなところだ。ささやき声が、逆に耳に入るものだ。たしかに、石壁の上に立って放つ攻撃魔法なんて、一番圧倒的なやり方だ。攻撃魔法なぞ、一般人は見る機会すらないだろうし、それは目立つだろう。
あとで実際に石壁に連れて行ってもらって、えぐれた地面、ぼこぼこになった地形を見て驚いた。これを全部ひとりでやったのか。
「昨日の俺、ほんとに頑張ったんだなぁ」
魔力酔いも、今朝は残っていない。だいぶ疲れてはいるが、ポーションのおかげか体の不調もない。結局記憶がない間の話は聞いていないが、トッカが気絶した魔法使いを、第一部隊に与えられた控え室まで運んでくれたらしい。それで風呂まで面倒をみてもらったとは、まるで赤ん坊ではないか。羞恥心がないわけではないが、それで魔物を撃退できるのだったら、喜んで羞恥心を捨てる。
昨日頑張ったおかげで、魔物たちは石壁からだいぶ離れたところにいる。このまま森の方に魔物を誘導し、できればまた氾濫なんて起きないように、数を減らしておきたい、というのが氾濫を鎮圧せよと指示を出した時の上の考え。
「上のやつらは、いつも簡単に言うけどよぉ」
「魔物の氾濫があったってことは、そう簡単には終わらんだろうな」
愚痴を言う戦士に、部隊長が難しい顔でうなずく。
「昨日の爆撃で、魔物も石壁に近づいては来ていない。とはいえ、森の中にはまだまだ魔物がいる」
斥候隊が、森の中でけっこうな数の魔物を目撃したらしい。通常であれば魔物は森を出ないし、森を歩いてもそんなに魔物に遭遇することなどない。やはり何か魔物が氾濫し森の外まで流れてくる、原因があるのかもしれない。
「部隊長ぉ」
「なんだ」
進まない話に、一番気になっていたことを聞いてみた。
「森の中で俺、役に立ちますかね」
「………うーむ」
魔法を放てば、すべて焼け野原にしてしまう。一度に消滅させる魔物の数は多いが、森の中で魔法をぶっ放せば、当然魔物といっしょに樹木もなくなる。
「戦力としては惜しいが、森の中は厳しいかもしれん」
「あ、やっぱりー」
結局、俺と護衛のトッカを除く第一部隊が森へ入り、魔物を石壁の方へ追い立てる。森から出てきた魔物を、俺が石壁の上から魔法で消滅させるという作戦になった。
手にした木のカップには、度数が強めの果実酒が入っていて、それをゆらゆらと揺らしながら、ランプの炎で酒の表面がいつもより黒く映るのを、なんとなく眺める。予言師ではないが、嫌な予感がする。人生いつも一人きり、これといって武功も持たず、目立たず。かといって誰かの足を引っ張るでもなく、国の警備隊の一員として生きてきた。生きている見知らぬ誰かを守るために、命を張って戦いの最前線で魔物を食い止める。望んで選んだ仕事ではなかったが、何の役にも立たない人生よりはマシだろう。そう自分に言い聞かせて、危険と隣り合わせの、いつ死ぬかもわからない仕事に覚悟を決めていた。
「なぁ、トッカ」
「ん」
狭い簡易テントだ、布団代わりのマントを敷いて座れば、互いの膝が付くほどの距離。魔法使いはカップの酒を一口含んで、ゆっくりと飲み込んだ。とても大事な話だ、酒に濡れた舌で唇を湿らせると、慎重にことばを探した。
「明日……俺に何かあったら、俺を置いて、すぐ逃げろ」
「……断る」
即答か、そうか。案の定、堅物で無口な男は、自分に与えられた仕事を真面目に遂行するつもりらしい。どうやら言い方が、まずかったようだ。トッカはふてくされたような顔をして、手にしたカップの酒をぐびりとあおっている。
「俺を守るのが、たとえお前の仕事だとしても。俺はお前の荷物になりたくない、無駄死にさせたくないんだ。お前は逃げてくれ、頼むから」
俺を守ろうとしなければ、この男が死ぬことなどあり得ないのだ、無敵の鎧をまとう男が。むしろ有事の際には、俺がこの男の足枷になる。カップの中身を、一気に飲み干したのだろう。喉を見せていたトッカが、白い髪を揺らして勢いよく正面に顔を戻した。怒りをはらんだ顔が、にらんでくる。互いの膝が触れるほどの近い距離で、白い髪の奥で力強く燃えるような薄紫色の瞳と、視線が絡む。じっと目をそらさないトッカの瞳には、大して見栄えもしない疲れた中年男が映っていた。
もしかしてトッカは溜まっているのかもしれない。そういえばこの数日の演習中、いつも魔法使いと一緒で、自由行動などなかった。明日死ぬかもしれないのが、この仕事だ。死と隣合わせの戦いに、恐怖と紙一重、昂ぶる気持ちもある。そもそも行軍の間、個人的な時間も場所もない。身体を休める簡易テントだけが、かろうじて個人的な場所といえるだろう。それとて軽量化のため、一人で使えるテントの余分はない。二人ないし三人で一組のテントを使う。だから、どうしても自己処理したければ、そこでするしかない。互いに気づかぬふりをして、背中を向けてシコシコと妄想しつつ精液を絞り出すか。もしくは夜も相棒として、互いのモノを握り合って処理するか。
何年もこんなに近い距離にいながら、魔法使いとトッカには仕事の相棒ということ以外、何もない。それもそうだ、相手がおっさんでは、いくら溜まってたって勃つのも無理ってものだろう。よって、たとえトッカが溜まっているのだとしても、手伝えることは何もなかった。しいていうなら、マントへくるまって横になり、速やかに寝入ってしまうのが優しさだろう。魔法使いはちゃんと気を使えるおっさんなのである。この話は終わらせることにした。若いトッカに必要なのは、明日を憂いたおっさんの頼み事より、溜まったものをすみやかに処理する今の時間だ。
「俺に、もし、何かあったらでいいから……頼むよ」
「そのときは、担いで逃げる」
まさかそんな答えが返ってくるとは思わず、吹き出した。
「……ぶはっ、頼もしいな。んじゃ、そいつで任せた」
「ん」
明日向かうのは、戦いの最前線だというのに。担いで逃げると言った本人は、大真面目にうなずいている。おやすみと挨拶をし、魔法使いは横になった。酒のせいか年のせいか、目をつぶるとすぐに寝入ってしまった。
目が覚めるとすでに明け方近く。いつも通り、背中にはまだ眠るトッカの体温がある。それをなるべく起こさぬようにと身体を起こし、テントの外へ出れば、そこかしこで静かに出立の準備が始まっていた。
「俺は死なない」
小さな声で口に出す。戦いに赴く前の儀式みたいなものだ。右も左もわからぬ新人魔法使いの頃、部隊長が何度も繰り返せと教えてくれたことば。自分に言い聞かせることで、生き残るのが当たり前なのだと、心が錯覚するように。
「俺は死なない」
「お前は死なせない」
すぐ後ろから聞こえた声に、ピクリと反応する。鎧をまとわぬトッカは、足音が聞こえにくいし気配が薄いのだ。さきほどまでテントで寝ていたはずのトッカが、すぐ隣に立っていた。
「トッカも死ぬなよ。必ず生き延びろ」
本気で言ったのに、横で白い髪を風になびかせている男は、ふっと笑ってみせた。ジョークがおかしくて、思わず笑ってしまったような様子に、わけがわからず首をひねる。若い男の考えることなんて、しょせんおっさんにはわからないのだろう。
ほどなくして出立の号がかかり、全員が静かに移動をはじめた。
国境付近の森は、思った以上にひどい状況だった。昔から国境を守るためにと、頑丈な石壁が二重にはりめぐらされているため、魔物たちの変化に気づくのが遅れたのだろう。外側の石壁を覆うように魔物がいるのを見てはじめて、魔物の氾濫だと気がついた。そこから都へ早駆けを放ったので、こんなことになったのだ。
第一部隊が現場に到着したとき、外側の石壁はところどころ崩れていた。新たに魔物が入ってこないよう、石壁を内側から修復する作業を進めるのがやっとで、森の方の魔物は手つかずの状態だった。疲れ切った兵士が言うには、魔物は切り捨てても次から次へ、沸いてくるようだと。まずはこれ以上石壁に魔物を近づけさせないように、石壁と魔物の間に隙間を作る。そして少しずつ、魔物を森へ追いやるというのが、部隊長の案だった。
「おっさん、頼むぞ」
「うん、わかったー」
「こんなときにも気が抜ける返事だなぁ、おい」
「え、そぉ? これでもかなり緊張してるんだけど」
石壁の上から眺めた森の方面には、地面が見えないほどの魔物がひしめいていた。こんな数の魔物、見るのも初めてだ。
「俺も鎧ほしー」
「今さらかよ。鎧つけたら、重くて動けねぇって嫌がったの、おっさんだろが」
「そうなんだけどぉ。生身であそこに突っ込むかと思うと……ねぇ」
「だーから、普段から鍛えとけってみんな言ってんだぞ」
「あははぁー」
笑ってごまかすが、誰一人笑ってくれない。トッカはすでに鎧を身につけている。
「んじゃ、いきますかー」
「いっとくけどおっさん、石壁、壊すなよ」
「気をつけるー、トッカいくよー」
「ん」
魔力を練り上げ、いくつもの魔法球を浮かせて、放つ。球の着地と同時に、大きな爆発が各所で起こる。地響きが続き、揺れないはずの大地が、石壁の上に立つ者の足元をぐらつかせた。
「近い、近い! もっと離れたとこに撃てって、おっさん」
「んんー、やってるつもりなんだけど。誤差っていうか」
「石壁崩れたら、誤差じゃ済まねーからな?」
「頼むぜ、おっさん」
「わかったー」
再び魔力を練り上げる。もう少し大きく、遠く。放った魔法球は勢いよく飛んで、固まっていた魔物たちを、地面ごとえぐって消滅させた。
「やった」
「いいぞ」
両肩に下げたベルトから魔力回復のポーションを出して、蓋を外しあおるように飲む。魔力が回復する瞬間、体がブルッと震える。
「魔力回復ポーションの木箱を、ここへ持ってこい」
部隊長の指示でポーションの木箱が、魔法使いの横にどんどん積み上げられていった。
ポーションを飲み過ぎると、魔力酔いという症状に陥る。減った魔力は元々、時間を掛けて元に戻るものだ。それを一気に無理やり、完全回復の状態に持っていくのだから、体に負担もかかる。横に積まれた大量のポーションを横目に、もしこれを全部飲んだとしたら、どうなってしまうか想像もつかない。魔力酔いも、過ぎた酒と同じ。摂取しすぎれば、まずいことはわかる。ただ、どんなふうになるのかは、自分ではわからない。たまに起こる魔力酔いだったが、魔法使いには一切の記憶が残らなかった。トッカに出会う前は、翌日部隊員たちから、腫れものに触れるように接されていた。なぜかは教えてくれなかったのだが、だいぶ迷惑を掛けたのだろう。今はトッカが側にいてくれるので、安心して全面的に任せてしまっている。魔力酔いになったとしても、魔物の氾濫がおさまって、自分が生きていればよいではないか。魔法使いは淡々と魔法球を放ち続け、次のポーションの蓋を外すと、景気よく飲み干した。
魔法を練って放ち、ポーションで回復、また放つ。ただそれだけを延々続け、すでにもう何も考えられなくなっている。立ったまま誰かに食べ物を口に入れられた。たいした休憩時間もとれずに、日暮れまで石壁に立ち、攻撃魔法を放ち続けた。途中から自力で立っていられなくなったから、トッカに寄りかかり支えてもらった。ほとんどトッカ椅子である。
日が暮れて魔物の姿が目視できなくなり、その日の攻撃は終了した。
「トッカぁ、ごめん、あとよろしくー」一日中、体を支えてくれたトッカに、感謝のことばを伝えられたかわからない。とにかく疲れて、眠くて。周りの声も音も、ぜんぜん聞こえない。魔法使いは、そのまま意識を手放した。
目覚めたとき、すでに空は明るかった。開いた鎧窓からは、爽やかな風が通り抜けていく。シーツがしっかりかかった寝台で、布を掛けて寝ていたようだ。前日までの汗や汚れもなく、全身がさっぱりしている。自分で水を浴びた記憶なんてないから、誰かがやってくれたのだろうが、数日間の汚れを溜めた体をきれいにするのは、大変だったろう。気を失ったおっさんの体だ、重かったに違いない。誰もいないので、大して広くはない部屋を見回すと、トッカの荷物が置いてあった。やっぱり面倒をみてくれたのは、トッカだった。
魔法使いは起き抜けの、よく回らない頭で妄想する。美人さんでマメで無口、戦えば無敵だし、いっそのこと俺の嫁にしたいくらいだ。待てよ、トッカならおそらく引く手あまた。そもそも取り柄も金もない、中年魔法使いの嫁になって何の得があるというのか。自分でそこまで考え、ひとりで落ち込む。いいんだ、おっさんはひとりでも、さみしくなんてない。しかしあれだな、やはり体はダルい。今朝の俺、髪さらっさら、ほっぺはつるっつる、妙に艶々なんだけど。なんか若返ってない? これもポーションのおかげなのかな。喉が乾いた、水飲みたいなぁって思ってたら、部屋の扉が開いてトッカが入ってきた。手には水差しとカップを持っている、さすが俺の心の嫁、できる男だ。
そんなくだらない妄想を知るはずもなく、トッカは水差しからカップに水を注ぎ、魔法使いに手渡してくれた。受け取るとき、思ったより手に力が入らず、カップを取り落としそうになった。
「大丈夫か」
「うん、ありがとー」
もらった水を一息に飲んで、二杯目も飲み干して。昨日の礼と、体まできれいにしてもらった礼を言う。
「ほかにはなんか、迷惑かけなかった?」
「迷惑ではない」
迷惑ではないってことは、なにかあったのだ。魔力酔いのせいで、暴れたりしたのか、やだやだ。トッカに真剣な顔で「覚えてないのか」って聞かれたけれど、何も記憶がない。こわいから内容は聞かないでおく。
「そういやなんで部屋なの?」
「昨日の功労者だから」
「個室なんだ、すごい」
二人で一部屋だが、普段はテントだ。破格の待遇である。それにしても、あんなにポーションを飲んだのに、まだものすごく喉が渇いている。やはりポーションと水は別物ってことか。もう一杯水をもらって飲んで、ぷはーっと息をつく。トッカが口のはしから顎まで、指で拭ってくれた。水が垂れていたのだろう、なんとよく気のつく男だ。
「なぁ、トッカの荷物はそこにあるのに、なんで寝台にマットねぇの?」
トッカの視線が空っぽの寝台を見て、そして俺を見る。
「……マットが、汚れてるから」
「ふぅん?」
寝台には普通、動物の毛を詰めたマットを置く。マットのない寝台は、ただの木の板だ。野営に慣れているとはいえ、せっかくの寝台なのに、体が痛かっただろう。一人でマットを使って申し訳ないことをした。
その日の魔法使いは、勇者扱いだった。食堂兼広間という部屋へ案内されていくと、第一部隊の仲間たちに驚いた顔で見られた。あんまり黙って凝視するものだから、魔法使いが思わず「生きてるよ?」と言ってしまったくらいだ。
「………無事か、おっさん」
「おっさんだよな?」
「おいおい、おっさーんっ!」
「生きてたかよ、おっさん」
「昨日すごかったじゃねーか!」
「体はなんともねーのか?」
あっという間、でかい男どもにぐわっと囲まれて、頭をぐしゃぐしゃされたり、肩をつかまれたり、背中を叩かれたり。みんな無駄に力強いから痛い、いたい。大きな声でやたらと褒められ、もみくちゃにされた。
「まず、食事」
トッカの静かな一言で、あれだけうるさかった仲間たちが、しんっとする。トッカの発言力はすごい。トッカに連れられ、カウンターでそれぞれ盆に入った食事をもらい、適当なテーブルに座る。第一の皆も、おとなしくテーブルに戻って座ったけれど、そこかしこから視線を感じる。トッカはまったく関係ないという顔で、食事を口に運んでいる。魔法使いは普段、これほど人から見られることなどないので、落ち着かない。皿からとった食べ物がぽろぽろ落ちるし、うまく食べられなくて、口の周りがベタベタしてしまう。見かねたトッカが服のポケットから布を出して、無言で拭ってくれる。「ありがとー」これは毎度のことだ。いつもおっさんの面倒をみさせて、すまないと思う。
食事を終え、温かい飲み物をもらってくる。それでもまだ、周囲からの探るような視線は、おさまらなかった。魔法使い、あいつがひとりで魔物を、化け物、聞こえてくるのはそんなところだ。ささやき声が、逆に耳に入るものだ。たしかに、石壁の上に立って放つ攻撃魔法なんて、一番圧倒的なやり方だ。攻撃魔法なぞ、一般人は見る機会すらないだろうし、それは目立つだろう。
あとで実際に石壁に連れて行ってもらって、えぐれた地面、ぼこぼこになった地形を見て驚いた。これを全部ひとりでやったのか。
「昨日の俺、ほんとに頑張ったんだなぁ」
魔力酔いも、今朝は残っていない。だいぶ疲れてはいるが、ポーションのおかげか体の不調もない。結局記憶がない間の話は聞いていないが、トッカが気絶した魔法使いを、第一部隊に与えられた控え室まで運んでくれたらしい。それで風呂まで面倒をみてもらったとは、まるで赤ん坊ではないか。羞恥心がないわけではないが、それで魔物を撃退できるのだったら、喜んで羞恥心を捨てる。
昨日頑張ったおかげで、魔物たちは石壁からだいぶ離れたところにいる。このまま森の方に魔物を誘導し、できればまた氾濫なんて起きないように、数を減らしておきたい、というのが氾濫を鎮圧せよと指示を出した時の上の考え。
「上のやつらは、いつも簡単に言うけどよぉ」
「魔物の氾濫があったってことは、そう簡単には終わらんだろうな」
愚痴を言う戦士に、部隊長が難しい顔でうなずく。
「昨日の爆撃で、魔物も石壁に近づいては来ていない。とはいえ、森の中にはまだまだ魔物がいる」
斥候隊が、森の中でけっこうな数の魔物を目撃したらしい。通常であれば魔物は森を出ないし、森を歩いてもそんなに魔物に遭遇することなどない。やはり何か魔物が氾濫し森の外まで流れてくる、原因があるのかもしれない。
「部隊長ぉ」
「なんだ」
進まない話に、一番気になっていたことを聞いてみた。
「森の中で俺、役に立ちますかね」
「………うーむ」
魔法を放てば、すべて焼け野原にしてしまう。一度に消滅させる魔物の数は多いが、森の中で魔法をぶっ放せば、当然魔物といっしょに樹木もなくなる。
「戦力としては惜しいが、森の中は厳しいかもしれん」
「あ、やっぱりー」
結局、俺と護衛のトッカを除く第一部隊が森へ入り、魔物を石壁の方へ追い立てる。森から出てきた魔物を、俺が石壁の上から魔法で消滅させるという作戦になった。
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