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7学園
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学園を断るのならば早い方が良いだろう、と翌日マティアスが直接学園長に約束を取り付けてくれた。学園の入り口まではマティアスが転移魔法で送ってくれるので、教師がひとり見学するための案内役で付いてくれるという破格の待遇である。
果たして約束の時間きっかりに転移魔法で現れたサキに驚きも見せず、温厚そうな紳士、といった感じの男性教師が挨拶を返してくれた。執事のネストリに少し似ているのでサキもあまり構えず、案内されるがままに歩き出したのだった。
(どこが優秀な人材の揃った学園だ?)
学園見学にやって来たはずが、別の学校にでも案内されたかとサキは思った。聞いていた前評判に期待しすぎていたのだろうか。教師の一人に案内され、低学年時から次々と教室を廊下の窓から覗いていったサキは、次の教室は高学年であると聞いて一度入室させてもらった。授業中であるから後ろから案内の教師と共にそっと入室し、教壇に立つ教師に黙礼をする。
教師の質問に各自が意見を出して発表していくという形で授業を進めているようで、自分たちの考えた魔法理論を元に生徒たちが魔法構築を次々繰り出していく。
(魔法の構築が拙い。数年学んでこのレベルなのか)
マティアスの魔法構築を見慣れたサキには、彼らの魔法構築は拙く歪で美しくないと感じてしまう。マティアスがサキの才能に気づき付きっきりで教えてくれるようになってから、マティアスが望む高い水準で学んできたのでサキと学園のレベルに差があるのは仕方のないことだ。
そもそも高位魔法師のなかでも実力は一番と噂される、人嫌いのマティアスが魔法構築を語り魔方陣の改良を教えているのだと聞けば、学園の教師はひざまずいて教えを乞いたい者もいることだろう。生まれてこの方マティアスの魔法しか目にしたことのないサキが何も知らなくても、つまりはせんかたないことである。
前世では受験勉強以外で役に立たなかった数式が、この世界では魔法の構築に応用できる。魔法構築に無駄がなくなれば、それだけ少ない魔力で扱える魔法や魔方陣が増えるということだ。最もサキのように魔力が目に視える人間は珍しいようだから、魔法を構築する本人しか掛ける魔力量を知ることができないのだから、高位魔法師が魔力量の多さで決まってしまうのも理解できる。
魔法を構築しながら、なぜその歪さを保持したままよそ見をする余裕が自分にあると思っているのか、生徒の一人が頬を緩めて教室の後ろに視線を送ってくる。集中しないから、ほら暴発するぞと思いつつサキは首を傾げる。サキとしては暴発しても防ぐ手立てが十二分にあるからこそ出てくる余裕なのだろうと思っている。それにしてもそこで暴発させて周囲は大丈夫なのか、一見周りも気づいていないように見えるのだが?という意味で首を傾げたのだが、秋波を送ってくる生徒はこてんと首を傾げたサキを見て頬を赤らめ、一瞬完全に集中を途切れさせた。
元々そんなに魔力を練って行われた魔法の構築ではないから、被害は小さいだろう。だがサキの目には高学年の身体が大きな生徒がひしめく教室において、くだんの生徒の真横にいる自分と同じくらい小柄な赤い髪の生徒が映っていた。魔力を練る作業に目を閉じて集中していたため魔力の暴発に気づくのが遅れ、避け損ねている。サキは左手に嵌めている手の甲だけを覆う手袋を、避け損ねた少年に向けて突きだした。
手袋は手の甲側に粒の小さい魔石をいくつも縫い込むように編んだものだ。魔石は小さいので一見ガラス細工の柄を入れたようにも見える。魔力が少なくても使えるようにマティアスの『空間』から出してもらった虹蜘蛛という魔力を通す魔物の糸を編みこんで、魔力回路としている。手の平側に起動の魔方陣を刺繍しようとして、あまりの細かさに刺繍を担当したカティが目をしょぼしょぼさせたため、漢字で『発射』と書いたのを模様に見えるよう工夫して描き直し、それを刺してもらっている。
これならば魔力を魔石に溜めておき、咄嗟のときにも構えて打てばある程度身を守ることができる。発射するのは結界魔法で、結界を飛ばす、というありそうでなかった斬新な発想である。簡単な構造なので発射待機時間はなく、魔石の魔力を使うから魔力の少ない人間でも使用可能だ、サキの屋敷では全員に外出時の装着が義務づけられている。
サキの手の平から『発射』された魔法が暴発した魔法を相殺し、教室は一時騒然としたものの事なきをえた。小柄な生徒はサキにぺこぺこと頭を下げ、サキも黙礼を返す。何か言いたげな案内の教師を促して教壇へと黙礼すると、全員がこちらを注目しているのを知りつつさっさと教室を後にするべく足を進める。目立って良いことなどひとつもないのだ。
先日マティアスの手袋を見た王様がぜひに、と言ってきたので一応身を守るものだし、と面識のある王様と第一王子にはひとつずつプレゼントしてある。他の方の分は装飾も兼ねてプロに頼んで作ってもらうほうがよかろう、と作り方の編みこみ図と魔力充填済の魔石を多めに渡している。
女性は衣装によって手袋の色も変えるであろうという、サキの子供らしからぬ配慮である。そしてその心遣いは王妃と王女たちをひときわ喜ばせ、その後いくつか送られてくることになるサキの造った魔導具を、やがて心待ちにするようになっていくのはまだ少し先の話となる。
それにしても魔法が暴発しても防ぐ手立てを準備していないとは学園もどうかと思う。王様には既に作り方と共に現物を渡してあるのだから、学園で支給品として使い捨てのものでも配ってもらえれば良いのではなかろうか。今夜にでもマティアスに相談だ、と頭の片隅に書き込んでサキは次の教室へ向かおうとして、止まった。
(何だこの野次馬は)
まだ授業中のはずである、しかし学園見学に来た少年を覗きにきた学園生が、教室の外に溢れていた。かわいいかわいい。押すなかわいい。尊い。かわいい。この学園の生徒の語彙を疑ってしまう、そしてここは男子生徒しかいないはずだ。ここには絶対に通いたくない、サキは当初の予定通り見学だけで学園に通うことを諦めた。
結局学園内をぐるりと一回りさせてもらった感想は、マティアスの構築する魔法も描く魔方陣も、この学園で見たどれよりもずっとシンプルで美しい、という結論に至っただけである。学園に興味を失ったサキは玄関口まで送ってもらうと、さっさと帰宅すべく案内の教師にお礼を述べた。
「いつから学園にいらっしゃるご予定ですか」
「えぇ……と、私一人では決めかねますので、後日父よりお返事をさせていただきます。本日は丁寧にご案内くださり、ありがとうございました」
「それは寂しいですね、またすぐにお会いしたいものです」
執事と同じほどの年齢に見える短い髪をぴっちり撫でつけた案内役の教師が、すっと膝をついてサキの左手を掬った。学園の教師だからおそらく手袋をよく見てみたいのであろう、と手袋を外そうとすると。教師はサキの右手をそっと押しとどめて左手の指先に、そっと唇を押しつけたのだった。
(え……これなに……)
「こちらこそ本日は楽しい時間を頂戴いたしました。ご尊父様にもお礼を申し上げておきます」
「はい……」
サキは先ほどの出来事に少し混乱しながら、伝魔通信の魔導具でマティアスに連絡をとる、すぐにマティアスが終わったなら転移すると告げたので魔導具を切った瞬間、サキは屋敷に戻っていた。マティアスは仕事で留守にしているというのに器用なことだ。サキも転移魔法は練習しているが、短い距離しか飛べないし他の人間を転移させることは、まだまだ無理である。呼び寄せの転移魔法などはあまりに繊細な調整が必要なため、できる気などしないのであった。
その日は珍しくマティアスの帰りが遅かったので、まだ名前のつかぬ赤子の眠る小さな籠をゆっくり揺らしながら福々しい桃色の頬をそっと指のはらで撫でてみたり、小さな声で妹のためにラミから教わった歌を歌ったりしていた。サキからするとかわいい妹の名前を呼んで愛でることができないのは辛いのだが、貴族の子供は幼少期は仮の名で過ごし、健やかに成長し5歳を過ぎてから名前を付けるという風習も一部では残っており、妹の名前がまだ付いていないことに焦る人間はひとりもいなかった。
ラミから教わる歌は歌自体が魔法そのものなのか、不思議な旋律で疲れを癒したり健全な成長を促したりする、いわゆる癒しの歌であった。魔族というのは本当に謎が多く、ラミも屋敷を不在にしているときはどこに行っているのか、誰も知らないのである。戻ってくるといつも良い香りの白くて丸い小さな花をまとわせているので、どこかお気に入りの場所があるのだろうが、マティアスがラミを媒体にしてそこへ飛ぼうとしても、適うことはないのだった。
夜にマティアスの書斎を訪れ、学園の見学の話をした。やはり断ると言えば返ってきたのは、そうかという一言だけだった。ついでに結界を飛ばす手袋を使い捨てにして生徒に配布する、という案も伝えておく。確かに昔から魔力の暴発は問題視されてきたから、明日にでも伝えておこうとマティアスが請け負った。聞いてみるのは今しかない、とサキは勇気を出した。
「父さん、ひとつ聞きたいことがあるのだけれど」
なんだ、と目だけでマティアスが問う。目つきは悪いし口数も多くない父親は、だが見目が悪いというわけではない。額の真ん中で分けて長く伸ばしている黒髪は艶があり、痩せて長身で鼻筋が通っている。これは実は結構学園時代はモテたのでは、とサキは密かに思う。
「今日学園を見学に行って、僕のことを女の子を見るような目で見る生徒がいたのです。もしかして学園では男性同士でのお付き合いというのは、普通のことなのでしょうか。僕はまだちょっと男の人が怖いもので、そういうことは想像もつかないのですが」
指先にキスをした教師の話は黙っておく、サキはこの世界で大人の社交界などを覗いたことがないので、ああいった挨拶が存在する世界かもしれないと考えてのことである。
サキの質問に一瞬詰まってマティアスが眉間に皺を寄せた。
「全てではないが、ないとは言わない。学園はある種閉じられた世界だ」
「父さんは?お付き合いはどうしていたの?」
せっかくだから父親の恋バナを聞いてみようと、サキは身を乗り出した。マティアスは横目でサキをジロリと眺め口をへの字にした。
「抱いてくれと頼まれれば抱いてやったが、それだけだ。私はそれほど暇ではなかった」
(おぉう……さすが父さん)
案外するりと教えてくれたマティアスの赤裸々な告白に、聞いたサキが照れてしまう。頬を染めたサキにマティアスが片頬を上げて、もっと知りたいかと尋ねてきた。サキは赤い頬のままぶんぶんと首を横に振った。夢魔を虜にするほどの男なのだ、魔力だけが魅力ではないはずである。もう少し大きくなったら手ほどきしてやろう、と片頬を上げたままサキを眺める目は本気でサキはやはりぶんぶんと首と手を大きく横に振って、マティアスに声をあげて笑われた。
(声をあげて笑う父さんなんて、初めてみた)
「声に出して笑うなど、学園時代以来だな」
マティアスも少し懐かしそうに語った。
「私がお前と同じ歳の頃は学園に入るしか道がなかった。学園はつまらないところかもしれないが、声に出して笑うほど面白いことが起こったのも事実だ。私とてエーヴェルトや幾ばくかの友と呼べる人間を持つこともできた。お前にもそれは必要かと思ったのだが」
「父さん、ありがとう。僕は父さんから学園に通う以上の教育を受けることができるし、友人は学園に行かなくても増やせると思うんだ。それに心に不安をもって一人きりで寮生活を送るより、家族の傍に僕はいたい」
「それもそうだな」
伸ばした手でサキの頭を撫でたマティアスは、ふと思い出したように告げた。
「そういえばエーヴェルトがお前の妹の名前を決めたから、呼べと言っていたな。もう面倒だから明日城で聞いてくれば良いか」
「いや、時間が遅くて構わないなら今からでも……」
「だがもうお前は眠いだろう?では明日にでも呼べば良い。寝るぞ」
マティアスに手を引かれたのでサキは大人しく両親の寝室についていった。ベッドによじ登ればすぐさまラミが呼び寄せられる。むにゃりと眠ったまま笑うラミに釣られて笑って、サキはおやすみなさいと言って目をつぶった。おやすみと言ってベッドに乗り上げたマティアスがラミに口づけを落とし、次いでサキの額にも軽く口づけを落として離れていった。
サキはびっくりして目を開いたが、慣れぬ暗闇に見えたのはすでにこちらに背中を向けて身体を横たえた父親だった。布団を鼻のところまで引っ張って、何だかくすぐったくなって、サキはふふっと笑った。
果たして約束の時間きっかりに転移魔法で現れたサキに驚きも見せず、温厚そうな紳士、といった感じの男性教師が挨拶を返してくれた。執事のネストリに少し似ているのでサキもあまり構えず、案内されるがままに歩き出したのだった。
(どこが優秀な人材の揃った学園だ?)
学園見学にやって来たはずが、別の学校にでも案内されたかとサキは思った。聞いていた前評判に期待しすぎていたのだろうか。教師の一人に案内され、低学年時から次々と教室を廊下の窓から覗いていったサキは、次の教室は高学年であると聞いて一度入室させてもらった。授業中であるから後ろから案内の教師と共にそっと入室し、教壇に立つ教師に黙礼をする。
教師の質問に各自が意見を出して発表していくという形で授業を進めているようで、自分たちの考えた魔法理論を元に生徒たちが魔法構築を次々繰り出していく。
(魔法の構築が拙い。数年学んでこのレベルなのか)
マティアスの魔法構築を見慣れたサキには、彼らの魔法構築は拙く歪で美しくないと感じてしまう。マティアスがサキの才能に気づき付きっきりで教えてくれるようになってから、マティアスが望む高い水準で学んできたのでサキと学園のレベルに差があるのは仕方のないことだ。
そもそも高位魔法師のなかでも実力は一番と噂される、人嫌いのマティアスが魔法構築を語り魔方陣の改良を教えているのだと聞けば、学園の教師はひざまずいて教えを乞いたい者もいることだろう。生まれてこの方マティアスの魔法しか目にしたことのないサキが何も知らなくても、つまりはせんかたないことである。
前世では受験勉強以外で役に立たなかった数式が、この世界では魔法の構築に応用できる。魔法構築に無駄がなくなれば、それだけ少ない魔力で扱える魔法や魔方陣が増えるということだ。最もサキのように魔力が目に視える人間は珍しいようだから、魔法を構築する本人しか掛ける魔力量を知ることができないのだから、高位魔法師が魔力量の多さで決まってしまうのも理解できる。
魔法を構築しながら、なぜその歪さを保持したままよそ見をする余裕が自分にあると思っているのか、生徒の一人が頬を緩めて教室の後ろに視線を送ってくる。集中しないから、ほら暴発するぞと思いつつサキは首を傾げる。サキとしては暴発しても防ぐ手立てが十二分にあるからこそ出てくる余裕なのだろうと思っている。それにしてもそこで暴発させて周囲は大丈夫なのか、一見周りも気づいていないように見えるのだが?という意味で首を傾げたのだが、秋波を送ってくる生徒はこてんと首を傾げたサキを見て頬を赤らめ、一瞬完全に集中を途切れさせた。
元々そんなに魔力を練って行われた魔法の構築ではないから、被害は小さいだろう。だがサキの目には高学年の身体が大きな生徒がひしめく教室において、くだんの生徒の真横にいる自分と同じくらい小柄な赤い髪の生徒が映っていた。魔力を練る作業に目を閉じて集中していたため魔力の暴発に気づくのが遅れ、避け損ねている。サキは左手に嵌めている手の甲だけを覆う手袋を、避け損ねた少年に向けて突きだした。
手袋は手の甲側に粒の小さい魔石をいくつも縫い込むように編んだものだ。魔石は小さいので一見ガラス細工の柄を入れたようにも見える。魔力が少なくても使えるようにマティアスの『空間』から出してもらった虹蜘蛛という魔力を通す魔物の糸を編みこんで、魔力回路としている。手の平側に起動の魔方陣を刺繍しようとして、あまりの細かさに刺繍を担当したカティが目をしょぼしょぼさせたため、漢字で『発射』と書いたのを模様に見えるよう工夫して描き直し、それを刺してもらっている。
これならば魔力を魔石に溜めておき、咄嗟のときにも構えて打てばある程度身を守ることができる。発射するのは結界魔法で、結界を飛ばす、というありそうでなかった斬新な発想である。簡単な構造なので発射待機時間はなく、魔石の魔力を使うから魔力の少ない人間でも使用可能だ、サキの屋敷では全員に外出時の装着が義務づけられている。
サキの手の平から『発射』された魔法が暴発した魔法を相殺し、教室は一時騒然としたものの事なきをえた。小柄な生徒はサキにぺこぺこと頭を下げ、サキも黙礼を返す。何か言いたげな案内の教師を促して教壇へと黙礼すると、全員がこちらを注目しているのを知りつつさっさと教室を後にするべく足を進める。目立って良いことなどひとつもないのだ。
先日マティアスの手袋を見た王様がぜひに、と言ってきたので一応身を守るものだし、と面識のある王様と第一王子にはひとつずつプレゼントしてある。他の方の分は装飾も兼ねてプロに頼んで作ってもらうほうがよかろう、と作り方の編みこみ図と魔力充填済の魔石を多めに渡している。
女性は衣装によって手袋の色も変えるであろうという、サキの子供らしからぬ配慮である。そしてその心遣いは王妃と王女たちをひときわ喜ばせ、その後いくつか送られてくることになるサキの造った魔導具を、やがて心待ちにするようになっていくのはまだ少し先の話となる。
それにしても魔法が暴発しても防ぐ手立てを準備していないとは学園もどうかと思う。王様には既に作り方と共に現物を渡してあるのだから、学園で支給品として使い捨てのものでも配ってもらえれば良いのではなかろうか。今夜にでもマティアスに相談だ、と頭の片隅に書き込んでサキは次の教室へ向かおうとして、止まった。
(何だこの野次馬は)
まだ授業中のはずである、しかし学園見学に来た少年を覗きにきた学園生が、教室の外に溢れていた。かわいいかわいい。押すなかわいい。尊い。かわいい。この学園の生徒の語彙を疑ってしまう、そしてここは男子生徒しかいないはずだ。ここには絶対に通いたくない、サキは当初の予定通り見学だけで学園に通うことを諦めた。
結局学園内をぐるりと一回りさせてもらった感想は、マティアスの構築する魔法も描く魔方陣も、この学園で見たどれよりもずっとシンプルで美しい、という結論に至っただけである。学園に興味を失ったサキは玄関口まで送ってもらうと、さっさと帰宅すべく案内の教師にお礼を述べた。
「いつから学園にいらっしゃるご予定ですか」
「えぇ……と、私一人では決めかねますので、後日父よりお返事をさせていただきます。本日は丁寧にご案内くださり、ありがとうございました」
「それは寂しいですね、またすぐにお会いしたいものです」
執事と同じほどの年齢に見える短い髪をぴっちり撫でつけた案内役の教師が、すっと膝をついてサキの左手を掬った。学園の教師だからおそらく手袋をよく見てみたいのであろう、と手袋を外そうとすると。教師はサキの右手をそっと押しとどめて左手の指先に、そっと唇を押しつけたのだった。
(え……これなに……)
「こちらこそ本日は楽しい時間を頂戴いたしました。ご尊父様にもお礼を申し上げておきます」
「はい……」
サキは先ほどの出来事に少し混乱しながら、伝魔通信の魔導具でマティアスに連絡をとる、すぐにマティアスが終わったなら転移すると告げたので魔導具を切った瞬間、サキは屋敷に戻っていた。マティアスは仕事で留守にしているというのに器用なことだ。サキも転移魔法は練習しているが、短い距離しか飛べないし他の人間を転移させることは、まだまだ無理である。呼び寄せの転移魔法などはあまりに繊細な調整が必要なため、できる気などしないのであった。
その日は珍しくマティアスの帰りが遅かったので、まだ名前のつかぬ赤子の眠る小さな籠をゆっくり揺らしながら福々しい桃色の頬をそっと指のはらで撫でてみたり、小さな声で妹のためにラミから教わった歌を歌ったりしていた。サキからするとかわいい妹の名前を呼んで愛でることができないのは辛いのだが、貴族の子供は幼少期は仮の名で過ごし、健やかに成長し5歳を過ぎてから名前を付けるという風習も一部では残っており、妹の名前がまだ付いていないことに焦る人間はひとりもいなかった。
ラミから教わる歌は歌自体が魔法そのものなのか、不思議な旋律で疲れを癒したり健全な成長を促したりする、いわゆる癒しの歌であった。魔族というのは本当に謎が多く、ラミも屋敷を不在にしているときはどこに行っているのか、誰も知らないのである。戻ってくるといつも良い香りの白くて丸い小さな花をまとわせているので、どこかお気に入りの場所があるのだろうが、マティアスがラミを媒体にしてそこへ飛ぼうとしても、適うことはないのだった。
夜にマティアスの書斎を訪れ、学園の見学の話をした。やはり断ると言えば返ってきたのは、そうかという一言だけだった。ついでに結界を飛ばす手袋を使い捨てにして生徒に配布する、という案も伝えておく。確かに昔から魔力の暴発は問題視されてきたから、明日にでも伝えておこうとマティアスが請け負った。聞いてみるのは今しかない、とサキは勇気を出した。
「父さん、ひとつ聞きたいことがあるのだけれど」
なんだ、と目だけでマティアスが問う。目つきは悪いし口数も多くない父親は、だが見目が悪いというわけではない。額の真ん中で分けて長く伸ばしている黒髪は艶があり、痩せて長身で鼻筋が通っている。これは実は結構学園時代はモテたのでは、とサキは密かに思う。
「今日学園を見学に行って、僕のことを女の子を見るような目で見る生徒がいたのです。もしかして学園では男性同士でのお付き合いというのは、普通のことなのでしょうか。僕はまだちょっと男の人が怖いもので、そういうことは想像もつかないのですが」
指先にキスをした教師の話は黙っておく、サキはこの世界で大人の社交界などを覗いたことがないので、ああいった挨拶が存在する世界かもしれないと考えてのことである。
サキの質問に一瞬詰まってマティアスが眉間に皺を寄せた。
「全てではないが、ないとは言わない。学園はある種閉じられた世界だ」
「父さんは?お付き合いはどうしていたの?」
せっかくだから父親の恋バナを聞いてみようと、サキは身を乗り出した。マティアスは横目でサキをジロリと眺め口をへの字にした。
「抱いてくれと頼まれれば抱いてやったが、それだけだ。私はそれほど暇ではなかった」
(おぉう……さすが父さん)
案外するりと教えてくれたマティアスの赤裸々な告白に、聞いたサキが照れてしまう。頬を染めたサキにマティアスが片頬を上げて、もっと知りたいかと尋ねてきた。サキは赤い頬のままぶんぶんと首を横に振った。夢魔を虜にするほどの男なのだ、魔力だけが魅力ではないはずである。もう少し大きくなったら手ほどきしてやろう、と片頬を上げたままサキを眺める目は本気でサキはやはりぶんぶんと首と手を大きく横に振って、マティアスに声をあげて笑われた。
(声をあげて笑う父さんなんて、初めてみた)
「声に出して笑うなど、学園時代以来だな」
マティアスも少し懐かしそうに語った。
「私がお前と同じ歳の頃は学園に入るしか道がなかった。学園はつまらないところかもしれないが、声に出して笑うほど面白いことが起こったのも事実だ。私とてエーヴェルトや幾ばくかの友と呼べる人間を持つこともできた。お前にもそれは必要かと思ったのだが」
「父さん、ありがとう。僕は父さんから学園に通う以上の教育を受けることができるし、友人は学園に行かなくても増やせると思うんだ。それに心に不安をもって一人きりで寮生活を送るより、家族の傍に僕はいたい」
「それもそうだな」
伸ばした手でサキの頭を撫でたマティアスは、ふと思い出したように告げた。
「そういえばエーヴェルトがお前の妹の名前を決めたから、呼べと言っていたな。もう面倒だから明日城で聞いてくれば良いか」
「いや、時間が遅くて構わないなら今からでも……」
「だがもうお前は眠いだろう?では明日にでも呼べば良い。寝るぞ」
マティアスに手を引かれたのでサキは大人しく両親の寝室についていった。ベッドによじ登ればすぐさまラミが呼び寄せられる。むにゃりと眠ったまま笑うラミに釣られて笑って、サキはおやすみなさいと言って目をつぶった。おやすみと言ってベッドに乗り上げたマティアスがラミに口づけを落とし、次いでサキの額にも軽く口づけを落として離れていった。
サキはびっくりして目を開いたが、慣れぬ暗闇に見えたのはすでにこちらに背中を向けて身体を横たえた父親だった。布団を鼻のところまで引っ張って、何だかくすぐったくなって、サキはふふっと笑った。
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