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僕らが出会ったあの日の話
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「お兄さん、何してるの…?」
ふとそんな声が聞こえた。
お兄さん。お兄さんか。僕は恐らく端から見たらお兄さんに該当するであろう外見をしているだろうが、まさか自分が呼ばれているはずはない。何故なら僕はとっくの昔に死んでいるのだから。
そう思って辺りを見渡す。他にお兄さんなるものがいるはずだ。
「………ん?」
しかし辺りには人っ子ひとり見当たらない。かなり譲歩して数件向こうにある家の縁側にお爺さんが座っている程度だ。が、しかし、それにしたってお兄さんと呼ばれていいのは今ここには自分しかいない。
「……お兄さん?」
「…………わぁお」
僕の右手には、たった今人外――所謂恨みを切り伏せて血に濡れた刀が握られている。
ついでに目の前にはおどろおどろしい死体。僕が見えているくらいだ、この声の持ち主の目にはそれだってくっきりはっきり写っているだろう。
「…こりゃ驚いた」
どうやら大変まずいことになったらしい。
▽ ▲ ▽ ▲ ▽
桂 夜狐、職業…恨み買取屋。
とうの昔に命を落とした、つまらない生涯を生きたつまらない男だ。
「お兄さんさっきその刀でこわいのを」
「あっはっはっは!何の話かなお嬢ちゃん!」
そんな僕は今、正直人生で一番焦っている。
いやもう死んでるから人生じゃないか、幽生…?ん……?いや、分かりづらいから人生でいいや。
「お兄さんすごかった。こわいの一瞬でやっつけてた」
「うんうんうんうん!見間違い!それ僕じゃないんじゃないかな~?白昼夢って奴かもね~帰って寝た方がいいんじゃないかな寝不足による幻覚だよきっと!」
灰色の髪をしたその女の子――恐らく小学校低学年だろうか、とにかく幼い女の子はどうやら霊感が強いようだ。僕が見えるだけでなく声まで聞こえている。
しかし、霊感が強いというのは――決して、良いことではない。
いや、今は僕のことだ。
「お兄さんはどうして誤魔化そうとするの、私、ちゃんと見たんだから」
あの世の人間には決まりがある。
ひとつ――現世の人間に姿を見せてはならない。
ふたつ――万が一やむを得ず姿を現してしまった場合、その人間の記憶を消すこと。
この規則…主に二つ目、これを破ると地獄に一定期間落とされてしまう。例えどんな善良な亡者だったとしても――だ。
と言っても、姿を見せてしまった理由によって地獄行きを免れる場合もあるが…今は別だ。
僕がやらなければいけないことはハッキリしている。
――この子の記憶を消すこと。
大して難しいことじゃない、道具を…呪具を使えば簡単にできる。一応そういう呪具一式は、いつだって持ち歩いている。
「…はぁ、もうわかった。観念するよ。見られちゃったもんはしょうがない」
「…ひょっとして悪いことしてたの?だからあんなに必死に誤魔化そうと……」
「違う!断じて違う!後ろめたいことは決してしてないよ、ただその~…うーんとね…」
何とかこの場でこの子に納得して貰うための言葉が出てこなかった。別に今この場で即、記憶を消してしまえば言葉などそんな曖昧なもの必要ないのだが、それはさすがに後味が悪い。ちゃんとした段階を踏み、この子に納得して貰ったところで呪具を使いたかった。
単なる、僕の自己満足でしかないかもしれないけれどね。
と、ここで僕は最高の言い訳を思いついた。丁度このぐらいの年頃の子にはふさわしい嘘を。
「……ヒーローだよ」
「……………は?」
怪訝な顔をされた。どうやらこの子は随分大人びた子供らしい。
しかしここまで来ては退けない。僕は頭の中で瞬時に組み立てた筋書きをぺらぺら語り出した。
「いいかい?お嬢ちゃん。僕は正義のヒーローなんだよ。でもね、これは誰にも秘密なんだ。ほら、仮面ラ◯ダーとかプリ◯ュアだって、自分の正体は秘密にしてるだろう?それと同じだよ!だから君に見られてはまずいと思ってね」
「………………」
自信満々にヒーローっぽくあげた口角を下げれないまま、重い沈黙が続く。
顎に添えた手がじんわりと汗ばんできた。勿論冷や汗だ。目の前の少女は汚い大人を見る目でこちらを見ている。
「…ごめん、嘘ついた。本当はヒーローでもなんでもないです。ごめんなさい」
「子供だからってばかにしたでしょ」
「はい。ごめんなさい」
まだ幼くあどけなさの残る口調で核心を突かれた。現代っ子を甘く見ていた僕が悪い。
「本当のこと言って、お兄さん。私、お兄さんのこととてもかっこいいと思ったよ」
しょぼくれていた僕は、その言葉に少し気概を取り戻した。こんな幼い子の言葉に一喜一憂するとは…何年も存在してると感情がすり減るどころか敏感になる。
「…そう?かっこよかった?」
「うん。私ね、いつもこわいの見えててやだなぁって思ってたの。あれ、たまに人に怪我させてる。でも私なにもできなかった。だから、こわいの倒したお兄さんすごくかっこよかった」
「へへ、照れるなぁ」
あんな凄惨な現場を見てそれが言えるのは幼さ故なのだろうか……。
すると少女はその幼さに見合うような、将来の夢を、希望をなんの疑いもなしに語るような、優しい声で言った。
「私もお兄さんみたくなりたい」
「……、っ」
思わず息が詰まった。
慌てて顔に笑顔を貼り付ける。どうせ記憶は消えるのだからそんなことをする必要は微塵も無い。ただ僕が嫌なだけだった。
「…それ、は」
できるだけ優しく、傷つけないように「それはいけない」と言おうとした。しかし言葉が出ない。
こんな仕事、傷つくだけだから。心も体もボロボロになるだけだから。だから君は精一杯自分の人生を謳歌して、天国でのほほんと暮らせば良い。僕がここにいるのはただの償いなのだから。わざわざ苦しい思いをすることはないんだから。
こんな言葉を並べたら、幼い女の子は怯えて傷つくのではないか、と。
そう思ってしまったらもう、それを言い換える言葉を即座に思いつくことは不可能に近かった。
「?お兄さん…?」
少女は黙り込んだ僕に気を使ってか、少し声を落として話しかける。それでも黙ったままの僕を見て、少し慌てた様子の少女は目を泳がし始めた。
「ご、ごめん、なんでもな――」
「お兄さん、その刀、かっこいいね」
少女は半ば僕の発言を遮るように声を上げた。
「え、あ、刀?」
なんで急に刀?
確かに僕の腰には日本刀が一本携えられており、鍔には鈴がぶら下がっている。しかしそこまでかっこいいと言えるほどのデザインではないはずなのだが、今の時代では刀を見る機会などそうそうないだろう。珍しさ故の興味――つまり、「かっこいい」に行き着いたということだろうか。
「うん、すごくかっこいい。本物は初めて見たから…いっ、良い、色?だね」
「…?うん、ありがとう」
なんだか言葉が辿々しい。というか今疑問符が入らなかったか?
無理して会話を続かせているような、そんな喋り方だった。
…もしかして、僕が黙り込んだのを気にしてしまったのだろうか。
だとしたら申し訳ないことをした。…それにしても慌てすぎな気もするけれど。
「その服、も見たことない。ぐ、ぐん、ぷく?っていうやつ?本で読んだこと、ある」
これは後から気付いたことだが――この時の少女は、明らかにおかしかった。少し青ざめながら早口でまくし立て、言葉に明らかに詰まっていた。まるで、何とか僕の機嫌をとろうという風に。
しかし僕はそれに気付くよりも先に、自分の心配をしてしまった。
まだ仕事が一件残っている。
恨みは迅速に排除しなくては人命に関わる。実を言うと今すぐにでも向かいたい。だが――この子を放ってもおけない。これは良心の呵責とかそう言ったものではなく、ただ単純にそういう規則があるからだ。
早くこの子の記憶を消さなくては。
「…お嬢ちゃん、他にもかっこいい道具あるけど、見たい?」
「!見たい、見せてくれるの?」
案の定食いついた少女は、嬉しそうに顔をほころばせた。
「あったり前じゃないか!ちょっと待ってね、まず…」
そう言って僕は呪具を取り出しながら少女に目線を合わせるように膝を落とした。
そうして顔を上げると、少女の少し長い髪の毛が先程より近くの視界に写る。
「えっ」
思わず声が出た。
いや、まさか、この年でそんな。
…これが有り得るとしたら――
「お兄さん?」
もっと早くに気付くべきだったかもしれない。
まだ気温が高い九月に、ほぼ肌の出ない服を着ていること。
頬に貼ったガーゼ。
眠れていないのだろうか、目元には年齢に見合わない隈ができていた。
灰色に見えたその髪は――白髪交じりの黒髪だった。
「………お嬢ちゃん、お父さんとお母さんは?」
「……どうしてそんなこと聞くの?」
両親のことを聞いた瞬間、わかりやすく少女の顔が曇った。
「いや、君ぐらいの年の子が一人で出歩いてるなんて珍しいと思ってね」
嘘だ。大して珍しくもなんともない。
「お父さんもお母さんも、私も…皆、なかよくないから…一緒には出かけないの」
「…そうかい」
それを聞いた瞬間、僕はポケットから電話を取りだした。現世で言うスマホみたいなものだ。電話をかける先は決まっている。
「お兄さん電話するの?」
「そうだよ~、ちょっとだけ待っててね」
電話帳を開き、「若作りババア」の名前で登録された電話番号をタップする。すぐに無機質な呼び出し音が一定間隔で鳴り続ける。
『…もしもし、何よ、あんたから電話なんて』
「あ、もしもし羽海?あのさぁ、僕の今日の担当まだ一個残ってるでしょ?詳しくは店長に確認すればわかると思うから。あれ代わりに行っといて」
『僕を殺して下さいってことでいいかしら?』
「何一つ良くない。とにかく事情が出来たから僕はいけないの。お前今日午後休み取ってたし行けるでしょ?」
『こっちは休むために休暇とってんのよ!あんたそれでクソどうでもいい事情だったら殺すわよ』
「ってことは行ってくれるの?」
『~ッ……もう!この埋め合わせはきっちり取って貰うわよ!』
「さすがおばあちゃん、話が分かるね」
『うるッせぇクソガキ!私がおばあちゃんならアンタはおじさん後半よッ!』
最後何か罵られた気がするが、いかんせん声が大きすぎて逆に聞き取れなかった。
「お、お兄さん?」
電話が終わったのを見て、おそるおそる少女が話しかけてくる。この歳で電話中ずっと大人しくしていられるのも、こっちに気を使えるのも、先程無理矢理会話を続けようとしたのも――もう『大人びた良い子』では片付けられそうになかった。
「……お嬢ちゃん、名前は?」
「…か、香澄」
「香澄ちゃんかぁ~、良い名前を貰ったね!」
取り出しかけていた記憶を消す呪具をそっと戻し、少女の――香澄ちゃんの頭をくしゃくしゃと撫でた。本人はと言えば、撫でられることに慣れていないのか、終始目を白黒させて僕の反応を伺っている。
「よしっ、香澄ちゃん!一緒に遊ぼっか!」
頭に置いた手を離してそう言うと、香澄ちゃんは頭に残った温もりを感じるかのように頭に手をかざしながらゆっくり、ゆっくりと僕の言葉を飲み込んだ。
頬が紅潮していく。その顔は今日見た中で、群を抜いて嬉しそうな顔だった。
「いっ、いいの?」
「勿論さ!それとも先約があるかな?」
「ない!ないっ!!遊ぶ!!」
「よ~し、じゃあまずは…っと」
僕は香澄ちゃんを片腕に抱えあげる。触れてしまうと言うことは、彼女の霊感が異常なほどに強いことを示していた。…それでも今は、気にしなくてもいい。
しっかり掴まっているように指示をする。彼女は素直に従い、僕の首に腕を回した。どうやら抱き上げられることすら初めてだったようで、ひどく喜んでいるのが痛いほどに伝わってきた。
「お兄さん、たかい!すごい!」
「ふっふっふ、身長180は超えてるからねっ。僕の時代では珍しかったんだぞ?」
きゃっきゃっと年相応にはしゃぐ姿は、先程までのそれとは別人だった。
「香澄ちゃん、どこか行きたい場所はある?」
「行きたい、場所?私が決めてもいいの?」
その言葉に胸がちくりと痛んだ。…が、今はそんなことを言っている場合ではない。
「勿論だって!僕はこの辺に詳しくないからさ、君が案内してよ」
嘘だ。僕の仕事での担当はこの地域も含まれてるから、熟知していると言ってもいい。
「えっと、えっと…じゃあ、公園!広い砂場とブランコのある公園があるの、私いつもそこで遊んでる!そこがいい!」
「おっけー!じゃ、行こっか」
しっかり掴まっててよ?ともう一言注意をして、僕は踏み込んだ。
「わ…」
一度の跳躍で、近くの家の屋根へ飛び移る。
幽体は、現世では自由だ。文字通り人間離れした身体能力だってお手の物。
…しかし香澄ちゃんの体は小刻みに震えていた。
「…怖かった?」
一応しっかりホールドしているし、香澄ちゃんもちょっと首が絞まるくらい強く掴まってくれてる。安全面は問題ないが、少し刺激が強かっただろうか…?
「………っかい」
「え?」
よく見ると彼女は耳まで真っ赤にして――
「…もっかい!もっかい!」
――非常に喜んでいた。
その反応に思わず口角があがる。僕が生きているうちに娘が出来たら、こんな感じだったのだろうか。
「…よしっ」
僕は香澄ちゃんご所望の公園まで、屋根を飛び移るという常軌を逸した移動手段で進んだ。
僕が跳ぶたびに「きゃーーー!」と嬉しそうな楽しそうな叫び声をあげて次をせがむ。
なんだ、やっぱりまだ子供じゃないか。
「っと、ここじゃない?香澄ちゃんが言ってたとこ」
しばらく屋根移りを楽しんで、ようやく目的地に着く。あまり人気のなさそうな公園だ。小さな子供が一人で遊ぶには、少し危ない。
「…香澄ちゃんはさ、いつも何時ぐらいまでここで遊ぶの?」
僕から降りた彼女は慣れた手つきで砂をいじりだした。
「うんとね…あんまり早く帰ると怒られちゃうの。だから七時ぐらいまで遊んでれば、叱られないよ」
「そっかぁ」
現在時刻は昼の三時。その辺の子供は、家でおやつでも食べているのだろう。
この子はきっと、昨日も一昨日も、明日からその先も、おやつも食べずに七時まで遊び続けるのだろう。
一人で。
「香澄ちゃんなに作ってんの?」
「おだんご!お一つどうぞっ」
「わ~おいしそ~…泥団子作るの異常に上手くない?」
ふふん、と得意げな顔をして香澄ちゃんは泥団子を作るペースを上げた。
「お兄さんも一緒につくろ!」
「えっ、僕そんなに上手く作れるかなぁ…まぁ物は試しってね」
そうして二時間ほど泥団子を作り続けたけれど、結局僕は綺麗な丸い泥団子は作れなかった。それを見て香澄ちゃんはコロコロと笑って、泥団子の作り方講座みたいなのを開いてくれた。そんな童心はとっくに捨ててきてしまったので、何を言ってるかはよく分からなかった。
「あ、ほら、香澄ちゃん。腕まくりしないと服汚れちゃうよ?」
「……ううん、このまんまでいい」
「…でも汚れた服、いやでしょ?」
「………」
彼女は無言でせっせと泥団子を作っている。腕まくりをする気は微塵もないようだ。
理由は大体わかっていた。親に肌を見せるなと言われているのか、もしくは自分が見られたくないのか。どちらにせよ傷が出来てるということ自体は容易に想像がつく。
ならばそれ以上は、僕が踏み込んでいい場所ではない。
「ふぅ…たくさんできた!」
「いやほんとにいっぱい作ったね…これ次来た人びっくりするんじゃない?」
そこには百を優に超えるのではないかと言うほどの泥団子が散乱していた。が、形と艶でどれがどっちの作った泥団子かはすぐに察しがつく。
「お兄さん、泥団子作るのじょうずになったんじゃない?」
「え~嬉しい~」
「ねぇ、次はブランコしよ!押してほしい!」
「おっ、いいじゃん!いいよいいよ、いくらでも押してあげる」
そのあとは随分長いこと遊んだと思う。
ブランコを押してあげて力加減を間違えて一回転させちゃったり。
「うわぁぁぁぁぁ」
「あー…やっちゃったぁー……」
「もっかい!」
「さすがに危ないからやめよう…?」
けんけんぱで何故か僕にだけ生身なら確実にクリア不可能なルートを作ってきたり。
「香澄ちゃん?次の『けん』までそれ二十メートルくらい無いかな?ていうか『ぱ』で三つ枠作られても無理だよ?僕の足は二本しかないよ?」
「お兄さんすごいからこれぐらいがちょうどかなーって思ったの」
「………見てろよ」
さすがに『ぱ』は無理があった。
それから、かくれんぼでかなりの無茶をしたり、無限に砂場に穴を掘ったり、シロツメクサで冠を作ってあげたら使い方を間違えられて壊しかけたり、かなりとんでもない時間を過ごして――あっという間に七時になった。空は真っ黒で、三日月だけがぽつんと光っている。
「あ…そろそろ帰らなくちゃ」
「ん、そっか。楽しかったね」
「うん……」
少し名残惜しそうにする彼女はまさに年相応の表情をしていた。
……この子を親元に帰して良いのだろうか。
きっとまた元通りになる。常に周りに気を配って、一人で大人しく遊んで、迷惑かけないように嫌われないようにってそればかりを考えるような――まだ必要の無いはずの知恵ばかりを身につけて、彼女は成長していくのだろう。
しかし僕に出来ることがあるだろうか?
生きてすらいない僕に。
――あるわけない。
「送るよ。夜道は危ないからさ」
そう言って手を差し出すと、これまた素直に繋いでくれた。僕よりずっと小さい手には、根性焼きの後が複数あった。
香澄ちゃんはたくさん遊んで疲れたのか、目をこすりながらとくに何か喋ることもなく歩く。たまに「ここまがる」などと道案内をするぐらいだ。
「…ねぇ、お兄さん」
しばらく歩いて住宅街につき、各家庭の夕飯の匂いが鼻をかすめた頃香澄ちゃんは口を開いた。
「お兄さんはほんとは、なに?」
「…あぁ」
そう言えば結局、誤魔化して言ってなかったのか。
この子も子供ながらに僕が生きた人間でないことは理解していたのだろう。触れられても、僕に体温はないのだから。
もう誤魔化してもいられない――か。
「…簡単に言うと、亡くなった人が安心して成仏できるように怖いやつを倒す人だよ。香澄ちゃんがいつも見てる、怖いやつ。あいつらを倒してるのは僕達なんだ」
「そうなんだ…じゃあヒーローだったのかもね」
「香澄ちゃんがそう思うなら、きっとそうだ」
ここ左、もうすぐ。という言葉に従い、歩く。
「お兄さん。私が死んだら、その時もこわいのは出てくる?」
「そうだなぁ…おばあちゃんになるまで生きてそのままぽっくり死んだとなれば、そこまで強い怖いやつは出ないよ。でもまぁ、それでも多少は…」
「そっか。それじゃあ、お兄さん」
香澄ちゃんが不意に足を止める。「真田」という表札の出た家の前だ。恐らくここが彼女の家だろう。
「私が死んだら、お兄さんが私のこわいの倒しに来てね。やくそくよ」
そう言うと彼女は繋いでいない方の手で、小指を差し出した。
「…参ったな」
そう言われては断ることは出来そうもない。
僕は一度繋いだ手を離し、自分の小指も差し出した。
「じゃあ、交換条件。僕とも約束して」
小指を絡めながらそう言うと、彼女は元気よくこくりと頷いた。
「…九十年後だ。絶対、絶対に九十年後に、また会おう」
「きゅうじゅう、ねん?」
「ははっ、百歳まで生きてねってことだよ」
香澄ちゃんはにこ、と笑った。
「うん、やくそく。私長生きするね」
「…うん」
どうせこの会話も忘れられてしまうものだけれど。
今日遊んだ記憶だって、きれいさっぱり抜け落ちるのだろうけど。
それでも彼女を見ていたら、無意味な救いだってわかっていても与えたくなってしまった。
もう二度と後悔したくはないから。
「香澄ちゃん、最後にさ、コレ見て」
「なぁに?」
さっき取り出しかけた呪具を、今度はしっかり取り出す。鏡状のそれをのぞき込み、香澄ちゃんはそのままゆっくりと目を閉じた。
「約束、だからね」
脳が記憶の処理を行っているのだろう、一分もすれば目は覚める。
――こんな約束をさせたのは、酷だっただろうか。
…いいや、どうせ忘れるんだから。彼女はこんな言葉も約束も忘れて生きていくのだろう。
ただ僕は、彼女が生きることを諦めないのを期待するしかない。
――だけれど僕は絶対に忘れない。
それが僕の気まぐれの、偽善の、自己満足の、償いになってくれることを期待しよう。
「………あれ?」
なぜか家の前で寝てしまったようだ。
「かえ、らなくちゃ」
疲れ切っている足と、いつもより軽い心に違和感を覚えつつ――私は、玄関のドアを開けた。
▽ ▲ ▽ ▲ ▽
「夜狐~覚悟はできてるんでしょうねぇ~?」
「いたいたいたいたいたいたいたい」
「う、羽海ちゃん、そんなに責めないであげてぇ?」
夜狐が恨み買取屋の事務所に戻ると、早速羽海のアイアンクローを喰らった。相変わらず握力がゴリラだ。
「…まぁ、今回はそれなりに良いことしたみたいだし?特別に許してやるわよ」
そう言うと、羽海はツインテールを揺らしながら踵を返し、椅子にぽすんと座った。
「…そいつは有難いことで」
「あはは、それにしても夜狐君、約束なんてしちゃって…ちゃんと守ってあげるんだよ?君は忘れっぽいからね」
「ちょ、店長、わかってますよ、大丈夫ですから!」
あはは、と店長は口元の布越しでもわかる笑顔で笑った。
「あ、そうだ。僕ちょっと死神のところ行ってくる」
「?あんなに仲悪いのに…ぼくが代わりに行こうか?」
「あぁ、いや、大丈夫です。癪だけど…僕から言わなきゃいけないんで」
そう言って夜狐が早足に出かけていくと、羽海がぽつりと口を開いた。
「…あいつがあれだけ他人に執着するって珍しいですね、店長」
「……うん、何かあったのかな…?」
羽海はしばらく真剣なまなざしで夜狐の出て行った戸口を見つめ、ふと店長に向き直って言った。
「ロリコンですかね?」
「たぶん違うんじゃないかな…」
▽ ▲ ▽ ▲ ▽
「おい、死神」
「おや、夜狐が訪ねてくるとは珍しい。俺に何か用?」
死神と呼ばれた青年は、白い短髪と黒い羽織を風にたなびかせながら振り返った。
「癪なんだが、お前に頼みがある」
「お代は一万円からで」
「殴り飛ばすぞ」
死神は口元を押さえてククッと笑った。
「冗談冗談。で?何かな」
「…お前の刀、斬魂刀だっけ?それ、あの世との繋がりを斬る刀なんだろ」
「まぁそうだね。夜狐にしてはまともなことを言うじゃないか、カレンダーに印をつけておかないとだね」
「………」
額に血管を浮かせながら夜狐は続ける。
「それを使えば、人の霊感もなくせるんだよな」
「あぁ、その通りだ。…もしかして霊感を消して欲しい人間がいる、とか?」
「察し良いじゃねーか、頼んだぞ」
「はいはい、名前は?」
「……真田香澄」
了解、と呟くと死神は腰に刀を携えて、座っていた場所から軽く飛び降りた。そのまま早速霊感を斬りに行ったようで、その背中を夜狐は見送る。
「…霊感がある上に、触れるとまでなったら…危ないもんな」
夜狐もまた死神に背を向け、住む場所へ帰ろうと歩幅を進めた。
そうして――月日は経った。
「あーー仕事めんどくせーー」
「黙れクソガキ、大人しく仕事に向かえ」
「うぅーー」
机に突っ伏した夜狐の頭を、羽海がゴンゴンと叩く。夜狐はされるがままで動こうとしない。
と、そこに店長が息を切らして入ってきた。
「あ!店長~!聞いてくださいよっこいつ…」
「夜狐くん!」
随分焦った様子で、息を切らしながら店長は夜狐の名前を呼んだ。
その様子にただ事じゃないと感じた二人は、動きを止めて店長の方を見、次の言葉を待つ。
「夜狐くん……」
店長は言葉を選んでいるようだった。
目を少し泳がせながら、何度も口を開きかけては閉じるを繰り返し、とうとう観念したのか夜狐をまっすぐに見つめながら震えた声で話し出す。
「…亡くなったって」
「え?」
店長は気まずそうに目を細めた。
「……あの子、…亡くなったって」
ひゅ、と息を呑んで羽海が口元に手を当てた。
「…は?」
意味がわからない、と言うように夜狐は目を見開く。
それもそのはずだった、何故なら――
あの時から、まだ十年も経っていない。
「…………わかった、すぐ行く」
「や、夜狐」
羽海はおろおろした様子で特に意味も無く夜狐を呼び止めた。そんな羽海を一瞥して、夜狐は刀を手に取り戸口へ手をかける。
「ごめん、今日の分の仕事、」
「ぼくが何とかしておく。だから行ってあげて。…約束したんでしょ」
「…はい」
そのまま戸口を開け、夜狐の走っていく足音が段々と遠ざかっていった。
▽ ▲ ▽ ▲ ▽
大きな砂場の公園は、今では立ち入り禁止になっていた。
あの時通った屋根の上は、どこも変わっていなかった。
どうやら引っ越したようで、前とは家の位置が変わっている。と言ってもそこまで離れてはいなかった。「真田」の表札を確認して中へと足を踏み込む。
まだ日の完全に登り切っていない時間帯、薄闇の中、彼女のいる部屋を探し歩く。
そして――
「ここ、かな」
二階の突き当たりの部屋だ。
さっき移動中に、外から少しだけ見えたから多分ここであってる。
そう、外から。
上からぶら下がった紐と、彼女が――
「…九十年後って言ったじゃん」
自分の小指を見つめながら、夜狐は自分にしか聞こえないような小さな声で呟いた。元々現世では、自分にしか聞こえないことがほとんどだが。
「………早すぎるだろ…」
ほぼ吐息のような声で呟いて、夜狐は扉の前でうずくまった。
▽ ▲ ▽ ▲ ▽
「香澄ちゃんってさぁ、誰かに自慢できるような長所ってある?」
「はぁ?何よ藪から棒に」
「だって暇でしょ~?なんか話そうよぉ~」
完全に白くなった髪と、あの頃より伸びた身長。それから完全に生気を失った瞳。
何か話していないとボロが出そうだった。
「長所…長所ねぇ……あっ」
「おっ、なんか出てきた?」
「私、泥団子作るの上手いわよ」
「…………」
どやさ、という顔でこちらを見つめる彼女に、悲しみよりも怒りよりも笑いがこみ上げてきた。
「ふはっ、なにそれ」
「な、なによ、本当に上手いんだからね?」
何故か上手いことをめちゃくちゃに主張してくる彼女は、腹を抱えて笑う僕を見て顔を少し赤くした。
「はぁ~あ…もう…ほんっと……泥団子って……」
「そんなに笑うことないでしょ!?」
ぶんぶんと腕を上下に動かしながら香澄ちゃんは怒ったような素振りを見せた。
その会話も一段落つき、また会話のネタ探しまで戻ってきたところで、不意に彼女が口を開いた。
「…それにしても、自分の長所が泥団子作りってことしかわからないまま死ぬとはね。我ながらあんまりにも滑稽だわ」
「…探せばもっとあるんじゃない?長所」
「ないわよ。短所なら山ほど思いつくけど」
「長所と短所は表裏一体って言うじゃんか~」
「そんなものは嘘よ。嘘」
「そんな言い切らなくても…」
香澄ちゃんは一つため息をつくと、少し眉をひそめて言った。
「私は約束を守れないどころか、誰と約束したかすら思い出せない最低最悪な人間なの」
「…えっ」
約束って?と聞き返す前に、既に彼女は口を開いていた。
「誰かと約束したはずなのよ、『長生きする』って。だから、あともう少し、もう少し、って頑張ってきたけれど…結局、駄目だったわ」
「……」
いや。そんな都合のいい話があるはずがない。
そんな奇跡がこんな都合良く起こるはずない。
きっとあの後、他の誰かと同じような約束でもしたのだろう。そうに決まってる。人の想いが奇跡を起こすとか、そんなものはただの都合の良い妄想でしかないのだから。
「……っあっはっはっはっは!」
「!?急に高笑いしないで!心臓に悪い!」
それでも。
それでも今回だけは――
「僕の都合の良いように解釈させてくれ」
今回は、声を聞いてくれる人がいたから。
本当に吐息のような、もはやそれ以上に小さな声で――僕はそう呟いた。
ふとそんな声が聞こえた。
お兄さん。お兄さんか。僕は恐らく端から見たらお兄さんに該当するであろう外見をしているだろうが、まさか自分が呼ばれているはずはない。何故なら僕はとっくの昔に死んでいるのだから。
そう思って辺りを見渡す。他にお兄さんなるものがいるはずだ。
「………ん?」
しかし辺りには人っ子ひとり見当たらない。かなり譲歩して数件向こうにある家の縁側にお爺さんが座っている程度だ。が、しかし、それにしたってお兄さんと呼ばれていいのは今ここには自分しかいない。
「……お兄さん?」
「…………わぁお」
僕の右手には、たった今人外――所謂恨みを切り伏せて血に濡れた刀が握られている。
ついでに目の前にはおどろおどろしい死体。僕が見えているくらいだ、この声の持ち主の目にはそれだってくっきりはっきり写っているだろう。
「…こりゃ驚いた」
どうやら大変まずいことになったらしい。
▽ ▲ ▽ ▲ ▽
桂 夜狐、職業…恨み買取屋。
とうの昔に命を落とした、つまらない生涯を生きたつまらない男だ。
「お兄さんさっきその刀でこわいのを」
「あっはっはっは!何の話かなお嬢ちゃん!」
そんな僕は今、正直人生で一番焦っている。
いやもう死んでるから人生じゃないか、幽生…?ん……?いや、分かりづらいから人生でいいや。
「お兄さんすごかった。こわいの一瞬でやっつけてた」
「うんうんうんうん!見間違い!それ僕じゃないんじゃないかな~?白昼夢って奴かもね~帰って寝た方がいいんじゃないかな寝不足による幻覚だよきっと!」
灰色の髪をしたその女の子――恐らく小学校低学年だろうか、とにかく幼い女の子はどうやら霊感が強いようだ。僕が見えるだけでなく声まで聞こえている。
しかし、霊感が強いというのは――決して、良いことではない。
いや、今は僕のことだ。
「お兄さんはどうして誤魔化そうとするの、私、ちゃんと見たんだから」
あの世の人間には決まりがある。
ひとつ――現世の人間に姿を見せてはならない。
ふたつ――万が一やむを得ず姿を現してしまった場合、その人間の記憶を消すこと。
この規則…主に二つ目、これを破ると地獄に一定期間落とされてしまう。例えどんな善良な亡者だったとしても――だ。
と言っても、姿を見せてしまった理由によって地獄行きを免れる場合もあるが…今は別だ。
僕がやらなければいけないことはハッキリしている。
――この子の記憶を消すこと。
大して難しいことじゃない、道具を…呪具を使えば簡単にできる。一応そういう呪具一式は、いつだって持ち歩いている。
「…はぁ、もうわかった。観念するよ。見られちゃったもんはしょうがない」
「…ひょっとして悪いことしてたの?だからあんなに必死に誤魔化そうと……」
「違う!断じて違う!後ろめたいことは決してしてないよ、ただその~…うーんとね…」
何とかこの場でこの子に納得して貰うための言葉が出てこなかった。別に今この場で即、記憶を消してしまえば言葉などそんな曖昧なもの必要ないのだが、それはさすがに後味が悪い。ちゃんとした段階を踏み、この子に納得して貰ったところで呪具を使いたかった。
単なる、僕の自己満足でしかないかもしれないけれどね。
と、ここで僕は最高の言い訳を思いついた。丁度このぐらいの年頃の子にはふさわしい嘘を。
「……ヒーローだよ」
「……………は?」
怪訝な顔をされた。どうやらこの子は随分大人びた子供らしい。
しかしここまで来ては退けない。僕は頭の中で瞬時に組み立てた筋書きをぺらぺら語り出した。
「いいかい?お嬢ちゃん。僕は正義のヒーローなんだよ。でもね、これは誰にも秘密なんだ。ほら、仮面ラ◯ダーとかプリ◯ュアだって、自分の正体は秘密にしてるだろう?それと同じだよ!だから君に見られてはまずいと思ってね」
「………………」
自信満々にヒーローっぽくあげた口角を下げれないまま、重い沈黙が続く。
顎に添えた手がじんわりと汗ばんできた。勿論冷や汗だ。目の前の少女は汚い大人を見る目でこちらを見ている。
「…ごめん、嘘ついた。本当はヒーローでもなんでもないです。ごめんなさい」
「子供だからってばかにしたでしょ」
「はい。ごめんなさい」
まだ幼くあどけなさの残る口調で核心を突かれた。現代っ子を甘く見ていた僕が悪い。
「本当のこと言って、お兄さん。私、お兄さんのこととてもかっこいいと思ったよ」
しょぼくれていた僕は、その言葉に少し気概を取り戻した。こんな幼い子の言葉に一喜一憂するとは…何年も存在してると感情がすり減るどころか敏感になる。
「…そう?かっこよかった?」
「うん。私ね、いつもこわいの見えててやだなぁって思ってたの。あれ、たまに人に怪我させてる。でも私なにもできなかった。だから、こわいの倒したお兄さんすごくかっこよかった」
「へへ、照れるなぁ」
あんな凄惨な現場を見てそれが言えるのは幼さ故なのだろうか……。
すると少女はその幼さに見合うような、将来の夢を、希望をなんの疑いもなしに語るような、優しい声で言った。
「私もお兄さんみたくなりたい」
「……、っ」
思わず息が詰まった。
慌てて顔に笑顔を貼り付ける。どうせ記憶は消えるのだからそんなことをする必要は微塵も無い。ただ僕が嫌なだけだった。
「…それ、は」
できるだけ優しく、傷つけないように「それはいけない」と言おうとした。しかし言葉が出ない。
こんな仕事、傷つくだけだから。心も体もボロボロになるだけだから。だから君は精一杯自分の人生を謳歌して、天国でのほほんと暮らせば良い。僕がここにいるのはただの償いなのだから。わざわざ苦しい思いをすることはないんだから。
こんな言葉を並べたら、幼い女の子は怯えて傷つくのではないか、と。
そう思ってしまったらもう、それを言い換える言葉を即座に思いつくことは不可能に近かった。
「?お兄さん…?」
少女は黙り込んだ僕に気を使ってか、少し声を落として話しかける。それでも黙ったままの僕を見て、少し慌てた様子の少女は目を泳がし始めた。
「ご、ごめん、なんでもな――」
「お兄さん、その刀、かっこいいね」
少女は半ば僕の発言を遮るように声を上げた。
「え、あ、刀?」
なんで急に刀?
確かに僕の腰には日本刀が一本携えられており、鍔には鈴がぶら下がっている。しかしそこまでかっこいいと言えるほどのデザインではないはずなのだが、今の時代では刀を見る機会などそうそうないだろう。珍しさ故の興味――つまり、「かっこいい」に行き着いたということだろうか。
「うん、すごくかっこいい。本物は初めて見たから…いっ、良い、色?だね」
「…?うん、ありがとう」
なんだか言葉が辿々しい。というか今疑問符が入らなかったか?
無理して会話を続かせているような、そんな喋り方だった。
…もしかして、僕が黙り込んだのを気にしてしまったのだろうか。
だとしたら申し訳ないことをした。…それにしても慌てすぎな気もするけれど。
「その服、も見たことない。ぐ、ぐん、ぷく?っていうやつ?本で読んだこと、ある」
これは後から気付いたことだが――この時の少女は、明らかにおかしかった。少し青ざめながら早口でまくし立て、言葉に明らかに詰まっていた。まるで、何とか僕の機嫌をとろうという風に。
しかし僕はそれに気付くよりも先に、自分の心配をしてしまった。
まだ仕事が一件残っている。
恨みは迅速に排除しなくては人命に関わる。実を言うと今すぐにでも向かいたい。だが――この子を放ってもおけない。これは良心の呵責とかそう言ったものではなく、ただ単純にそういう規則があるからだ。
早くこの子の記憶を消さなくては。
「…お嬢ちゃん、他にもかっこいい道具あるけど、見たい?」
「!見たい、見せてくれるの?」
案の定食いついた少女は、嬉しそうに顔をほころばせた。
「あったり前じゃないか!ちょっと待ってね、まず…」
そう言って僕は呪具を取り出しながら少女に目線を合わせるように膝を落とした。
そうして顔を上げると、少女の少し長い髪の毛が先程より近くの視界に写る。
「えっ」
思わず声が出た。
いや、まさか、この年でそんな。
…これが有り得るとしたら――
「お兄さん?」
もっと早くに気付くべきだったかもしれない。
まだ気温が高い九月に、ほぼ肌の出ない服を着ていること。
頬に貼ったガーゼ。
眠れていないのだろうか、目元には年齢に見合わない隈ができていた。
灰色に見えたその髪は――白髪交じりの黒髪だった。
「………お嬢ちゃん、お父さんとお母さんは?」
「……どうしてそんなこと聞くの?」
両親のことを聞いた瞬間、わかりやすく少女の顔が曇った。
「いや、君ぐらいの年の子が一人で出歩いてるなんて珍しいと思ってね」
嘘だ。大して珍しくもなんともない。
「お父さんもお母さんも、私も…皆、なかよくないから…一緒には出かけないの」
「…そうかい」
それを聞いた瞬間、僕はポケットから電話を取りだした。現世で言うスマホみたいなものだ。電話をかける先は決まっている。
「お兄さん電話するの?」
「そうだよ~、ちょっとだけ待っててね」
電話帳を開き、「若作りババア」の名前で登録された電話番号をタップする。すぐに無機質な呼び出し音が一定間隔で鳴り続ける。
『…もしもし、何よ、あんたから電話なんて』
「あ、もしもし羽海?あのさぁ、僕の今日の担当まだ一個残ってるでしょ?詳しくは店長に確認すればわかると思うから。あれ代わりに行っといて」
『僕を殺して下さいってことでいいかしら?』
「何一つ良くない。とにかく事情が出来たから僕はいけないの。お前今日午後休み取ってたし行けるでしょ?」
『こっちは休むために休暇とってんのよ!あんたそれでクソどうでもいい事情だったら殺すわよ』
「ってことは行ってくれるの?」
『~ッ……もう!この埋め合わせはきっちり取って貰うわよ!』
「さすがおばあちゃん、話が分かるね」
『うるッせぇクソガキ!私がおばあちゃんならアンタはおじさん後半よッ!』
最後何か罵られた気がするが、いかんせん声が大きすぎて逆に聞き取れなかった。
「お、お兄さん?」
電話が終わったのを見て、おそるおそる少女が話しかけてくる。この歳で電話中ずっと大人しくしていられるのも、こっちに気を使えるのも、先程無理矢理会話を続けようとしたのも――もう『大人びた良い子』では片付けられそうになかった。
「……お嬢ちゃん、名前は?」
「…か、香澄」
「香澄ちゃんかぁ~、良い名前を貰ったね!」
取り出しかけていた記憶を消す呪具をそっと戻し、少女の――香澄ちゃんの頭をくしゃくしゃと撫でた。本人はと言えば、撫でられることに慣れていないのか、終始目を白黒させて僕の反応を伺っている。
「よしっ、香澄ちゃん!一緒に遊ぼっか!」
頭に置いた手を離してそう言うと、香澄ちゃんは頭に残った温もりを感じるかのように頭に手をかざしながらゆっくり、ゆっくりと僕の言葉を飲み込んだ。
頬が紅潮していく。その顔は今日見た中で、群を抜いて嬉しそうな顔だった。
「いっ、いいの?」
「勿論さ!それとも先約があるかな?」
「ない!ないっ!!遊ぶ!!」
「よ~し、じゃあまずは…っと」
僕は香澄ちゃんを片腕に抱えあげる。触れてしまうと言うことは、彼女の霊感が異常なほどに強いことを示していた。…それでも今は、気にしなくてもいい。
しっかり掴まっているように指示をする。彼女は素直に従い、僕の首に腕を回した。どうやら抱き上げられることすら初めてだったようで、ひどく喜んでいるのが痛いほどに伝わってきた。
「お兄さん、たかい!すごい!」
「ふっふっふ、身長180は超えてるからねっ。僕の時代では珍しかったんだぞ?」
きゃっきゃっと年相応にはしゃぐ姿は、先程までのそれとは別人だった。
「香澄ちゃん、どこか行きたい場所はある?」
「行きたい、場所?私が決めてもいいの?」
その言葉に胸がちくりと痛んだ。…が、今はそんなことを言っている場合ではない。
「勿論だって!僕はこの辺に詳しくないからさ、君が案内してよ」
嘘だ。僕の仕事での担当はこの地域も含まれてるから、熟知していると言ってもいい。
「えっと、えっと…じゃあ、公園!広い砂場とブランコのある公園があるの、私いつもそこで遊んでる!そこがいい!」
「おっけー!じゃ、行こっか」
しっかり掴まっててよ?ともう一言注意をして、僕は踏み込んだ。
「わ…」
一度の跳躍で、近くの家の屋根へ飛び移る。
幽体は、現世では自由だ。文字通り人間離れした身体能力だってお手の物。
…しかし香澄ちゃんの体は小刻みに震えていた。
「…怖かった?」
一応しっかりホールドしているし、香澄ちゃんもちょっと首が絞まるくらい強く掴まってくれてる。安全面は問題ないが、少し刺激が強かっただろうか…?
「………っかい」
「え?」
よく見ると彼女は耳まで真っ赤にして――
「…もっかい!もっかい!」
――非常に喜んでいた。
その反応に思わず口角があがる。僕が生きているうちに娘が出来たら、こんな感じだったのだろうか。
「…よしっ」
僕は香澄ちゃんご所望の公園まで、屋根を飛び移るという常軌を逸した移動手段で進んだ。
僕が跳ぶたびに「きゃーーー!」と嬉しそうな楽しそうな叫び声をあげて次をせがむ。
なんだ、やっぱりまだ子供じゃないか。
「っと、ここじゃない?香澄ちゃんが言ってたとこ」
しばらく屋根移りを楽しんで、ようやく目的地に着く。あまり人気のなさそうな公園だ。小さな子供が一人で遊ぶには、少し危ない。
「…香澄ちゃんはさ、いつも何時ぐらいまでここで遊ぶの?」
僕から降りた彼女は慣れた手つきで砂をいじりだした。
「うんとね…あんまり早く帰ると怒られちゃうの。だから七時ぐらいまで遊んでれば、叱られないよ」
「そっかぁ」
現在時刻は昼の三時。その辺の子供は、家でおやつでも食べているのだろう。
この子はきっと、昨日も一昨日も、明日からその先も、おやつも食べずに七時まで遊び続けるのだろう。
一人で。
「香澄ちゃんなに作ってんの?」
「おだんご!お一つどうぞっ」
「わ~おいしそ~…泥団子作るの異常に上手くない?」
ふふん、と得意げな顔をして香澄ちゃんは泥団子を作るペースを上げた。
「お兄さんも一緒につくろ!」
「えっ、僕そんなに上手く作れるかなぁ…まぁ物は試しってね」
そうして二時間ほど泥団子を作り続けたけれど、結局僕は綺麗な丸い泥団子は作れなかった。それを見て香澄ちゃんはコロコロと笑って、泥団子の作り方講座みたいなのを開いてくれた。そんな童心はとっくに捨ててきてしまったので、何を言ってるかはよく分からなかった。
「あ、ほら、香澄ちゃん。腕まくりしないと服汚れちゃうよ?」
「……ううん、このまんまでいい」
「…でも汚れた服、いやでしょ?」
「………」
彼女は無言でせっせと泥団子を作っている。腕まくりをする気は微塵もないようだ。
理由は大体わかっていた。親に肌を見せるなと言われているのか、もしくは自分が見られたくないのか。どちらにせよ傷が出来てるということ自体は容易に想像がつく。
ならばそれ以上は、僕が踏み込んでいい場所ではない。
「ふぅ…たくさんできた!」
「いやほんとにいっぱい作ったね…これ次来た人びっくりするんじゃない?」
そこには百を優に超えるのではないかと言うほどの泥団子が散乱していた。が、形と艶でどれがどっちの作った泥団子かはすぐに察しがつく。
「お兄さん、泥団子作るのじょうずになったんじゃない?」
「え~嬉しい~」
「ねぇ、次はブランコしよ!押してほしい!」
「おっ、いいじゃん!いいよいいよ、いくらでも押してあげる」
そのあとは随分長いこと遊んだと思う。
ブランコを押してあげて力加減を間違えて一回転させちゃったり。
「うわぁぁぁぁぁ」
「あー…やっちゃったぁー……」
「もっかい!」
「さすがに危ないからやめよう…?」
けんけんぱで何故か僕にだけ生身なら確実にクリア不可能なルートを作ってきたり。
「香澄ちゃん?次の『けん』までそれ二十メートルくらい無いかな?ていうか『ぱ』で三つ枠作られても無理だよ?僕の足は二本しかないよ?」
「お兄さんすごいからこれぐらいがちょうどかなーって思ったの」
「………見てろよ」
さすがに『ぱ』は無理があった。
それから、かくれんぼでかなりの無茶をしたり、無限に砂場に穴を掘ったり、シロツメクサで冠を作ってあげたら使い方を間違えられて壊しかけたり、かなりとんでもない時間を過ごして――あっという間に七時になった。空は真っ黒で、三日月だけがぽつんと光っている。
「あ…そろそろ帰らなくちゃ」
「ん、そっか。楽しかったね」
「うん……」
少し名残惜しそうにする彼女はまさに年相応の表情をしていた。
……この子を親元に帰して良いのだろうか。
きっとまた元通りになる。常に周りに気を配って、一人で大人しく遊んで、迷惑かけないように嫌われないようにってそればかりを考えるような――まだ必要の無いはずの知恵ばかりを身につけて、彼女は成長していくのだろう。
しかし僕に出来ることがあるだろうか?
生きてすらいない僕に。
――あるわけない。
「送るよ。夜道は危ないからさ」
そう言って手を差し出すと、これまた素直に繋いでくれた。僕よりずっと小さい手には、根性焼きの後が複数あった。
香澄ちゃんはたくさん遊んで疲れたのか、目をこすりながらとくに何か喋ることもなく歩く。たまに「ここまがる」などと道案内をするぐらいだ。
「…ねぇ、お兄さん」
しばらく歩いて住宅街につき、各家庭の夕飯の匂いが鼻をかすめた頃香澄ちゃんは口を開いた。
「お兄さんはほんとは、なに?」
「…あぁ」
そう言えば結局、誤魔化して言ってなかったのか。
この子も子供ながらに僕が生きた人間でないことは理解していたのだろう。触れられても、僕に体温はないのだから。
もう誤魔化してもいられない――か。
「…簡単に言うと、亡くなった人が安心して成仏できるように怖いやつを倒す人だよ。香澄ちゃんがいつも見てる、怖いやつ。あいつらを倒してるのは僕達なんだ」
「そうなんだ…じゃあヒーローだったのかもね」
「香澄ちゃんがそう思うなら、きっとそうだ」
ここ左、もうすぐ。という言葉に従い、歩く。
「お兄さん。私が死んだら、その時もこわいのは出てくる?」
「そうだなぁ…おばあちゃんになるまで生きてそのままぽっくり死んだとなれば、そこまで強い怖いやつは出ないよ。でもまぁ、それでも多少は…」
「そっか。それじゃあ、お兄さん」
香澄ちゃんが不意に足を止める。「真田」という表札の出た家の前だ。恐らくここが彼女の家だろう。
「私が死んだら、お兄さんが私のこわいの倒しに来てね。やくそくよ」
そう言うと彼女は繋いでいない方の手で、小指を差し出した。
「…参ったな」
そう言われては断ることは出来そうもない。
僕は一度繋いだ手を離し、自分の小指も差し出した。
「じゃあ、交換条件。僕とも約束して」
小指を絡めながらそう言うと、彼女は元気よくこくりと頷いた。
「…九十年後だ。絶対、絶対に九十年後に、また会おう」
「きゅうじゅう、ねん?」
「ははっ、百歳まで生きてねってことだよ」
香澄ちゃんはにこ、と笑った。
「うん、やくそく。私長生きするね」
「…うん」
どうせこの会話も忘れられてしまうものだけれど。
今日遊んだ記憶だって、きれいさっぱり抜け落ちるのだろうけど。
それでも彼女を見ていたら、無意味な救いだってわかっていても与えたくなってしまった。
もう二度と後悔したくはないから。
「香澄ちゃん、最後にさ、コレ見て」
「なぁに?」
さっき取り出しかけた呪具を、今度はしっかり取り出す。鏡状のそれをのぞき込み、香澄ちゃんはそのままゆっくりと目を閉じた。
「約束、だからね」
脳が記憶の処理を行っているのだろう、一分もすれば目は覚める。
――こんな約束をさせたのは、酷だっただろうか。
…いいや、どうせ忘れるんだから。彼女はこんな言葉も約束も忘れて生きていくのだろう。
ただ僕は、彼女が生きることを諦めないのを期待するしかない。
――だけれど僕は絶対に忘れない。
それが僕の気まぐれの、偽善の、自己満足の、償いになってくれることを期待しよう。
「………あれ?」
なぜか家の前で寝てしまったようだ。
「かえ、らなくちゃ」
疲れ切っている足と、いつもより軽い心に違和感を覚えつつ――私は、玄関のドアを開けた。
▽ ▲ ▽ ▲ ▽
「夜狐~覚悟はできてるんでしょうねぇ~?」
「いたいたいたいたいたいたいたい」
「う、羽海ちゃん、そんなに責めないであげてぇ?」
夜狐が恨み買取屋の事務所に戻ると、早速羽海のアイアンクローを喰らった。相変わらず握力がゴリラだ。
「…まぁ、今回はそれなりに良いことしたみたいだし?特別に許してやるわよ」
そう言うと、羽海はツインテールを揺らしながら踵を返し、椅子にぽすんと座った。
「…そいつは有難いことで」
「あはは、それにしても夜狐君、約束なんてしちゃって…ちゃんと守ってあげるんだよ?君は忘れっぽいからね」
「ちょ、店長、わかってますよ、大丈夫ですから!」
あはは、と店長は口元の布越しでもわかる笑顔で笑った。
「あ、そうだ。僕ちょっと死神のところ行ってくる」
「?あんなに仲悪いのに…ぼくが代わりに行こうか?」
「あぁ、いや、大丈夫です。癪だけど…僕から言わなきゃいけないんで」
そう言って夜狐が早足に出かけていくと、羽海がぽつりと口を開いた。
「…あいつがあれだけ他人に執着するって珍しいですね、店長」
「……うん、何かあったのかな…?」
羽海はしばらく真剣なまなざしで夜狐の出て行った戸口を見つめ、ふと店長に向き直って言った。
「ロリコンですかね?」
「たぶん違うんじゃないかな…」
▽ ▲ ▽ ▲ ▽
「おい、死神」
「おや、夜狐が訪ねてくるとは珍しい。俺に何か用?」
死神と呼ばれた青年は、白い短髪と黒い羽織を風にたなびかせながら振り返った。
「癪なんだが、お前に頼みがある」
「お代は一万円からで」
「殴り飛ばすぞ」
死神は口元を押さえてククッと笑った。
「冗談冗談。で?何かな」
「…お前の刀、斬魂刀だっけ?それ、あの世との繋がりを斬る刀なんだろ」
「まぁそうだね。夜狐にしてはまともなことを言うじゃないか、カレンダーに印をつけておかないとだね」
「………」
額に血管を浮かせながら夜狐は続ける。
「それを使えば、人の霊感もなくせるんだよな」
「あぁ、その通りだ。…もしかして霊感を消して欲しい人間がいる、とか?」
「察し良いじゃねーか、頼んだぞ」
「はいはい、名前は?」
「……真田香澄」
了解、と呟くと死神は腰に刀を携えて、座っていた場所から軽く飛び降りた。そのまま早速霊感を斬りに行ったようで、その背中を夜狐は見送る。
「…霊感がある上に、触れるとまでなったら…危ないもんな」
夜狐もまた死神に背を向け、住む場所へ帰ろうと歩幅を進めた。
そうして――月日は経った。
「あーー仕事めんどくせーー」
「黙れクソガキ、大人しく仕事に向かえ」
「うぅーー」
机に突っ伏した夜狐の頭を、羽海がゴンゴンと叩く。夜狐はされるがままで動こうとしない。
と、そこに店長が息を切らして入ってきた。
「あ!店長~!聞いてくださいよっこいつ…」
「夜狐くん!」
随分焦った様子で、息を切らしながら店長は夜狐の名前を呼んだ。
その様子にただ事じゃないと感じた二人は、動きを止めて店長の方を見、次の言葉を待つ。
「夜狐くん……」
店長は言葉を選んでいるようだった。
目を少し泳がせながら、何度も口を開きかけては閉じるを繰り返し、とうとう観念したのか夜狐をまっすぐに見つめながら震えた声で話し出す。
「…亡くなったって」
「え?」
店長は気まずそうに目を細めた。
「……あの子、…亡くなったって」
ひゅ、と息を呑んで羽海が口元に手を当てた。
「…は?」
意味がわからない、と言うように夜狐は目を見開く。
それもそのはずだった、何故なら――
あの時から、まだ十年も経っていない。
「…………わかった、すぐ行く」
「や、夜狐」
羽海はおろおろした様子で特に意味も無く夜狐を呼び止めた。そんな羽海を一瞥して、夜狐は刀を手に取り戸口へ手をかける。
「ごめん、今日の分の仕事、」
「ぼくが何とかしておく。だから行ってあげて。…約束したんでしょ」
「…はい」
そのまま戸口を開け、夜狐の走っていく足音が段々と遠ざかっていった。
▽ ▲ ▽ ▲ ▽
大きな砂場の公園は、今では立ち入り禁止になっていた。
あの時通った屋根の上は、どこも変わっていなかった。
どうやら引っ越したようで、前とは家の位置が変わっている。と言ってもそこまで離れてはいなかった。「真田」の表札を確認して中へと足を踏み込む。
まだ日の完全に登り切っていない時間帯、薄闇の中、彼女のいる部屋を探し歩く。
そして――
「ここ、かな」
二階の突き当たりの部屋だ。
さっき移動中に、外から少しだけ見えたから多分ここであってる。
そう、外から。
上からぶら下がった紐と、彼女が――
「…九十年後って言ったじゃん」
自分の小指を見つめながら、夜狐は自分にしか聞こえないような小さな声で呟いた。元々現世では、自分にしか聞こえないことがほとんどだが。
「………早すぎるだろ…」
ほぼ吐息のような声で呟いて、夜狐は扉の前でうずくまった。
▽ ▲ ▽ ▲ ▽
「香澄ちゃんってさぁ、誰かに自慢できるような長所ってある?」
「はぁ?何よ藪から棒に」
「だって暇でしょ~?なんか話そうよぉ~」
完全に白くなった髪と、あの頃より伸びた身長。それから完全に生気を失った瞳。
何か話していないとボロが出そうだった。
「長所…長所ねぇ……あっ」
「おっ、なんか出てきた?」
「私、泥団子作るの上手いわよ」
「…………」
どやさ、という顔でこちらを見つめる彼女に、悲しみよりも怒りよりも笑いがこみ上げてきた。
「ふはっ、なにそれ」
「な、なによ、本当に上手いんだからね?」
何故か上手いことをめちゃくちゃに主張してくる彼女は、腹を抱えて笑う僕を見て顔を少し赤くした。
「はぁ~あ…もう…ほんっと……泥団子って……」
「そんなに笑うことないでしょ!?」
ぶんぶんと腕を上下に動かしながら香澄ちゃんは怒ったような素振りを見せた。
その会話も一段落つき、また会話のネタ探しまで戻ってきたところで、不意に彼女が口を開いた。
「…それにしても、自分の長所が泥団子作りってことしかわからないまま死ぬとはね。我ながらあんまりにも滑稽だわ」
「…探せばもっとあるんじゃない?長所」
「ないわよ。短所なら山ほど思いつくけど」
「長所と短所は表裏一体って言うじゃんか~」
「そんなものは嘘よ。嘘」
「そんな言い切らなくても…」
香澄ちゃんは一つため息をつくと、少し眉をひそめて言った。
「私は約束を守れないどころか、誰と約束したかすら思い出せない最低最悪な人間なの」
「…えっ」
約束って?と聞き返す前に、既に彼女は口を開いていた。
「誰かと約束したはずなのよ、『長生きする』って。だから、あともう少し、もう少し、って頑張ってきたけれど…結局、駄目だったわ」
「……」
いや。そんな都合のいい話があるはずがない。
そんな奇跡がこんな都合良く起こるはずない。
きっとあの後、他の誰かと同じような約束でもしたのだろう。そうに決まってる。人の想いが奇跡を起こすとか、そんなものはただの都合の良い妄想でしかないのだから。
「……っあっはっはっはっは!」
「!?急に高笑いしないで!心臓に悪い!」
それでも。
それでも今回だけは――
「僕の都合の良いように解釈させてくれ」
今回は、声を聞いてくれる人がいたから。
本当に吐息のような、もはやそれ以上に小さな声で――僕はそう呟いた。
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