恨み買取屋

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第二章・馬鹿は死んでも治らない

黒鬼、狐、豆鉄砲

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 一体自分が何枚の書類に署名したかもわからなくなってきた頃、ようやく朧さんが紙束を整えて言った。
「お疲れ様でした、これで作業は終了です」
「っ………!!!」
 貸し出されていたボールペンが手からずり落ちていくのを見届けてから、机に額を打ちつける。しばらく文字は見たくない。
 突っ伏した机が、書類の角を揃える動作で揺れる。閉じた視界の向こう側に、確かに人がいることを思わせた。
 朧さんは終始必要なことを最低限の言葉に申し訳程度の敬語をつけるといった形でしか喋らず、下手をすればいつか単語のみで会話するようになるんじゃないかという程自己主張が弱い人だったからか、こういう生活音の方が彼の存在の証明にはよっぽど向いているという気がしてならなかった。まるでAIと会話をしているようだ。
 しかし、まさか死因と自殺理由を書かされるとは…。
 どうやら事実確認らしい。私は大して苦ではなかったが、人によってはこの狭い部屋の中を発狂して暴れ回ったりしてしまうのではないだろうか。実際、壁のところどころに誰かの狂乱の跡──凹凸や傷が見受けられる。
「ほぅら、言ったとおり、食べなかったでしょう?さ、お戻りください」
 のそりと起き上がった私と目を合わせながら、その長くも細い指が扉を指差した。「お連れ様がお待ちですよ」と、少し意外だった台詞も添えて。
 重い頭を体ごとひっくり返さないように、机に手をついてゆっくりと立ち上がり、ゆっくり歩く。書類記入とはここまで大変な仕事だったのかと、世の事務員さんたちを心の中で尊敬した。朧さんの目の下のクマの理由をなんとなく察しては、讃美の念が募る。
 一度胸を張って、悪あがきな深呼吸をして、息を見送った後にドアノブに手をかけた。

「もし」
 ドアノブを捻り切った。
 それは当たり前な動作であったが、少なくとも数時間ぶりの動作だった──とにかく、私はそんな至極当然の動作を至極当然に行なっていたことを、そうやって声をかけられるまで気づくことはできなかった。勿論、朧さんは決して私にそんなことを気づかせるために話しかけたのではないのだろうけど。
 あとは前に押し出すだけで簡単に開く扉を前に、しかし朧さんの言葉を無視する訳にもいかず、ドアノブは捻ったまま私は首だけを彼の方に回した。
 朧さんの横顔は黒髪に隠れてよく見えない。ただやはりその瞳の赤色は目立つ。その視線が私が先ほどまで必死に記入していた資料にあった──まさか不備でもあったんじゃあるまいなと、ほんの少しドアノブを元の方向に捻り直す。
 だが彼の口から出たのは、先ほどまでのAIのような正確で合理的な言葉ではなった。
「もし貴女が望むのでしたら」
 朧さんが耳にその黒髪をかけた。その動作をスイッチにして、視線が書類から私の方に移る。
に書いてある人間たちに、接近禁止令を出すことができます」
 一瞬遅れてその言葉の意味を理解した。ドアノブは完全に、元の状態に戻った。
 ここに書いてある──というのはつまり、私の実の両親とひいては義理の両親、クラスメイトや先生、そして薫のことだろう。私を死に追いやった人。地獄にはとうとう接近禁止令なんてものまでできていたのか。
「…それは、つまり」
「はい。彼らが死に、地獄での刑期を終えたあと──金輪際貴女との関わりを遮断します。この場合、関わりの遮断とはあの世でのものにとどまりません。来世でも、そして来世で死んでも、その魂が輪廻し続ける限りは有効となります。もはや接近禁止令ではなく、接近不可能とでもいうべきでしょうか」
 朧さんは淡々とそう話した。聞かれたことにしか答えないような、そんな淡白な人が今、私にこんな提案をしている。それは彼と会って数十分しかたっていないような私にもわかるほど、珍しいことだと思った。
 朧さんは私を見ている。私の答えを、待っている。全く、死んでから選択を迫られることが一段と多くなった。だけど、やっぱり、これが普通なんだろう。私はこれからいくつもの選択をしなければならない。私は慣れなかった自由に、報われるべき自分の意思に、慣れなければいけない。もう、慣れてもいい。
「……私、」
 私は──と、複数の答えがぐるぐる回る頭を整理できないまま私は口を開く。
「…大丈夫です」
 正直なところ、これが私の本当の意思かはわからなかった。心のどこかで朧さんへの遠慮だとか、不信感だとかが渦巻いているだけかもしれなかった。でも私の頭には、確かにそれらしい理由がどっしりと腰を下ろして居座っている。
「もしかしたら、いつか」
 いつかあの人たちと笑い合える未来を。
 …なんて吐き気のする綺麗事だろう。
 私は未だ期待しているのだ。ありえない未来を。愛される未来を。
 全てが無かったことになるような、を。
 未来が先の話である以上、全ては無理な話だというのに。
「…ま、そうですね。期待というのは、なかなか抜け落ちないものですから」
 彼はその緋眼を細めると、ぺいっと私の書いた資料を紙束の上に乱雑に置いた。綺麗に整えられた紙束の上、一つだけ角の向きが揃わなかった紙が、いやに気になって不快だ。
「貴女がそういうのでしたら、私が口を挟むべきではありません。ですが、気が変わりましたらいつでもどうぞ」
 地獄に来て頂ければ基本いつでもいますから──とそんな言葉で、会話は終わりの雰囲気を迎えていた。
 だがここに来てもう一度ドアノブを捻るタイミングが掴めず、丸く冷たい感触を指先でなぞった。特になんの意味もない動作だ。私は思い切って、もう少し会話を続けてみることにした。
「…っあの」
「はい」
「…こういうのも、地獄の決まり事なんですか?」
 被害者に当たる亡者が、加害者に会うことのないように配慮するのは、それこそ現世の制度に浸透しつつあるこの地獄に新しく適用された気遣いなのだろうか、と。
「いいえ。これは私が個人的にやっていることです」
「えっ」
「こう見えて偉いんですよ、私。私の独断だけで、こういうことができてしまいます」
 その無表情がどこか得意げに見えた。
「じゃ、じゃあ、どうして」
「どうもこうもありませんよ」
 そう言うと同時に朧さんは立ち上がって、私を軽く押し退けてドアノブを捻った。ドアノブは朧さんの手の動きに従って、つまり朧さんの手と摩擦して、簡単にノブは捻られた。
 当たり前だった。

「屑共に対する、私怨です。さ、どうぞ」

 ほんの少しだけ照れくさそうに目を逸らしながら、朧さんは私に道を開けた。

    ▽ ▲ ▽ ▲ ▽

「小娘、戻ったか!さっさとあの生意気な小僧を連れて行け!あろうことか此奴、儂の裁判に横槍を入れてくるんじゃぞ?!」
「えぇ~?閻魔様が人情溢れるやっさしぃ~い裁判をするものだから注意してあげただけで~す!」
「あぁもう、さっきのは情状酌量と言うんじゃ!人は暇を持て余すとここまで堕落するのか!えぇいそこになおれ、閻魔の裁き(物理)を喰らわしてやるわ!」
「……」
 頭が余計に痛くなってきた。
 閻魔様とここまでフランクに会話をできる夜狐は本当に何者なんだろうか。
「さーてと、閻魔様もうるさいし、行こっか香澄ちゃん!」
「夜狐のせいだと思うけど…」
「帰れ帰れ!小娘のことは任せたからな!」
 閻魔様は手に持った杓をしっしっというように振り回し、大して恐ろしくもない怒鳴り声を上げている。小さな子の癇癪は止めるに止めることができない。
 逃げるように閻魔殿を後にし、背後で「またな」という幼い声を聞いた。

 行こうなどといってどこに行くのかは一言も教えて貰えないまま、歩く夜狐の横についていく。
 閻魔殿を抜けると、途端活気あふれた場所に出た。例えるなら城下町だろうか。店のようなもの──実際店なのだろうが──が並んでいる。人の話し声もするし、和装や洋装、いろんな服装に身を包んだ、それぞれの生きた時代の違いを思わせる人々が歩いている。
 一変したその空気に、興奮と不安が入り交じり右往左往する視線を止められない。横で夜狐が笑った気がした。失礼なやつだ。
「随分楽しそうなとこ悪いけど、目的地まではすぐだから。ま、そのあともっとたくさん見て回ろうか!」
「なっ……こ…子ども扱いしないで」
「楽しいくせに~」
「……~~」
「ちょ、ははっ、ごめんごめん!ポカポカしないで!」
 正当な暴行である。
 それからそのあまり長くない道のりを、そんなくだらない話をして、そう、どこかで私が憧れていたようななんでもない話をして──私達はとうとう『目的地』に辿り着いた。不意に夜狐が足を止めて、足元の砂利が音を立てる。
「ほら、ここだよ」
 お店の名前は、ない。
 ただ濃い紫色の暖簾がかかった、ぱっと見普通の家にすら見える、大正を思わせる建物。
「ここ…?」
 不思議と嫌な気はしなかった。
 ただこれから私が働く場所──夜狐が何も言わないから確証はないが、恐らく私が働く場所──そこが、どんなところか全くわからないというのは少し頂けない。不安だ。
「ここって──」
「さ、あがって。靴はそのままで大丈夫だから」
 夜狐に問おうとしたものの、彼はさっさと暖簾を潜って中に入ってしまった。私も慌ててそのあとを追う。
 暖簾の下には金属の棒が何本もぶら下がっていて、暖簾が押されるとぶつかり合い、涼やかな音を立てる仕組みらしかった。その音が鳴り止む前に、夜狐が大きな声を出す。
「羽海!羽海ー!いる?店長はー?」
「あー?夜狐?なによアンタ遅かったわね、店長ならさっき探してた資料見つけたっぽいから、もうすぐ下戻ってくるはずよ」
 どちらかといえば、美人というイメージのする声が店の奥から響いた。自分の芯をハッキリ持った、堂々とした声と口調だ。
 奥の方にあった襖が開き、赤毛が覗いた。少し身構えた。気持ち夜狐の影に隠れるように移動してみたが、良心と葛藤して結局全く隠れられてはいなかった。
「てゆーか、夜狐、店長に何の用……」
 襖が開ききって、声の主が現れる。
 赤毛を黒いリボンでツインテールに結った、二十歳前半──なんなら十代にも見えるような女性だった。夜狐と似たような服を着ているが、スカートはかなり短い。最も目を引くのは、ハートの飾りがついたチョーカー。
 彼女は夜狐と、夜狐の後ろに立つ私をそれぞれ見比べて、一瞬ぽかんとした表情をして、ふいに上の方を向いて大声で叫ぶ。

「店長ーーー!!夜狐が彼女連れてきたーーー!!!」
「ちげーーよ万年恋愛脳ババァ!!香澄ちゃんびっくりするだろうが!」

 大声で揺れた暖簾から涼しげな音が響いた。

    ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ 

「なぁによ、ちょっと揶揄っただけでしょ?初心ウブそうな見た目してたから」
「だからってそんなタチの悪い冗談やめろよ!この子可哀想だろ!?」
「その自己肯定感の低さいい加減なんとかしなさいよ!そんなんだからいつまで経っても独身なのよ!」
 またもや置いてけぼりにされてしまった──と言うより私が変に口を出せない会話になってしまった。おかげで緊張はほぐれたが。
 死人に独身もクソもないってば、とため息まじりに夜狐が言ったあたりで、さっき女性が出てきた襖とはまた違う扉からパタパタという足音が聞こえた。足音がどうやら上から近づいてくるようだったので、あの扉の向こうには階段があるのだろうと思った。まともな話をしてくれそうな人が来ることを期待しつつ、扉の方に視線を向ける。
 軽やかな動作でドアが開いた。そこから一人の青年が顔を出す。
「こら、羽海ちゃん、夜狐君はともかくお連れ様まで揶揄っちゃだめでしょ…夜狐君、おかえり。無事でなにより」
 優しい声だった。この中の誰よりも。
 多分目を瞑って笑う人なんだと思った。と、言うのも、今三日月型に湾曲して閉じた瞳の下に見えるのは口元に巻かれた布。その口元に笑みがあるのかどうかは定かではないが、こんな声の持ち主が無表情でこんな優しい言葉を言うわけがない。
 しかし次の瞬間私は驚愕した。
 彼が瞼をあげて出てきた瞳は──
「…っ」
 本来白いはずの『白目』が、正真正銘の黒だったのである。
 漆黒の中に浮かぶ本来の黒目部分は、緑に近い黄色をしている。初めて見る目元に私はたじろいだ。失礼を承知で言うのなら、それは化け物の目だったから。
「はいはい香澄ちゃん、大丈夫だよ~。あの人あぁ見えて全然怖くないからね~」
「アンタその子のこと何歳児だと思ってんのよ」
 全くだ。失礼にも程がある。私が夜狐の裾を握っているのも軽く震えているのも別に怖いからなんて子供じみた理由ではないのだから。
 じゃあどうしてだと問われたら答えられない。
「あぁ、ごめん…怖がらせちゃったかな。ほ~ら怖くないよ~、痛くないよ~出ておいで~」
 完全にふざけている。もしくは夜狐の対応を真に受けている。
「てんちょ~怖がらせないようにわざわざそんな口調で話しかけるなんて優しいです♡」
「対応が詐欺レベルで違すぎる」
 なるほど、どうやらあの黒白眼の人は美人の人に好かれているようだ。夜狐を哀れみの意を込めて見つめてみると「なにが言いたいのか大体わかるからね」と笑いながら軽く小突かれた。
「…それで、夜狐君。この子は?」
 と、そんな一言で話は本来の流れを取り戻した。
 これまでの状況を鑑みるに、ここはおそらく夜狐の職場であろうと見当はついていた。
 が、そこがわかったところで夜狐の意図はわからない。私はおとなしく、誰かの次の言葉を待つことにした。考えてみればこの建物に入ってから一言も言葉を発していない。
「うん、この子はね── 」
 いつも通りのヘラヘラした笑顔だった。

「うちの新入り!」

 全員、鳩が豆鉄砲を喰ったような顔をした。もちろんその全員の中には私も入っている。
 美人な彼女が、理解が追いつかないと言うように顔を歪めた。白黒眼の彼が、呆れ笑いというか、そうだろうなというふうに失笑した。
「……は?」
 奇しくも私はその瞬間、久々に表情豊かに驚いて見せたのだった。
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