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第一章・首吊り少女の怨念
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私が一番恨んでいた人?
……薫?
薫のところに行くって、なんで。
何をしに?
──なんのために?
私が展開についていけずくらくらしているところに、容赦なく夜狐が質問を投げかけた。
「香澄ちゃんが恨んでた奴、どこにいるかわかる?」
わからなくはなかった。今日は月曜日、それでいてこの時間帯なら二択。家に帰っているか、母親の代わりに買い物に行っているか。
ただ可能性が高いのは前者だ。
「…家、に、いると思う」
「わかった。香澄ちゃん、その人の家の場所わかる?」
「………」
私は静かに頷いた。何度かお邪魔させてもらったことがあるから、はっきり覚えている。
何もわからないまま、薫の家の方向を指差した。その先に何があるのかも知らずに。
夜狐はそれ以上ほとんど何も言わなかった。私の言う方向に従って身軽に屋根を飛び移って進んでいく。相変わらずのその速度は、思っていたより早く私を薫の家まで連れていった。
何かを考える余裕などないに等しかった。
夜狐は何も言ってはくれないし、聞く気にもなれなかった。ただ嫌な予感と嫌な想像ばかりが膨らんで、銃身と振り落とされないように掴んでいた夜狐の服を握る手に力がこもった。
「さて。ここだよね」
薫の家の屋根の上に立って夜狐は言った。私はそれに碌な返事もせずに、堰を切ったように溢れんばかりの疑問を──不安を、ぶちまける。
「……何をするつもりなの?恨みを放ってきて良かったの?私は、自分の気持ちに区切りをつけたくて…だから、私はあの恨みを自分で倒したくて……!どうして、恨んだ本人のところになんてっ、それに、どんな選択をしてもいいって、地獄には堕ちないって…」
一体、どういう意味?
ほぼ掴みかかってるような剣幕で私は叫ぶように夜狐に訴えかけた。不安で不安で仕方がなかった。途中でふと気づいて、声のトーンを落とす。私は反抗してはいけない。怒鳴られたくない、殴られたくない。いや、夜狐がそんなことをするような人間でないとは、この短時間でよくわかっていたけれど。
「…そうだね。まずはちゃんと話さないとね」
やはり夜狐は怒ることなどせずに、優しい声で安心させるように目線を私と合わせた。八つ当たりしてしまった罪悪感が込み上げてくるが、一度その感情を無理やり飲み込む。
「まず、あの恨みの話をしようか」
あの恨み。夜狐がらしくもなく、早い段階で倒すことを諦めたあの。
思い出すだけで身震いがする。かくいう私もそいつに一発ぶち込んではいるのだが、あの時は少し普通じゃなかったから。今もう一度撃ち込んでみろと言われてもできる自信はない。
「あれは、君たちの感覚でいう地縛霊だね。たとえば噂の恨みが学校の中から出なかったように──あいつはあの場所から離れられないんだ。香澄ちゃんにとって、あの場所がよっぽど印象強かったのかもしれないし、また別の理由であそこに止まっているのかもしれないけど…。とにかくあの恨みはあの路地に留まり続けるだろう。──対象の人物を、殺すまではね」
対象の人物──薫。
彼を殺すまで、あの恨みは消えることはないしあそこから動くこともない、と夜狐は言った。
「そしてあの恨みを倒すことはほぼ不可能に等しい」
その言葉にただでさえ動揺していた感情がさらに揺さぶられる。
「恨みが強すぎるっていうのもあるけど…たまにあるんだよね。恨みの特性的に、倒すこと自体が不可能になっちゃってる恨みが。暖簾に腕押しっていうか、なんていうか。多分あの恨みはそれだ──斬っても斬ってもまるで『無駄だ』って嘲笑うみたいに再生するし、しかもあの血みたいな奴まで攻撃性があるときた。…多分香澄ちゃんはその恨んでいた人に対して──『何をしても無駄だ』って思ってたんじゃない?」
図星だった。
薫は私が何を言ったって聞かなかった。謙遜だと思われたのだろう、実際半分はそうだったのだから──。
「ま、とにかく、あの恨みは何をどうしたって倒すことはできないよ。だって何をしても無駄なんだからね──あぁいや、そんな顔しないで。香澄ちゃんを責めてるわけじゃないんだ。悪いのは全部その──恨んでいた人でしょ?」
「違う」
私がそう言うと夜狐は意外そうな顔をした。でも違う。悪いのは私。薫なりの善意を恨んでしまった私のせい。
夜狐は困ったように少し笑って、私を否定も肯定もしなかった。
「…あの恨みは香澄ちゃんが恨んでた人を殺さない限り、消えてはくれない。恨みっていうのは基本、恨んでいた人やらなんやらを殺せば消えるからね。例を挙げれば──あの香澄ちゃんの両親への恨みは、あのまま二人を殺していればその時点で核に戻るんだ。目的は達成した訳だからね、それ以上誰かを殺す理由もないし。あぁでも、あの噂の恨みは別かな──香澄ちゃんが恨んでいたのは噂を流した人なんかじゃなくて、噂自体だからね。ああいうのはただの快楽殺人タイプだよ。噂がこの世から無くなるまで人を無差別に攻撃し続ける。もちろん噂がなくなることなんてある訳ないから、自然消滅する可能性は絶望的かな」
でもさっきの恨みはそうじゃない──と夜狐は言った。私も流れでなんとなくわかっていた。
つまりあの恨みは、薫を殺さない限り消えてはくれないのだ。
逆に言えば、薫を殺しさえすればあれは満足して消える。
でも、だから?
だから──何?
嫌な予感はしていた。少し考えればすぐに分かりそうなその可能性に辿り着くのを避けるためなのか、頭の中が真っ白になっていく。
「つまりね。香澄ちゃんがあの恨みを倒すことは、できないんだよ」
それはわかる。私には倒すことはできない。私にも夜狐にも、藍玉にも。だから私の「一番強い恨みは私が倒す」という願いは叶うことはない。
それは──わかる。
かといって夜狐が「だから諦めてくれ」なんて言うのかと聞かれれば、私は首を横に振るだろう。夜狐は多分、そんなことは言わない。残酷なくらい優しいから。優しくないけど──優しいから。
「正直、倒せない恨みなんかは放っておいていいんだ。個人的な意見じゃなくて、きちんとした決まり。だって放っておいたってどうせ人が死ぬだけだからね。僕らの知ったことじゃない。…でも香澄ちゃんはそうもいかないだろ?」
でもあの恨みを倒せないのは事実。覆ることのない事実。
ならば夜狐は私にどんな代案を出すのか。
どう足掻いても薫が死ぬのなら。
「…恨みが人を殺したら、その恨みの持ち主は問答無用で地獄行きって話はしたよね?」
だってそれは、持ち主自身が殺したも同然なんだから──と夜狐は言った。
どう足掻いても──私が罪人になるなら。
夜狐の視線が私を貫いた。まっすぐな視線に戸惑いは感じられない。耐えられずに目を逸らした。とっくに頭は状況を理解していて、夜狐がなんと言うかもわかっていたのに、心がそれに追いつかないが故に思考はぐちゃぐちゃのままだった。
「…恨みは、確かに倒せないよ。…でも、香澄ちゃんが最大限納得できるような方法はある」
耳を塞ぎたかった。でも腕の関節が軋んで動かない。まるで金縛りにあったかのように、動くことができない。呼吸と動悸が荒くなっていくのを感じる──どちらも、もう必要ない行為だというのに。
「人は、脆い。たとえばこの刀を生者の首元に刺したりだとか、その銃弾を脳天に一発ぶち込んだりだとかすれば、簡単に死ぬ」
恨みが人を傷つければ、物理的になんともなくともしばらくすれば勝手に死んでしまうように。
「香澄ちゃん」
動揺する私をよそに、夜狐はまっすぐ真剣な瞳で言った。
「恨んでいた人を殺す覚悟は、ある?」
やはり夜狐は優しかった。
優しくて、優しすぎて、優しいだけで──優しくなかった。
▽ ▲ ▽ ▲ ▽
「香澄!今日はここに行ってみようよ!」
知り合ってから数週間。とうとう薫は私を呼び捨てで呼び出した。
初めは気が進まなかったが、私もそれに倣って「薫」と呼び捨てで呼ぶようになった。今まで苗字くん付けが基本だったので、かなりハードルは高かった。
薫がスマホの画面に表示させているのは一駅ほど先のショッピングモールだった。
「…行っても買うもの、ないけど」
「いいから行こう!最近バイト代入ったし、貯金だってあるから僕が払ってあげるし」
それは本当にいいと断りつつ、私は画面の中の大きな建物を見つめる。どこかで見たことがある気がした。朧げな記憶を辿って視線を特に意味もなく左から右に動かす。
「……あ」
思い出した。
昔、母が優しかった頃に一度だけ家族で行った場所だ。
今思うと何を買ってもらったわけでもないし、なんならほぼ荷物持ちみたいな役割だったけれど、それでもバカみたいに喜んではしゃいでいた記憶がある。
それをいい思い出と思えるかと聞かれたら答えはNOだ。あの頃のことは、思い出すだけで気分が沈む。万が一にでも駅のホームで思い出したりでもしたら勢いで列車に飛び込みかねない。
まぁそんなわけだから──正直行きたくはなかった。
もう少し気持ちの整理がつくまで、なんて言ったってもうあの頃から何年も経ってはいるのだが──しかしそれはそれとして、やっぱり行きたくはない。薫には悪いけれど、断ろうかな、と視線を薫の方に戻した。
「あの、」
「行くにはやっぱ電車かな?あ、そしたらあと三十分後に出るこの電車がちょうどいいかもね!今の時間帯だとそこまで混んでないと思うし……」
…どうやら薫の中ではとっくに行くことは決定しているらしい。
ならば私にできることは、すでに決定された返事を言うことだけ。
「…じゃあ、行こうかな」
「うん!日曜だから混んでると思うけど、まぁ大丈夫だよ、さ、行こっか」
薫は待ちきれないとでも言うように早歩きで歩き出した。私は小走りでその後を追った。
駅の改札を抜け、しばらく大通りを進むと大きな建物が見えてきた。言わずもがな、あのショッピングモールだ。垂れ下がった暖簾にセールの文言がでかでかと記されている。
「いやー、賑わってるなぁ。香澄、服でも見よっか」
「え…あぁ、うん」
服、服か。こういうところの服って高いのが多そうで、あまり見る気になれない。だが薫が見たいと言うのなら、仕方ない、付き合うとしよう。
まず売り場案内図に目を通す。が、その前に一つの看板が目に映った。どうせ私は地図をろくに見ることができないとわかっているから、案内図は薫に任せてそっちに意識を向ける。
スイーツの写真がびっしり貼ってある看板だった。
どうやら地下のスイーツ売り場の看板らしい──かなり興味を惹かれた。こう見えて年相応に甘いものとか可愛いものは大好きなので、見てるだけでも楽しい。
行ってみたいな。
「香澄?服、三階だって!行こう」
薫の声に意識を戻される。そうだ、服を見るんだった。「スイーツが見たい」なんてわがままは、例によって言えるはずもなかった。
「あ、……うん」
まぁ、またいつかの機会に──と思って、私はその場を後にした。
「香澄にはこういうのが似合うと思うよ」
その言葉と共に差し出されたのは深い藍色のロングスカート。夜明け前の空を彷彿とさせる色合いのグラデーションが綺麗だった。
私はつい先ほど思わず手に取った、明るい色のワンピースをそっとラックに戻した。
「ちょっと試着してみなよ、ね?」
促されるまま試着室に入る。狭い空間に、私の全身を写す大きな鏡。足元のカゴに軽くつまづいて、それからもう一度しっかり手元のロングスカートを見つめてみる。
ゆうに私の足首まで隠してしまいそうな長さだった。足元は切れ込みこそ入っているもののあまり開きそうにない。一歩の大きさがかなり制限されそうで、正直気は進まなかった。実際履いてみると、とてもじゃないが走ることはほぼできそうもなかった。
やっぱり私に着こなせるような代物ではないな──とそそくさ着替え直して試着室を後にする。ベルトがわりに結ばれていたリボンを綺麗に結び直そうとしたところで、薫に声をかけられた。
「どうだった?それ」
「……えっ、あ…少し、走りづらいかな、って」
話し方が辿々しくなってしまったのは、せっかく勧めてくれたものを断るのに罪悪感を感じていたからだった。そう、よく言えば罪悪感。悪く言えば相手への懐疑感情。
「えー、そう?でもやっぱり似合うと思うんだよなぁ…サイズはあってたんでしょ?」
「え……まぁ」
「じゃあいいね!僕これ買ってあげるよ!」
ありがた迷惑という言葉がなんとも似合いそうな発言。私は一瞬遅れてその言葉の意味を理解し、慌てて制止する。
「ちょっ、それは…さすがに」
なんとか否定の意思を絞り出した。ただはっきりと伝えられなかった。そのせいもあるのだろう、薫は一度立ち止まって私を見たが、すぐにレジに向かっていってしまった。再び声をかけようと口を開くけれど、薫を止められるような言葉が見つからず、片方だけ踏み出した足をどうすることもできないまま、私は口を閉じた。
「……っ」
どうしたらわかってくれるのだろうか。
次、同じような時には、ちゃんと納得してもらえるように──言葉を考えておかなくちゃ。
誰かのため息が聞こえた。肺の辺りが締まる感覚で気がついた。それは私のため息だった。
紙袋を一つ抱えたまま私たちはアクセサリー売り場に辿り着いた。洋服売り場の二軒隣にあったところだ。そこまで高くはないものの、私には縁のないものばかりだった。
特にピアスなんてつけるような場面がないのに加え、そんなものつけてたら母親に耳ごとちぎられる──は冗談にしても、引きちぎるそぶりを見せるであろうことは明白だった。
そもそも耳に穴を開けるという行為が怖い。
これ以上傷を増やしたくはない。
「香澄ってカチューシャ似合いそうだよね」
そんなことを考えてピアスのコーナーから逃げるように目を背けると、今度は薫が黒いカチューシャを持っていた。まずい、また買うとか言い出したらどうしよう──と、私は何か薫の気をそらせるようなものがないかと辺りを見回す。
と、そんな焦りからか棚までの目測を誤り、右腕が棚に軽くぶつかった。商品が一つ落ち、慌ててしゃがみ込んで拾う。
「……?」
「…あ、それピアッサーだ。ピアス穴開けるやつ」
あまり見慣れない形。なるほど確かに針がついている──これでバチン、と穴を開けるわけだ。
「……ピアスかぁ」
薫が私が拾い上げたその見慣れない器具──ピアッサーを軽く見つめながらそう呟いた。見たところ薫にはピアス穴が空いてないようだし、もしかしたら開けたいのかもしれない、などと能天気に考えながら薫の次の言葉を待った。
「香澄、ピアス似合うと思うよ」
一瞬声が出そうになったのを飲み込んだ。それはもう癖みたいなものだった。
似合う?いや、似合うか否かはどうでもいいというか、ピアスなんていろんなデザインがあるんだから似合う似合わないはあんまりないと思うんだが──
「この機会にさ、空けてみよう!どんなのがいいかなぁ、シルバー系とか良さそうだよね!パステルカラーも結構──」
ちょっと待って。一人で話を進めないで。私はピアスなんか空けたくない。
いや、きっと、そこまで強い拒絶心はなかったはずだった。これ以上傷を増やしたくないなんて言っても、なんだかんだ大して変わらないとも思ってはいたんだ。ただ、私の意見が全く反映されないのが嫌だったというか、不安だった、というか。
「ね、いいでしょ」
「……わ、私は、ちょっと…ピアスは空けたくない。…怖いし」
私なりにはっきり言ったつもりだった。というか私にしてははっきり断った方だという気がしていた。世間一般的に見たらこれは全く『はっきり』の域には入れないのだろうが、少なくとも嫌だという意思は伝えたつもりだ。
そして、ちゃんと断ったのだから、薫も諦めてくれるだろうと──
「えぇ?大丈夫だよ、一瞬で痛くないって友達が言ってたし。じゃあとりあえず空けるだけでも空けてみよう」
薫はそう言って悪びれもせず笑った。
あ、駄目だ──と思った。
なんとなくわかってしまった。いつも感じている感覚と同じだったから。親に対して発言してもいつだって無駄だと感じる──その感覚と同じだった。
結局ピアス穴は空けた。しかしピアスをつけたことは一度もない。それに痛くないなんて言っていたがそれは空ける瞬間だけで、だんだんじわじわ広がるような熱い痛みが襲ってきた。
薫は私の方を見ようともしなかった。この辺りで私は、薫が見ているのは傷だらけの可哀想なクラスメイトなどではなくそんな人間を助けている自分自身なのではないかと思い始めた。
でも私は何も言えなかったのだ──助けられている事実は変わることはなかったのだから。
階を移動しようとエスカレータに向かう道中、ヴィック売り場の横を通った。そこでふと薫が足を止める。
何か気になるものでもあったのだろうか、と私もその後ろをついていく。薫はしばらく何かを探すそぶりを見せ、ちょうど私の髪の長さと同じくらいの黒髪のヴィックを手に取って嬉しそうに振り返った。
何がしたいのかわからなかった。
わかりたくなかった。
「香澄!」
純粋に、なんの悪気もなく、本当にただ楽しそうな声で名前を呼ばれた。
「この間、髪の毛染めるのは嫌だって言ってただろう?だから──」
ふわっとした、しかし確かに芯を感じるような材質のそれが私の手に置かれた。
「これ、つけたらいいじゃん!」
思わず失笑した。したつもりだった。実際のところ、口角は上がってなどいなかった。
私が白髪なのを気にしていると思ってくれているんだろう。
白髪なのはおかしいと思っているんだろう。
「…いや、別に大丈夫。私はこのままでも」
「…え?」
薫は純粋に疑問といった顔をした。何もわかっていない顔だ。私の気持ちなんて考えてもいない顔だ。
「だって白髪って、普通じゃないじゃん」
普通の基準から外れないでいることが、幸せの絶対条件だと──この人は、そう思っているらしかった。
そしてそれはまごうことなく、私を否定した言葉であった。
その後のことはあまり覚えていない。とりあえず薫がこれ以上私に何かを与えようとしないように気を張っていたのもあれば、一度薫からの否定に気づいてしまってからは過去の発言も行動も全てそう見えてきてしまって、どうしようもなかったと言うのもあるんだと思う。
ただ夕方ごろ、いつも別れる路地で手を振った後に、疲れ以上の何かが襲ってきて塀の影に十数分うずくまったことは覚えている。
まるでペットだな──と、あんまりいい例えを自分で思いついてしまって複雑な気分だった。
無理やり苦しい首輪をつけられる猫のような。
感謝の意がなかったわけじゃない。ありがたいとは思っていたんだ。確かに思っては、いたはずだったんだ。
ただ私の意思が反映されないだけで、私の意思が否定されているだけで、それさえ耐えれば良くしてもらえていると考えることはできたはずだし、多少の心理的負担なんて薫の私への善意だとかで帳消しになるべきなんだって──
あぁ、でも、その善意が、私は──
▽ ▲ ▽ ▲ ▽
だから、夜狐。
私は嬉しかった。
「殺す覚悟はあるか」って、それは少なくとも私を頭ごなしに否定するような言葉ではなかったから。「どんな選択をしてもいい」って、それは少なくとも私の意思を最大限に反映させようとしてくれているってことだったから。
荒かった呼吸は落ち着いていた。しかし言葉は発せそうにない。喉に何かが詰まったような感じがして、口を開けるのすら億劫に感じる。
それでも言わなくては。返事をしなくては。殺すのか、殺さないのか。私が自分で答えを出さなくては。
この人は私の答えを求めている。
私の決めた方向を向いてくれる。
例えそれが希望的観測だったとしても、私が今信じられるのは夜狐しか──
「──」
息を吸った。重い声帯を無理やりこじ開けた。再び閉じかけた口を、力づくで元に戻した。
……薫?
薫のところに行くって、なんで。
何をしに?
──なんのために?
私が展開についていけずくらくらしているところに、容赦なく夜狐が質問を投げかけた。
「香澄ちゃんが恨んでた奴、どこにいるかわかる?」
わからなくはなかった。今日は月曜日、それでいてこの時間帯なら二択。家に帰っているか、母親の代わりに買い物に行っているか。
ただ可能性が高いのは前者だ。
「…家、に、いると思う」
「わかった。香澄ちゃん、その人の家の場所わかる?」
「………」
私は静かに頷いた。何度かお邪魔させてもらったことがあるから、はっきり覚えている。
何もわからないまま、薫の家の方向を指差した。その先に何があるのかも知らずに。
夜狐はそれ以上ほとんど何も言わなかった。私の言う方向に従って身軽に屋根を飛び移って進んでいく。相変わらずのその速度は、思っていたより早く私を薫の家まで連れていった。
何かを考える余裕などないに等しかった。
夜狐は何も言ってはくれないし、聞く気にもなれなかった。ただ嫌な予感と嫌な想像ばかりが膨らんで、銃身と振り落とされないように掴んでいた夜狐の服を握る手に力がこもった。
「さて。ここだよね」
薫の家の屋根の上に立って夜狐は言った。私はそれに碌な返事もせずに、堰を切ったように溢れんばかりの疑問を──不安を、ぶちまける。
「……何をするつもりなの?恨みを放ってきて良かったの?私は、自分の気持ちに区切りをつけたくて…だから、私はあの恨みを自分で倒したくて……!どうして、恨んだ本人のところになんてっ、それに、どんな選択をしてもいいって、地獄には堕ちないって…」
一体、どういう意味?
ほぼ掴みかかってるような剣幕で私は叫ぶように夜狐に訴えかけた。不安で不安で仕方がなかった。途中でふと気づいて、声のトーンを落とす。私は反抗してはいけない。怒鳴られたくない、殴られたくない。いや、夜狐がそんなことをするような人間でないとは、この短時間でよくわかっていたけれど。
「…そうだね。まずはちゃんと話さないとね」
やはり夜狐は怒ることなどせずに、優しい声で安心させるように目線を私と合わせた。八つ当たりしてしまった罪悪感が込み上げてくるが、一度その感情を無理やり飲み込む。
「まず、あの恨みの話をしようか」
あの恨み。夜狐がらしくもなく、早い段階で倒すことを諦めたあの。
思い出すだけで身震いがする。かくいう私もそいつに一発ぶち込んではいるのだが、あの時は少し普通じゃなかったから。今もう一度撃ち込んでみろと言われてもできる自信はない。
「あれは、君たちの感覚でいう地縛霊だね。たとえば噂の恨みが学校の中から出なかったように──あいつはあの場所から離れられないんだ。香澄ちゃんにとって、あの場所がよっぽど印象強かったのかもしれないし、また別の理由であそこに止まっているのかもしれないけど…。とにかくあの恨みはあの路地に留まり続けるだろう。──対象の人物を、殺すまではね」
対象の人物──薫。
彼を殺すまで、あの恨みは消えることはないしあそこから動くこともない、と夜狐は言った。
「そしてあの恨みを倒すことはほぼ不可能に等しい」
その言葉にただでさえ動揺していた感情がさらに揺さぶられる。
「恨みが強すぎるっていうのもあるけど…たまにあるんだよね。恨みの特性的に、倒すこと自体が不可能になっちゃってる恨みが。暖簾に腕押しっていうか、なんていうか。多分あの恨みはそれだ──斬っても斬ってもまるで『無駄だ』って嘲笑うみたいに再生するし、しかもあの血みたいな奴まで攻撃性があるときた。…多分香澄ちゃんはその恨んでいた人に対して──『何をしても無駄だ』って思ってたんじゃない?」
図星だった。
薫は私が何を言ったって聞かなかった。謙遜だと思われたのだろう、実際半分はそうだったのだから──。
「ま、とにかく、あの恨みは何をどうしたって倒すことはできないよ。だって何をしても無駄なんだからね──あぁいや、そんな顔しないで。香澄ちゃんを責めてるわけじゃないんだ。悪いのは全部その──恨んでいた人でしょ?」
「違う」
私がそう言うと夜狐は意外そうな顔をした。でも違う。悪いのは私。薫なりの善意を恨んでしまった私のせい。
夜狐は困ったように少し笑って、私を否定も肯定もしなかった。
「…あの恨みは香澄ちゃんが恨んでた人を殺さない限り、消えてはくれない。恨みっていうのは基本、恨んでいた人やらなんやらを殺せば消えるからね。例を挙げれば──あの香澄ちゃんの両親への恨みは、あのまま二人を殺していればその時点で核に戻るんだ。目的は達成した訳だからね、それ以上誰かを殺す理由もないし。あぁでも、あの噂の恨みは別かな──香澄ちゃんが恨んでいたのは噂を流した人なんかじゃなくて、噂自体だからね。ああいうのはただの快楽殺人タイプだよ。噂がこの世から無くなるまで人を無差別に攻撃し続ける。もちろん噂がなくなることなんてある訳ないから、自然消滅する可能性は絶望的かな」
でもさっきの恨みはそうじゃない──と夜狐は言った。私も流れでなんとなくわかっていた。
つまりあの恨みは、薫を殺さない限り消えてはくれないのだ。
逆に言えば、薫を殺しさえすればあれは満足して消える。
でも、だから?
だから──何?
嫌な予感はしていた。少し考えればすぐに分かりそうなその可能性に辿り着くのを避けるためなのか、頭の中が真っ白になっていく。
「つまりね。香澄ちゃんがあの恨みを倒すことは、できないんだよ」
それはわかる。私には倒すことはできない。私にも夜狐にも、藍玉にも。だから私の「一番強い恨みは私が倒す」という願いは叶うことはない。
それは──わかる。
かといって夜狐が「だから諦めてくれ」なんて言うのかと聞かれれば、私は首を横に振るだろう。夜狐は多分、そんなことは言わない。残酷なくらい優しいから。優しくないけど──優しいから。
「正直、倒せない恨みなんかは放っておいていいんだ。個人的な意見じゃなくて、きちんとした決まり。だって放っておいたってどうせ人が死ぬだけだからね。僕らの知ったことじゃない。…でも香澄ちゃんはそうもいかないだろ?」
でもあの恨みを倒せないのは事実。覆ることのない事実。
ならば夜狐は私にどんな代案を出すのか。
どう足掻いても薫が死ぬのなら。
「…恨みが人を殺したら、その恨みの持ち主は問答無用で地獄行きって話はしたよね?」
だってそれは、持ち主自身が殺したも同然なんだから──と夜狐は言った。
どう足掻いても──私が罪人になるなら。
夜狐の視線が私を貫いた。まっすぐな視線に戸惑いは感じられない。耐えられずに目を逸らした。とっくに頭は状況を理解していて、夜狐がなんと言うかもわかっていたのに、心がそれに追いつかないが故に思考はぐちゃぐちゃのままだった。
「…恨みは、確かに倒せないよ。…でも、香澄ちゃんが最大限納得できるような方法はある」
耳を塞ぎたかった。でも腕の関節が軋んで動かない。まるで金縛りにあったかのように、動くことができない。呼吸と動悸が荒くなっていくのを感じる──どちらも、もう必要ない行為だというのに。
「人は、脆い。たとえばこの刀を生者の首元に刺したりだとか、その銃弾を脳天に一発ぶち込んだりだとかすれば、簡単に死ぬ」
恨みが人を傷つければ、物理的になんともなくともしばらくすれば勝手に死んでしまうように。
「香澄ちゃん」
動揺する私をよそに、夜狐はまっすぐ真剣な瞳で言った。
「恨んでいた人を殺す覚悟は、ある?」
やはり夜狐は優しかった。
優しくて、優しすぎて、優しいだけで──優しくなかった。
▽ ▲ ▽ ▲ ▽
「香澄!今日はここに行ってみようよ!」
知り合ってから数週間。とうとう薫は私を呼び捨てで呼び出した。
初めは気が進まなかったが、私もそれに倣って「薫」と呼び捨てで呼ぶようになった。今まで苗字くん付けが基本だったので、かなりハードルは高かった。
薫がスマホの画面に表示させているのは一駅ほど先のショッピングモールだった。
「…行っても買うもの、ないけど」
「いいから行こう!最近バイト代入ったし、貯金だってあるから僕が払ってあげるし」
それは本当にいいと断りつつ、私は画面の中の大きな建物を見つめる。どこかで見たことがある気がした。朧げな記憶を辿って視線を特に意味もなく左から右に動かす。
「……あ」
思い出した。
昔、母が優しかった頃に一度だけ家族で行った場所だ。
今思うと何を買ってもらったわけでもないし、なんならほぼ荷物持ちみたいな役割だったけれど、それでもバカみたいに喜んではしゃいでいた記憶がある。
それをいい思い出と思えるかと聞かれたら答えはNOだ。あの頃のことは、思い出すだけで気分が沈む。万が一にでも駅のホームで思い出したりでもしたら勢いで列車に飛び込みかねない。
まぁそんなわけだから──正直行きたくはなかった。
もう少し気持ちの整理がつくまで、なんて言ったってもうあの頃から何年も経ってはいるのだが──しかしそれはそれとして、やっぱり行きたくはない。薫には悪いけれど、断ろうかな、と視線を薫の方に戻した。
「あの、」
「行くにはやっぱ電車かな?あ、そしたらあと三十分後に出るこの電車がちょうどいいかもね!今の時間帯だとそこまで混んでないと思うし……」
…どうやら薫の中ではとっくに行くことは決定しているらしい。
ならば私にできることは、すでに決定された返事を言うことだけ。
「…じゃあ、行こうかな」
「うん!日曜だから混んでると思うけど、まぁ大丈夫だよ、さ、行こっか」
薫は待ちきれないとでも言うように早歩きで歩き出した。私は小走りでその後を追った。
駅の改札を抜け、しばらく大通りを進むと大きな建物が見えてきた。言わずもがな、あのショッピングモールだ。垂れ下がった暖簾にセールの文言がでかでかと記されている。
「いやー、賑わってるなぁ。香澄、服でも見よっか」
「え…あぁ、うん」
服、服か。こういうところの服って高いのが多そうで、あまり見る気になれない。だが薫が見たいと言うのなら、仕方ない、付き合うとしよう。
まず売り場案内図に目を通す。が、その前に一つの看板が目に映った。どうせ私は地図をろくに見ることができないとわかっているから、案内図は薫に任せてそっちに意識を向ける。
スイーツの写真がびっしり貼ってある看板だった。
どうやら地下のスイーツ売り場の看板らしい──かなり興味を惹かれた。こう見えて年相応に甘いものとか可愛いものは大好きなので、見てるだけでも楽しい。
行ってみたいな。
「香澄?服、三階だって!行こう」
薫の声に意識を戻される。そうだ、服を見るんだった。「スイーツが見たい」なんてわがままは、例によって言えるはずもなかった。
「あ、……うん」
まぁ、またいつかの機会に──と思って、私はその場を後にした。
「香澄にはこういうのが似合うと思うよ」
その言葉と共に差し出されたのは深い藍色のロングスカート。夜明け前の空を彷彿とさせる色合いのグラデーションが綺麗だった。
私はつい先ほど思わず手に取った、明るい色のワンピースをそっとラックに戻した。
「ちょっと試着してみなよ、ね?」
促されるまま試着室に入る。狭い空間に、私の全身を写す大きな鏡。足元のカゴに軽くつまづいて、それからもう一度しっかり手元のロングスカートを見つめてみる。
ゆうに私の足首まで隠してしまいそうな長さだった。足元は切れ込みこそ入っているもののあまり開きそうにない。一歩の大きさがかなり制限されそうで、正直気は進まなかった。実際履いてみると、とてもじゃないが走ることはほぼできそうもなかった。
やっぱり私に着こなせるような代物ではないな──とそそくさ着替え直して試着室を後にする。ベルトがわりに結ばれていたリボンを綺麗に結び直そうとしたところで、薫に声をかけられた。
「どうだった?それ」
「……えっ、あ…少し、走りづらいかな、って」
話し方が辿々しくなってしまったのは、せっかく勧めてくれたものを断るのに罪悪感を感じていたからだった。そう、よく言えば罪悪感。悪く言えば相手への懐疑感情。
「えー、そう?でもやっぱり似合うと思うんだよなぁ…サイズはあってたんでしょ?」
「え……まぁ」
「じゃあいいね!僕これ買ってあげるよ!」
ありがた迷惑という言葉がなんとも似合いそうな発言。私は一瞬遅れてその言葉の意味を理解し、慌てて制止する。
「ちょっ、それは…さすがに」
なんとか否定の意思を絞り出した。ただはっきりと伝えられなかった。そのせいもあるのだろう、薫は一度立ち止まって私を見たが、すぐにレジに向かっていってしまった。再び声をかけようと口を開くけれど、薫を止められるような言葉が見つからず、片方だけ踏み出した足をどうすることもできないまま、私は口を閉じた。
「……っ」
どうしたらわかってくれるのだろうか。
次、同じような時には、ちゃんと納得してもらえるように──言葉を考えておかなくちゃ。
誰かのため息が聞こえた。肺の辺りが締まる感覚で気がついた。それは私のため息だった。
紙袋を一つ抱えたまま私たちはアクセサリー売り場に辿り着いた。洋服売り場の二軒隣にあったところだ。そこまで高くはないものの、私には縁のないものばかりだった。
特にピアスなんてつけるような場面がないのに加え、そんなものつけてたら母親に耳ごとちぎられる──は冗談にしても、引きちぎるそぶりを見せるであろうことは明白だった。
そもそも耳に穴を開けるという行為が怖い。
これ以上傷を増やしたくはない。
「香澄ってカチューシャ似合いそうだよね」
そんなことを考えてピアスのコーナーから逃げるように目を背けると、今度は薫が黒いカチューシャを持っていた。まずい、また買うとか言い出したらどうしよう──と、私は何か薫の気をそらせるようなものがないかと辺りを見回す。
と、そんな焦りからか棚までの目測を誤り、右腕が棚に軽くぶつかった。商品が一つ落ち、慌ててしゃがみ込んで拾う。
「……?」
「…あ、それピアッサーだ。ピアス穴開けるやつ」
あまり見慣れない形。なるほど確かに針がついている──これでバチン、と穴を開けるわけだ。
「……ピアスかぁ」
薫が私が拾い上げたその見慣れない器具──ピアッサーを軽く見つめながらそう呟いた。見たところ薫にはピアス穴が空いてないようだし、もしかしたら開けたいのかもしれない、などと能天気に考えながら薫の次の言葉を待った。
「香澄、ピアス似合うと思うよ」
一瞬声が出そうになったのを飲み込んだ。それはもう癖みたいなものだった。
似合う?いや、似合うか否かはどうでもいいというか、ピアスなんていろんなデザインがあるんだから似合う似合わないはあんまりないと思うんだが──
「この機会にさ、空けてみよう!どんなのがいいかなぁ、シルバー系とか良さそうだよね!パステルカラーも結構──」
ちょっと待って。一人で話を進めないで。私はピアスなんか空けたくない。
いや、きっと、そこまで強い拒絶心はなかったはずだった。これ以上傷を増やしたくないなんて言っても、なんだかんだ大して変わらないとも思ってはいたんだ。ただ、私の意見が全く反映されないのが嫌だったというか、不安だった、というか。
「ね、いいでしょ」
「……わ、私は、ちょっと…ピアスは空けたくない。…怖いし」
私なりにはっきり言ったつもりだった。というか私にしてははっきり断った方だという気がしていた。世間一般的に見たらこれは全く『はっきり』の域には入れないのだろうが、少なくとも嫌だという意思は伝えたつもりだ。
そして、ちゃんと断ったのだから、薫も諦めてくれるだろうと──
「えぇ?大丈夫だよ、一瞬で痛くないって友達が言ってたし。じゃあとりあえず空けるだけでも空けてみよう」
薫はそう言って悪びれもせず笑った。
あ、駄目だ──と思った。
なんとなくわかってしまった。いつも感じている感覚と同じだったから。親に対して発言してもいつだって無駄だと感じる──その感覚と同じだった。
結局ピアス穴は空けた。しかしピアスをつけたことは一度もない。それに痛くないなんて言っていたがそれは空ける瞬間だけで、だんだんじわじわ広がるような熱い痛みが襲ってきた。
薫は私の方を見ようともしなかった。この辺りで私は、薫が見ているのは傷だらけの可哀想なクラスメイトなどではなくそんな人間を助けている自分自身なのではないかと思い始めた。
でも私は何も言えなかったのだ──助けられている事実は変わることはなかったのだから。
階を移動しようとエスカレータに向かう道中、ヴィック売り場の横を通った。そこでふと薫が足を止める。
何か気になるものでもあったのだろうか、と私もその後ろをついていく。薫はしばらく何かを探すそぶりを見せ、ちょうど私の髪の長さと同じくらいの黒髪のヴィックを手に取って嬉しそうに振り返った。
何がしたいのかわからなかった。
わかりたくなかった。
「香澄!」
純粋に、なんの悪気もなく、本当にただ楽しそうな声で名前を呼ばれた。
「この間、髪の毛染めるのは嫌だって言ってただろう?だから──」
ふわっとした、しかし確かに芯を感じるような材質のそれが私の手に置かれた。
「これ、つけたらいいじゃん!」
思わず失笑した。したつもりだった。実際のところ、口角は上がってなどいなかった。
私が白髪なのを気にしていると思ってくれているんだろう。
白髪なのはおかしいと思っているんだろう。
「…いや、別に大丈夫。私はこのままでも」
「…え?」
薫は純粋に疑問といった顔をした。何もわかっていない顔だ。私の気持ちなんて考えてもいない顔だ。
「だって白髪って、普通じゃないじゃん」
普通の基準から外れないでいることが、幸せの絶対条件だと──この人は、そう思っているらしかった。
そしてそれはまごうことなく、私を否定した言葉であった。
その後のことはあまり覚えていない。とりあえず薫がこれ以上私に何かを与えようとしないように気を張っていたのもあれば、一度薫からの否定に気づいてしまってからは過去の発言も行動も全てそう見えてきてしまって、どうしようもなかったと言うのもあるんだと思う。
ただ夕方ごろ、いつも別れる路地で手を振った後に、疲れ以上の何かが襲ってきて塀の影に十数分うずくまったことは覚えている。
まるでペットだな──と、あんまりいい例えを自分で思いついてしまって複雑な気分だった。
無理やり苦しい首輪をつけられる猫のような。
感謝の意がなかったわけじゃない。ありがたいとは思っていたんだ。確かに思っては、いたはずだったんだ。
ただ私の意思が反映されないだけで、私の意思が否定されているだけで、それさえ耐えれば良くしてもらえていると考えることはできたはずだし、多少の心理的負担なんて薫の私への善意だとかで帳消しになるべきなんだって──
あぁ、でも、その善意が、私は──
▽ ▲ ▽ ▲ ▽
だから、夜狐。
私は嬉しかった。
「殺す覚悟はあるか」って、それは少なくとも私を頭ごなしに否定するような言葉ではなかったから。「どんな選択をしてもいい」って、それは少なくとも私の意思を最大限に反映させようとしてくれているってことだったから。
荒かった呼吸は落ち着いていた。しかし言葉は発せそうにない。喉に何かが詰まったような感じがして、口を開けるのすら億劫に感じる。
それでも言わなくては。返事をしなくては。殺すのか、殺さないのか。私が自分で答えを出さなくては。
この人は私の答えを求めている。
私の決めた方向を向いてくれる。
例えそれが希望的観測だったとしても、私が今信じられるのは夜狐しか──
「──」
息を吸った。重い声帯を無理やりこじ開けた。再び閉じかけた口を、力づくで元に戻した。
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