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第一章・首吊り少女の怨念
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あの人は一体どのような人なのかと聞かれたら、私はきっとそれを一言では表せないだろう──それどころか、どれだけ秀麗な言葉を並べて図やらグラフやらを使って、まるでプレゼンのように説明し尽くしたところで、それでもきっとあの人の全体像を暴くことは叶わないと思う。それはきっとあの人に言葉で説明しきれないような、計り知れない何かが潜んでいるからなのだ。
薄っぺらに見えて、その実色んなものをぐちゃぐちゃに煮詰めた煮凝りのようなものが詰まったような──しかしそれでいて尚、薄っぺらであるような。
掴みどころがない。掴もうとすら思わない。
掴みたいと思えない。
だけれどそれはあくまで私の主観だったのかもしれない──というか、ただの言い訳なのかもしれない。
あの人は私を理解しようとしなかった。
私もあの人を理解しようとは思わなかった。
私たちは表面上はお互いに理解を求めてはいなかったが、理解した方が関係が良好になることは明確だった。だけれどそれを理解していた上でわかり合おうとしなかったのは、きっと内面を除くことに抵抗──というか、恐怖を覚えたからなのだと、思う。私たちの内面はお互いに、私たちではなかったのだから。
だからその恐怖心を、人の内面を覗くことに嫌悪感を覚えてしまったことの言い訳は──掴みどころがない人だった、と、それさえあれば十分だった。
あの人──葉月薫。
母子家庭。身長は平均ぐらい。部活動には所属していない。週五のペースで様々なバイトをこなしている。成績は中の上。人当たりがよく、敵を作らない。だからと言って仲間と呼べる仲間もいない。音楽を好む。人の世話を焼くことを好む。目が笑っていない。
私たちはきっと、真逆ですらなかっただろう。数学だったか算数だったか、何年生の時に習ったのかももう覚えていないが──ねじれ。立体図形において、「辺ABと辺EFはねじれの関係にある」なんてものを習った記憶があるが、まさにそれだ。私たちはねじれの関係にあった。
ねじれて拗れてこじつけて。
最終的に、ねじれすぎてぷつんときれた。
これはそんな、相入れなかった糸と糸のお話。
▽ ▲ ▽ ▲ ▽
「真田さん。英語の課題、持ってきてる?」
その言葉を聞いて私の背筋をいやな空気が伝っていったのは、別に彼の声が冷たかったからとか、何かいやな雰囲気を醸し出していたからとかそういうのではなくて、単純に課題を忘れてきていたからだった。
しまった、と思ってなんの意味もなくカバンの中をまさぐった。そこには完成した課題のプリントなど入っておらず、ただ今日の授業で使う予定の教科書やらなんやらがまるで焦る私を嘲笑うようにバラバラに詰まっている。
少し考えるそぶりをして、私は観念したように一つ息を吐いた。
「ごめんなさい。今度、自分で出します」
「あぁ、そっか。英語の先生優しいから大丈夫だよ。じゃあ」
それだけ言って彼は集めたプリントを持って、教室を出ていった。
これがあの人──薫との、お互い対して記憶にも残らなかったであろう、ファーストコンタクトである。
それから数日後、多分一週間が経つか経たないかというくらいだったと思う──思っていたより早くセカンドコンタクトの機会は訪れた。
その日、私は少し焦っていた。移動教室の際に忘れた筆箱をとりに、階段を慌てて駆けていた。私の通う暁高校はひどく複雑な造りをしていたので、急がなければ次の授業までに教室に間に合わない。
そんな気の焦りからか、それとも昨日久々にかなり機嫌の悪かった母親に殴る蹴るされた傷が響いたのか──私はあろうことか、階段で足を踏み外した。
「あ……」
浮遊感を覚える体。急接近する階段の踊り場。まずいと思った時にはいつだって手遅れだ。
私はこれから来るであろう衝撃に備えるため目を瞑り、身を硬くした。
「危ない!」
──襟元に圧迫感。
と、後ろ向きにかかる力。階段の踊り場は遠ざかっていった。
心臓がばくんばくんと痛いくらいになっている。そんなんだから全身に血は行き渡っているはずなのに、背筋は冷え切っていた。
「あ、ありがとうございます…」
振り返ってお礼を言った。といっても人の首には活動限界があるので、その人の顔を見ることはできなかった。ゆっくり襟元が開放され、それから今度は足元に気をつけて体ごと振り返り、もう一度しっかりお礼を言って頭を下げようと──した。
なぜこんな言い方をするのかといえば、お察しの通り私はお礼を言うことができなかったのだ──それどころか、場合によっては私を助けてくれたこの人を全力で拒絶しなければならなかったかもしれない。
その人は──薫は、なんともまぁ微妙な顔をしていた。軽く目を泳がせて、どうしたらいいかわからないというような顔をしていた。その表情と、襟元を強く引っ張られたという事実と、それからその衝撃で半分剥がれた首元のガーゼ──それら全ての条件を確認して、私は彼の微妙な顔の理由に気がついた。
それに言い訳をするより早く、容赦なく、薫は言った。
「…その傷……何?」
授業開始を仄めかすチャイムが鳴った。
よく考えたらこの大して長くもないやり取りの途中にチャイムがなってしまったのなら、多分私が転んでいなくても授業開始には間に合わなかったことだろう。
なんて呑気なことを考えていたが、この状況はかなりまずい。もうとっくに授業は始まっているのだから「そんなことより授業に遅れますよ」なんて言い訳は通用しないだろう。どっちにしろ遅刻になるのなら、この人は私の傷の理由を聞き出してから教室に戻る。そんな気がした。
私の首筋には切り傷があった。
それも、かなり深い──跡になることは避けようがないであろう、傷。
勘違いしないで欲しいのが、この傷は自分でつけたわけではないということだ。リストカットとか、自殺未遂とか、そういうものでは──ない。少なくとも、自分でつけたわけではない。
あぁ、でも、いっそのことそう思われた方がよかったのだろうか。だってそう思われたら、怒られるのは私だけで済むし、危険視されるのは私だけで済む。
関わらないでもらえる。
「あ、ちが、これは」
思考はびっくりするほど冷静なのに、いざ口を開いてみれば言葉は喉の奥で詰まってうまく出てこなかった。それが余計に相手の好奇心──いいや、そんな言い方はやめよう──心配を煽ったのだろう、彼はさっきまでチラチラと教室の方向を見ていたが、それすらしなくなった。
「……真田さん、今日、髪…切ってきたよね。もしかして、それと関係ある?」
鋭い。
まさにその通りだった。私は今日、腰より少し上くらいまであった髪をバッサリ切って、ショートまではいかずとも短めのボブくらいの髪型で登校した。それはイメチェンでもなんでもない。やむを得ない、理由があった上での行為だ。
「……え、と、自分で切った時に…手元が狂って」
「自分で切ったならそこまで深くはならないよね」
…鋭い。
観察眼も鋭いし、言葉自体も鋭かった。ぎく、というオノマトペが背景に映し出されそうなくらい私は動揺した。
ただそれは私がかなり鈍感なだけかもしれなかった──なぜなら私はこの彼の発言から、汲み取らなければならないものがあったはずなのだから。
「………親に」
このままダラダラと意味のない攻防を続けるくらいなら、と私は口を開いた。
そう、昨日は母親の機嫌が悪くて。いつも以上に──悪くて。
殴って、蹴って、罵倒して、物を壊して、私に投げつけて壊して、そしてまた殴って。
私の髪を目障りだと言って。
ハサミを、手にとって。
じゃきん──と。
興奮状態にあった彼女の手元に正確性などあるはずもなく、ハサミは私の首元に食い込んだ。
だからといって止まるはずもなく、そのまま。
あの時は流石に死ぬかと思った。だって、血がダバダバ出てくるのだから。
そのあとは、髪を引っ張られながら切られたから肌が傷つくことはなかったが──そんな母のアクロバティック散髪の結果は見るに堪えない物だった。まぁ、髪なんかはまた生えてくるからどうってことはない。どうってことはないということにしている。
だけれどこの首の傷を髪の毛で隠せないというのは不便だった。別に見られたところで、私なんかを心配して声をかけてくる人がいるとは思わないが──私にも人なみの羞恥心はある。
それに───いや。やめよう。こんなこと、考えたくない。確かに私が心の底から思っていることで、その思いを揺らがせる気もないが、それでも。
「……親?…それって」
薫は想像通りの反応をした。
薫の無言の訴えに対して、私は目を逸らして、無言の肯定をする。これで彼は気まずい空気に耐えられなくなって立ち去るだろうと思った。そして二度と私に関わろうとしないだろうと思った。最悪の場合クラスメイト全員に言いふらしでもされるかもしれないと思ったが、それはそうなってから考えよう──なんて後ろ向きな考えのまま私は薫の次の言葉を待った。
「…そっか。うん……そっか」
ごめんね、と一言呟いて薫はバツが悪そうにそっぽを向いた。その表情がどんな物だったのかはわからない。見ようとしなかったから。見たくなかったから。
その時はそれで終わった。
そのまま当たり障りのない別れの挨拶を済ませ、彼は教室へと戻っていった。私はといえば、なんだかどうにもこのまま教室に戻る気にはなれなくて、忘れていた筆箱だけ手に取るとそのままトイレに引き篭もった。ぼっちの代名詞みたいなことをしている自分にもはや呆れを通り越して笑いが込み上げてきた。
「……あーあ」
ぼそっとそう呟いた。それは何に対しての諦めなのか、自分でもわからなかった。
「真田さん、一緒に帰ろう」
それはその日のうちのことである。
薫はホームルームが終わるなりそう話しかけてきた。
率直な感想を言おう。うざい。
哀れみだかなんだか知らないが、薫は怯えた猫を手懐けたいみたいな目でこちらを見ている。そんなRPGみたいなシチュエーションもナレーションも、誰も望んでない。
しかしそれを断れる胆力は私にはなかった。ハッキリいやだと言うことができなかったのだ。そんなふうに口ごもっていたら、いつの間にか一緒に帰ることになっていた。
なんなんだこの人。
何がしたいのか全く理解の範疇に及ばず、私は動揺を通り越して落ち着いていた。薫はもしかして引っ越していった幼馴染だったとか、なにかそういうやつなのだろうか──いいや。私に引っ越していった幼馴染はいないし、そもそも幼馴染すらいない。
「真田さん、今日時間ある?」
貴方に割こうと思える時間はないよ。
なんて罵倒の言葉を飲み込みつつ、というか吐き出すことができず、私はこれまた曖昧な返事をした。そして、結局連れ回されることとなった。
まず最初に連れて行かれたのはドラッグストアだった。どうやら私の傷を手当てしてくれるつもりらしい。それから、染髪料も買おうかと言われた。私が白髪なのを気にしているのではと思ってくれたんだと思う。でもそれは流石に申し訳ないし、いや傷の手当も申し訳ないんだけれど──それに、今更髪を黒くしたところで遅い気がした。先生には地毛だと話を通しているし。だから私はそれだけは曖昧にせずにちゃんと断った。
彼は不思議そうな顔をして染髪料を棚に戻した。
少し胸がずきりと痛んだ。殴られた時の青あざが痛んでるんだと思うことにした。
それから薫の家に着いた。
家の中に招き入れられ、入ってみると人の気配はなかった。ここで私は彼が母子家庭だということを知った。息子を女手一つで育てるためにフルタイムで働いているそうだ。薫自身もバイト代を家計の足しにしているらしい。だというのに私みたいなそんなに仲良くもない相手のために薬を買ったのかと思うと、やはり罪悪感が込み上げてきた。お金は払うと言ったが、頑なに断られてしまった。あとでこっそり財布に忍ばせてやると思った。
私の傷を慣れた手つきで手当する彼に「どうしてここまでしてくれるのか」と聞く勇気は私には無かった。ただ終始黙って治療を受け、帰ろうとすると呼び止められてお茶を淹れてもらってしまった。これも断ったのだが、やはり頑なに「まぁまぁ!まぁまぁ!」と手を引かれて根負けした。
薫は私がその馬鹿みたいに熱い紅茶で舌をいじめている間、何かをずっと喋っていた。何を喋っていたのかは覚えていない。それほどまでにどうでもいい、もしくは、覚えていたくもなかった話なのだろう。
ようやく紅茶を飲み終わって、今度こそお暇しようとしたら今度は素直に受け入れてくれた。玄関先まで見送られ、私が「色々ありがとう」と言うと彼は「これくらいなんでもないよ」と言って笑った。
まだ私は彼が何をしたいのかわからなかった。もちろん、私のことが好きなのかとか浮ついた考えが浮かばなかったわけではないが、私はそんな考えのまま突っ走れるほど自分に自信のある人間では無かったし他人からの愛情を信じられる人間でも無かった。
愛情なんて哀情の間違いだ──なんて捻くれたことを言ってしまうような、そんな人間だった。
哀情。
悲しく思う心。
哀れんで情けをかけると書く。
こんな面倒くさい性格を親からの愛情不足だとか言って責任を押し付けるつもりは毛頭ないが、でも実際のところそうなんだと思う──そんな愛情に飢えた女子高生は、一週間ほど根気強く続けて優しくされたら、たとえその優しさを純粋に信じられなくても──靡いてしまうのは仕方のないことだと思った。
薫はそれからほぼ毎日、甲斐甲斐しく私の世話を焼いた。生傷が絶えなかった私のせいもあるだろう。毎日毎日いろんなところに連れていっては、いろんなものを見せてくれた。私が知らなかった、知ろうとしなかった、たくさんのものを。挙げ句の果てには休日まで私にかまった。うざったらしいこともあったけれど、段々と着実に楽しみになってきている自分がいた。
おそらくこれは薫の元々の性格なのだろう。傷ついている人を放って置けない。いいことじゃないか。ご立派じゃあないか。
だけれど、それは、言い換えれば──
▽ ▲ ▽ ▲ ▽
それは唐突に来た。
肌が泡立つ。無意識に下唇を噛み締めた。銃を握る手に力が込もる。ワンテンポ遅れて、私は夜狐の方を振り返った。
「んー?どうし…」
私の表情から何もかも察したのだろう。夜狐は迷わず私の腕を引いて──折れているはずの左腕で──自分が盾となれるような位置に立った。
彼は、一番強い恨みは私が倒すという約束を忘れたわけではないだろう。
しかし夜狐は思いっきり右手の刀を構えている。左腕は折れているなりに私を一歩後ろに下げるように庇っている。戦闘に入らせるような意思はまるっきり感じられなかった。
──でもそれに、私は文句を言えない。
「ッ、う、……っあ」
多分私は夜狐を振り返った時、かなりひどい顔をしていただろう。自分で言うのもなんだが、今にも泣き出しそうな、そんな顔。だって実際、泣きそうだったから。
気配。
悪寒。
それは、先ほどまでの比ではなかった──
「香澄ちゃん」
平凡な住宅街の路地。じわじわと赤くなってきた空に黒くて小さなインクがぽとぽと落ちている。インクは電柱から飛び立っていった。遠くから家に帰ろうとしている子供達のはしゃぐ声が聞こえた。どこかで地面をタイヤが擦る音が響いた。
それはただの、夕焼けが始まる少し前の光景。
──ただ一つを除いては。
「とどめだけ譲ろうかな、なんて思ってたんだけどさ~…」
気づけば痛いぐらい手を握りしめていた。爪が皮膚に食い込んでいる。
夜狐がいるから大抵のことは大丈夫だとは思っているのだが、信じているのだが、それでも恐怖心は拭えない。
息が荒い。もう必要ないはずの呼吸で苦しめられている。
怖い。
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。
「ちょっと無理そうかも」
最後にして最大の──なんて安っぽい言葉が似合うだろう。
それは随分醜い姿をしていた。
言葉で言い表せないくらい、ふとした瞬間に消えて無くなってしまいそうなのに、確かにそこに在る。そこにいて、確かな攻撃力を持っているだろうと──思う。
どろどろでぐちゃぐちゃで汚くて醜くて、よくわからない。
それはまさに、私の心情をそのまま具現化したような──
そう、あの時、言えなかったこと。あの時──薫に、言えなかったこと。
『怖いよ』
まるでその言葉を、引き出そうとしているかのような。
「ははは」
恨みは笑った。
薫の笑顔が脳裏をチラついた。
私は絶叫を飲み込んだ。
薄っぺらに見えて、その実色んなものをぐちゃぐちゃに煮詰めた煮凝りのようなものが詰まったような──しかしそれでいて尚、薄っぺらであるような。
掴みどころがない。掴もうとすら思わない。
掴みたいと思えない。
だけれどそれはあくまで私の主観だったのかもしれない──というか、ただの言い訳なのかもしれない。
あの人は私を理解しようとしなかった。
私もあの人を理解しようとは思わなかった。
私たちは表面上はお互いに理解を求めてはいなかったが、理解した方が関係が良好になることは明確だった。だけれどそれを理解していた上でわかり合おうとしなかったのは、きっと内面を除くことに抵抗──というか、恐怖を覚えたからなのだと、思う。私たちの内面はお互いに、私たちではなかったのだから。
だからその恐怖心を、人の内面を覗くことに嫌悪感を覚えてしまったことの言い訳は──掴みどころがない人だった、と、それさえあれば十分だった。
あの人──葉月薫。
母子家庭。身長は平均ぐらい。部活動には所属していない。週五のペースで様々なバイトをこなしている。成績は中の上。人当たりがよく、敵を作らない。だからと言って仲間と呼べる仲間もいない。音楽を好む。人の世話を焼くことを好む。目が笑っていない。
私たちはきっと、真逆ですらなかっただろう。数学だったか算数だったか、何年生の時に習ったのかももう覚えていないが──ねじれ。立体図形において、「辺ABと辺EFはねじれの関係にある」なんてものを習った記憶があるが、まさにそれだ。私たちはねじれの関係にあった。
ねじれて拗れてこじつけて。
最終的に、ねじれすぎてぷつんときれた。
これはそんな、相入れなかった糸と糸のお話。
▽ ▲ ▽ ▲ ▽
「真田さん。英語の課題、持ってきてる?」
その言葉を聞いて私の背筋をいやな空気が伝っていったのは、別に彼の声が冷たかったからとか、何かいやな雰囲気を醸し出していたからとかそういうのではなくて、単純に課題を忘れてきていたからだった。
しまった、と思ってなんの意味もなくカバンの中をまさぐった。そこには完成した課題のプリントなど入っておらず、ただ今日の授業で使う予定の教科書やらなんやらがまるで焦る私を嘲笑うようにバラバラに詰まっている。
少し考えるそぶりをして、私は観念したように一つ息を吐いた。
「ごめんなさい。今度、自分で出します」
「あぁ、そっか。英語の先生優しいから大丈夫だよ。じゃあ」
それだけ言って彼は集めたプリントを持って、教室を出ていった。
これがあの人──薫との、お互い対して記憶にも残らなかったであろう、ファーストコンタクトである。
それから数日後、多分一週間が経つか経たないかというくらいだったと思う──思っていたより早くセカンドコンタクトの機会は訪れた。
その日、私は少し焦っていた。移動教室の際に忘れた筆箱をとりに、階段を慌てて駆けていた。私の通う暁高校はひどく複雑な造りをしていたので、急がなければ次の授業までに教室に間に合わない。
そんな気の焦りからか、それとも昨日久々にかなり機嫌の悪かった母親に殴る蹴るされた傷が響いたのか──私はあろうことか、階段で足を踏み外した。
「あ……」
浮遊感を覚える体。急接近する階段の踊り場。まずいと思った時にはいつだって手遅れだ。
私はこれから来るであろう衝撃に備えるため目を瞑り、身を硬くした。
「危ない!」
──襟元に圧迫感。
と、後ろ向きにかかる力。階段の踊り場は遠ざかっていった。
心臓がばくんばくんと痛いくらいになっている。そんなんだから全身に血は行き渡っているはずなのに、背筋は冷え切っていた。
「あ、ありがとうございます…」
振り返ってお礼を言った。といっても人の首には活動限界があるので、その人の顔を見ることはできなかった。ゆっくり襟元が開放され、それから今度は足元に気をつけて体ごと振り返り、もう一度しっかりお礼を言って頭を下げようと──した。
なぜこんな言い方をするのかといえば、お察しの通り私はお礼を言うことができなかったのだ──それどころか、場合によっては私を助けてくれたこの人を全力で拒絶しなければならなかったかもしれない。
その人は──薫は、なんともまぁ微妙な顔をしていた。軽く目を泳がせて、どうしたらいいかわからないというような顔をしていた。その表情と、襟元を強く引っ張られたという事実と、それからその衝撃で半分剥がれた首元のガーゼ──それら全ての条件を確認して、私は彼の微妙な顔の理由に気がついた。
それに言い訳をするより早く、容赦なく、薫は言った。
「…その傷……何?」
授業開始を仄めかすチャイムが鳴った。
よく考えたらこの大して長くもないやり取りの途中にチャイムがなってしまったのなら、多分私が転んでいなくても授業開始には間に合わなかったことだろう。
なんて呑気なことを考えていたが、この状況はかなりまずい。もうとっくに授業は始まっているのだから「そんなことより授業に遅れますよ」なんて言い訳は通用しないだろう。どっちにしろ遅刻になるのなら、この人は私の傷の理由を聞き出してから教室に戻る。そんな気がした。
私の首筋には切り傷があった。
それも、かなり深い──跡になることは避けようがないであろう、傷。
勘違いしないで欲しいのが、この傷は自分でつけたわけではないということだ。リストカットとか、自殺未遂とか、そういうものでは──ない。少なくとも、自分でつけたわけではない。
あぁ、でも、いっそのことそう思われた方がよかったのだろうか。だってそう思われたら、怒られるのは私だけで済むし、危険視されるのは私だけで済む。
関わらないでもらえる。
「あ、ちが、これは」
思考はびっくりするほど冷静なのに、いざ口を開いてみれば言葉は喉の奥で詰まってうまく出てこなかった。それが余計に相手の好奇心──いいや、そんな言い方はやめよう──心配を煽ったのだろう、彼はさっきまでチラチラと教室の方向を見ていたが、それすらしなくなった。
「……真田さん、今日、髪…切ってきたよね。もしかして、それと関係ある?」
鋭い。
まさにその通りだった。私は今日、腰より少し上くらいまであった髪をバッサリ切って、ショートまではいかずとも短めのボブくらいの髪型で登校した。それはイメチェンでもなんでもない。やむを得ない、理由があった上での行為だ。
「……え、と、自分で切った時に…手元が狂って」
「自分で切ったならそこまで深くはならないよね」
…鋭い。
観察眼も鋭いし、言葉自体も鋭かった。ぎく、というオノマトペが背景に映し出されそうなくらい私は動揺した。
ただそれは私がかなり鈍感なだけかもしれなかった──なぜなら私はこの彼の発言から、汲み取らなければならないものがあったはずなのだから。
「………親に」
このままダラダラと意味のない攻防を続けるくらいなら、と私は口を開いた。
そう、昨日は母親の機嫌が悪くて。いつも以上に──悪くて。
殴って、蹴って、罵倒して、物を壊して、私に投げつけて壊して、そしてまた殴って。
私の髪を目障りだと言って。
ハサミを、手にとって。
じゃきん──と。
興奮状態にあった彼女の手元に正確性などあるはずもなく、ハサミは私の首元に食い込んだ。
だからといって止まるはずもなく、そのまま。
あの時は流石に死ぬかと思った。だって、血がダバダバ出てくるのだから。
そのあとは、髪を引っ張られながら切られたから肌が傷つくことはなかったが──そんな母のアクロバティック散髪の結果は見るに堪えない物だった。まぁ、髪なんかはまた生えてくるからどうってことはない。どうってことはないということにしている。
だけれどこの首の傷を髪の毛で隠せないというのは不便だった。別に見られたところで、私なんかを心配して声をかけてくる人がいるとは思わないが──私にも人なみの羞恥心はある。
それに───いや。やめよう。こんなこと、考えたくない。確かに私が心の底から思っていることで、その思いを揺らがせる気もないが、それでも。
「……親?…それって」
薫は想像通りの反応をした。
薫の無言の訴えに対して、私は目を逸らして、無言の肯定をする。これで彼は気まずい空気に耐えられなくなって立ち去るだろうと思った。そして二度と私に関わろうとしないだろうと思った。最悪の場合クラスメイト全員に言いふらしでもされるかもしれないと思ったが、それはそうなってから考えよう──なんて後ろ向きな考えのまま私は薫の次の言葉を待った。
「…そっか。うん……そっか」
ごめんね、と一言呟いて薫はバツが悪そうにそっぽを向いた。その表情がどんな物だったのかはわからない。見ようとしなかったから。見たくなかったから。
その時はそれで終わった。
そのまま当たり障りのない別れの挨拶を済ませ、彼は教室へと戻っていった。私はといえば、なんだかどうにもこのまま教室に戻る気にはなれなくて、忘れていた筆箱だけ手に取るとそのままトイレに引き篭もった。ぼっちの代名詞みたいなことをしている自分にもはや呆れを通り越して笑いが込み上げてきた。
「……あーあ」
ぼそっとそう呟いた。それは何に対しての諦めなのか、自分でもわからなかった。
「真田さん、一緒に帰ろう」
それはその日のうちのことである。
薫はホームルームが終わるなりそう話しかけてきた。
率直な感想を言おう。うざい。
哀れみだかなんだか知らないが、薫は怯えた猫を手懐けたいみたいな目でこちらを見ている。そんなRPGみたいなシチュエーションもナレーションも、誰も望んでない。
しかしそれを断れる胆力は私にはなかった。ハッキリいやだと言うことができなかったのだ。そんなふうに口ごもっていたら、いつの間にか一緒に帰ることになっていた。
なんなんだこの人。
何がしたいのか全く理解の範疇に及ばず、私は動揺を通り越して落ち着いていた。薫はもしかして引っ越していった幼馴染だったとか、なにかそういうやつなのだろうか──いいや。私に引っ越していった幼馴染はいないし、そもそも幼馴染すらいない。
「真田さん、今日時間ある?」
貴方に割こうと思える時間はないよ。
なんて罵倒の言葉を飲み込みつつ、というか吐き出すことができず、私はこれまた曖昧な返事をした。そして、結局連れ回されることとなった。
まず最初に連れて行かれたのはドラッグストアだった。どうやら私の傷を手当てしてくれるつもりらしい。それから、染髪料も買おうかと言われた。私が白髪なのを気にしているのではと思ってくれたんだと思う。でもそれは流石に申し訳ないし、いや傷の手当も申し訳ないんだけれど──それに、今更髪を黒くしたところで遅い気がした。先生には地毛だと話を通しているし。だから私はそれだけは曖昧にせずにちゃんと断った。
彼は不思議そうな顔をして染髪料を棚に戻した。
少し胸がずきりと痛んだ。殴られた時の青あざが痛んでるんだと思うことにした。
それから薫の家に着いた。
家の中に招き入れられ、入ってみると人の気配はなかった。ここで私は彼が母子家庭だということを知った。息子を女手一つで育てるためにフルタイムで働いているそうだ。薫自身もバイト代を家計の足しにしているらしい。だというのに私みたいなそんなに仲良くもない相手のために薬を買ったのかと思うと、やはり罪悪感が込み上げてきた。お金は払うと言ったが、頑なに断られてしまった。あとでこっそり財布に忍ばせてやると思った。
私の傷を慣れた手つきで手当する彼に「どうしてここまでしてくれるのか」と聞く勇気は私には無かった。ただ終始黙って治療を受け、帰ろうとすると呼び止められてお茶を淹れてもらってしまった。これも断ったのだが、やはり頑なに「まぁまぁ!まぁまぁ!」と手を引かれて根負けした。
薫は私がその馬鹿みたいに熱い紅茶で舌をいじめている間、何かをずっと喋っていた。何を喋っていたのかは覚えていない。それほどまでにどうでもいい、もしくは、覚えていたくもなかった話なのだろう。
ようやく紅茶を飲み終わって、今度こそお暇しようとしたら今度は素直に受け入れてくれた。玄関先まで見送られ、私が「色々ありがとう」と言うと彼は「これくらいなんでもないよ」と言って笑った。
まだ私は彼が何をしたいのかわからなかった。もちろん、私のことが好きなのかとか浮ついた考えが浮かばなかったわけではないが、私はそんな考えのまま突っ走れるほど自分に自信のある人間では無かったし他人からの愛情を信じられる人間でも無かった。
愛情なんて哀情の間違いだ──なんて捻くれたことを言ってしまうような、そんな人間だった。
哀情。
悲しく思う心。
哀れんで情けをかけると書く。
こんな面倒くさい性格を親からの愛情不足だとか言って責任を押し付けるつもりは毛頭ないが、でも実際のところそうなんだと思う──そんな愛情に飢えた女子高生は、一週間ほど根気強く続けて優しくされたら、たとえその優しさを純粋に信じられなくても──靡いてしまうのは仕方のないことだと思った。
薫はそれからほぼ毎日、甲斐甲斐しく私の世話を焼いた。生傷が絶えなかった私のせいもあるだろう。毎日毎日いろんなところに連れていっては、いろんなものを見せてくれた。私が知らなかった、知ろうとしなかった、たくさんのものを。挙げ句の果てには休日まで私にかまった。うざったらしいこともあったけれど、段々と着実に楽しみになってきている自分がいた。
おそらくこれは薫の元々の性格なのだろう。傷ついている人を放って置けない。いいことじゃないか。ご立派じゃあないか。
だけれど、それは、言い換えれば──
▽ ▲ ▽ ▲ ▽
それは唐突に来た。
肌が泡立つ。無意識に下唇を噛み締めた。銃を握る手に力が込もる。ワンテンポ遅れて、私は夜狐の方を振り返った。
「んー?どうし…」
私の表情から何もかも察したのだろう。夜狐は迷わず私の腕を引いて──折れているはずの左腕で──自分が盾となれるような位置に立った。
彼は、一番強い恨みは私が倒すという約束を忘れたわけではないだろう。
しかし夜狐は思いっきり右手の刀を構えている。左腕は折れているなりに私を一歩後ろに下げるように庇っている。戦闘に入らせるような意思はまるっきり感じられなかった。
──でもそれに、私は文句を言えない。
「ッ、う、……っあ」
多分私は夜狐を振り返った時、かなりひどい顔をしていただろう。自分で言うのもなんだが、今にも泣き出しそうな、そんな顔。だって実際、泣きそうだったから。
気配。
悪寒。
それは、先ほどまでの比ではなかった──
「香澄ちゃん」
平凡な住宅街の路地。じわじわと赤くなってきた空に黒くて小さなインクがぽとぽと落ちている。インクは電柱から飛び立っていった。遠くから家に帰ろうとしている子供達のはしゃぐ声が聞こえた。どこかで地面をタイヤが擦る音が響いた。
それはただの、夕焼けが始まる少し前の光景。
──ただ一つを除いては。
「とどめだけ譲ろうかな、なんて思ってたんだけどさ~…」
気づけば痛いぐらい手を握りしめていた。爪が皮膚に食い込んでいる。
夜狐がいるから大抵のことは大丈夫だとは思っているのだが、信じているのだが、それでも恐怖心は拭えない。
息が荒い。もう必要ないはずの呼吸で苦しめられている。
怖い。
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。
「ちょっと無理そうかも」
最後にして最大の──なんて安っぽい言葉が似合うだろう。
それは随分醜い姿をしていた。
言葉で言い表せないくらい、ふとした瞬間に消えて無くなってしまいそうなのに、確かにそこに在る。そこにいて、確かな攻撃力を持っているだろうと──思う。
どろどろでぐちゃぐちゃで汚くて醜くて、よくわからない。
それはまさに、私の心情をそのまま具現化したような──
そう、あの時、言えなかったこと。あの時──薫に、言えなかったこと。
『怖いよ』
まるでその言葉を、引き出そうとしているかのような。
「ははは」
恨みは笑った。
薫の笑顔が脳裏をチラついた。
私は絶叫を飲み込んだ。
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クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
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