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第一章・首吊り少女の怨念
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恐怖からか自己防衛の意識からか、無意識のうちに目を固く瞑っていた。
しかし、私には予想していた痛みも身構えていた衝撃も訪れることはなく、違和感を――いいや、正直言って予想はついていたが――違和感を覚え、目を開ける。
うっすらと世界が開かれていく。
開ききった世界には、物理的に血生臭い光景が広がっていた。
返り血にぐっしょり濡れた鬼――いや悪魔――いやそうではなくて、夜狐。
そして彼の足元に、つい先程襲ってきた恨みたちの死体。
確か私が目を瞑っていた時間は、体感時間が長かったと言えど十秒経ったかどうかも怪しい時間だったと思うのだが。
………。
「香澄ちゃん怪我してない?」
…………。
夜狐はやはり随分と余裕そうだった。
怪我、と言われて私は自分の体に特に痛みがないことを確認する。痛みどころか返り血一つ付いていない。また守られてしまった。
「私よりも、夜狐は」
「僕は大丈夫。立てそう?」
「…だいじょうぶ」
少し腰が抜けていたのは事実だが、これ以上迷惑をかけるわけにはいかない。そもそもまだ迷惑をかける予定なんだから、これくらいは自分でしないと。
「…それにしても」
夜狐は蒸発しだした返り血と恨みの死体を見て呟いた。
その視線につられて私もその亡骸に視線を向ける。ほぼ蒸発しきっていて、廊下はあと数秒あれば普段通りの光景に戻りそうだった。
戻ってしまいそうだった。
「…核が残らない」
「さすが香澄ちゃん、いいとこ突くじゃん」
いちもの調子でへらっと笑って夜狐は言う。
「こういう状況って、あんまりないんだけどさ」
この後の夜狐の、わかるようでわからない長ったらしい説明を要約すると――つまりこういうことらしい。
恨みは、他の恨みに言いくるめられたり操られたりするほど、馬鹿でも弱いわけでもない。
お互いに完全ノータッチで、個々に活動する。
なぜなら彼らの頭には、その恨みの持ち主が抱いた気持ちだけが含まれているわけで――他の奴らに構う余裕などないから。
ならばあの花型の噂話の恨みが呼んだあいつらは?
噂に踊らされて私を傷つけた奴ら。
いわば噂話の恨みの一部であり、仲間。別個体でありながら発生源は同じ。姿形が違うだけで――同じ物体。
私はきっと、噂話を鵜呑みにした連中にも勿論恨みを抱いていただろう。それも予想した上で学校に来たが、まさか一体化しているとは思わなかった。一つになっているなら手間が省けるじゃないか、などとポジティブには考えられなかった。結局それらが一体になったことでより厄介になっているのだから。
噂を流す花型の恨みと、それに踊らされて襲ってくる恨み。
「その二体を操っている親玉が、必ずこの学校のどこかに潜んでいる」
そいつを倒すことが、今回の攻略法らしい。
一体一体全て根絶やしにしなければいけないのかと思っていた私はそれを聞いて少し安心した。が、すぐにそれは大して嬉しい話ではなく、核爆弾落下地点のど真ん中から戦地のど真ん中に移動したぐらいの進歩であると気付く。
「ま、心配いらないって。あいつら、個人的な強さは大して持ち合わせてないし。数だけが取り柄みたいなもんだよ」
つい先程あの大量の恨みを一瞬で斬りふせた彼の発言は妙に説得力があった。
ただ厄介なのは、周りを蠢く他の恨みと噂に踊らされた奴らの区別がつかないことだ。それとも夜狐にはそう言ったものもわかるのだろうか?
「そうと決まれば早速本体を探しにいこうか。僕から離れちゃ駄目だよ」
「…わかった」
本体の場所を一番わかるのは、おそらく私だろう。こういうところでしか活躍できないのだから、しっかりしなくては…と、気を引き締めた。
――完全に虚を突かれた。
「「「ねェねェ知ってる?」」」
甲高い声が、今度は――重複して聞こえた。
壁から、天井から、床から…私たちと同じ幽体なのだから当たり前なのだけれど、そういうところからはみだした格好でそいつらは騒ぎだす。
「二組の香澄サン、五人彼氏いるんだヨ~!」
「二組の香澄サンの両親ってろくに仕事もしてないギャンブル中毒者なんだっテ~!」
「二組の香澄サン、この前うちらの悪口言ってたらしいヨ~!」
「二組の香澄サン、発達障害って噂あるんだっテ~!」
「二組の香澄サン、あの子のこと虐めてたんだっテ~!」
「二組の香澄サンが二組の香澄サンが二組の香澄サンが二組の香澄サンが」
驚いた。実際に流されたことのある噂ばかりだ。
『なんで香澄さんっていつも私らと関わろうとしないの?』
『なんで放課後遊び誘っても全部断るの?』
『なんでそっちから歩み寄ってこようとしないの?』
『なんでなんでなんでなんでなんでなんで』
元はと言えば私にも十二分に非があることは、わかっている。
彼彼女らの『なんで』に私が答えなかったから、皆自分でその答えを考えたんだろう。その行為自体を責めるつもりはないし、良いことなんじゃないかとすら思う。私は自分のおかれている環境を、状況を、口にはしたくなかった。そうやって同情を誘っているように見られるのがたまらなく嫌だったから。
結果として意味不明な噂が流れた。
だからこれは理不尽な話ではない。
理不尽ではない。不条理でもない。望んだ結果そのものである。
人はそれを自業自得と呼んだ。
視界が眩んだ。喉がきゅう、と変な音を立てた。過去の記憶がフラッシュバックした脳にぼんやり霧がかかる。それはなかなかどうして私には好都合だった。ただ意識がどこか遠くへ行っているような気もした。幽霊もこんなことがあるんだなぁと感心した。
と、同時に体に浮遊感を感じる。これは何度も経験したことがあった。必死で貯めたバイト代から買った睡眠薬を規定の量以上摂取した後の感覚――
――とは微妙に違う気がした。
「揺れるよ」
その言葉の通り直後訪れた衝撃に、否応なしに目を覚まされた。
状況はよくわかっている。わかっているが一応確認だけしておいた。
確認結果。夜狐に抱えられている。片手で。俵担ぎで。
予想通りでしかなかった。
ついさっきと同じように夜狐は私を抱えて走っている。担がれている状態であるが故に、私は夜狐の背中側を見ることができた。
そこにはまた、噂に踊らされたであろう恨みが複数いてこちらに走ってきている――はずなのだが、夜狐の足が早すぎてそれはもはや「こちらに来ている」というより「遠ざかっている」ようにしか思えない。
おそらく私はあの場で、記憶にひどく蝕まれてあの恨みたちに気付くことができなかったのだろう。
そしてよく目を凝らせば、まだ蒸発しきっていない花びらが数枚廊下に散らばっていた。なら途中からのあの甲高い笑い声は私の幻聴か。
ただ、そうわかっても私の背筋はまだ氷水をぶっかけられたように冷えていた。あの恨みはいつでも、どこにでも潜んでいるのだ。次まばたきをした瞬間、私の目の前でケタケタ笑いだしても決しておかしくはない。
そんなことを考えている間に、夜狐は空いている教室に入った。一度私を降ろし、見える場所に恨みがいないことを確認して口を開いた。
「香澄ちゃん、だいじょ――」
「平気」
「…絶対そう言うだろうなとは思った」
聞く意味がないじゃないか、と夜狐は苦笑する。
「過呼吸になっといて何が平気だよ、怖かったんならそう言えば良いのに」
「死んだ後って呼吸という行動は必要ないはずなのに過呼吸起こせるのね」
「ちょっと論点ずらさないで!」
流されなかった。ちっ。
「…早く決着をつけるためには、気配を感じ取れる香澄ちゃんが必要不可欠だ。…でも、もし香澄ちゃんが限界なら、苦しいなら、無理に一緒に来る必要はない。僕だってお粗末なもんだけど結界ぐらい張れる。そこで待っててもいい。…どうする?」
選択を任されるのは嫌いだ。大嫌いだ。
…ここで私が行かなければ、本当に私はただの邪魔者だ。
でも例え行ったとしても、ほぼ守られるだけで、戦闘においてやはり私は一番の邪魔者になってしまう。
ふと、自分の手が小刻みに震えていることに気がついた。あぁ、私はこれほどまでに弱かったのか。役立たずだったのか。
「……行く」
その返答が予想外だったのか、夜狐は目を一瞬見開く。
この選択には理由があった。それは弱い自分を変えるためだとか、あの時の恐怖心に終止符を打つだとか、そんなご立派なものでは決してない。
それは勿論夜狐に頼りっぱなしになりたくない一心だと言えばその通りだった。ただしそこには、もっと利己的な理由が含まれている。利己的というか、真実、というか。少なくともそれを私が夜狐に言わなければならないのは決定事項だった。
「夜狐、あの…」
それを口にしかけたとたん。
――天井が軋んだ。
いや、実際には軋んでなどいない。私達は幽体なのだから。だが、それを前提としてもまるで軋んだように思えた。
空気だ。
空気そのものが軋んだんだ。
まずい、と思った瞬間には夜狐は既に行動に移っている。肩に強い衝撃を感じた。突き飛ばされたのだということは想像に難くなかった。
状況を確認するため前を向く。夜狐と私の間に、誰かがいた。
それを確認すると同時に感じていた寒気がより一層強くなって私の体を強ばらせた。関節が所々、錆びた蝶番のように軋んだ。
それが何を意味するのかはもうわかっている。
『先生は真田の味方だぞ!』
突如近づいてきた目の前の何か――いや、恨みだろう。恨み以外に有り得ない。それは私の腕を掴もうとしてきた。意図は分からない。
一方私の方はと言えば、完全に手足が痺れたように動かなくなり事の行く末を見守るほかなかった。気配、というより圧に近い感覚に胃がキリキリしだす。
動け、避けろ、逃げろ。一人でできなくては、自分の力で何とかできなければ、私は――
見捨てられても、おかしくはないのだから。
間一髪で恨みの手を避ける。その手と腕はあまりに大きく、太かった。恐らく一度掴まれたら自力で振りほどくことはできないだろう。
一見して、危害を加える気はなさそうだった。どちらかと言えば彼らにとっての脅威は夜狐であって、私は産みの親、安心すべき帰る場所。だがその素直な好意は私にとっては攻撃に等しい。
追撃――ではなくて、純粋に私に触れようとする手が再び襲って――伸びてきた。
先程避けたことで体勢が崩れ、次を避けるのは難しい。夜狐が今おそらくいるであろう位置で刀を振るえば、重心的にこの恨みは私の方に倒れてくるだろう。そうなったら正直、ぺしゃんこに潰されてもおかしくない。
いや、そもそも夜狐は無事なのか?
突き飛ばされたあと、私は夜狐の姿をはっきりと見ていない。この恨みは大層大きな図体をしており、平均的な人間三人分ぐらいの面積を一人で占めていた。
あれだけ強い男だ、こんな心配はただの杞憂かもしれない。けれど胸のざわざわした感じは一向に収まることを知らなかった。
だがそんな私を目の前の恨みは待ってくれない。
目を瞑っても意味は無いし、避けることもできそうにない。ただ相手を見つめ返すことしかできずぼんやりしていた。
「藍玉!」
――夜狐のそんな叫び声と同時に、私の体が横に飛んだ。
飛んだ、と言うよりは――なにか小さめの塊に突進され、その勢いで体が運動を開始した。
「そっちは任せるぞ!藍!」
「言われなくてもわァッてんだよ!」
ぶつかってきた小さな塊は大人っぽい女性の声をして叫んだ。衝突の勢いが弱まりつつあるころには私の頭も随分整理され、今自分がどうすればいいのかはわかる。
私は体をなんとか起こして、その場から少し離れる。夜狐が恨みの注意を引いてくれているのだろう、もう追ってくる気配はない。
「アンタはこの場にいちゃ駄目だ!逃げるよ!」
小さな塊はそう言って私の足下をぐいぐい押してくる。急かしているつもりなのだろう。
「…夜狐!噂の方は……本体の場所がわかった!」
私のその言葉に夜狐が少し息を呑んだ気がした。
「…わかった、こいつ倒したらそっち行くから、しばらくそれと一緒にいて!くれぐれも一人で立ち向かおうなんて思っちゃ駄目だよ!」
扉越しに会話を済ませ、急かす塊に従い走り出した。先程までの夜狐のスピードにくらべれば亀のような遅さだが、それでも平均よりは少し早いくらいだと自負している。
足下にいた塊は私の速度に合わせて隣を走っているようだ。そういえば一度もしっかりとその姿を見ていない。
そう思って視線を下に向けると――
「……………猫?」
「違ァう!猫又だよ、ね・こ・ま・た!あの狐のガキの式神、みたいなもんさ」
そう言ってそれは――声から判別しておそらく彼女――は、フシャーッと威嚇のようなうなり声を上げた。
しかし、私には予想していた痛みも身構えていた衝撃も訪れることはなく、違和感を――いいや、正直言って予想はついていたが――違和感を覚え、目を開ける。
うっすらと世界が開かれていく。
開ききった世界には、物理的に血生臭い光景が広がっていた。
返り血にぐっしょり濡れた鬼――いや悪魔――いやそうではなくて、夜狐。
そして彼の足元に、つい先程襲ってきた恨みたちの死体。
確か私が目を瞑っていた時間は、体感時間が長かったと言えど十秒経ったかどうかも怪しい時間だったと思うのだが。
………。
「香澄ちゃん怪我してない?」
…………。
夜狐はやはり随分と余裕そうだった。
怪我、と言われて私は自分の体に特に痛みがないことを確認する。痛みどころか返り血一つ付いていない。また守られてしまった。
「私よりも、夜狐は」
「僕は大丈夫。立てそう?」
「…だいじょうぶ」
少し腰が抜けていたのは事実だが、これ以上迷惑をかけるわけにはいかない。そもそもまだ迷惑をかける予定なんだから、これくらいは自分でしないと。
「…それにしても」
夜狐は蒸発しだした返り血と恨みの死体を見て呟いた。
その視線につられて私もその亡骸に視線を向ける。ほぼ蒸発しきっていて、廊下はあと数秒あれば普段通りの光景に戻りそうだった。
戻ってしまいそうだった。
「…核が残らない」
「さすが香澄ちゃん、いいとこ突くじゃん」
いちもの調子でへらっと笑って夜狐は言う。
「こういう状況って、あんまりないんだけどさ」
この後の夜狐の、わかるようでわからない長ったらしい説明を要約すると――つまりこういうことらしい。
恨みは、他の恨みに言いくるめられたり操られたりするほど、馬鹿でも弱いわけでもない。
お互いに完全ノータッチで、個々に活動する。
なぜなら彼らの頭には、その恨みの持ち主が抱いた気持ちだけが含まれているわけで――他の奴らに構う余裕などないから。
ならばあの花型の噂話の恨みが呼んだあいつらは?
噂に踊らされて私を傷つけた奴ら。
いわば噂話の恨みの一部であり、仲間。別個体でありながら発生源は同じ。姿形が違うだけで――同じ物体。
私はきっと、噂話を鵜呑みにした連中にも勿論恨みを抱いていただろう。それも予想した上で学校に来たが、まさか一体化しているとは思わなかった。一つになっているなら手間が省けるじゃないか、などとポジティブには考えられなかった。結局それらが一体になったことでより厄介になっているのだから。
噂を流す花型の恨みと、それに踊らされて襲ってくる恨み。
「その二体を操っている親玉が、必ずこの学校のどこかに潜んでいる」
そいつを倒すことが、今回の攻略法らしい。
一体一体全て根絶やしにしなければいけないのかと思っていた私はそれを聞いて少し安心した。が、すぐにそれは大して嬉しい話ではなく、核爆弾落下地点のど真ん中から戦地のど真ん中に移動したぐらいの進歩であると気付く。
「ま、心配いらないって。あいつら、個人的な強さは大して持ち合わせてないし。数だけが取り柄みたいなもんだよ」
つい先程あの大量の恨みを一瞬で斬りふせた彼の発言は妙に説得力があった。
ただ厄介なのは、周りを蠢く他の恨みと噂に踊らされた奴らの区別がつかないことだ。それとも夜狐にはそう言ったものもわかるのだろうか?
「そうと決まれば早速本体を探しにいこうか。僕から離れちゃ駄目だよ」
「…わかった」
本体の場所を一番わかるのは、おそらく私だろう。こういうところでしか活躍できないのだから、しっかりしなくては…と、気を引き締めた。
――完全に虚を突かれた。
「「「ねェねェ知ってる?」」」
甲高い声が、今度は――重複して聞こえた。
壁から、天井から、床から…私たちと同じ幽体なのだから当たり前なのだけれど、そういうところからはみだした格好でそいつらは騒ぎだす。
「二組の香澄サン、五人彼氏いるんだヨ~!」
「二組の香澄サンの両親ってろくに仕事もしてないギャンブル中毒者なんだっテ~!」
「二組の香澄サン、この前うちらの悪口言ってたらしいヨ~!」
「二組の香澄サン、発達障害って噂あるんだっテ~!」
「二組の香澄サン、あの子のこと虐めてたんだっテ~!」
「二組の香澄サンが二組の香澄サンが二組の香澄サンが二組の香澄サンが」
驚いた。実際に流されたことのある噂ばかりだ。
『なんで香澄さんっていつも私らと関わろうとしないの?』
『なんで放課後遊び誘っても全部断るの?』
『なんでそっちから歩み寄ってこようとしないの?』
『なんでなんでなんでなんでなんでなんで』
元はと言えば私にも十二分に非があることは、わかっている。
彼彼女らの『なんで』に私が答えなかったから、皆自分でその答えを考えたんだろう。その行為自体を責めるつもりはないし、良いことなんじゃないかとすら思う。私は自分のおかれている環境を、状況を、口にはしたくなかった。そうやって同情を誘っているように見られるのがたまらなく嫌だったから。
結果として意味不明な噂が流れた。
だからこれは理不尽な話ではない。
理不尽ではない。不条理でもない。望んだ結果そのものである。
人はそれを自業自得と呼んだ。
視界が眩んだ。喉がきゅう、と変な音を立てた。過去の記憶がフラッシュバックした脳にぼんやり霧がかかる。それはなかなかどうして私には好都合だった。ただ意識がどこか遠くへ行っているような気もした。幽霊もこんなことがあるんだなぁと感心した。
と、同時に体に浮遊感を感じる。これは何度も経験したことがあった。必死で貯めたバイト代から買った睡眠薬を規定の量以上摂取した後の感覚――
――とは微妙に違う気がした。
「揺れるよ」
その言葉の通り直後訪れた衝撃に、否応なしに目を覚まされた。
状況はよくわかっている。わかっているが一応確認だけしておいた。
確認結果。夜狐に抱えられている。片手で。俵担ぎで。
予想通りでしかなかった。
ついさっきと同じように夜狐は私を抱えて走っている。担がれている状態であるが故に、私は夜狐の背中側を見ることができた。
そこにはまた、噂に踊らされたであろう恨みが複数いてこちらに走ってきている――はずなのだが、夜狐の足が早すぎてそれはもはや「こちらに来ている」というより「遠ざかっている」ようにしか思えない。
おそらく私はあの場で、記憶にひどく蝕まれてあの恨みたちに気付くことができなかったのだろう。
そしてよく目を凝らせば、まだ蒸発しきっていない花びらが数枚廊下に散らばっていた。なら途中からのあの甲高い笑い声は私の幻聴か。
ただ、そうわかっても私の背筋はまだ氷水をぶっかけられたように冷えていた。あの恨みはいつでも、どこにでも潜んでいるのだ。次まばたきをした瞬間、私の目の前でケタケタ笑いだしても決しておかしくはない。
そんなことを考えている間に、夜狐は空いている教室に入った。一度私を降ろし、見える場所に恨みがいないことを確認して口を開いた。
「香澄ちゃん、だいじょ――」
「平気」
「…絶対そう言うだろうなとは思った」
聞く意味がないじゃないか、と夜狐は苦笑する。
「過呼吸になっといて何が平気だよ、怖かったんならそう言えば良いのに」
「死んだ後って呼吸という行動は必要ないはずなのに過呼吸起こせるのね」
「ちょっと論点ずらさないで!」
流されなかった。ちっ。
「…早く決着をつけるためには、気配を感じ取れる香澄ちゃんが必要不可欠だ。…でも、もし香澄ちゃんが限界なら、苦しいなら、無理に一緒に来る必要はない。僕だってお粗末なもんだけど結界ぐらい張れる。そこで待っててもいい。…どうする?」
選択を任されるのは嫌いだ。大嫌いだ。
…ここで私が行かなければ、本当に私はただの邪魔者だ。
でも例え行ったとしても、ほぼ守られるだけで、戦闘においてやはり私は一番の邪魔者になってしまう。
ふと、自分の手が小刻みに震えていることに気がついた。あぁ、私はこれほどまでに弱かったのか。役立たずだったのか。
「……行く」
その返答が予想外だったのか、夜狐は目を一瞬見開く。
この選択には理由があった。それは弱い自分を変えるためだとか、あの時の恐怖心に終止符を打つだとか、そんなご立派なものでは決してない。
それは勿論夜狐に頼りっぱなしになりたくない一心だと言えばその通りだった。ただしそこには、もっと利己的な理由が含まれている。利己的というか、真実、というか。少なくともそれを私が夜狐に言わなければならないのは決定事項だった。
「夜狐、あの…」
それを口にしかけたとたん。
――天井が軋んだ。
いや、実際には軋んでなどいない。私達は幽体なのだから。だが、それを前提としてもまるで軋んだように思えた。
空気だ。
空気そのものが軋んだんだ。
まずい、と思った瞬間には夜狐は既に行動に移っている。肩に強い衝撃を感じた。突き飛ばされたのだということは想像に難くなかった。
状況を確認するため前を向く。夜狐と私の間に、誰かがいた。
それを確認すると同時に感じていた寒気がより一層強くなって私の体を強ばらせた。関節が所々、錆びた蝶番のように軋んだ。
それが何を意味するのかはもうわかっている。
『先生は真田の味方だぞ!』
突如近づいてきた目の前の何か――いや、恨みだろう。恨み以外に有り得ない。それは私の腕を掴もうとしてきた。意図は分からない。
一方私の方はと言えば、完全に手足が痺れたように動かなくなり事の行く末を見守るほかなかった。気配、というより圧に近い感覚に胃がキリキリしだす。
動け、避けろ、逃げろ。一人でできなくては、自分の力で何とかできなければ、私は――
見捨てられても、おかしくはないのだから。
間一髪で恨みの手を避ける。その手と腕はあまりに大きく、太かった。恐らく一度掴まれたら自力で振りほどくことはできないだろう。
一見して、危害を加える気はなさそうだった。どちらかと言えば彼らにとっての脅威は夜狐であって、私は産みの親、安心すべき帰る場所。だがその素直な好意は私にとっては攻撃に等しい。
追撃――ではなくて、純粋に私に触れようとする手が再び襲って――伸びてきた。
先程避けたことで体勢が崩れ、次を避けるのは難しい。夜狐が今おそらくいるであろう位置で刀を振るえば、重心的にこの恨みは私の方に倒れてくるだろう。そうなったら正直、ぺしゃんこに潰されてもおかしくない。
いや、そもそも夜狐は無事なのか?
突き飛ばされたあと、私は夜狐の姿をはっきりと見ていない。この恨みは大層大きな図体をしており、平均的な人間三人分ぐらいの面積を一人で占めていた。
あれだけ強い男だ、こんな心配はただの杞憂かもしれない。けれど胸のざわざわした感じは一向に収まることを知らなかった。
だがそんな私を目の前の恨みは待ってくれない。
目を瞑っても意味は無いし、避けることもできそうにない。ただ相手を見つめ返すことしかできずぼんやりしていた。
「藍玉!」
――夜狐のそんな叫び声と同時に、私の体が横に飛んだ。
飛んだ、と言うよりは――なにか小さめの塊に突進され、その勢いで体が運動を開始した。
「そっちは任せるぞ!藍!」
「言われなくてもわァッてんだよ!」
ぶつかってきた小さな塊は大人っぽい女性の声をして叫んだ。衝突の勢いが弱まりつつあるころには私の頭も随分整理され、今自分がどうすればいいのかはわかる。
私は体をなんとか起こして、その場から少し離れる。夜狐が恨みの注意を引いてくれているのだろう、もう追ってくる気配はない。
「アンタはこの場にいちゃ駄目だ!逃げるよ!」
小さな塊はそう言って私の足下をぐいぐい押してくる。急かしているつもりなのだろう。
「…夜狐!噂の方は……本体の場所がわかった!」
私のその言葉に夜狐が少し息を呑んだ気がした。
「…わかった、こいつ倒したらそっち行くから、しばらくそれと一緒にいて!くれぐれも一人で立ち向かおうなんて思っちゃ駄目だよ!」
扉越しに会話を済ませ、急かす塊に従い走り出した。先程までの夜狐のスピードにくらべれば亀のような遅さだが、それでも平均よりは少し早いくらいだと自負している。
足下にいた塊は私の速度に合わせて隣を走っているようだ。そういえば一度もしっかりとその姿を見ていない。
そう思って視線を下に向けると――
「……………猫?」
「違ァう!猫又だよ、ね・こ・ま・た!あの狐のガキの式神、みたいなもんさ」
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