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Bistro Gens joyeux、開店します③
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本日、店はいよいよオープンを迎える。
ワクワクする気持ちと同時に、一花の胸にはもう一つ、やりたい事が出来ていた。
小ぶりのリュックに財布とスマホ、ハンドタオルと化粧ポーチを詰め込む。
それから店で働くのに全く必要のないイーゼルとカンバス、キャンプ用の折りたたみ椅子を巨大なバッグに入れた。
「よいしょ」
バッグを背負った後に少し気合いを入れてそれを担ぐと、トントンとゆっくり気をつけながら階段を降りた。
それからリビングに顔を出すと、複雑そうな顔をする母と、どこか楽しげに笑っている祖母に向かって挨拶をした。
「行って来ます!」
午前八時半。すでに日差しが照りつけており、蝉が元気に鳴いている。八月の東京の一日が始まろうとしていた。
「っさあ、いよいよ店の開店の日だ‼︎ 準備はバッチリかい⁉︎」
その日、進藤は目の下にクマがくっきりと残る顔で異様にテンション高くそう言うと、一花と流歌を見た。
時刻は午前九時半。
店のオープンは十一時であるからして集合時刻は少し早めだ。
三人は白シャツに黒いズボン、そして揃いの膝下まである黒いエプロンを腰に巻いている。
流歌はこの時ばかりは手染めのカラフルなバンダナを封印していた。
グレーヘアーは綺麗に整えられており、長めの前髪はヘアゴムで結ばれておらず、後ろに撫で付けられている。
レインボーカラーの頭と可愛いヘアゴムが流歌のトレードマークだったため、この見た目はかなり新鮮だ。
店の営業時間は十一時から十四時と十七時から二十二時の二部構成で、本日は昼を一花と流歌、夜を桃子と圭人が担当する事になっていた。
「進藤さん、クマすごいっすけどどうしたんすか」
流歌が怪訝な面持ちで尋ねると進藤が目の下をゴシゴシとこする。
「今日のことを考えていたら眠れなくてね……夜通し仕込みやら発注の確認やらをしていた。あ、でも心配しないでくれ。寝ていないけどものすごく元気なんだ。やる気に満ち溢れていると言うか、今なら休憩なしで十二時間は働けそうだよ!」
はははは、と笑う進藤の目は血走っているが、確かに元気そうだ。
精神状態は見るからに普通ではなかったが、流歌は進藤の気持ちを理解しているようで腕を組んで頷いていた。
「わかります。俺も一年の時展示会の前日に眠れなくて、こっそり展示会場の教室に忍び込んで夜通し自分の絵の前に座ってました」
「そんな事してたの⁉︎ 通りであの日変なテンションだったわけね」
一花は当時を思い出して驚愕する。
二年の三学期に行われる進級制作の展示会でも同じことをやらかしそうで恐ろしい。
流歌が誤魔化すように咳払いをした後、手を叩いて大声を出した。
「まあ、それは置いといて! 開店準備しましょうよ‼︎」
「あぁ、そうしよう‼︎」
元気一杯に進藤が返事をし、開店作業に取り掛かる。
動きに関しては事前に確認済みで、しかも今日に関して言うならば前日にほとんどの準備が済んでいるためやる事がほとんどない。
せいぜいピッチャーに水を汲むくらいだ。
一花と流歌はメモを確認したり、本日のメニューを確認したりして時間を潰した。
本日のおすすめは、スモークサーモンのマリネと車海老のガーリックソテー、牛ほほ肉の赤ワイン煮込み。
デザートはかぼちゃのクレーム・ブリュレ。表面をバーナーで炙ってこんがりさせたクレーム・ブリュレは一花も好きな一品だ。スプーンで叩くとパリッと割れる表面の砂糖、それをすくって下のカスタードとともに食べると、滑らかなカスタードとパリパリしたキャラメリゼの二種類の食感が同時に楽しめるなんとも贅沢なデザートだ。
思い出すと食べたくなるが、本日からは一花は接客担当。賄いにうつつを抜かしているわけにはいかない。
そうこうしていると店の外から物音がするのに気がついた。扉を開けて外を見てみると———。
「わっ」
まだ開店まで三十分ほど時間があったが、すでに数組のお客様が店の前で待機していた。
先頭に並ぶ初老の夫婦が一花に気がつくと汗だくの額を拭いながら破顔する。
「やぁ、店員さんかな。ハガキをもらってから待ちきれなくてねぇ。こうして来てしまったよ」
「まだ早いと思ったんですけどね。どうせ暇ですし待ってようと思って」
「暑い中、ありがとうございます。少々お待ち下さいっ」
一花は扉を半開きにしたまま厨房まで行き、進藤を呼ぶ。
「進藤さんっ、お客様がもう並んでます」
「えっ、もうかい?」
驚いた進藤が厨房から出て長い足で店内を横切り、扉から顔を覗かせた。
余談であるが進藤は身長が高すぎるため、扉を潜る時は常に体を若干屈ませている。
それでも人より目線の高い進藤がお客様の前に姿を表すと、扉の向こうから非常に嬉しそうな声が聞こえてくる。
「おぉ、歩君かい⁉︎ 随分大きくなったねえ」
「本当に。最後にお店で会ってから何年ぶりかしら。立派になった事!」
「あ、ご無沙汰しております。外は暑いでしょうから中へどうぞ」
進藤が腰を折り曲げてお辞儀をし扉を大きく開き、お客様を中へ招き入れる。
「でもまだ、開店時間じゃないんじゃないかい」
「いいんです、もう準備は整っていますから。さぁ。後ろにいらっしゃるお客様もどうぞ」
「あらぁ、いいのかしら」
「暑くて困っていたところなのよぉ」
進藤が開け放った扉から次々にお客様が入って来る。
皆、DMを受け取ってやって来た常連らしく、店の中を見回したり進藤に話しかけたりしていた。
短い髪を紫色に染めた七十代程のおばさまが、連れの同年代の女性とともに店に入って来るなり進藤の肩を叩いてはしゃいだ声で言う。
「歩ちゃん! まぁ~、いい男になっちゃって! こんな男前になるならうちの娘に勧めておけばよかったわぁ」
「いやぁ、ははは。僕なんてまだまだです」
「何言ってるのよぉ、小さかったあなたが今じゃ店主だもの。時が進むのは早いのね」
「そうそう。私たちが店に通い出した頃はまだほんの小学生だったのに!」
おばさま三人組が昔を懐かしみながら笑い声を上げ、進藤もつられて不器用な笑顔を浮かべながら席へと勧めた。
席に着いたお客様に一花と流歌がテキパキと水を配ってメニューを渡す。
ワクワクする気持ちと同時に、一花の胸にはもう一つ、やりたい事が出来ていた。
小ぶりのリュックに財布とスマホ、ハンドタオルと化粧ポーチを詰め込む。
それから店で働くのに全く必要のないイーゼルとカンバス、キャンプ用の折りたたみ椅子を巨大なバッグに入れた。
「よいしょ」
バッグを背負った後に少し気合いを入れてそれを担ぐと、トントンとゆっくり気をつけながら階段を降りた。
それからリビングに顔を出すと、複雑そうな顔をする母と、どこか楽しげに笑っている祖母に向かって挨拶をした。
「行って来ます!」
午前八時半。すでに日差しが照りつけており、蝉が元気に鳴いている。八月の東京の一日が始まろうとしていた。
「っさあ、いよいよ店の開店の日だ‼︎ 準備はバッチリかい⁉︎」
その日、進藤は目の下にクマがくっきりと残る顔で異様にテンション高くそう言うと、一花と流歌を見た。
時刻は午前九時半。
店のオープンは十一時であるからして集合時刻は少し早めだ。
三人は白シャツに黒いズボン、そして揃いの膝下まである黒いエプロンを腰に巻いている。
流歌はこの時ばかりは手染めのカラフルなバンダナを封印していた。
グレーヘアーは綺麗に整えられており、長めの前髪はヘアゴムで結ばれておらず、後ろに撫で付けられている。
レインボーカラーの頭と可愛いヘアゴムが流歌のトレードマークだったため、この見た目はかなり新鮮だ。
店の営業時間は十一時から十四時と十七時から二十二時の二部構成で、本日は昼を一花と流歌、夜を桃子と圭人が担当する事になっていた。
「進藤さん、クマすごいっすけどどうしたんすか」
流歌が怪訝な面持ちで尋ねると進藤が目の下をゴシゴシとこする。
「今日のことを考えていたら眠れなくてね……夜通し仕込みやら発注の確認やらをしていた。あ、でも心配しないでくれ。寝ていないけどものすごく元気なんだ。やる気に満ち溢れていると言うか、今なら休憩なしで十二時間は働けそうだよ!」
はははは、と笑う進藤の目は血走っているが、確かに元気そうだ。
精神状態は見るからに普通ではなかったが、流歌は進藤の気持ちを理解しているようで腕を組んで頷いていた。
「わかります。俺も一年の時展示会の前日に眠れなくて、こっそり展示会場の教室に忍び込んで夜通し自分の絵の前に座ってました」
「そんな事してたの⁉︎ 通りであの日変なテンションだったわけね」
一花は当時を思い出して驚愕する。
二年の三学期に行われる進級制作の展示会でも同じことをやらかしそうで恐ろしい。
流歌が誤魔化すように咳払いをした後、手を叩いて大声を出した。
「まあ、それは置いといて! 開店準備しましょうよ‼︎」
「あぁ、そうしよう‼︎」
元気一杯に進藤が返事をし、開店作業に取り掛かる。
動きに関しては事前に確認済みで、しかも今日に関して言うならば前日にほとんどの準備が済んでいるためやる事がほとんどない。
せいぜいピッチャーに水を汲むくらいだ。
一花と流歌はメモを確認したり、本日のメニューを確認したりして時間を潰した。
本日のおすすめは、スモークサーモンのマリネと車海老のガーリックソテー、牛ほほ肉の赤ワイン煮込み。
デザートはかぼちゃのクレーム・ブリュレ。表面をバーナーで炙ってこんがりさせたクレーム・ブリュレは一花も好きな一品だ。スプーンで叩くとパリッと割れる表面の砂糖、それをすくって下のカスタードとともに食べると、滑らかなカスタードとパリパリしたキャラメリゼの二種類の食感が同時に楽しめるなんとも贅沢なデザートだ。
思い出すと食べたくなるが、本日からは一花は接客担当。賄いにうつつを抜かしているわけにはいかない。
そうこうしていると店の外から物音がするのに気がついた。扉を開けて外を見てみると———。
「わっ」
まだ開店まで三十分ほど時間があったが、すでに数組のお客様が店の前で待機していた。
先頭に並ぶ初老の夫婦が一花に気がつくと汗だくの額を拭いながら破顔する。
「やぁ、店員さんかな。ハガキをもらってから待ちきれなくてねぇ。こうして来てしまったよ」
「まだ早いと思ったんですけどね。どうせ暇ですし待ってようと思って」
「暑い中、ありがとうございます。少々お待ち下さいっ」
一花は扉を半開きにしたまま厨房まで行き、進藤を呼ぶ。
「進藤さんっ、お客様がもう並んでます」
「えっ、もうかい?」
驚いた進藤が厨房から出て長い足で店内を横切り、扉から顔を覗かせた。
余談であるが進藤は身長が高すぎるため、扉を潜る時は常に体を若干屈ませている。
それでも人より目線の高い進藤がお客様の前に姿を表すと、扉の向こうから非常に嬉しそうな声が聞こえてくる。
「おぉ、歩君かい⁉︎ 随分大きくなったねえ」
「本当に。最後にお店で会ってから何年ぶりかしら。立派になった事!」
「あ、ご無沙汰しております。外は暑いでしょうから中へどうぞ」
進藤が腰を折り曲げてお辞儀をし扉を大きく開き、お客様を中へ招き入れる。
「でもまだ、開店時間じゃないんじゃないかい」
「いいんです、もう準備は整っていますから。さぁ。後ろにいらっしゃるお客様もどうぞ」
「あらぁ、いいのかしら」
「暑くて困っていたところなのよぉ」
進藤が開け放った扉から次々にお客様が入って来る。
皆、DMを受け取ってやって来た常連らしく、店の中を見回したり進藤に話しかけたりしていた。
短い髪を紫色に染めた七十代程のおばさまが、連れの同年代の女性とともに店に入って来るなり進藤の肩を叩いてはしゃいだ声で言う。
「歩ちゃん! まぁ~、いい男になっちゃって! こんな男前になるならうちの娘に勧めておけばよかったわぁ」
「いやぁ、ははは。僕なんてまだまだです」
「何言ってるのよぉ、小さかったあなたが今じゃ店主だもの。時が進むのは早いのね」
「そうそう。私たちが店に通い出した頃はまだほんの小学生だったのに!」
おばさま三人組が昔を懐かしみながら笑い声を上げ、進藤もつられて不器用な笑顔を浮かべながら席へと勧めた。
席に着いたお客様に一花と流歌がテキパキと水を配ってメニューを渡す。
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