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Bistro Gens joyeux、開店します②

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 小学校六年生の時だ。

「ねえ一花、話があるんだけど」

 母はいつになく真剣な顔でそう言うと、帰って来たばかりの一花に椅子に座るよう目線で促す。
 一花が大人しくそれに従うと、母は前置きもなくいきなり話を切り出した。

「お母さんとお父さんね、離婚する事にしたから」

 そう言われて頭に浮かんだ感想は、「ああ、やっぱり」だった。
 随分前から父と母の仲が良くない事には気がついていた。正月やクリスマスなどのイベントを家族で祝わなくなり、慣れ親しんだ吉祥寺のあの店にも行かなくなって久しい。
 別にどちらかが不倫をしたとか、家庭内暴力があったとか、そういうわかりやすい事柄があったわけではない。
 ただ、一花が小学四年生になる頃に父の出張が多くなり、母は職場で主任に昇進し仕事量が増え、家で家族三人が揃う事は滅多になくなっていた。
 近くに住む祖母がしょっちゅう家にやって来ては一花の面倒を見てくれていた。今でもそうだ。
 夜遅くに帰って来た二人が言い争っている場面に出くわした時も何度かある。

「あなたの出張が多すぎるから」
「お前こそ夜勤ばかりで」

 そんな言葉のぶつけ合いを耳にして、一花の胸がきゅうと痛んだ。
 やがて家の中には冷え切った空気が漂い、父と母の会話らしいものが消え、目も合わせなくなっていた。
 だから一花はコクリと一つ頷く。

「うん、わかった」
「お母さんと一花は、おばあちゃんの家に住む事になるから」
「うん」

 この時の一花は十二歳、小学校の卒業式の次の日の出来事だった。

 離婚が子供の心にどれほどの影響をもたらすものなのか、世の親は真剣に考えた事があるのだろうか。
 勿論、離婚した方が良いケースも多いだろう。
 暴力を振るわれているとか、借金まみれでグズグズだとか、不倫相手が乗り込んで来て家庭崩壊待った無しだとか。
 しかし一花の家に関していうならば、一花の目から見た限りではあるがそうしたわかりやすい状況には無かった。
 いつの間にかすれ違っていて、いつの間にか会話が無くなり、いつの間にか空気が冷えていた。その結果が離婚である。
 南野から北条に苗字が変わった時に感じた違和感は今でも続いている。
 そのうち慣れるのかなと思っていたけど、未だに慣れていない。
 だから一花は皆に名前で呼んでと頼んでいるし、幸いにもそれを不自然に思われた事は無かった。
 エアコンの効いた室内でスマホのアラーム音が鳴り、手を出して止める。ベッドから起き出すとリビングへと向かった。
 そこには珍しく母の姿があった。

「お母さん」
「あら一花。今日は早いのね」
「うん。おはよう」
「一花さん、おはよう。朝ごはんは何食べます?」
「おばあちゃん、おはよう。じゃあ、トースト」
「はい、はい。飲み物は?」
「自分で用意するから良いよ」
「はい、はい」

 祖母と共にキッチンに行き、牛乳をコップに注ぐとジャムとバターをついでに持ち、戻って母と向かい合うように腰掛ける。すでに朝食を終えているらしい母はコーヒーを飲んでいた。リビングでゆっくりしている母を見るのは久しぶりだ。いつも夜遅くに帰ってくるか早朝に出かけるか、休みの日は自室で一日中寝ているか。仕事漬けの母の一日はだいぶ不健康なスケジュールを刻んでいる。

「今日は仕事休み?」
「そ。十日ぶりの休日よ」
「ご苦労様です」
「もう本当、腰も肩も凝っちゃって。マッサージにでも行こうかしら」
「うん、行ってらっしゃい」

 母が肩を回しながら心底くたびれた様子なので、一花は労いの意味を込めて言う。祖母がトースターで焼いた食パンとサラダを持って来てくれたので、一花はサラダにマヨネーズをかけた。

「夏休みは何してるの?」
「バイト」

 そこで一花ははたと思い返し、今しがたトマトを刺そうとしていたフォークの動きを止めた。母は不思議そうな顔で一花を見ている。

「ねえお母さん」
「何?」
「私、新しいバイト始めたんだ」
「この前聞いたわよ。吉祥寺のレストランでしょ?」
「うん。Bistro Gens joyeux」
「え……」

 母の目が驚きに見開かれ、動きが止まった。
 逆に一花のフォークはトマト目掛けて振り下ろされて、ぷすりとくし切りのトマトに刺さった。

「覚えてる? シェフが息子さんに変わっててね。人手が足りなくてちょっと困っていたみたいだからバイトする事
にしたの」

 非常にオブラートに包んだ言い方で経緯を説明する一花に、母の戸惑いが大きくなっているのが見て取れる。

「他にバイト先なんていくらでもあるでしょうに、なんでその店で」
「私が働きたかったから」
「……恨んでいるの? お父さんとの事」
「そういうわけじゃないよ」
「じゃあ何で、そんな当て付けみたいな真似をするの」
「当て付けなんかじゃないよ。ただ、ちょっと見に行ってみたらお店潰れそうだったから。手伝いたくなっただけ」
「…………」

 何と言って良いやらわからない、と母の顔にはっきりと書いてある。
 しかし一花は構わなかった。別に父と離婚した母への当て付けという訳ではない。
 思い出の店が進藤のしょうもない性格のせいで潰れてしまうのが嫌だっただけだ。

「ごちそうさまでした」
「あ、ちょっと待ちなさいよ」
「お母さんもそのうち食べに来てね」
 母の制止を振り切って部屋に戻ると一花は支度をした。

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