23 / 82
第四章 洛陽動乱
枡屋
しおりを挟む
五月も、もう終わる。この頃の京はひどく蒸し暑く、着物がじっとりと肌にへばりつくような気候である。久二郎は少し襟を開け、風を入れたが、生ぬるい何かが入ってくるだけで、あまり意味がない。
そこへ、山崎が現れた。この間の一件以来、久二郎は山崎とよく話す。
「綾瀬さん」
「山崎さん。どうしたのです」
「いえ、ちょっと副長にお話があったもので」
いつになく深刻な顔をしているが、職務上、それが何なのかは副長の許可のない限り、決して漏らさぬ。そういう男だった。
「そうですか」
何気なく、久二郎は去った。土方の部屋の前を通ると、たまたま襖が開いた。
「なんだ、綾瀬」
「いえ、この前を、通り過ぎようとしただけですが」
「そうか、済まん」
「どうかなさいましたか?」
「いや、何でもない」
「良い句でも、できましたか」
「馬鹿言え」
土方は、ぷいと行ってしまった。久二郎も、助勤にあてがわれた自室へ向かおうとする。自室といっても、広い前川屋敷に引っ越してなお続く、斎藤と彰介との三人部屋である。
その背に、廊下の角を曲がりかけた土方が声をかけてくる。
「やっぱり、お前がいい。樋口を連れ、あとで部屋に来い」
そう言って、土方は角の向こうに消えた。近藤の部屋にゆくのだろう。
彰介は、夜まで戻らぬ。それまで、自室で待つことにした。縁側に斎藤が、ぽつんと座っている。
「どうした、綾瀬君」
「いや、なにやら、副長に呼ばれてしまって」
「そうか」
どうも、会話が続かぬ。
「山崎さんが、なにか訳ありの様子であったので、気になって」
「そうか」
しばし、沈黙。
「何か、あるのだろうな」
「でしょうね」
久二郎は、苦笑した。
「お前は、土方さんに、頼られている」
「そうでしょうか。むしろ、疑われているような気がします」
「それは、あの人の、性分なのだ」
碁の相手をする彰介がおらぬから、斎藤は一人で白黒の両方を打っているらしい。
「気にかけている者ほど、それが何者で、何を考えているのか、気になるものだ」
「だといいのですがね」
さて、と碁を放り出し、斎藤は立ち上がった。どちらへ、と久二郎が訊くと、女のところだ、と言う。隊士たちは、この頃になると、あちこちにいい女ができはじめていた。斎藤のような男にも、女はいるらしい。その後ろ姿を見て、久二郎も、小春に会いたいと思った。
一人で、縁側に腰掛けた。じっとりと貼り付く着物から気を放し、目を閉じる。そうすると、様々なことが去来する。
ついこの間まで、自らが会津御預新撰組副長助勤などという立場になり、帝のいる京の治安を守るなどという重要な役目に就くなどとは思いもしなかった。彰介と二人、村の血気盛んな若者として、遊んでいればよかったはずなのだ。
土に親しみ、季節を感じ、食える喜びを味わい、大きな声で書を読む。斬り合いもない。そもそも、敵もいない。せいぜい、近隣の村と水争いをする程度だ。
だが、今は、敵がいた。敵とは、自然に生まれるものではない。立場が、敵を作る。そして立場は、時代が作る。時代によって変動する様々な情勢に順応しようとして、人は考える。それによって、いつも敵はその名を、その姿を変え、近づいたり離れたりするらしい。
今は、瞬太郎が敵であった。それは、久二郎が新撰組だからである。自らの立場が、知己である瞬太郎を敵にした。
だが、坂本は、一人の人間としてなら向かい合えるという。立場を越え、それができるようになるには、何が必要なのか。
時代が立場を作るなら、時代は何によって作られるのか。たぶん、大いなる流れを作ったり、遮ったりする人の心ではないかと久二郎は思う。それが、このところよく誰の口からも出る、志、というものなのかもしれない。
時代に流されることを、嘆いても仕方がない。ならば、何かをしてみることだ。久二郎が新撰組であることを、今さら塗り替えることはできぬ。
ならば、選ぶまでもない。
不思議なもので、この時期の京では昼の陽が傾くにつれ、暑くなる。だんだん変わってゆく、じっとりと垂れ込めた雲の色を、久二郎は見ていた。
「戻った」
彰介が、部屋に入ってきた。藤堂、沖田、井上と、市中の見回りに行っていたらしい。
「どうだった」
「別に、何もない」
「お前こそ、どうだった」
「何が」
「この前、瀬尾さんに会ったろう」
彰介に、あのことは話していない。
「千が」
「千ちゃんが?」
「いた。生きていたのだ。瀬尾さんの女になっていた」
「なんだと。なぜ、早く言わん」
「お前が、千に惚れているのを知っていたからだ」
彰介が、絶句した。大きな身体でちょこんと座り、頭を掻いた。久二郎は幼い頃からずっとそのことに気付いていたが、彰介が何も言わぬので、彼のために黙っていた。しかし、今は違う。彰介のために、知らせてやらねばならない。
「元気であったか」
「ああ、見違えるようであった。どう見違えたのかは、言わぬ方がよかろう」
彰介の中では、千は、素朴な顔立ちが愛らしい、泥に汚れた裾を捲し上げ、白い歯を見せて笑う娘のままなのだ。
「あれから、ずっと考えていた」
久二郎は、先程の思案のことを話した。
「お前、存外、考えが遅いな」
彰介は、苦笑しながら言った。
「寺で書などを読んでいたときは、お前の方が飲み込みが早かった。俺など、あのとき読んだ書の、十のうちの九冊は、題名も忘れている。お前は、いつも知恵が回る。だが、自らのこととなると、途端に、遅いな」
「大事なことだ。じっくり、考えねばなるまい」
「立場がどうのと言ったな。この流れの早さに、その考えの速さで、追い付くのか?」
「では、お前は、どうするのだ」
「かんたんさ」
彰介が、笑った。
「考えぬ。考えるのは、誰かに任せる」
久二郎も、笑った。
「では、俺は自分とお前の二人分を考えねばならなくなったではないか」
「まあ、そういうことになる。頼んだぞ」
この図体の割に影の薄い彰介が、久二郎は好きだった。
「ところで」
と久二郎は切り出した。
「副長が、俺たちをお呼びらしい」
連れ立って、土方の部屋に入った。
「枡屋喜右衛門という男を、知っているか」
「いいえ」
「では、古高俊太郎という男は」
「いいえ」
土方の言葉には、何故かいつも詰るような響きがあるが、斎藤に言わせればこれも信頼の表れなのであろうか。
「西木屋町四条上ルの――」
と、土方は京の慣例となっている、ちょうど斎藤が遊んでいた碁盤の目のような市街地の座標を指し示す、通りの交差点からどちらに行ったところかを表す便利な言い方を用いた。京の中心部では、ほとんど全ての通りに名前があり、目標の建物が面している通りを先に、最も近いところで交差する通りを後に言う。南北の通りに面していれば、交差点名、続いて上ル、下ル。送り仮名はルのみであるが、「あがる、さがる」と読み、「のぼる、くだる」とは読まない。漢字の読みとしては誤りであるかもしれぬが、古くから京の街ではこのようにして用いられており、そういうものであるから、それを指摘するような者は京都には馴染めぬであろう。
東西の通りに面しておれば、交差点名、続いて西入ル、東入ル、である。これは、「はいる」ではなく、「いる」と読む。
これは、現代における京都市中心部の住所にも普通に用いられており、たとえば「京都市○○区○○通り○○上ル○○町○○番地」とする。筆者の運転免許証にも、当たり前のようにそう書かれている。無論、中心部のみで、周辺部ではこの限りにあらずであるが、これが無い地域は、比較的さいきん、京に参画してきた地区である。
よって、京都市中心部で育った子供は、他府県の、地区、町名、番地のみしかない住所で、どうやって目標地点を特定することができるのか分からぬ大人になる。そもそも、道が碁盤の目ではないという時点で、それは京都育ちの者にとって、迷宮に等しい。
それで、西木屋町通四条上ルの枡屋喜右衛門の話である。その古道具屋なら、何度か市中巡察のおり、久二郎も前を通ったことがある。
「あれは、実は、近江の古高俊太郎という者なのだ。枡屋を継ぎ、名を変え、その実、肥後や長州のごろつきどもを手引きをする元締めのような役を担っているらしい」
それを、山崎が突き止め、報告を入れたということか。確かに、昨年夏からめっきり見なくなった長州の者が、このところ増えつつあるのを久二郎も感じていた。そして、その線に浮かび上がった、枡屋。
「これは、何かある」
土方の考えは、大胆なものであった。
「綾瀬、樋口。枡屋に出向き、捕らえろ。決して殺すな。捕らえ、何があるのか、洗いざらい吐かせる」
「それで、私たちに声を?」
「そうだ。沖田や藤堂、原田などをやれば、斬ってしまいかねん。お前たちなら、斬らず、捕らえることができるだろう」
「尽くします」
「うむ。それと、もう一人、付ける」
土方が挙げた名は、意外なものであった。
「武田だ」
武田観柳斎。昨年秋、芹沢が死んでから入隊してきたが、これからの新撰組にも軍師が必要になるとして、甲州流軍学を修めた武田を、高く買った。
しかし当人は、容儀ばかりに気を使い、近藤におべっかをし、他の隊士の悪口などを吹き込んだりしており、早速に評判が悪い。久二郎も、はっきりと嫌いであった。あの居丈高な声で、
「綾瀬君。君は農民の出らしいな。励めば、近藤局長のように、立派になれるぞ」
などと言われれば、虫酸が走るのは自然なことであろう。
「武田さん、ですか」
久二郎が、反問した。
「そうだ」
「これは、どうしてまた」
「あれは、口がでかいだけあって、よく気が付く。平助の懐から懐紙がはみ出しているとか、原田の扇の差す向きが逆だとか、人のことばかり観察しているからな。お前たちが押し入ったことを万一枡屋に勘づかれたとき、あの屁のような男が役に立つ」
「そうですか」
土方は、武田が隊内でどのように見られているか、勿論知っている。
「要は、使い方だ。人はそれぞれ、異なる才を持つ。それをどう使うかだ。俺は、新撰組にいる者は、どのような者であろうと、使いこなしてみせるさ」
と、子供のように眼を輝かせた。何を考えているのか分からぬこの隊内最大の権力者を、久二郎は信頼してはいるが恐れてもいた。だが、こういう子供っぽい顔をすると、ほっとして、なんとなく好きになるから不思議なものだ。それを狙い、土方が巧みにそう自己表現をしているのかどうかは分からぬが。
「それに、お前たちなら、武田と揉めても、武田を斬ることもないだろう」
と土方は冗談を言った。土方は、最近、久二郎らにもよく冗談を言う。もしかすると、無愛想なのは、人見知りが強いだけなのかもしれない。
「沖田、藤堂、原田などでは、枡屋も武田も死ぬ」
「斎藤さん、永倉さんなら、落ち着いています」
「あれァ、駄目だよ、お前。斎藤は、武田を心底嫌っている。もし武田がもたもたしでもすれば、やはり斬る」
「では、永倉さんは」
久二郎も、この冗談に付き合っている。
「斬らねェまでも、ぶん殴るだろうな」
「要はな、綾瀬。こいつとこいつを組み合わせれば、仲が良いから遊びやがる。こいつとこいつなら、仲は悪いが互いに競い、良い結果を出す。だがこいつとこいつなら、仲が悪く互いの足を引っ張る。そういう呼吸ってのが、あるんだ」
「そういうものですか」
「案外、人をまとめるってのも、大変なんだぜ」
「そのようです」
「おう、どうだ。これから、島原にでも行くか」
話の落ち着いた土方は、機嫌が良くなったのか、珍しい誘いをもちかけてきた。
「いえ、明日、さっそく、枡屋に出向こうと思いますので、今日は」
「馬鹿野郎。大事の前だ。女を抱き、気を鎮めておけ」
久二郎は彰介と顔を見合わせて苦笑したが、小春に会える、と思うと嬉しかった。
そこへ、山崎が現れた。この間の一件以来、久二郎は山崎とよく話す。
「綾瀬さん」
「山崎さん。どうしたのです」
「いえ、ちょっと副長にお話があったもので」
いつになく深刻な顔をしているが、職務上、それが何なのかは副長の許可のない限り、決して漏らさぬ。そういう男だった。
「そうですか」
何気なく、久二郎は去った。土方の部屋の前を通ると、たまたま襖が開いた。
「なんだ、綾瀬」
「いえ、この前を、通り過ぎようとしただけですが」
「そうか、済まん」
「どうかなさいましたか?」
「いや、何でもない」
「良い句でも、できましたか」
「馬鹿言え」
土方は、ぷいと行ってしまった。久二郎も、助勤にあてがわれた自室へ向かおうとする。自室といっても、広い前川屋敷に引っ越してなお続く、斎藤と彰介との三人部屋である。
その背に、廊下の角を曲がりかけた土方が声をかけてくる。
「やっぱり、お前がいい。樋口を連れ、あとで部屋に来い」
そう言って、土方は角の向こうに消えた。近藤の部屋にゆくのだろう。
彰介は、夜まで戻らぬ。それまで、自室で待つことにした。縁側に斎藤が、ぽつんと座っている。
「どうした、綾瀬君」
「いや、なにやら、副長に呼ばれてしまって」
「そうか」
どうも、会話が続かぬ。
「山崎さんが、なにか訳ありの様子であったので、気になって」
「そうか」
しばし、沈黙。
「何か、あるのだろうな」
「でしょうね」
久二郎は、苦笑した。
「お前は、土方さんに、頼られている」
「そうでしょうか。むしろ、疑われているような気がします」
「それは、あの人の、性分なのだ」
碁の相手をする彰介がおらぬから、斎藤は一人で白黒の両方を打っているらしい。
「気にかけている者ほど、それが何者で、何を考えているのか、気になるものだ」
「だといいのですがね」
さて、と碁を放り出し、斎藤は立ち上がった。どちらへ、と久二郎が訊くと、女のところだ、と言う。隊士たちは、この頃になると、あちこちにいい女ができはじめていた。斎藤のような男にも、女はいるらしい。その後ろ姿を見て、久二郎も、小春に会いたいと思った。
一人で、縁側に腰掛けた。じっとりと貼り付く着物から気を放し、目を閉じる。そうすると、様々なことが去来する。
ついこの間まで、自らが会津御預新撰組副長助勤などという立場になり、帝のいる京の治安を守るなどという重要な役目に就くなどとは思いもしなかった。彰介と二人、村の血気盛んな若者として、遊んでいればよかったはずなのだ。
土に親しみ、季節を感じ、食える喜びを味わい、大きな声で書を読む。斬り合いもない。そもそも、敵もいない。せいぜい、近隣の村と水争いをする程度だ。
だが、今は、敵がいた。敵とは、自然に生まれるものではない。立場が、敵を作る。そして立場は、時代が作る。時代によって変動する様々な情勢に順応しようとして、人は考える。それによって、いつも敵はその名を、その姿を変え、近づいたり離れたりするらしい。
今は、瞬太郎が敵であった。それは、久二郎が新撰組だからである。自らの立場が、知己である瞬太郎を敵にした。
だが、坂本は、一人の人間としてなら向かい合えるという。立場を越え、それができるようになるには、何が必要なのか。
時代が立場を作るなら、時代は何によって作られるのか。たぶん、大いなる流れを作ったり、遮ったりする人の心ではないかと久二郎は思う。それが、このところよく誰の口からも出る、志、というものなのかもしれない。
時代に流されることを、嘆いても仕方がない。ならば、何かをしてみることだ。久二郎が新撰組であることを、今さら塗り替えることはできぬ。
ならば、選ぶまでもない。
不思議なもので、この時期の京では昼の陽が傾くにつれ、暑くなる。だんだん変わってゆく、じっとりと垂れ込めた雲の色を、久二郎は見ていた。
「戻った」
彰介が、部屋に入ってきた。藤堂、沖田、井上と、市中の見回りに行っていたらしい。
「どうだった」
「別に、何もない」
「お前こそ、どうだった」
「何が」
「この前、瀬尾さんに会ったろう」
彰介に、あのことは話していない。
「千が」
「千ちゃんが?」
「いた。生きていたのだ。瀬尾さんの女になっていた」
「なんだと。なぜ、早く言わん」
「お前が、千に惚れているのを知っていたからだ」
彰介が、絶句した。大きな身体でちょこんと座り、頭を掻いた。久二郎は幼い頃からずっとそのことに気付いていたが、彰介が何も言わぬので、彼のために黙っていた。しかし、今は違う。彰介のために、知らせてやらねばならない。
「元気であったか」
「ああ、見違えるようであった。どう見違えたのかは、言わぬ方がよかろう」
彰介の中では、千は、素朴な顔立ちが愛らしい、泥に汚れた裾を捲し上げ、白い歯を見せて笑う娘のままなのだ。
「あれから、ずっと考えていた」
久二郎は、先程の思案のことを話した。
「お前、存外、考えが遅いな」
彰介は、苦笑しながら言った。
「寺で書などを読んでいたときは、お前の方が飲み込みが早かった。俺など、あのとき読んだ書の、十のうちの九冊は、題名も忘れている。お前は、いつも知恵が回る。だが、自らのこととなると、途端に、遅いな」
「大事なことだ。じっくり、考えねばなるまい」
「立場がどうのと言ったな。この流れの早さに、その考えの速さで、追い付くのか?」
「では、お前は、どうするのだ」
「かんたんさ」
彰介が、笑った。
「考えぬ。考えるのは、誰かに任せる」
久二郎も、笑った。
「では、俺は自分とお前の二人分を考えねばならなくなったではないか」
「まあ、そういうことになる。頼んだぞ」
この図体の割に影の薄い彰介が、久二郎は好きだった。
「ところで」
と久二郎は切り出した。
「副長が、俺たちをお呼びらしい」
連れ立って、土方の部屋に入った。
「枡屋喜右衛門という男を、知っているか」
「いいえ」
「では、古高俊太郎という男は」
「いいえ」
土方の言葉には、何故かいつも詰るような響きがあるが、斎藤に言わせればこれも信頼の表れなのであろうか。
「西木屋町四条上ルの――」
と、土方は京の慣例となっている、ちょうど斎藤が遊んでいた碁盤の目のような市街地の座標を指し示す、通りの交差点からどちらに行ったところかを表す便利な言い方を用いた。京の中心部では、ほとんど全ての通りに名前があり、目標の建物が面している通りを先に、最も近いところで交差する通りを後に言う。南北の通りに面していれば、交差点名、続いて上ル、下ル。送り仮名はルのみであるが、「あがる、さがる」と読み、「のぼる、くだる」とは読まない。漢字の読みとしては誤りであるかもしれぬが、古くから京の街ではこのようにして用いられており、そういうものであるから、それを指摘するような者は京都には馴染めぬであろう。
東西の通りに面しておれば、交差点名、続いて西入ル、東入ル、である。これは、「はいる」ではなく、「いる」と読む。
これは、現代における京都市中心部の住所にも普通に用いられており、たとえば「京都市○○区○○通り○○上ル○○町○○番地」とする。筆者の運転免許証にも、当たり前のようにそう書かれている。無論、中心部のみで、周辺部ではこの限りにあらずであるが、これが無い地域は、比較的さいきん、京に参画してきた地区である。
よって、京都市中心部で育った子供は、他府県の、地区、町名、番地のみしかない住所で、どうやって目標地点を特定することができるのか分からぬ大人になる。そもそも、道が碁盤の目ではないという時点で、それは京都育ちの者にとって、迷宮に等しい。
それで、西木屋町通四条上ルの枡屋喜右衛門の話である。その古道具屋なら、何度か市中巡察のおり、久二郎も前を通ったことがある。
「あれは、実は、近江の古高俊太郎という者なのだ。枡屋を継ぎ、名を変え、その実、肥後や長州のごろつきどもを手引きをする元締めのような役を担っているらしい」
それを、山崎が突き止め、報告を入れたということか。確かに、昨年夏からめっきり見なくなった長州の者が、このところ増えつつあるのを久二郎も感じていた。そして、その線に浮かび上がった、枡屋。
「これは、何かある」
土方の考えは、大胆なものであった。
「綾瀬、樋口。枡屋に出向き、捕らえろ。決して殺すな。捕らえ、何があるのか、洗いざらい吐かせる」
「それで、私たちに声を?」
「そうだ。沖田や藤堂、原田などをやれば、斬ってしまいかねん。お前たちなら、斬らず、捕らえることができるだろう」
「尽くします」
「うむ。それと、もう一人、付ける」
土方が挙げた名は、意外なものであった。
「武田だ」
武田観柳斎。昨年秋、芹沢が死んでから入隊してきたが、これからの新撰組にも軍師が必要になるとして、甲州流軍学を修めた武田を、高く買った。
しかし当人は、容儀ばかりに気を使い、近藤におべっかをし、他の隊士の悪口などを吹き込んだりしており、早速に評判が悪い。久二郎も、はっきりと嫌いであった。あの居丈高な声で、
「綾瀬君。君は農民の出らしいな。励めば、近藤局長のように、立派になれるぞ」
などと言われれば、虫酸が走るのは自然なことであろう。
「武田さん、ですか」
久二郎が、反問した。
「そうだ」
「これは、どうしてまた」
「あれは、口がでかいだけあって、よく気が付く。平助の懐から懐紙がはみ出しているとか、原田の扇の差す向きが逆だとか、人のことばかり観察しているからな。お前たちが押し入ったことを万一枡屋に勘づかれたとき、あの屁のような男が役に立つ」
「そうですか」
土方は、武田が隊内でどのように見られているか、勿論知っている。
「要は、使い方だ。人はそれぞれ、異なる才を持つ。それをどう使うかだ。俺は、新撰組にいる者は、どのような者であろうと、使いこなしてみせるさ」
と、子供のように眼を輝かせた。何を考えているのか分からぬこの隊内最大の権力者を、久二郎は信頼してはいるが恐れてもいた。だが、こういう子供っぽい顔をすると、ほっとして、なんとなく好きになるから不思議なものだ。それを狙い、土方が巧みにそう自己表現をしているのかどうかは分からぬが。
「それに、お前たちなら、武田と揉めても、武田を斬ることもないだろう」
と土方は冗談を言った。土方は、最近、久二郎らにもよく冗談を言う。もしかすると、無愛想なのは、人見知りが強いだけなのかもしれない。
「沖田、藤堂、原田などでは、枡屋も武田も死ぬ」
「斎藤さん、永倉さんなら、落ち着いています」
「あれァ、駄目だよ、お前。斎藤は、武田を心底嫌っている。もし武田がもたもたしでもすれば、やはり斬る」
「では、永倉さんは」
久二郎も、この冗談に付き合っている。
「斬らねェまでも、ぶん殴るだろうな」
「要はな、綾瀬。こいつとこいつを組み合わせれば、仲が良いから遊びやがる。こいつとこいつなら、仲は悪いが互いに競い、良い結果を出す。だがこいつとこいつなら、仲が悪く互いの足を引っ張る。そういう呼吸ってのが、あるんだ」
「そういうものですか」
「案外、人をまとめるってのも、大変なんだぜ」
「そのようです」
「おう、どうだ。これから、島原にでも行くか」
話の落ち着いた土方は、機嫌が良くなったのか、珍しい誘いをもちかけてきた。
「いえ、明日、さっそく、枡屋に出向こうと思いますので、今日は」
「馬鹿野郎。大事の前だ。女を抱き、気を鎮めておけ」
久二郎は彰介と顔を見合わせて苦笑したが、小春に会える、と思うと嬉しかった。
0
お気に入りに追加
22
あなたにおすすめの小説
永き夜の遠の睡りの皆目醒め
七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。
新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。
しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。
近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。
首はどこにあるのか。
そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。
※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい
シンセン
春羅
歴史・時代
新選組随一の剣の遣い手・沖田総司は、池田屋事変で命を落とす。
戦力と士気の低下を畏れた新選組副長・土方歳三は、沖田に生き写しの討幕派志士・葦原柳を身代わりに仕立て上げ、ニセモノの人生を歩ませる。
しかし周囲に溶け込み、ほぼ完璧に沖田を演じる葦原の言動に違和感がある。
まるで、沖田総司が憑いているかのように振る舞うときがあるのだ。次第にその頻度は増し、時間も長くなっていく。
「このカラダ……もらってもいいですか……?」
葦原として生きるか、沖田に飲み込まれるか。
いつだって、命の保証などない時代と場所で、大小二本携えて生きてきたのだ。
武士とはなにか。
生きる道と死に方を、自らの意志で決める者である。
「……約束が、違うじゃないですか」
新選組史を基にしたオリジナル小説です。 諸説ある幕末史の中の、定番過ぎて最近の小説ではあまり書かれていない説や、信憑性がない説や、あまり知られていない説を盛り込むことをモットーに書いております。
if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜
かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。
徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。
堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる……
豊臣家に味方する者はいない。
西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。
しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。
全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
剣客逓信 ―明治剣戟郵便録―
三條すずしろ
歴史・時代
【第9回歴史・時代小説大賞:痛快! エンタメ剣客賞受賞】
明治6年、警察より早くピストルを装備したのは郵便配達員だった――。
維新の動乱で届くことのなかった手紙や小包。そんな残された思いを配達する「御留郵便御用」の若者と老剣士が、時に不穏な明治の初めをひた走る。
密書や金品を狙う賊を退け大切なものを届ける特命郵便配達人、通称「剣客逓信(けんかくていしん)」。
武装する必要があるほど危険にさらされた初期の郵便時代、二人はやがてさらに大きな動乱に巻き込まれ――。
※エブリスタでも連載中
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる