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第一章 京
出会い、瀬尾瞬太郎
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久二郎らが京に入ったのは、文久二年の秋のことである。華の京、と言えば聞こえはよいが、天誅騒ぎやら何やらのため、嫌な緊張感と暗雲がこの古都を包み込んでいた。夜、歩いているだけで、誰かと間違われて斬られたりするらしく、よほどのことがない限り、侍などは夜道を歩かぬようになっているという。
久二郎達は逗留しつつ、路銀が尽きれば日雇いの労働などをして食いつないでいたが、なかなか妹の千を探せないでいた。
そもそも、遊郭に売られたかどうかも定かでなく、売られたとしてもどこの遊郭か分からぬ。そのような場所に出入りできるような金もないので、取り合えず彰介と二人、夜の花街をふらふら歩く程度にしか探す方法がない。
路銀が尽きた、とほぼ毎日二人で悩んでいるところに、彰介が妙案を持ち出した。
久二郎達が滞在している北野の木賃宿(素泊まりのみの粗末な貧乏宿のこと)から、一番近い上七軒の花街までの間にある北野天満宮の鳥居横に、
「剣術指南講明館」
と看板を掲げた剣術道場がある。そこの門のところに張られた蜘蛛の巣が、日に日に立派になっていくのを横目で見ていたことを言い出したのである。
早い話が、道場破りをしようということであった。久二郎もその案を妙案だと喜び、さっそく出かけ、自らが道場の主とでも言わんばかりに堂々と居座る蜘蛛の巡らせた巣をくぐり、玄関で呼ばわった。
なかなか誰も出て来ない。久二郎と彰介は顔を見合わせ、帰ろうとした。そのとき、玄関の奥で物音がし、傷んだ戸の向こうに満ちているであろうかび臭い空気が動くのを感じた。
老人が、出てきた。足があまり良くないらしく、そのために奥から出てくるのに時間がかかったのであろう。門の構えと同じくらいうらぶれた老人の姿に、久二郎はやりきれなさを感じた。
「我々は、旅の武芸者です。是非一手、ご教授願いたく」
大人しいはずの彰介は、意外にしたたかなのかもしれない。老人は、感心したように声を上げ、奥へどうぞ、と二人を招じ入れた。廊下を歩きながら、二人のことをあれこれ聞いた。
「そうですか。流派は円慶流と仰るのですか」
「ご存じですか」
「いえ、全く」
老人は笑った。知らなくて当たり前である。二人は流派などに所属したことなどなく、言わば箔をつけるつもりで、久二郎が適当に言ったのである。ちなみにエンケイというのは、久二郎と彰介が生まれた村の、あの寺の和尚の名である。
道場に、通された。
「しばし、お待ちを」
二人に円座を与えると、老人は一旦立ち去った。
「彰介、こんな道場、大丈夫かな」
「なに、どうせボロ道場だ。構うことはあるまい」
しばらくして、さっきの老人が戻ってきた。撃剣道具を身に付けている。
「あの」
「申し遅れました。私、当道場の主、大政為次郎と申します」
とこの小汚ない老人は名乗った。
「これは、失礼を」
久二郎は、居住まいを正した。
「ご覧の通りの貧乏道場、なにぶん門下も一人しかおりませんで。その者も出掛けておりますゆえ、私が」
と一礼した。
普通、こういった場合、道場破り対策として、当道場は他流試合は、などと言い、あまり相手にせぬようにするものであるが、どういうわけかこの汚い道場主はにこにこ笑いながら彼らを道場まで招じ入れ、ささ、と撃剣道具一式まで差し出してきた。勧められるがまま二人は薄汚れたそれを着けた。
しんとした道場の中、まず、彰介が進み出た。上背のある彰介は置いてある中で一番長い竹刀を手に取った。
上段に構える。道場主の大政は、物怖じすることもなく、ふわりと正眼の自然な位置に竹刀を置いた。足は悪いらしいが、床に根でも生えたかと思うほどに立ち姿はしっかりとしている。
彰介が気合いを発する。大政は応じない。
対峙のあと、たまりかねた彰介が踏み込んだ。
振り下ろした竹刀と彰介の体の下をくぐり抜けるようにして小柄な老人が通り過ぎた。足が悪いのは紛れもないらしいが、それを補って余りあるほどの鮮やかさであった。
激烈な音と衝撃が走って、彰介は自らが打たれたことに気付いた。目を丸くしたまま竹刀を引き、一礼して引き下がる。
次は、久二郎の番である。正直、この老人の恐るべき身のこなしに久二郎は驚いている。
山間の田舎から出てきた彼らが知っている剣術とはチャンバラ相手としてのお互いと粗暴な賊くらいのもので、これがはじめて彼らが目にするまともな剣技であった。
一礼し、竹刀を目の前に置く。大政老人は相変わらず構えているのかいないのか分からぬような構えである。足の幅が、やや広く開かれている。
久二郎が竹刀の先を合わせる。ぬるりと油のようにかわされ、絡まない。
道場の黒々とした板敷きを、どんと踏みつけた。打ちかかる。
竹刀が軽やかな音を立てた。しかし手元に妙な感触が残っている。
「小手あり、ですかな」
と老人は笑った。久二郎が大振りの一撃を繰り出したとき、即座に小手を打たれていたらしい。
久二郎も一礼し、竹刀を引いた。
座って面を取った状態の二人に、老人は笑いかけた。
「いや、お見事な腕前」
「なにを仰います。我々は貴方に、竹刀の先も触れることはできなかった」
道場破りは失敗である。こんな貧乏そうで、ろくに門下生もおらぬような道場ですらこれである。思っているようにはいかぬものだ、と早く切り上げてしまいたかった。
「いえ、とても良い剣でしたよ。あなた方の気概がよく見えました」
茶も出ぬらしく、出されたのは欠けた椀に水が入っているだけのものである。その椀の欠けに目をやりながら、大政は意外なことを言った。
「もしよろしければ、入門して下さらぬか。寝る場所、食い物の心配はいりません」
帰ろうとしていた二人であったが、一瞬、考えた。彰介が、
「願ってもないこと。実は我々、流れ者で、人を探しに京まで来たのですが、今日食うものにも困る有り様で」
と正直に話した。大政は声を上げて笑い、
「それはそれは。どうぞお探しの人が見つかるまで、こちらでお過ごしなさるがよい」
と言った。なにからなにまで調子外れではあるが、思ってもみない形で彼らは生活の心配から解放された二人は、板敷きに手をつき、よろしくお願い致します。と頭を下げた。
「ところで、もう一人おられる門下生というのは」
「ああ、瀬尾という者で、恐らく年の頃はあなた方と変わらぬか、少し上でしょうか。やはり他国から流れて来て、ここに居付いたのですが、この頃は土佐様の手伝いをしているようで」
土佐様、というのは土佐藩のことである。意外だがこの時代において「藩」という呼称は一般的ではない。その行政単位を指すとき、「藩」と言っても意味は通じるが、例えば「土佐藩」と言いたいときは、市井の者であれば「土佐様」、士分であれば「山内家」とするのが普通である。よって、例えば土佐の者が名乗りを上げるとするならば、「土佐藩、某」とは言わず、「土佐山内家家臣、某」と言うものである。
その土佐様の手伝いをしているという者が、夜になって帰ってきた。
「瞬太郎。こちらは新しい門下の方だ」
と道場で紹介の場を設けてもらった。
瞬太郎と呼ばれた男は、どかりと板敷きに座り、大刀を右側に置くと、ニカリと白い歯を出して、
「瀬尾瞬太郎です。よろしく」
と笑った。背は久二郎よりは高く、彰介よりは低い。粗末な着流しの袷から、日焼けし、てらてらと光る厚い胸板が覗いている。瞼が腫れぼったいような印象だが、笑顔には愛嬌があった。
「これはまた、こんなボロボロの道場に寄宿するとは、奇特なことで」
瞬太郎は冗談を言った。どこの出身なのかは分からぬが、明るい抑揚を持つ訛りで話す。
「道場の掃除を手伝ってもらっていたのだ。食事の準備を三人でしてほしい。案内をしてあげてくれ」
「いいですよ。じゃ、お二人さん、こっちだ」
三人で道場を後にした。瞬太郎が厨まで案内するため、先に立って歩く。久二郎がその後に続き、更に彰介。
瞬太郎の持つ短い手蝋の燃える匂いとは別に、久二郎は別の匂いを嗅ぎ取っていた。
──血の、匂い?
久二郎達は逗留しつつ、路銀が尽きれば日雇いの労働などをして食いつないでいたが、なかなか妹の千を探せないでいた。
そもそも、遊郭に売られたかどうかも定かでなく、売られたとしてもどこの遊郭か分からぬ。そのような場所に出入りできるような金もないので、取り合えず彰介と二人、夜の花街をふらふら歩く程度にしか探す方法がない。
路銀が尽きた、とほぼ毎日二人で悩んでいるところに、彰介が妙案を持ち出した。
久二郎達が滞在している北野の木賃宿(素泊まりのみの粗末な貧乏宿のこと)から、一番近い上七軒の花街までの間にある北野天満宮の鳥居横に、
「剣術指南講明館」
と看板を掲げた剣術道場がある。そこの門のところに張られた蜘蛛の巣が、日に日に立派になっていくのを横目で見ていたことを言い出したのである。
早い話が、道場破りをしようということであった。久二郎もその案を妙案だと喜び、さっそく出かけ、自らが道場の主とでも言わんばかりに堂々と居座る蜘蛛の巡らせた巣をくぐり、玄関で呼ばわった。
なかなか誰も出て来ない。久二郎と彰介は顔を見合わせ、帰ろうとした。そのとき、玄関の奥で物音がし、傷んだ戸の向こうに満ちているであろうかび臭い空気が動くのを感じた。
老人が、出てきた。足があまり良くないらしく、そのために奥から出てくるのに時間がかかったのであろう。門の構えと同じくらいうらぶれた老人の姿に、久二郎はやりきれなさを感じた。
「我々は、旅の武芸者です。是非一手、ご教授願いたく」
大人しいはずの彰介は、意外にしたたかなのかもしれない。老人は、感心したように声を上げ、奥へどうぞ、と二人を招じ入れた。廊下を歩きながら、二人のことをあれこれ聞いた。
「そうですか。流派は円慶流と仰るのですか」
「ご存じですか」
「いえ、全く」
老人は笑った。知らなくて当たり前である。二人は流派などに所属したことなどなく、言わば箔をつけるつもりで、久二郎が適当に言ったのである。ちなみにエンケイというのは、久二郎と彰介が生まれた村の、あの寺の和尚の名である。
道場に、通された。
「しばし、お待ちを」
二人に円座を与えると、老人は一旦立ち去った。
「彰介、こんな道場、大丈夫かな」
「なに、どうせボロ道場だ。構うことはあるまい」
しばらくして、さっきの老人が戻ってきた。撃剣道具を身に付けている。
「あの」
「申し遅れました。私、当道場の主、大政為次郎と申します」
とこの小汚ない老人は名乗った。
「これは、失礼を」
久二郎は、居住まいを正した。
「ご覧の通りの貧乏道場、なにぶん門下も一人しかおりませんで。その者も出掛けておりますゆえ、私が」
と一礼した。
普通、こういった場合、道場破り対策として、当道場は他流試合は、などと言い、あまり相手にせぬようにするものであるが、どういうわけかこの汚い道場主はにこにこ笑いながら彼らを道場まで招じ入れ、ささ、と撃剣道具一式まで差し出してきた。勧められるがまま二人は薄汚れたそれを着けた。
しんとした道場の中、まず、彰介が進み出た。上背のある彰介は置いてある中で一番長い竹刀を手に取った。
上段に構える。道場主の大政は、物怖じすることもなく、ふわりと正眼の自然な位置に竹刀を置いた。足は悪いらしいが、床に根でも生えたかと思うほどに立ち姿はしっかりとしている。
彰介が気合いを発する。大政は応じない。
対峙のあと、たまりかねた彰介が踏み込んだ。
振り下ろした竹刀と彰介の体の下をくぐり抜けるようにして小柄な老人が通り過ぎた。足が悪いのは紛れもないらしいが、それを補って余りあるほどの鮮やかさであった。
激烈な音と衝撃が走って、彰介は自らが打たれたことに気付いた。目を丸くしたまま竹刀を引き、一礼して引き下がる。
次は、久二郎の番である。正直、この老人の恐るべき身のこなしに久二郎は驚いている。
山間の田舎から出てきた彼らが知っている剣術とはチャンバラ相手としてのお互いと粗暴な賊くらいのもので、これがはじめて彼らが目にするまともな剣技であった。
一礼し、竹刀を目の前に置く。大政老人は相変わらず構えているのかいないのか分からぬような構えである。足の幅が、やや広く開かれている。
久二郎が竹刀の先を合わせる。ぬるりと油のようにかわされ、絡まない。
道場の黒々とした板敷きを、どんと踏みつけた。打ちかかる。
竹刀が軽やかな音を立てた。しかし手元に妙な感触が残っている。
「小手あり、ですかな」
と老人は笑った。久二郎が大振りの一撃を繰り出したとき、即座に小手を打たれていたらしい。
久二郎も一礼し、竹刀を引いた。
座って面を取った状態の二人に、老人は笑いかけた。
「いや、お見事な腕前」
「なにを仰います。我々は貴方に、竹刀の先も触れることはできなかった」
道場破りは失敗である。こんな貧乏そうで、ろくに門下生もおらぬような道場ですらこれである。思っているようにはいかぬものだ、と早く切り上げてしまいたかった。
「いえ、とても良い剣でしたよ。あなた方の気概がよく見えました」
茶も出ぬらしく、出されたのは欠けた椀に水が入っているだけのものである。その椀の欠けに目をやりながら、大政は意外なことを言った。
「もしよろしければ、入門して下さらぬか。寝る場所、食い物の心配はいりません」
帰ろうとしていた二人であったが、一瞬、考えた。彰介が、
「願ってもないこと。実は我々、流れ者で、人を探しに京まで来たのですが、今日食うものにも困る有り様で」
と正直に話した。大政は声を上げて笑い、
「それはそれは。どうぞお探しの人が見つかるまで、こちらでお過ごしなさるがよい」
と言った。なにからなにまで調子外れではあるが、思ってもみない形で彼らは生活の心配から解放された二人は、板敷きに手をつき、よろしくお願い致します。と頭を下げた。
「ところで、もう一人おられる門下生というのは」
「ああ、瀬尾という者で、恐らく年の頃はあなた方と変わらぬか、少し上でしょうか。やはり他国から流れて来て、ここに居付いたのですが、この頃は土佐様の手伝いをしているようで」
土佐様、というのは土佐藩のことである。意外だがこの時代において「藩」という呼称は一般的ではない。その行政単位を指すとき、「藩」と言っても意味は通じるが、例えば「土佐藩」と言いたいときは、市井の者であれば「土佐様」、士分であれば「山内家」とするのが普通である。よって、例えば土佐の者が名乗りを上げるとするならば、「土佐藩、某」とは言わず、「土佐山内家家臣、某」と言うものである。
その土佐様の手伝いをしているという者が、夜になって帰ってきた。
「瞬太郎。こちらは新しい門下の方だ」
と道場で紹介の場を設けてもらった。
瞬太郎と呼ばれた男は、どかりと板敷きに座り、大刀を右側に置くと、ニカリと白い歯を出して、
「瀬尾瞬太郎です。よろしく」
と笑った。背は久二郎よりは高く、彰介よりは低い。粗末な着流しの袷から、日焼けし、てらてらと光る厚い胸板が覗いている。瞼が腫れぼったいような印象だが、笑顔には愛嬌があった。
「これはまた、こんなボロボロの道場に寄宿するとは、奇特なことで」
瞬太郎は冗談を言った。どこの出身なのかは分からぬが、明るい抑揚を持つ訛りで話す。
「道場の掃除を手伝ってもらっていたのだ。食事の準備を三人でしてほしい。案内をしてあげてくれ」
「いいですよ。じゃ、お二人さん、こっちだ」
三人で道場を後にした。瞬太郎が厨まで案内するため、先に立って歩く。久二郎がその後に続き、更に彰介。
瞬太郎の持つ短い手蝋の燃える匂いとは別に、久二郎は別の匂いを嗅ぎ取っていた。
──血の、匂い?
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