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前編 Get-well bouquet give to you
恋に落ちた音がした
しおりを挟む企業の中でも大手と謳われる△□社は、様々な事業に手広く取り組む先進社だ。社員は皆、高い意識を持って社の経営理念に則り、常に上を目指す心持ちで日々業務に勤しんでいる。
企画部は常に新しい考えを発信し、営業部は社に貢献するべく、数多の仕事を捥ぎ取ってくる。そして、そんな社員たちをバックアップするように、総務部の人間もまた、毎日のように社を駆けずり回っている。
皆一様に働き詰めの毎日で、正直心的ストレスも多い事間違いないこの会社。その中でも最も繁忙とされるのは、間違いなく人事部であろうと皆は語る。
日々奮闘して働く社員、その状態全てを隅々まで把握する事は勿論、人事部は、社に害をなす者はすぐさま探し出し、合法的且つ迅速に対処をしなくてはならない。
△□社は大きな社だ。社員とて十数万は下らない。それら全てを把握する事でさえ大変だというのに、そんな社の情報を奪おうとする下賤な輩も少なくない。それでも社に献身しようと、△□社の人事部の人間は、日々一所懸命仕事に取り組んでいた。
その中でも、とりわけ部を取り締まる長は評判で。どんな些末な事でさえも記憶し、害なす存在になり得る芽は素早く摘み取る、まさに人事部の鬼と言われる男であった。
男の名は、紫葉宗一。彼は、齢二十九とまだ若輩者の身でありながら、既に三年も部の長を任されてきた有望な男性だ。
整った見目と、上背のある体躯。一見冷徹そうに見える涼やかな切れ長の眼は、パリッと糊の効いたスーツを着ている姿と相まれば目を引いて、社の女性陣からの人気も高い。
将来有望、かつイケメンとくれば、女性が見逃すはずもない。…………にもかかわらず、男・紫葉には決して、浮いた噂の一つもなかった。
その理由は単純明白。紫葉自身が恋愛に一切の興味を持っておらず、社に貢献することを至高と考える、社畜の鑑であったからだ。
毎日誰よりも早くに出勤し、そして、誰よりも遅い時間に退社をする。私生活など何のそので、自宅なんて寝に帰るだけの場だと平然と言ってのける。自身が人事部であるから、最悪の事態にならぬ様調整はしているものの、そんな男に、いつしか群がる女もいなくなっていた。
――――そんな紫葉が、ここ連日、帰宅時間を早めている。
そんな噂が、ある時から社に広まった。
『あの人事の紫葉が……』という驚愕さから、その噂が社全体に広まるのはいつになく迅速で、結果その真偽を確かめようと一人の男が動いたのだった。
かちり、と、オフィス中央に備え付けられている時計が定時の時刻を指した。それを確認するや、紫葉は速やかに帰宅準備に取り掛かる。
何か嫌な予感がする。その一心で、そそくさと鞄に書類とノートパソコンを仕舞い込み、よし帰ろう、と身支度を整えた、その時。
「紫葉部長」
不意にそう、デスクの向こう側から呼び止められ、紫葉は腰を上げかけた体勢で動きを止めた。そして、そのままはぁ、とあからさまに大きくため息を吐く。
すると、すぐさまこちらを嗜めるような声が飛んできた。
「おいおい、お前、挨拶も無しにいきなりため息なんて、そいつはないだろー?」
面倒なのに捕まってしまった。そう思いつつ、渋々頭を上げれば、紫葉の眉間には自然皺が寄る。
なにも、その声が部下のものだったのなら、紫葉もここまで邪険にはしなかったろう。聞こえてきたものが、酷く耳馴染みのある、ひどくおどけた調子の低い声であったものだから、紫葉は見るからに嫌悪感を顔に滲ませた。
「…………何の御用でしょうか、旭顧問」
ヘラヘラとイケすかない表情を浮かべる男、企画部顧問・旭将虎を前に、紫葉はこれまたあからさまな程嫌そうな顔を浮かべ、そう尋ねた。
しかし、当の旭はというと、そんな紫葉の応対に決して堪えた様子もなく、おうと口を開いた。
「お前に聞きたいことがあってな! ちょっと付き合え」
その言葉に、紫葉の眉間には益々深い皺が刻まれた。
この旭将虎と言う男は、見た目は白い肌と細い体躯で、一見名前に似合わず儚げな印象を与える男なのだが、その実一度口を開けばやれ面白みに欠けるだの、こうすればもっと凄いだの、面倒事を持ってくる常習犯だ。
加えて、それをあたかも武勇伝のように語る話したがりで、『高校の始業式に、面白さを追求するあまり髪を金色に染めて登校した』などの過去を聞くだけでも、その厄介さは一入。
旭と紫葉は、一応大学の先輩、後輩に位置する間柄なのだが、それでも面倒事を嫌う紫葉からしてみれば、彼とはあまり関わりたくないという思いは強い。
紫葉は、やはり嫌な予感程的中するものだな、とどうせまた仕様のない話だろうと、静かに口を開いた。
「申し訳ございませんが、俺はこれから帰宅する身ですので、仕事の話ならまた明日、改めて――――、」
「そう、それだ」
明日にしてください、そう言いかけたその言葉はしかし、旭が身を乗り出し被せてきた言葉によって掻き消された。
その突然の近距離に、思わず紫葉は身を逸らす。
「……それ、とは?」
「いやな、紫葉。今までお前は、俺が何遍言ったって家に帰らないわ、飲み会を開いても来ないわで、ずっと仕事一辺倒だったろう。それが、ここ最近は連日、定時の早い時間に帰ってるって話じゃないか」
『なんだって急に?』続けて問われたその言葉に、紫葉はぐっと言葉を詰まらせた。
――――まったく、この人はこういう時ばかり、本当に目ざとい。
瞬間、そんなことを思う。こういう所がまた苦手なんだ、と。
しかし、旭は紫葉の解答を聞くまで待つ心意気のようで、ただ一心に淡い色の双眸を向けてくる。
「いやな、別に俺は、お前が早く帰る事を責めてる訳じゃないぜ? 俺だって余り残業はしない口だからな。……ただ、社畜の権化と名高い紫葉宗一が、定時に、いそいそと帰っている……なぁんて、絶対何か理由があるんだろう? なぁ、俺達の仲じゃないか。教えてくれよ、紫葉!」
キラキラと、まるで新しい玩具でも見つけた子供の様に目を輝かせる旭は、はっきり言って面倒くさかった。しかも経験上、この男は中々粘り強く、納得のいく答えを聞き出さないと離れようとしないから、尚の事性質が悪い。
どうしたらこの男から逃れられるだろうか、と紫葉が頭を抑えてまた溜息を零していると……不意に脇から一つ、明るい声が掛かった。
「病院に行かれるんですよ」
思わぬ所から返答があった事に、紫葉も、尋ねた旭自身も驚いて声のした方へと顔を向けた。その声の主は、ぱっちりとまん丸な瞳を二人に向け、にっこりと笑っていた。
「紫葉部長の甥っ子さんが、つい最近入院されたんです」
にっこりと人の良い笑みを浮かべた女性、堀切陽菜は旭に向けてそう続けた。
「すみません、私が勝手に言うのもどうかとは思ったんですけど、何だか紫葉部長言いにくそうだったので……」
気に障ってしまったのならすみません。堀切はそう言って、申し訳なさそうに眉を下げ、紫葉へと再度謝罪を繰り返した。その言葉に、一瞬呆気に取られていた紫葉も我に返り、ああいや、と口を開いた。
「俺がすぐに言わなかったのが原因だろう。だから別に謝らなくていい。……それに、お前自身も無関係かと言えばそうではないんだ。気になっても仕方がない」
気を引き締めようと一つ咳払いをし、堀切へと向き直る。そうすれば、堀切はその言葉に安堵したようで、ほっと一つ息を漏らした。
彼女は非常に目端の利く人だから、おそらく悩む自分を見兼ねて助け船を寄越してくれたのだろう。気が利く部下を持てて幸せ者だな、と、紫葉も続けて安堵の息を零した。
すると、今まで紫葉と同じく呆然としていた旭も、漸く我に返ったのか、二人に向けて勢いよく待ったと制止を掛けてきた。
「いや待て待て! 気になる事が多すぎる! あの紫葉が甥っ子の見舞いの為に早く帰るのにも驚きだが、それがどうして堀切と関りがあるんだ⁉︎」
詳しく聞かせてくれと言わんばかりに近寄る旭は、興奮を隠しきれていない様子で紫葉と堀切を交互に見遣った。その様に、やはりこの男は面倒臭い、と、紫葉の口からは何度目かも分からないため息が零れ落ちた。
「甥の友人が堀切の弟で、よく見舞いに来る、それだけです。これで理由もご理解されたと思いますので、俺はもう行きます」
それでは、とだけ残して紫葉は、有無を言わさずスタタタとエレベーターホールへと向かって歩いた。後ろで騒ぐ声がしていたものの気に留めず、運良くすぐに到着したエレベーターへと体を滑り込ませる。
そうして、ようやく静かになった、と紫葉は一階へと向かうエレベーターの中、一人深く長い息を吐き出した。
危ない所だった、もう少し堀切のフォローが遅かったのなら、きっと己はいらない事まで口に出していただろう。
自身の口下手度合いを理解した上で、そんなことを思う。もしそうなっていたならば、恐らく先程の比ではないくらい面倒事が倍増していたに違いない。そう確信したからこそ、紫葉はこうして、自分が余計なことを言わないように、そそくさと逃げる様オフィスを後にしたのだった。
……とは言っても、先程の話は決して嘘偽りなどはなかった。実際、初めの頃の帰宅理由はそうだったのだから。
姉の息子である甥っ子は、今年で十七になる現在高校二年生だ。その甥が、一ヶ月前部活中に足を怪我してしまい、しかも症状がかなり悪い事から入院を余儀なくされた。
初めは母親である姉がずっと面倒を見ていたのだが、それが、どうやらここ数日から急に仕事が忙しくなってきたのだという。加えて、運悪くどうしても外せない短期出張と重なってしまったようで、見舞いに行くことが出来なくなってしまったらしい。
父親はとうの昔に他界している事もあり、そんな中どうにか様子を見てきて欲しいと、母親が白羽の矢を立てたのが、自分の弟である紫葉だった。
紫葉にとっては運が良いのか悪いのか、丁度今の時期は立て込んだ仕事もなく、残業などせず早く帰る事は可能だった。そうすると、多少なりとも可愛がっている甥の為、渋々紫葉もその任を引き受けることを決めたのだ。
そんなこんなで、見舞いの日当日。一先ず見舞いなのだから花は必須だろう、という安直な考えで、紫葉は電車に揺られた後、自宅の駅近くの花屋へと足を踏み入れた。
とはいえ、花屋など生まれてこのかた一度も入ったことはない。それでもまぁ店員に見舞い用として見繕って貰えば間違いはないだろうと、これまた特に何も考えず紫葉は奥にいた一人の店員へと声を掛けた。その声に反応した店員は、ゆっくりと振り返った後、眼帯をしていた故に一つきりの瞳で紫葉を捉え、にっこりと人好きのする笑みを返してきた。
「いらっしゃいませ、どんなご用事でしょうか」
その、まるで融けた蜂蜜のような黄金色の瞳を向けられた、その時。紫葉は、生まれて初めて恋に落ちるという感覚を味わったのだった。
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