Ωの皇妃

永峯 祥司

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第2部

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 太陽が沈んで久しい夜。リューシら一行は港町を離れ、近隣の小さな町ケラカの宿に入っていた。というのも、午後からではあまり進めない為、大きな移動は明日馬車を雇ってという事になったのだ。その馬車で一旦デロックスへ寄り、それからミースへという手順である。

 今度の宿は格安の木賃宿。先のものとそう差はない。違うといえば、客が他にいない事と、女将の愛想が良いという事ぐらいか。
 この日はノット、レイド、リーンが1階、リューシ、バルトリス、セドルアが2階に3人部屋を1部屋ずつ借りている。水回りは1階と2階それぞれに備えられており、ベッドが硬過ぎる以外にこれといって不便はなかった。

 ベッドの1つにごろりと横になり、他にする事もないリューシは、手持ちぶさたに親指と人差し指の腹で挟んだトゥストムを眺める。その傍らにあるはずの二つの影はない。

  保存食の軽い夕食をとった後、先刻リューシの部屋では今日はとにかく疲れを──主に脳の──を休めようというバルトリスの提案が満場一致で支持され、リューシは念入りに拭くだけに止まっていた身体を湯槽に沈める事を望んだ。
 この宿の客は自分たちの他にいない為、黒髪を誰かに見られる気兼ねはせずに済む。ならばひとまず風呂だという事になり、バルトリスが湯を沸かしてくれるよう女将に頼みに行った。そして用意が整ったと部屋まで女将が知らせに来たのが丁度30分程前である。
 この宿の浴場はかなり広く、3人が一度に入っても余裕は充分だったのだが、バルトリスとセドルアは頑なにリューシの一番風呂を主張した。そういうわけで、現在リューシは一人で風呂上がりの身体を冷ましているのだった。

 半透明の中にある花弁を観察するように見つめ、ヘディナの説明を思い起こす。

 ──強く願う、と言っていたな……

 石を指先から手の平に落とし、握ってみた。
 どんな風に願えば良いのかはわからないが、試す価値はあるだろう。試行錯誤しているうちに上手くいくかも知れない。

 知り合いなら繋げられるという事は、互いがどんな人物か認知している必要があるという解釈でいいのだろうか。ならば相手を思い描かなければならないという事か。
 手始めにとにかくはっきりと姿を思い浮かべる。体型、背格好といったものまで脳内で再現する。声も思い出してみる。このぐらいの高さで、こういう特徴があったというところも細かく思い出す。目の前に相手が現れる程の鮮明な記憶を手繰り寄せ、形にしていく。

 ──繋げてくれ──。

 たった一言、声に出さず呟く。
 刹那、トゥストムが熱を持った。

「……っ!?」

 燃えるような熱さではない。身体の芯までじわじわと温めていくかのような温もりである。それが手の平から、激しく柔らかに伝導してくる。

 思わぬ現象に硬直していれば、頭の中にノイズのようなものが走り始める。1回、2回、3回──回数を重ねるごとにそれは明瞭なものになる。耳で聞いているわけではないが、耳を澄ませるような気で注意していた。
 すると、ある瞬間、はっきりとした“声”が響いた。

 《リューシ……か……!?》

 ──成功だ。

 リューシは唇で笑みを形作った。発声して“音声”にする必要がないと知りながら、繋がった相手に呼び掛ける。

「ああ、俺だ。イェン」
《あんた、何で……!》

 直接頭に伝わってくる驚愕の声。今、彼は動揺を表に出しているのだろうか。自分のラシルァンでくつろいでいるところだったならいいが、外なら誰かに怪しまれていてもおかしくない。悪い事をしたかと突発的な己の行動に苦笑してみるも、手の内にあるトゥストムの温度の不規則な上昇が相手の感情を映しているようでくすりと笑みが零れた。

《捜していた女の姉に使い方を教わった》
《姉? なら、もうその女には会えたのか》
《いや、まだだ。だが居場所はわかった。これからそこに向かうところだ》
《そうか……ともかく、上手くいっているようで安心した》

 聞こえるはずのないため息が聞こえてくる。それに伴い、彼の安堵する心情までもがありありと送り込まれる。心を繋いでいるからなのか、前世の世界にあった通信機器では感知出来なかった部分まで届くものらしい。

《こういう事が出来るなら、そちらからしてくれれば良かったものを》

 離れた地での気遣いに対するむず痒さのようなものを誤魔化そうと心中で軽やかな戯れの非難をしてみれば、それもきっちりとイェンの方に伝わる。《俺の方から、と考えないではなかったんだが》と彼はばつが悪そうに言い訳した。この“心の花”の機能からして、声と表情だけでは覚られないような部分も恐らく通じてしまっているだろう。そう思えば一層むず痒い気がする。

《そのトゥストムは、あんたが捜していた女が──どう交渉したのか知らないが──持っていたような記憶があったから渡したんだ。互いに知り合った者の間でしか使えないものでも、もしかするとトゥストム自体が手掛かりになるかも知れないと思って……》
《ん? それでどうしてお前からは繋がないという結論になったんだ》
《……俺が繋いだところで、もう協力出来るような事はないだろう》

 拗ねたような少年染みた調子にリューシは目を一度瞬いた。その直後にイェンの感情も流れ込み、瞬いた目を大きく見開く。

 ──本当はついて行きたかった。護衛くらいなら出来たのに。同行して恩を返したかった。

 セドルアが亡父のマストネラを届けた事。バルトリスが自決しようとした自分たちを止め、暴走の原因をきちんと調べた事。そして、リューシが自分たちを許した事。 イェンは押し潰される程の罪悪感と共に、それを上回る恩義を感じていたのだ。
 アムア石輸出だけでは気が済まないと言った彼の真心を見せられ、リューシはほとほと感じ入った。それが何か非常に尊く、眩しいものであるとも思った。もしへディナらのように魂が見えるなら、彼のその輪郭はきっと美しい。

《イェン。お前が手を貸してくれなければ、ここまで来る事は叶わなかった》

 穏やかな心持ちでそう語り掛ければ、トゥストムが揺らめくように温度を変化させる。

《そんな、事は……っ》
《ある。対価は充分に払って貰った》

 定温になろうとしない石を握り直し、リューシは再度 《イェン》と呼び掛けた。
 “音声”にしていれば酷く静かに鼓膜を震わせたものだっただろう“声”は、花を媒介し代わりに心へ浸透させられる。空気を振動させる間に欠落すべきものが零れずに伝わるからだろうか、その“声”にイェンが身を緊張させた。リューシにはその様子がわかった。

《お前の償いは終わった。いつまでも囚われるな》
《そ、れは……》
《もう罪の意識を持つ事はない》
《だが、俺はまだ、》
《お前は俺の友人だ》

 異論は認めん。高慢に言い切る。
 “声”も他のものも何もない空白が数秒あった後、トゥストムはとろ火のようにリューシの手を温めた。《リューシ》と今度はイェンの方が呼ぶ。

《ありがとう》

 ずしり、と重みを持って言葉が落ち込んできた。
 何に対する感謝の言葉なのか、それは自分に伝搬するものが複雑過ぎているせいで正確には読み取れないが、受け止めるには質量だけで充分だった。

《次はお前の方から繋げ》

 少々の尊大さを含ませながら伝える。1拍の間。じわりと温度を上昇させたトゥストムと共に《ああ》と嬉しさを滲ませた応答があった。

 適当に挨拶を交わして握っていた手を開けば、繋がりが切れる。電話や無線のようなブツッという断絶する切れ方でははなく、余韻を残しながらのなだらかなものだった。仰向けに転がったままで石を胸元に落とせば温かさはまだ残っているように思えた。
 
 別に友達ごっこをしたかったわけではなかった。お美しい友情を築くつもりは微塵もない。ただ、彼は間違いなく自分の友なのだ。

 この世界に転生してから、リューシにとって友と呼べる存在は片手で足りる程度しかいない。その数少ない友人の一人にイェンは加わったという事だ。久しく変化しなかった「友人リスト」に変化があったとも言う。

 友人という概念に釣られ、ここでリューシの頭にはかの赤毛の男が割り込んでくる。
 「友人リスト」の筆頭株。それがバルトリスなわけだが、長らく悪友という位置に収まっていた彼との関係は歪になり始めている。そして、その変質しようと疼きつつある関係性に引き摺られるように、自分に無関心であったはずのセドルアも。

 ──いつからだ。いつからおかしくなった。

 そういう事に鈍過ぎるのだと、事あるごとに“彼女”に言われていた。その席が空いていないと知っていながら言い寄って来る女に気付かないと、いつも叱られていた。そして、気付いた時には大抵拗れている。
 また、やってしまったのだろうか。
 
 ぐるりと身体を横に向け、首に掛けたトゥストムを握り締める。これを持つ顔見知りは思い浮かべていない。誰に繋ごうというのではなく、小さな子供が毛布やぬいぐるみを心の安息の為に持つような、そうした無意識の衝動であった。

 間抜けな失敗を繰り返す男を、なぜ彼らは想うのか。なぜよりによって自分なのか。
 
 バルトリスは「応えてくれとは言わない、忘れないでくれ」と。セドルアは「答えなくてもいい、思い出させてやる」と。自分に明確な意志を伝えた二人に共通するのは、こちらに答えを強いようとしないという事だ。しかし、根本的なところは違っている。
 その言葉通りに自分が答えを出さなければ、バルトリスは気持ちを抱えたままで変わらぬ距離感に戻そうとするだろう。反対に、セドルアはその若さで何か行動を起こすだろう。
 その時、自分はどうする。彼自身の問題だと知らぬふりが出来るのか。彼の想いを簡単に切り捨てられるのか。どうなんだ。しつこく自問してみるが、答えになるものは何もなかった。結局、そうなのだ。

──わからない。

 彼らの想いを否定しようとは思えない。だから困る。

 “リューシ”としての人生を歩み始めた時から、好意を向けられるような事はついぞなかった。故に、ある種の油断が生まれていたのだろう。もし想いを向けられたらどうするかなどはなから考えなかった。あるとすれば、それは自分から。“彼女”のような拠り所を持たないよう、誰かに想いを持たぬよう、ただそれだけを考えて生きてきた。その24年という時間はあまりに長過ぎた。

 どうにかするには、遅過ぎたのだ。
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