Ωの皇妃

永峯 祥司

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第2部

狸寝入り

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 目覚めると、視界一杯に見慣れた顔が広がっていた。
 
 鼻先が触れるような距離にあるその顔を暫し見つめ、ありありと感じる人の体温と胴体にかかっている負荷を認識したところで、リューシはようやく自分がこの男の抱き枕と化している事を悟った。

「おい、バルトリス」

 低く呼んでみるが、ピクリとも反応しない。いつもの鼾もかかずに熟睡しているようだ。戦い慣れた軍人らしい眠りの浅さはどこへ行ったのか。こうなってはちょっとやそっとでは起きまい。
 起こすのは諦め、自力で脱け出そうと試みる。が、本当に抱き枕だと思っているのか、バルトリスの逞しい腕はしっかりと抱えて放さない。筋肉の重みも相まってこのリューシを以てしても脱出困難である。

「……んなとこで馬鹿力発揮してんじゃねぇよ……」

 彼の馬鹿力・・・を最もよく知るリューシは早々に脱出を断念し、いかにも気持ち良さ気に眠りこける男に悪態をついた。大変不本意ではあるが、暫く抱き枕に成りきる他ない。力を込めようとしていた腕を投げ出して脱力する。こいつが目覚めた時にどんな反応をするのか見てやるのもいいだろう。

 ──それにしても、間抜けな寝顔だ。

 ふっと苦笑が漏れる。人を綿の詰まったもの扱いしておいて呑気な事だ。こちらは甘んじてこの状況を受け入れてやっているというのに。恨めしい気分で睨むつもりでいたがどうも毒気を抜かれてしまった。何となく憎めないのがこのバルトリスという男の持ち味である。
 まあ、仕方ない。今までにない至近距離でじっと顔を見つめた。今更特に発見があるわけでもないが、他に見るものもない。相変わらずの間抜け面を晒しているとはいえこれでなかなかいい男で通るものだ。青年期を過ぎた落ち着きが女を惹き付けるのもわからないではない。

 このまま二度寝しようか。人間の温かさがそんな誘惑を持ちかけてくる。
 いや、人の、というより、バルトリスの体温が心地いいのかも知れない。なぜだろうか、この男の腕の中では警戒を解いてしまう。
 もぞもぞと下にずれ、バルトリスの広い胸板に顔を埋める。別に何の意味もないが、そろそろ顔を眺めるのも飽きた。端から見れば子供が母親に甘えているように見えるだろうか。自分でも妙な行動だとは思うが、誰が見るわけでもないなら構わないだろう。万一見られたとしてもバルトリスのせいにしておけばいい。
 それに、まだ早朝であろう今の気温はかなり低い。高所だという事も影響しているのだろう、夜から朝にかけてはかなり冷え込む。暖を取る目的も少なからずあった。
 ただ、誰に見られるでもないと言ってもここにはもう一人いる。そのセドルアだが、幸い彼はラシルァンの隅で規則正しい寝息を立てていた。中央に並んで寝ていたリューシとバルトリスからは不自然に距離があるのは、自分がαである事を考慮しリューシから離れた位置で就寝したものらしい。彼もまだ起きる気配はない。

 やはり、二度寝するか。そう考えた時、胸元に埋めていた頭をぎゅっと抱き締められる。

「ふぁあ……」

 リューシが驚いて身じろぐと同時に、バルトリスが大欠伸をしながら寝返りをうった。しっかりと抱えられている為に仰向けに転がった彼の上に乗り上げてしまう。これは不味い。覆い被さるような体勢で落ち着き、少し緩んだ腕から頭を振って脱け出す。

「おい! 起きろ!」

 最早叩き起こすしかあるまいと鼻を摘まむと、ふごっと妙な音をさせて目を開けた。ぱちくりと瞬く深緑の瞳がリューシを捉える。眠そうなそれが徐々に焦点を合わせ、彼は「おぉ」とよくわからない感嘆を発してリューシの背中をぽんぽんと叩く。

「随分熱烈な目覚ましだな」
「違ぇ!」

 誰のせいでこんな事になっていると思っているのか。二度寝しようという考えはすっかり忘れ、「いつまで抱き枕にするつもりだ馬鹿」と抑えた声で叫ぶ。

「んん? 俺がやったのか、これ」
「他に誰がいる。お前が俺を抱いたままひっくり返ったんだ」
「ああ、それでこの状態――」
「わかったらさっさと放せ」

 悠長に「なるほどな」などと頷く男の頬を引っ張れば、痛い痛いと笑った。面白がっているのか、抱いている腕を解くつもりはないらしい。ふざけているのかと怒ってみせればくつくつと押し殺した笑い声を立てる。小柄とは言えない──むしろ平均よりしっかりした身体の自分が全体重をかけているというのに、まるで重さを感じていないようで何となく腹が立つ。
 
「は・な・せって言ってんだろうが」
「ん~?」

 半ばやけくそになりながら抗議するのをにやにやと受け流し、バルトリスは頭をわしわしと撫でてくる。俺は犬か何かかと文句をつけようとした時、ただ胴体をがっしり掴んでいただけの腕が腰に下ろされた。

「何……」
「こういうのは、嫌か?」
「……っ!?」

 犬を可愛がるようなものとは全く異なる甘い手つきで髪を梳かれ、息が詰まった。つい先程まで悪戯をする子供のように輝いていた深緑には柔らかい慈愛が加わって見つめてくる。

 ──何だ、これは。

 逸らす事が出来ずまともに視線を交わす。
 心臓が鼓動を速める。
 どちらともなく、自然に顔が近づく。

 あと数ミリで唇が触れ合う──というところでバタバタと騒がしい足音がラシルァンの外で響いた。すぐそこで聞こえる物音にパッと体を離す。殆ど反射だった。その直後、扉の役目を果たしている出入口の鹿皮が勢い良く跳ね上げられる。

「隊長っ!!」

 飛び込んで来たのはレイドである。同期3人の中でも特に寡黙な彼には珍しく、興奮した様子だ。

「どうした、とりあえず落ち着け」
「あっ……申し訳ありません。つい、」

 まだ寝入っているセドルアに目を向け、レイドはばつが悪そうに詫びた。何の挨拶もなく押し入った形になってしまったと気付いたのだろう。

「用件は」
「は。実は……」

 落ち着きを取り戻したのを見計らって問うえば、きらりと目を輝かせる。

「パヴィナの居場所が掴めたかも知れません!」

 「何!?」とリューシとバルトリスが身を乗り出したのは同時であった。驚愕する2人にレイドは嬉々として語る。

「どうも明け方に目が覚めてしまって、外をぶらぶら歩いていたんです。そうしたらイェンがいて……少し立ち話をしました。初めは他愛もない世間話だったんですが、そのうち隊長の話に発展して、」
「パヴィナを捜していると言ったのか」
「いえ、そうは言っていません。ただ、『隊長は呪術に詳しい者を捜している』。そう口にしました。するとイェンが、あっと思い出したのです──『そういえば、昔、魔術師のような女が来た事がある』と」
「──!」
「その女はルバルア語を話したそうですが、ウィランドンから来たと、そう話したらしいのです」

 ここで「しかし、ウィランドンの出身者かどうかわからんだろ」とバルトリスが口を挟む。

「それが、わかるんですよ」
「何で」
「イェンが言うには、その女は燃えるような赤毛だった」

 赤毛──それはウィランドン人の最もよく知られる特徴である。ウィランドンに所縁のあるバルトリスの髪は見事な赤毛だ。
 赤毛はウィランドン以外の国ではかなり少数。必ずしも赤毛がウィランドン人だとは限らないが、可能性は極めて高い。

「……わかった」

 ひとつ頷き、リューシは指示を出す。

「お前はノットとリーンに今の話を伝えて、こちらに連れて来い。ひとまず検討しよう」
「はっ」

  ノットは敬礼をし、疾風の如くラシルァンを飛び出して行った。その背中を見送り、リューシは隅で横になっている人物に声をかける。

「セドルア殿下、起きてらっしゃるんでしょう」
「ああ……」

 「は!?」と声を上げるバルトリスに凝視されながら緩慢な動作でセドルアが身を起こした。こちらに向いたアメジストの目は冴え渡っており、明らかに寝起きの顔ではない。

「いつ気付いた」

 悪びれるでもなく尋ねるセドルアに、リューシは淡々と答える。

「睡眠中は唾液の分泌が減少する為、飲み込む動作はほぼなくなるのです。ところが、先程貴方の喉仏が動いたのが見えた。それで十中八九狸寝入りだろうと考えたのですが……逆にお尋ねします。いつお目覚めに?」

 いつもの無表情が僅かに崩れる。視線をすいと横にずらし、「レイドが入って来た時だ」と硬い声で答えた。

「あれだけの大声がすれば目も覚める」

  嘘だな。そう察するが、敢えて言及せずにリューシは頷く。

「そうですか。それならパヴィナの件は既にお聞きになられましたね?」
「ああ。進路をウィランドンへ向ける……と解釈して差し支えないか」
「ええ結構です。まだ彼女だと決まったわけではありませんが、可能性があるものには当たってみるつもりです」
 
 ひとまずイェンからは直接話を聞こうと思うと伝えれば、「だが、」とセドルアが眉を寄せる。

「ウィランドンはルバルアの同盟国だ。危険過ぎはしないか。特にお前は……」

 この第2皇子の言葉にリューシは思わず頬を緩めた。隣のバルトリスもぱちりと驚いたように瞬きをする。

 「ルバルア」と彼は言った。
 皇族は基本的に国と自身を同一視するように教育される。国の存亡は自身の生死であり、自身の命は国の命であると幼い時分から教え込まれるのだ。それは第2皇子であるセドルアとて例外ではない。
 その彼が、「我が国」ではなく、ただ「ルバルア」と言った。たったそれだけの差だが、これは大きな意味を持つ。母国ルバルア帝国と一線を画した――つまり、国を捨てても構わないという意志の現れであった。

 本人がこれを意識して言葉を選んだかどうかはわからない。しかし、自然に口をついて出るという事は、意識していようがいまいが奥底にそういう心持が潜んでいるという事だ。
 皇族であるセドルアが国以外のものに重きを置く。彼を巻き込んだ身としては凄まじい重圧ともなり得る事実だが、どういうわけか、リューシは重苦しさを感じるどころか不思議な安息を覚えているのであった。

「──心配には及びません」

 微笑を湛えたまま、小首を傾げて自分の頭を指す。

「この髪さえ見られなければいい。まさか私が生きているとは思わないでしょう」
「そ……う、だな……」

 歯切れの悪い同意に首を傾げたまま「どうかされましたか」と問えば、また目を逸らされた。

「いや……何でもない。気にするな」

 何でもあるだろう。この皇子は嘘が下手なのだろうか。バルトリスを見るも、軽く背中を叩かれるのみで答えは返されなかった。


◇◇◇


「──本当に行くんだな?」

 表情を引き締めたイェンが念を押す。
 集落の外れまで見送りに出て来た彼の後ろには、ナルノロン──ムルソプト渓谷に落ちる夕日が赤々と燃えている。日没まで数分。目を見張るような絶景だが、その色は血液を彷彿とさせる。見る人によっては不気味な色合いかも知れない。

「ああ。世話になったな」

  鮮明な赤を盛んに輝かせる夕日に目を細め、リューシは答えた。
  魔術師の女の情報を得てから5日。この日はアッサクルム山の麓からアムア石を輸送する荷馬車が出る。リューシら一行は来た時と同じ要領で、それを移動手段にするのだ。港の近くを通り抜ける一瞬に飛び降りるつもりだった。

「ここにいた方が安全だ……と言っても、留まる気にはならないんだろう」
「いつまでも滞在しているわけにはいかないからな。この1週間で随分身体も回復した。そろそろ潮時だ」
「そうか……俺たちとしては、もっともてなさせて欲しかったんだが……」

 残念そうに言うイェンは一人で見送りに来ている。おさのイロトミをはじめとするウラウロイ達はこぞって繰り出そうとしたが、あまり大袈裟にしてくれるなというリューシの意向に沿い彼が押し留めたのであった。彼らの中で自分は「豊かさ」を与えてくれた恩人として見られているらしい、とはリューシはイェンに聞かされて知った。

「せめて、あと1日でもあれば別れを惜しむ時間もあったのに」
「――いや、これ以上待遇を良くして貰ってはこちらの面目が立たない」

 まだ食い下がるイェンはやはり納得しかねるという様子である。
 閉鎖的な部族であるウラウロイ族は客人を歓迎する――リューシの前世で言う「おもてなし」の文化が発展していない。半分ルバルア育ちのイェンにとっては当然の事だろうが、他の者達は違う。にも関わらず衣食住を提供し、酒まで振る舞ってくれた厚意は一般的に言われる「おもてなし」とは勝手が違うのだ。

「おうよ、充分もてなして貰ったぜ」

 リューシの肩に手を置いたバルトリスがにっと歯を見せる。その反対側でリューシの隣に立つセドルアもそうだなと頷いた。

「あんた達がそう言うなら、俺はもう何も言えないが……」

 これだけは貰っておいてくれ。そう言ってイェンはリューシの手に何かを握らせる。硬い感触に手を開けば、それはアムア石のペンダントであった。しかし、その小指の爪程の大きさのアムア石は半透明であり、中には1枚の花びらが閉じ込められている。見たことのない加工だ。

「これは……?」
「トゥストムだ」
「トゥストム?」
「祈りの為の装身具として使われる。この加工技術だけはルバルアの職人に伝えていない」

 なぜこれを自分に。そう尋ねる前に、イェンは言った。

「中の花びらは、『心の花』と呼ばれるものだ」
「『心の花』……」
「いつか役に立つ事があるだろう。肌身離さず持っているといい」
「……? ああ、わかった」

 そろそろ行きましょうと背後からノットが言う。
 思ったよりも長く話し込んでしまった。日が完全に落ち、辺りは闇に沈み始めている。もう麓へ降りなければ出発に間に合わない。

「じゃあな──足元には気を付けろよ」

 イェンが手渡すランタンを受け取り、リューシは「ああ」と頷いた。
  柔らかい光を放つそれを見つめ、外の文明がもたらされたのは果たして彼らにとって幸いであっただろうかと考える。

 ウラウロイにランタンという道具は元は存在しなかった。明かりと言えば、松明を用いるものであった。勿論下界にいたイェンはランタンを知っていたし、日常的に使っていた。初めて目にした時にはこれがあればより安全に明かりを持ち運べると感心したものだったと言う。
 しかし、彼は伝統的なウラウロイ族の生活を守る為にランタンを持ち込まなかった。──否、ランタンだけではない。イェンは下界の文化を何一つとして伝えなかった。彼は利便性と引き換えに失うものがある事を知っていたのだ。そして、ウラウロイがウラウロイである為に、それは歓迎すべき代償ではないと考えていた。

 ところがルバルアと取引をするようになり、夜間の移動の際にランタンは必需品となった。炎が剥き出しの松明ではルバルアとの間でやり取りする大量の荷物を持ち運ぶのに不向きだったのだ。ランタンは危なっかしい運搬作業を見かねたルバルアの御者から伝えられ、普及していった。

 ──ウラウロイ族はランタンを得た代わりに、何を失っただろうか。

 今更自分が考えても仕方のない事だった。だが、考えずにはいられなかった。

「イェン。ありがとう」

 改めて感謝すれば、ウラウロイの若き戦士は照れ臭そうに口角を上げる。
 彼に背を見守られながら、リューシらは運搬の為に幾らか整備された山道を下って行った。
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