Ωの皇妃

永峯 祥司

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第2部

ある男の焦燥と、ある女の憂い

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 壁を殴り付けると、側に控えていた使用人がびくりと肩を震わせた。自分の殺気に怯える彼には注意を払わず、カーテンの隙間から外を窺ったセドルアはチッと舌打ちする。

「なぜ、肝心な時に……!!」

 普段自分の生活するこの棟の周囲は第7部隊の兵士に包囲されている。とても外に出られる状況ではない。4、5人程度なら蹴散らして強行突破する事も可能だった。しかし、これだけの人数が──それも帝国軍の精鋭が守りを固めているとなれば、いくらセドルアでもどうにもならない。

 リューシが拘引されたと、彼の友人のバルトリス・ロドスから知らせを受けた時には己の耳を疑った。彼の部下が障害事件を起こしたという話は聞いていたが、彼に直接関わりのなかったそれが原因で拘引されるとは考えられない。
 では、他に何が。直ぐに兄の顔が浮かんだ。兄が1枚噛んでいる。そう直感した。

 バルトリスは、裁判に乗り込み、リューシの潔白を証言して欲しいと頼んできた。皇子である自分なら容易い事だ。彼に頼まれずとも、そうするつもりだった。
 邪魔が入らないよう裁判の関係者には誰にも知らせず乱入する。そういう話でまとまっていたのだが、今朝、突然第7特別編成部隊隊長だというリスティと名乗る男が押し掛けてきた。

『皇帝陛下のご命令により、本日は外出なさらぬよう監視させて頂きます』

 そう言って第7の兵士に警備を固めさせたのだ。理由を言えと詰め寄っても「陛下のご命令です」と繰り返すばかりであった。
 流石に部屋の中にまでは兵士は入って来なかったが、この扉の前には見張りが張り付いている。当然、廊下にも数人が配置されているし、窓の下にもうようよと蟻のようにうごめいている。扉からも窓からも出られない。裁判所に向かうのは不可能だった。

 自分さえ裁判に出られれば彼の無罪を証明出来るというのに、それが出来ない。もどかしいなどという言葉では表し切れない焦燥感の洪水に呑まれる。皇帝である兄の命令に抗う事の許されない己の立場が憎らしかった。
 いっそ道端で物乞いをする乞食であったなら、兵士に軟禁される事もなかっただろう。誰にも咎められずに裁判所へ向かえただろう。──いや、しかし、物乞いでは裁判所に入れて貰えない。では自分が何なら彼を──リューシを救えるのか。なぜこうも自由と権力は両立しないのか。

 衝動を抑えるように再度窓の外を覗くと、長身の男がリスティと揉めていた。男の軍服の刺繍は遠過ぎてわからないが、軍帽の下に赤い色がちらりと見えた。バルトリスだ。
 彼がここにいるという事は、裁判は終わったのだろう。意外に律儀なあの男はそれを報告せんと出向いたに違いない。

 遠目に見える赤毛の軍医長は暫しリスティと押し問答をしていたが、どうやら言い負かしたらしかった。急ぎ足で真っ直ぐにポーチへ向かって来る。
 
「おい」

 カーテンを閉め直し振り返る。裏返った声で答えた使用人に、セドルアは扉を指した。

「客が来る。外で待っていろ」


◇◇◇


 くしゃりと手の内に握り締めた封筒が音を立てた。
 素っ気ない、長方形の白い封筒。この中には「絶縁状」が入っている。

 死にはしない。そう言って主がこの離れを後にしてから、もう3日が経過していた。今日の午前には裁判があったが、傍聴席に座る勇気はなかった。証言台に立つ彼の姿を見てしまえば、自分はどうなるかわからない。
 もしもこの3日の間に彼が酷い仕打ちを受けていたら。心身に無惨な傷が与えられていたら……それを直視する自信がなかった。
 誰より強く、しなやかな主だ。滅多な事では揺るぎはしない。わかっている。だが、どういうわけか、胸騒ぎがしてならないのだ。

 たった一人で籠っている離れはあまりに広かった。
 仕事が忙しく帰宅出来ない日が続いても、主は必ず毎日使いを寄越した。近頃では走り書きのメモを使者から受け取るのが日課のようにもなっていた。
 それが、今はない。主がどうしているのか、何もわからない。何よりそれが怖かった。
 せめてこちらから手紙でも出せないものかと思ったが、それも主宛てであるとわかれば届けて貰えない。24年もの間寄り添ってきた子供が手の届かない場所にいる事が何よりヤスミーを苦しめていた。

 そうして一心に主の無事を祈りながら離れで過ごしていた時、この封筒を受け取ったのであった。
 これはラヴォル家当主──つまり、リューシの父親から出されたものだ。今朝、仮の受取人であるヤスミーの元へ本館で働いている使用人が届けに来た。書類と言う程のものではない。中に入っていた便箋にはただ一言、「親子の縁を切る」とだけ記されていた。

 当主にはリューシが拘引されて直ぐに知らせに行ったが、書斎に居た彼の反応は、庭で飼っていた番犬のうちの一頭が死んだ時と殆ど同じであった。「そうか」と呟き、ペンをインクに浸けた。唯一違っていたのは、その後に「ラヴォルの面汚しめ」と忌々しそうに溢した事だ。
 それから2、3時間もしないうちに封筒が送り付けられた。

 心配するなどという親らしい挙動が望めないのはわかり切っていた。しかし、こうも呆気なく、縁を切ると言い出すものか。こんな紙切れ一枚で、あの子は家を失うのか。

 当主の決定は絶対だ。皇妃であるリューシにも、生家の当主に逆らう権限はない。ラヴォルに縁を切られた以上、彼は本当にたった一人でこの悪意に満ちた世界に放り出される。
 バルトリスやコリネリといった彼に好意的な人間も僅かにいるにはいる。だが、それが何になる? 一人や二人の好意は何千万という悪意に塗り潰されてしまう。インクに1滴の水を垂らしても意味がないように、膨大な悪意の前で一人の好意に力はない。

 めでたく無罪になったとして、自由の身になったとして、あの子はどうやって生きて行けばいいのだろう。子供の頃から人を頼る事に異様な拒絶を見せる子だ。誰より味方のいないあの子は、誰と生きればいいのだろう。

 とりとめのない思いがぐるぐると廻り続ける。無意識に涙があふれた。悲しいのではない。悔しいのでもない。こんなやり場のない気持ちはどう扱えばいいのかわからない。

 封筒を握ったままソファに体を沈める。
 3日と半日の殆どを応接室の真ん中のここで過ごした。いつ使者が来ても直ぐに応対出来るように。しかし、意味はなかった。

 カチリ、カチリ、と置時計の音が時を刻む。無機質なその音が胸を抉る。針が進むごとに、あの子は傷付いている。

 不意に、静かな時の流れに異質な音が割り込んだ。それがやけにはっきりと耳に反響する。ヤスミーは弾かれたように立ち上がった。そのままバタバタと駆けて行く。
 玄関の扉を開ければ、よく見知った顔が現れた。

「バルトリスさん、」

 窒息するように呼び掛けると、呼び鈴を鳴らした張本人は眉間に皺を寄せて中へ入るよう促す。
 裁判はどうなりました? 坊っちゃんは? 無罪を証明出来るのですか? 尋ねたい事は山ほどある。だが、どうしても、どれも声にはならなかった。
 応接室へ通せば、腰も下ろさず彼は暫しの沈黙の後に口を開いた。「ヤスミーさん」と酷く落ち着いた声で言う。

「あいつの──リューシの裁判ですがね、」
「無罪に……?」
「いや、」

 何かを言おうとして、バルトリスは唇を引き結んだ。精悍な顔が苦し気に歪む。ぐっと奥歯を噛み締めたのがわかった。

「それで、どうなったのですか? 坊っちゃんは帰って来られるのですか?」

 聞きたくない。その気持ちに逆らうように先を急かす。急かされる側は表情を一層険しくし、絞り出すように言う。

「有罪になるのは、ほぼ……間違いない」
「何ですって……!?」

 文字通り、頭が真っ白になった。

「どういう事ですっ!!」

 自分でも驚く程の大声に、バルトリスが目を見開く。あまりの剣幕に面食らっているようだ。ヤスミーは主の友人であるこの男の前で声を荒らげた試しがなかった。

「なぜ坊っちゃんが無実の罪を着せられなければならないのですか!! なぜ潔白を証明出来ないのですか!!」
「ヤスミーさん、落ち着いて……」
「落ち着けるわけないでしょう!?」

 バルトリスの軍服を掴み、既に涙に濡れた顔で叫ぶ。
 彼に感情をぶつけるのは間違っている。そんな事はわかり切っていた。彼に当たったところで何も変わらないのもわかっている。だが、もうどうにもならなかった。

「坊っちゃんはどこにいるの? 拷問なんて受けてないでしょうね? 貴方、坊っちゃんのお姿を見たでしょう? 怪我をしてなかった? 顔色は悪くなかった? しゃんと真っ直ぐに立っていた?」

 矢継ぎ早に質問を浴びせる。玄関口でつっかえていたものが一気に溢れ出していた。
 責め立てられるバルトリスは自分の軍服を引き千切らんばかりのヤスミーの肩に手を置いた。それから僅かな迷いを見せた後に、ふぅっと大きく息をつく。彼は強い視線を投げ掛けてきた。

「敢えてはっきり言う。貴女には知る権利……いや、義務がある。あいつは、牢で──」

 その先は、なぜか明瞭に覚えている。一言一句違わずバルトリスの言葉を復唱する事が出来た。口にするのも憚られるその内容を、何度も、何度も。バルトリスが帰った後も、そればかりが頭の中を埋め尽くしていた。
 リューシの惨状は公にはなっていないが、既に噂は出回り始めているという。

 ──私は、傍聴席に座るべきだった。

 今になって後悔が押し寄せてくる。
 主を案ずる乳母の胸騒ぎは見事に的中してしまったのだ。
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