Ωの皇妃

永峯 祥司

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第2部

開廷

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 裁判が始まる直前になって、バルトリスは一向に落ち着かなかった。

 軍医長の権限でコリネリ、ノット、レイド、リーンを引き連れ傍聴席に座る事が出来たが、肝心の人物がこちらに到着したという連絡がまだないのだ。その人物がいなければリューシの無実の証明は為し得ない。
 痺れを切らしコリネリに確かめに行けと言い付けようと顔を向けた時、裁判官らが法廷に入場して来た。

「いよいよ……始まりますね」

 緊張した面持ちのコリネリが小さく言う。その隣に並んでいる若い3人も顔を強張らせ、一心に前を見つめている。

 彼らをここに連れて来るのにコリネリは反対した。「罪に問われ裁判にかけられているところを部下に見られたい人はいないでしょう」と渋ったが、バルトリスがお前だってその部下じゃないかと言って押し切ったのだ。第一、コリネリが止めたからといって聞くような奴らではない。

  裁判長が席に着き、続いて被告人の入場になる。法廷の後方の出入口に注目が集まった。バルトリスも眉間に皺を刻みながらそちらを睨む。あそこから、リューシが姿を見せるのだ。

 重い扉が開かれ、二人の憲兵が先立って入場する。それに続いて現れた姿に、傍聴席はざわついた。

 あれが、リューシ・ラヴォルなのか。

 彼を知る誰もが己の目を疑った。
 短い黒髪は確かに彼その人だ。しかし、彼ではない。
 そこに気高きルバルア帝国の軍人はいなかった。

 両脇を看守に挟まれ、手首に縄を掛けられた彼の服装はいつもの軍服ではなく、簡素な白の上下の囚人服である。襟ぐりの大きなその服では普段隠れているΩのうなじ保護用首輪が露になっている。鎧のようにカーキ色を纏っていた隙のない姿とは似ても似つかない。
 しかし、それだけなら彼の彼たるものは損なわれなかったはずだった。
 だが、その目は。あの鷹と形容された鋭い目は。ダークブラウンの輝きは。
 今は虚ろに、何も映してはいなかった。

「隊ちょ……っ」

 叫びかけるノットの肩をレイドが押さえる。そのレイド自身も唇を噛み締め、変わり果てた自分の上司を凝視する。リーンはただ、泣き出しそうな目を向けた。

「あれが……ラヴォル、隊長……?」

 呆然としたコリネリの呟きがやけに強くバルトリスの耳に響いた。

 後悔した。コリネリの言う通りにすべきだった。彼に心酔する部下達を、この場に連れて来るべきではなかった。

 どんな局面であろうと、バルトリスの知るリューシ・ラヴォルは決して揺るがなかった。ひびの入ったガラスのようでありながら、不思議にその佇まいは何者にも崩せなかった。
 だから、大丈夫だと。そう高を括っていた。

 証言台に向かって歩かされるリューシの動きに、バルトリスは違和感を覚えた。

 ──腰を、庇っている……?

 最初に彼が強姦された夜。あの時の歩き方と重なる。
 まさか。一瞬真っ白になった頭を叱咤し、もっとよく見ようと柵を乗り越える程身を乗り出す。その様子にコリネリが怪訝な顔をするが、気にしている余裕はなかった。

 大きな襟ぐりから覗いている鎖骨の辺りに鬱血痕が複数。首輪の周りにも数ヶ所。両手首には縄の下に強く掴まれたような痣。顔には目立った外傷はないが、何度か噛み切ったのか、唇が赤く腫れている。

 そして、あの腰を庇う歩き方。

 疑うに及ばなかった。
 彼は、この3日間、誰かに辱しめられていた。

 血が沸騰するという感覚を初めて味わった、ナルノロンで彼が強姦される場面を直接目にした時よりも更に抑えが効かない激情が体を駆け巡った。

 何に対しても動じない彼にも確実に痛手を与える唯一の方法を、誰よりバルトリスは理解していた。
 どんなαの男よりαらしい彼がΩの身体であると内側に刻み付けられる事。それはたったの3日で彼が壊れてしまうには充分な理由であった。彼のひび割れた心が音を立てて砕けるには、大き過ぎる衝撃だった。
 殴られ蹴られ切り付けられる拷問なら、彼はいくらでも耐えただろう。四肢をもがれても己を失わなかっただろう。だが、これだけは。この暴力だけは確実に彼を殺してしまう。

 自分が知る限り彼は既に二度、その拷問に耐えていた。もう限界を超え、無理やり精神を保っていたのだ。
 そこに重ねて同じ──いや、それ以上の暴力を受ければ、彼の精神が簡単に崩壊するのは明白だった。だからノットに対してでさえ警戒し、自分の目の届く限り細心の注意を払っていたというのに。

 彼のあの白い肉体に押し入った、誰とも知れない男が憎い。彼の尊厳を己の快楽で踏みにじった男が憎い。そんな状況を作り出す事を許した、皇帝が憎い。

 この場にあの男がいれば、睨み付ける事も出来た。しかし、、今、あの男は愛しい愛しい皇后とウィランドンへ旅行に出掛けている。国王との対談という名目ではあるが、その実、ただの新婚旅行だ。
 皇后にはリューシの裁判について何も知らせていないだろう。全ての元凶は、何も知らずに笑っているのだろう。

 憎悪に狂いそうになりながら、バルトリスは証言台に立ったリューシを凝視した。
 ここで自分が喚いたとしても事態は好転しないのだ。頼みの綱の到着を待つ他ない。
 
 動揺の中、とうとう、裁判は開廷された。

「被告人、リューシ・ラヴォルは己の部下の管理を怠った上で夫である皇帝陛下に対し暴言を吐き、更には同じ夫を持つ皇后陛下をみだりに誘惑し関係を強制した。よってここにその罪を問い、審議する事とする」

 裁判官の陳述をリューシは無表情で聞いている。いや、聞いていないのかも知れないが。

「被告人は罪を認めるか」

 裁判官がリューシに問う。しかし、答えはない。沈黙する彼に傍聴席がざわめく。

「静粛に」

 裁判官の一声である程度静けさが戻るものの、バルトリスの隣にいた一般人の男は尚も喋り続けた。普段会話する分には耳につかないのだろうが、周りが鎮まった今はその内容が筒抜けである。

「──何でも、独房に入れてもらえなかったそうじゃないか」

 その一言にバルトリスは食いついた。

「それはどういう事だ」

 突如締め上げんばかりに問いただし始めた軍人に怯えながら、男は「別に、ただの噂ですよ」と言う。

「構わん、話せ」
「いや……その、」
「言え」
 
 凄んでみせれば、男はわかりましたよと手を挙げる。元々よく喋るたちなのか、怯えから饒舌になっているだけなのかわからないが、彼はペラペラと捲し立てた。

「あくまでも噂話なんですがね、身分の高い方が入れられるのは綺麗な寝室みたいな独房だって言いますけど、リューシ様は普通の囚人が入れられる独房にも入れて貰えなかったって……噂でね? 噂で聞いたんですよ」

それでですね、と求められてもいないのに続ける。

「リューシ様の入った牢の中に、国内の監獄を転々と──まあ、要はたらい回し・・・・・にされてるわけですが、そういう凶悪犯が何人もいたようなんですよ」

 先を聞きたくない。だが、確かめねばならない。

「……それで?」

 身を引き千切られる思いで尋ねれば、男は少し躊躇する素振りを見せ、声を落とした。

「あんまりお耳に入れて気持ちのいい事じゃないでしょうが……リューシ様は、その囚人共に輪姦まわされてたそうで……」

 だからあんな痛ましいお姿なんだろうと思いますよ、という台詞はバルトリスには聞こえなかった。

 『輪姦まわされていた』

  その言葉だけが耳鳴りのように響いている。
 なぜこんな事に。なぜ彼がこんな目に遭わなければならない。彼が何をした?

「くそ……!」

 ぎりりと奥歯を噛み締める。
 だが、今ここで、自分に出来る事は何もない。ただ裁判の成り行きを傍観するしかないのだ。

「──では、弁護人」

 反応のないリューシから証言をとる事を諦めたのか、裁判長はいつの間にか弁護士に話を振っていた。

「えー、」

 こほんと咳払いし、身なりのいい男が目だけで辺りを見回す。

「この通り、被告人は心身を故障しております。被告人本人から証言をするのは難しいと思われますので、私が代弁させて頂きます」

 ざわりとまた傍聴席が騒がしくなる。

「静粛に──弁護人、陳述を」
「まず、こちらとしては“監督不行き届き”、“不敬”、“不義”の罪状に関しまして、“不敬”のみ否認という主張を申し上げます」

 隣でコリネリがガタリと音を立てて立ち上がった。

「“不敬”のみ、だと……!?」
 「有り得ない!」

 レイドとリーンが止めるのも間に合わず、ノットが叫んだ。わなわなと震える拳を傍聴席の柵に叩き付ける。

「傍聴人、静粛に」

 裁判長がジャッジ・ガベルを叩く。
 傍聴席にいる自分たちが心証を悪くしてしまうと判決に影響が出るかも知れない。ノットの気持ちは痛い程わかるが、ここでは堪えなければなるまい。バルトリスは喉元まで出かかった弁護士に対する非難を飲み下し、鋭くノットに呼び掛けた。

「座れ、ノット」
「しかし、」
「いいから、座れ。わかってるだろ。傍聴人は裁判には口出し出来ない。とにかく黙って見てろ」

 それとも、お前があいつの罪を重くするか? 
 そう言えば、ノットは悔し気に顔を歪め乱暴に腰を下ろし直した。やれやれという風にそれを見、こほん、と弁護士がもう一度咳払いをする。

「えー、皇帝陛下に暴言を吐いたという内容ですが、これについては……正しくは暴言ではなく、忠言です。被告人は皇后補佐としての職務を担っており、その一貫で陛下と議論をする事もしばしばありました」
「他には」
「いえ……以上です」

 弁護士はこれで充分役目は果たしたと言わんばかりに悠々と自席へ戻った。
 あまりに呆気ない。リューシの弁護をしなければならないというのに、ただの5分も喋っていないではないか。

 バルトリスは確信した。
 この男は、形だけの弁護人であると。

「では、証人尋問へ移る。証人は証言台へ」

 リューシと入れ替わり、質素な服装の地味な女が証言台に立つ。そばかすの目立つ顔はまだ若い。不潔ではないがどこか野暮ったく、狡賢い印象の女であった。

「名前と職業、陳述を」
「はい。ミエリャ・イコル、皇后陛下──ミハネ様の侍女を務めております。近頃ミハネ様のご様子がおかしいと、皇帝陛下からお話は伺っておりました」
「それで?」
「陛下は、ミハネ様の動向を暫く監視して欲しいと、そう私に命じられました──」

 ミエリャという女の証言はこうである。

 皇帝の命令に従ってミハネを監視したところ、彼女は頻繁にリューシの元を訪れていた。しかしそれは彼女の意志ではなく、リューシに脅されていたのだ。リューシはミハネに性的関係も強要し、辱しめる事で自分が皇后になれなかった腹いせをした。何の罪もない慈悲深く美しい皇后がそのような憂き目に遭っていたなど、悔しいやら悲しいやら──と。

 女が語り終わると、法廷は騒然とした。
 あの冷徹軍人ならやりかねない。そんな声がどこかから聞こえた。

「あの女……好き勝手言いやがって……!」

 きつく拳を握り締め、バルトリスは証言台に立つ女を睨み付ける。彼にはもう、食い殺さんばかりの形相で歯ぎしりするコリネリ達を宥める余裕は残されていなかった。
 明らかに捏造されたその陳述を、裁判長らは真面目な顔つきで聴いているのだ。心証がどうこうなど関係ない。弁護士も裁判官も、全員がリューシを有罪にする為に動いている。そうとしか思えなかった。

「……なんだ。それじゃ、結局自業自得だったって事か」

 先程までペラペラと喋っていたバルトリスの隣の男が、少しでも同情して損をしたという風に言う。今度は左隣の別の者と皇后様が気の毒だと話し始めた。
 ものの数分で、傍聴席の同情は完全にミハネへ向けられたのである。

 ──お前らが気の毒がっている小娘は今、呑気に旅行をしているんだぞ? 

 こんな裁判があってたまるか。

 この法廷にリューシの味方は自分たちの他にいない。しかし、嫌悪と軽蔑を一身に受ける状況の中で、彼は何も反応を見せなかった。陶器の人形のように、表情もなくじっと座り続けている。その様子がかえって痛々しい。

「畜生……っ、まだ到着しないのか……!」

 あの男が来さえすればこの裁判で逆転出来る可能性がある。それなのに、なぜまだ来ない? いつまでこいつらの好きにさせる?

  憤りと苛立ちが、まだ姿を見せない人物に向かう。
 やはり誰かに確かめに行かせようと考えるが、思い直した。知らせを待っている間耐えられるかどうかわからない。

 席を立とうとした丁度その瞬間、傍聴席の出入口の扉が勢いよく開け放たれた。そこから若い兵士が駆け込んで来る。名前は知らないが、軍服の刺繍でわかった。第1部隊の兵士である。
 彼はバルトリスの席まで来ると、額に汗を滲ませながら声を抑えて言った。

「軍医長、セドルア殿下が──」
「来たか!」
「いえ、軍医長、殿下が……皇帝陛下のご命令で、軟禁されたと……!」
「……っ!? 何だと!?」

 血の気が引いた。
 
「どうなってる!」

 コリネリが身を乗り出して問うと、兵士は「詳しい事はわかりません」と青ざめた顔で答えた。

「ただ……殿下がここで証言出来なくなったのは確かです。第7の連中が殿下の周囲を固めていて、とても身動きがとれる状態ではありません」
「くそっ……読まれてたってのか……!!」

  3日前、コリネリから話を聞いた直ぐ後、バルトリスは証人として裁判に参加してくれるようセドルアに頼んでいた。勿論、裁判の関係者には誰にも知らせていない。あくまで皇子の権威で、この裁判に割り込んで・・・・・貰う手筈であった。

 皇族に対抗出来るのは皇族しかいない。そう考えた時、最も有効な手立てのはずだった。セドルアはリューシの潔白を証明する切り札だったのだ。バルトリスだけでなくコリネリらもそれに賛同し、望みを賭けていた。
  それなのに。その切り札が軟禁されていると言う。


 希望は、完全に絶たれた。


 会話が聞こえていなかったノット達が不安気な表情でこちらを窺っている。どう彼らに説明すればいいというのか。ちらとコリネリを見るが、彼も同じ事を考えているらしかった。

 セドルアの証言がない裁判で、リューシの有罪は確実である。自分たちに判決を覆す力はない。
 一体、その刑罰はどこまで重くなるのか。考えれば考える程、どうしようもない無力感に襲われる。

 絶望。
 これ程その単語に相応しい状況があろうとは。
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