Ωの皇妃

永峯 祥司

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第2部

セドルアの衝動

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何となく手持ちぶさたで宮殿内を歩き回っていた時、聞き覚えのある声が耳に飛び込んだ。

「──では、私はこれで」

 ラヴォル。
 
 主人の足音を聞き付けた犬のように反応する自分に思わず苦笑が漏れる。そこまで彼に侵食されているとは。気付かなかった。

 声はこの曲がり角の先から聞こえる。

 今行けば──

 無意識に早足になる。
 とうとう角を曲がろうとしたその時、彼の姿が見えた。いや、彼だけではない。

「ホントに帰っちゃうの? もっと一緒にお喋りしたいのに……」
「仕事を残しておりますので」

 ──ラヴォルと……誰だ?

「リューシもたまには休憩しなきゃ」
「いえ、お気遣いなく」
「そうだ! あたしの部屋に行こうよ! それならお茶も出来るし、ゆっくりお話も出来るよ?」

 フードを被った女が彼の腕を引いている。言い様のない不快感が腹の奥から込み上げた。何だ、あの女は。
 甘えた声は紛れもなく男を誘うものだ。確かに彼はΩでありながら身長も低くなく、精悍な容姿に恵まれている。だが、皇妃である彼にあそこまで露骨なアプローチを掛ける女がいるものか。皇室の者との不義は重罪だ。

 余程の馬鹿か。あるいは、余程自分に自信があるか。

「ラヴォル」

 呼び掛ければ、ダークブラウンの瞳が自分を捉えた。「セドルア殿下」と小さく唇が動く。
 何を口実にしようか。咄嗟に頭を働かせる。

「何をしている」

  自分の頭が捻り出した台詞は驚く程気の利かないものだった。案の定、リューシの表情に困惑の色がちらつく。この脳味噌は肝心な時に限って役に立たない。失敗した。

「この方を送り届けに。今失礼しようと申し上げておりました」
「誰だ、それは」
「この方は──」
「すっごい美形!!」

 リューシが答えようとしたのを遮り、フードの女が声を上げた。

「あなた誰? 宮殿の人?」

 一方的な質問に眉間に皺が寄る。こんな不躾な女は見た事がない。その様子にリューシがやってしまったとばかりに嘆息した。

「ミハネ様、こちらは皇帝陛下の弟君のセドルア殿下です」
「弟!? あたし、全然知らなかった!」

 セドルアはあっと上げかけた声を圧し殺した。
 今の会話で女の正体ははっきりわかった。まさかここで出くわすとは。

「初めまして、あたしミハネ! よろしくねっ!」

 脱いだフードの下から黒々とした髪が零れる。満面の笑みを浮かべたその少女は、

「皇后……」

 兄の寵愛する女。
 リューシ・ラヴォルの人生を狂わせた異物。

 己の内で憎悪が一気に膨らむのを感じる。
 この女の為にリューシが次期皇后の座を追われたのは真っ先に知らされた。しかし、その知らせを聞いた時。情けない事に、彼が完全な兄のものにはならないという事に安堵している自分がいた。一瞬でも彼の不幸を喜んでしまった自分を恥ずかしく思ったものだ。
 婚儀にも出席しなかった自分は実際にこの女に会った事はなかったが、正直に言えばどうでもよかった。それが実物を見てみれば、こんなに憎らしいものなのか。

「ラディったら、全然教えてくれないんだもん。弟がいるなんてびっくり」

 ラディ。
 幼い頃、それはリューシが兄を呼ぶ愛称だった。婚約者でない自分の愛称セディは呼んで貰えず、無性に悔しかったのを覚えている。

 兄はある時からリューシを愛さなくなった。あれ程慕っていたのが嘘のように嫌悪するようになった。彼を嫌悪している者が彼と結婚する。それがどれだけ彼を苦しめたか。
 しかし、だからといって自分は神託に従った決定には介入出来ない。結婚すればまた愛情が戻り始めるのではと僅かな希望に賭ける他なかった。

 それなのに、この女が皇后の座すら奪った。

 彼の24年を奪った。

それだけでは飽き足らず、今度は彼自身をも──

「ラヴォル、来い」
「は?──っ!?」

 ぐっと腕を引き、憎い皇后から引き離す。そのまま廊下を早足に歩けば、ミハネの声が後から追いかけてきた。無視されたと言って兄に泣きつくかも知れない。兄はあの女を擁護するだろう。あの女の言葉を全て信じるだろう。自分は不敬罪にでもなるかも知れない。

 構うものか。

 お前だけには、渡さない。


◇◇◇


「殿下……! どこへ行かれるのですか!」

 自分を引き摺って行く男に叫ぶが、彼は何も答えずにずんずん足を進める。自分の歩行ペースと違う速さにつんのめりそうになりながらも、リューシは掴まれた腕に後からついて行く。

 この第2皇子は突然現れ、どういうわけか自分をどこかに連行している。
 背中を向けているセドルアの表情は読めないが、その歩みの荒々しさで良い事態ではないという事はわかる。なぜなのか、理由は不明だ。わけもわからないまま引っ張られている。

「殿下!」

 中庭横の薄暗い通路に入った時、再度呼び掛けた。
 セドルアがぐるりとこちらを振り向いたかと思えばまた強く腕を引かれる。冷たい壁に背中がぶつかった。顔の両側にセドルアの手が叩き付けられる。身長はそれ程低くないはずの自分より更に5、6㎝高い位置から見下ろすアメジストの双眸に、己が映り込む。その顔は酷く戸惑っていて、情けない。

「お前は──」

 兄とは違った端麗な顔が至近距離に近付く。吐息がかかるような──ともすれば、唇が触れそうな位置。そこでセドルアが息を詰めたような声で言う。

「──お前の心は、どこにある……?」

 冴え冴えとしたアメジストの光は冷たく、しかし、熱い。肌を焦がすような視線が真っ直ぐに向けられている。この青年は、こんな眼をする男だっただろうか。

「答えろ……」
「殿下、」
「答えろ、リューシ・ラヴォル」

 命令口調だが、その台詞には懇願する響きが含まれている。

 何を。何の答えを俺に求めるというのだ。

 なぜだか、リューシはその場から逃げ出したいような衝動に駆られた。後退ろうと足が動く。だが、後ろには壁がある。

 問いに答えずにいれば、セドルアはリューシの肩を爪が食い込む程に掴んだ。

「ラヴォル!」

 無表情が、崩れた。

「どうすれば、お前は……っ」

 壁についた手をぎりりと拳に固めるセドルアの表情が、幾人かと重なる。ヤスミー、バルトリス、ノット──


──朱莉。


 こんな男の為に、なぜそんな顔をする必要がある。

「……殿下、」

 なぜ、俺は大切なものばかり傷付けてしまう。

「私の心は」

 なぜ、そんな顔ばかりさせてしまう。

「どこにも、」

 なぜ、守れない。

「──ありません」

 アメジストをじっと見つめ返し、リューシは静かに答えた。セドルアの眉間に皺が刻まれる。

「何だと……?」
「心は、とうの昔に失いました。貴方の言う“心”を私は持っていない。…… 貴方は、心を失った木偶の坊に何をお求めになるのです」

 それでは貴方が苦しいだけだ。

 諭すように言えば、宝石の瞳は冴えを増すかのように細められた。その中の切ない光に心臓を握り潰される。息が出来なくなる。

「お前は、呪縛だ」
「それは……どういう……」
「14年だ。14年の間、俺はお前の影に縛り付けられてきた。皇妃になろうと、俺は……お前ばかり、見ている」

 さらりと前髪を掻き上げられる。その額に触れた温もりにハッとした。俺は、これを知っている。

 ナルノロンから戻った時。
 ベッドで微睡む自分の髪を撫でたのは、この手だ。

「セドルア殿下」

 そっとその手を掴み、下げさせる。自分はこの高潔な皇子が触れて良い人間ではない。

「私が呪縛だと言うならば……どうすれば貴方を解放出来ます」

 じっとアメジストを見据えれば、セドルアは不意に壁から手を離した。視線をさ迷わせ何かを呟く。違う、と言ったのだろうか。よく聞こえず聞き返そうとした時、彼はもう一度明瞭に言葉を発した。

「俺は、解放されたいのではない。俺は──」

 が、途中で言いかけた台詞を呑み込む。
 葛藤するかのような彼の苦し気な表情に胸がギシギシと軋んだ。否。胸だけではない。全身が壊れそうだ。四肢を、引き裂かれる。
 ……だが、それでいい。その先は、俺は聞いてはいけない。

 応えられないものは、受け取るべきではない。

「……妙な事を言って、悪かった。忘れてくれ」

 それだけ言い、セドルアは踵を返す。彼は一度も振り返らず足早に立ち去った。
 その後ろ姿を見送ったリューシは突然の脱力感に襲われ、思わずしゃがみ込んだ。先程セドルアに押し付けられた壁に背中を預け、ふうっと大きく息をつく。どうやら、自分が思っていた以上に張り詰めていたらしい。

 ──一体、あの第2皇子の言動は何だ。

 急に怒って人を引き摺って行き、自分を呪縛だと言う。

『俺は……お前ばかり、見ている』

 あれは、どういう意味だ。
 あの触れ方。
 あの声色。
 あの表情。
 やはり、あれでは、まるで──

 そこまで考え、思考を強制的に中断する。これ以上考えてはいけない。自分は嫌われてはいないが好かれてもいない、どうでもいい存在のはずだ。そのはずなのだ……いや、そうでなければならない。

 ノットといい、セドルアといい、何だって自分にあんな事を言うのか。自分が彼らに何をしたというのだろうか。なぜ答えを返せないものを投げ掛けるのだろうか。わからない。

 わからない。
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