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第1部
ノットの激情
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夕陽が射していた屋外は既に藍色になり、鬱屈とした空気に覆われている。曇り空なのか、星は見えない。ぼんやりとした月の色がちらほらと見え隠れするのみである。何となく嫌な気がして、リューシは先を急いだ。
騒ぎの舞台となった共有浴場の近くを通り抜けようとしたその時、数人の話し声が耳に入った。暇人が井戸端会議でもしているらしい。
「──まさか、あんなに上手く乗せられてくれるとはな」
嘲るような声音に思わず足が止まる。
どうも穏やかでない。反射的に建物の陰に隠れ、聞き耳を立てた。
壁に張り付いたまま、ちらりと向こうを窺う。話しているのは3人だ。ガタイのいい男が1人と、中肉中背の男が2人。顔は暗がりに沈んでわからない。目を凝らすと軍服の刺繍が見えた。第7部隊の連中だ。
「……まあ、骨を折るまでやるとは思わなかったが」
「そりゃ、あの男は第1隊長殿に心酔してるんで有名だからな。馬鹿にされちゃあ黙ってないだろ」
「『アグル』なんて言われれば尚更な」
「あの殴りかかる時の顔見たか? 本気で殺ろうって感じだったぜ?」
「ははっ、おっかねぇ」
「でもかえって好都合だ。あれだけ部下が派手にやれば、責任を取らせるのを理由に総督が除隊するかも知れない」
「綺麗に瘤が取れて万々歳ってな」
しかしなぁ、と1人が喉の奥で笑う。
「リスティ隊長も下衆な事するよ」
「この間の組み手で負かされたのに相当腹を立ててるんだろう。あの人、自尊心だけは馬鹿みたく高いからな」
「違いねぇや」
「ま、隊長の癇癪だったとしてもだ。怪我した奴らも殴られ損にはならないさ。なんたって金が入るんだからな」
「あのΩ隊長を引き摺り下ろす為に金をばら蒔くとは、αの金持ちはいいよな」
「俺らβにゃ出来ねぇ豪遊だぜ」
どっと笑いが起こる。
そこまで聞き、リューシは静かにその場を去った。
鈍器で頭を殴られたような、という感覚はこういうものだろうか。
石段に座り込み、リューシは殴られた気がする頭を抱えた。
──まさか、第7部隊の兵士がリスティに買収されているとは。
自分に良い感情を持っていないのは仕方がない。だが、曲がりなりにも彼らは自分が育て上げた精鋭だ。そこまで落ちぶれているとは思わなかった。この目が届かなくなった途端にこうも変わってしまうものか。
情けないやら悔しいやら、呆れて物も言えない。一体、自分の教育は何だったのだろう。きつく下唇を噛み締めた。
もし自分が今回の件を報告しなかったとしても、リスティが訴えるだろう。あれだけの怪我を負わせているのだ。例えそれがリスティの仕組んだものであってもこちらの言い分は通らない。そうなれば自分は隠蔽諸々の罪を問われ、責任を取る形で除隊される。今度こそ、軍に戻るのは無理だ。
もう一つ問題なのはノットの立場だ。報告してもしなくても、彼が何らかの処分を受けるのに変わりはない。
大勢の目の前で派手に喧嘩をした。理由があったにしろ、そこは言い逃れ出来ない。しかも彼自身の証言が何もない。上が判断材料にするのは傷害事件という事実と、目撃者と被害者の証言のみである。彼が不利なのは火を見るより明らか。最悪、彼も除隊だ。
──なぜ、俺なんかの為に怒るんだ。
第7の兵士の言っていた「アグル」とは、春を売る事を生業にするΩ──簡潔に言えばΩの娼婦及び娼夫。それの隠語だ。
彼らは普通の娼館に勤める者よりもう一段階級が低く、卑しい身分とされている。給金は日雇い労働者よりも安い。年収はおよそ3000ガル程度。当然彼らの生活は苦しく、貧困に喘ぎながら生きる事を強いられている。
いよいよ職に就けなくなったΩがする仕事。それがこれだ。故に、「アグル」はΩに対する最大級の侮蔑なのである。
その暴言にノットが激昂し、第7部隊の連中を殴ったと言う。
なぜよりによって自分の為に、とリューシは自問する。俺はそこまでされるような人間ではないというのに。
ノットが喧嘩の理由を話したがらなかったのは、自分を傷付けない為だろう。レイドの言葉の意味もそう取れば納得出来る。この心を守る為に口を閉ざしたのだ──そう思うのは自惚れだろうか。
だが、自分はそのように守られる存在であってはならない。
守るべきものをみすみす失った人間に、守ってやる価値はない。
ともかく、もう1度ノットから話を聞く必要がある。総督に報告を上げるのはその後だ。明日になるかも知れないが、それでも遅くはないだろう。
リューシは一旦引き返し、彼を探す事にした。
◇◇◇
「アグル」と、あの第7の兵士は言った。
許せなかった。
自分の敬愛する男を侮蔑する言葉を吐く輩を、どうしても見逃せなかった。
訓練の汗を流そうと共有浴場に入りかけた時、突然第7部隊の連中が絡んできたのだ。
「お前、第1隊長殿にご執心なんだってな」と馴れ馴れしく肩を組み、下卑た笑みを向ける兵士に吐き気を覚えた。振り切って浴場に入ろうとすれば、無理に引き留められる。いつの間にか5、6人に囲まれ、逃げ場は失われた。取り囲んでいる兵士全員がにやにやと下品な笑みを浮かべていた。
自分たち第1部隊に並ぶ精鋭である第7特別編成部隊の兵士ともあろう者が、こんな不快な真似をするのか。失望した。
自分に絡んでくるだけならまだいい。適当にあしらえばいいだけだ。それなのに、あいつらは──
『アグル風情がよく軍にいられるもんだよなぁ?』
気が付けば、拳を振るっていた。
一斉に応戦してきた兵士らをひたすら殴りつけた。骨を砕く感触があったが、止まらなかった。
通りがかったレイドがリューシを寄越してくれたのは英断だったと思う。駆けつけた彼の制止がなければ殺していたかも知れない。
恐らく今頃は上に報告が行っているだろう。除隊される事も有り得る。上司であるリューシにまで責任が問われる可能性も否定出来ない。自分の衝動に任せがちな短気さ故に、思慮に欠ける行動を取ってしまった。彼はこんな部下を何と思っただろうか。
共有浴場に戻る気にもなれず、ノットはぼんやりと訓練場で座り込んでいた。もう帰ろう。そう腰を上げようとして、誰かに呼び止められる。振り返り、目を疑った。
「ノット──話がある」
闇に溶けるような漆黒の髪。あの日から自分を捕らえてやまないその人が、静かに佇んでいた。
「俺の事を言われて殴ったそうだな」
どこでそれを。
断定する形で言われ、拳を固くする。爪が手のひらに食い込んだ。
黙りこくる部下にリューシは軽く嘆息し、隣に腰を下ろした。清涼な香りが鼻を擽り、どくりと心臓が跳ねる。それを意識しまいと努めていれば、「一つ言っておくが、」と切り出された。叱責される。そう身構えた。
「──俺は、“アグル”と言われる程度では何も感じない」
「え……」
思いもよらない話の展開に戸惑う。一番耳に入れたくなかった事を知られている。なぜ。
反射的に顔を見て、その距離の近さに勝手に狼狽した。隣に座っているのだから、近いのは当たり前だ。何をしているんだと自分に憤慨する。今重要なのはそれではない。
返す言葉を探していれば、相手の方が先に口を開く。
「お前が喧嘩をした理由を言わなかったのは、俺を傷付けると思ったからだ──と、解釈するのは都合が良すぎるか?」
ダークブラウンの瞳を真っ直ぐに向けて問われ、息が止まるような気がした。
「レイドにも尋ねたが、『ノットが言わないなら何も言えない』とはぐらかされた。あいつも“アグル”という言葉を聞いたんだろう」
レンドは自分が第7の兵士に囲まれているのを不審に思って近付いて来たのだ。その次の瞬間、乱闘が始まった。確かに、彼があの忌々しい台詞を聞いていてもおかしくない。
「お前達は勘違いしている」
「勘違い……?」
そうだ、とリューシが頷く。
「リューシ・ラヴォルは、言葉一つで傷付く事が出来る程、綺麗な人間ではない」
意味がわからず、じっとダークブラウンを見つめる。彼は強い視線をノットから外し、ふっと目を伏せた。
「言葉で傷付けられるのは、その人間の内が美しいからだ。美しいものの中で生きているから、醜いものを突き付けられると苦しむ」
俺は違う。
そう呟くように言い、どこか遠くに目を向ける。
「俺の内は、醜い」
気付いていないのか。
ノットはリューシの精悍な横顔を見た。
己を醜いと言うこの男は、誰より人に嫌悪され、誰より人を魅了する。その矛盾が俺を惹き付ける事に、この人は気付いていない。
──いや、俺だけではない。
あの赤毛の軍医長がいい例だ。酒場では上手く躱されたが、彼は間違いなく自分と同じようにリューシ・ラヴォルに捕らえられている。最も近い位置にいながら触れられない距離に苦悩しているはずだ。彼が見せた自分を牽制する目は今でも忘れない。
皆貴方に魅せられているというのに。
なぜだろう。
貴方には憎悪しか届かない。
「……あんたは、醜くない」
敬語の外れた口調に、リューシは外していた視線を流して寄越した。その深い色の瞳に映った自分はどんな顔をしているだろうか。
ほんの数秒、雲間から覗いた月に彼の顔が照らされる。くっきりと浮かび上がった輪郭が美しいと思った。
「──あんたは、誰よりも綺麗だ」
夜の中に溶けそうな瞳が微かに見開かれる。
触れたい。そう思う前に指先が白い頬を滑っていた。
「俺は……あんたを、見ていたい」
その奥深くに抱えた暗さを。秘めた闇を。
その雄々しい逞しさを。努力の結晶を。
その強い光を。この世で唯一の色を。
あの日から願う事はただ1つ。
俺は、貴方の目に映りたい。
「ノット」
やんわりと手を掴まれ、下ろされる。そのまま触れていて欲しい。だが、呆気なくそれは離れて行く。躊躇のない動作に、もう一度手を伸ばす事は赦されないのだと悟った。
「道を、誤るな」
諭すような声色にハッとする。
未練がましく彼の指先を追っていた目を向ければ、“鉄仮面”と比喩される顔があった。やはり、自分には軍人としてしか接してくれない。友人という立ち位置を持つ軍医長が無性に羨ましく思えた。
「お前が進むべき方向は……俺ではない」
すうっと猫のように細められたダークブラウンは鋭くノットを射抜く。
──何だ、これは?
背中にぞくりとしたものが駆け抜けた。
それは、その瞬間だけは、第1部隊隊長の表情ではなかった。リューシ・ラヴォルその人であった。深い哀しみと憎悪を内に閉じ込め続けた男の姿であった。
「隊長……」
何を問うわけでもないが、堪らず呼び掛ける。これは返答を求めるものではない。自分の中で潰れる程に締め付けられた何かを解放しようという苦悶が、絞り出すような呼び掛けとなって現れたに過ぎないのだ。
「隊長、」
なぜ俺には貴方の抱えるものが見えないのだろう。
「俺は……想われるような人間じゃねぇんだよ」
乱れた口調で苦々し気に呟き、リューシは顔を背けた。立ち上がり、背を向けたまま言う。
「明日、総督に報告する。謹慎以上の処分は覚悟しておけ」
さっさと風呂にでも入って寝ろ。いつもの硬い声で言い捨て、彼は屋内に戻って行った。
騒ぎの舞台となった共有浴場の近くを通り抜けようとしたその時、数人の話し声が耳に入った。暇人が井戸端会議でもしているらしい。
「──まさか、あんなに上手く乗せられてくれるとはな」
嘲るような声音に思わず足が止まる。
どうも穏やかでない。反射的に建物の陰に隠れ、聞き耳を立てた。
壁に張り付いたまま、ちらりと向こうを窺う。話しているのは3人だ。ガタイのいい男が1人と、中肉中背の男が2人。顔は暗がりに沈んでわからない。目を凝らすと軍服の刺繍が見えた。第7部隊の連中だ。
「……まあ、骨を折るまでやるとは思わなかったが」
「そりゃ、あの男は第1隊長殿に心酔してるんで有名だからな。馬鹿にされちゃあ黙ってないだろ」
「『アグル』なんて言われれば尚更な」
「あの殴りかかる時の顔見たか? 本気で殺ろうって感じだったぜ?」
「ははっ、おっかねぇ」
「でもかえって好都合だ。あれだけ部下が派手にやれば、責任を取らせるのを理由に総督が除隊するかも知れない」
「綺麗に瘤が取れて万々歳ってな」
しかしなぁ、と1人が喉の奥で笑う。
「リスティ隊長も下衆な事するよ」
「この間の組み手で負かされたのに相当腹を立ててるんだろう。あの人、自尊心だけは馬鹿みたく高いからな」
「違いねぇや」
「ま、隊長の癇癪だったとしてもだ。怪我した奴らも殴られ損にはならないさ。なんたって金が入るんだからな」
「あのΩ隊長を引き摺り下ろす為に金をばら蒔くとは、αの金持ちはいいよな」
「俺らβにゃ出来ねぇ豪遊だぜ」
どっと笑いが起こる。
そこまで聞き、リューシは静かにその場を去った。
鈍器で頭を殴られたような、という感覚はこういうものだろうか。
石段に座り込み、リューシは殴られた気がする頭を抱えた。
──まさか、第7部隊の兵士がリスティに買収されているとは。
自分に良い感情を持っていないのは仕方がない。だが、曲がりなりにも彼らは自分が育て上げた精鋭だ。そこまで落ちぶれているとは思わなかった。この目が届かなくなった途端にこうも変わってしまうものか。
情けないやら悔しいやら、呆れて物も言えない。一体、自分の教育は何だったのだろう。きつく下唇を噛み締めた。
もし自分が今回の件を報告しなかったとしても、リスティが訴えるだろう。あれだけの怪我を負わせているのだ。例えそれがリスティの仕組んだものであってもこちらの言い分は通らない。そうなれば自分は隠蔽諸々の罪を問われ、責任を取る形で除隊される。今度こそ、軍に戻るのは無理だ。
もう一つ問題なのはノットの立場だ。報告してもしなくても、彼が何らかの処分を受けるのに変わりはない。
大勢の目の前で派手に喧嘩をした。理由があったにしろ、そこは言い逃れ出来ない。しかも彼自身の証言が何もない。上が判断材料にするのは傷害事件という事実と、目撃者と被害者の証言のみである。彼が不利なのは火を見るより明らか。最悪、彼も除隊だ。
──なぜ、俺なんかの為に怒るんだ。
第7の兵士の言っていた「アグル」とは、春を売る事を生業にするΩ──簡潔に言えばΩの娼婦及び娼夫。それの隠語だ。
彼らは普通の娼館に勤める者よりもう一段階級が低く、卑しい身分とされている。給金は日雇い労働者よりも安い。年収はおよそ3000ガル程度。当然彼らの生活は苦しく、貧困に喘ぎながら生きる事を強いられている。
いよいよ職に就けなくなったΩがする仕事。それがこれだ。故に、「アグル」はΩに対する最大級の侮蔑なのである。
その暴言にノットが激昂し、第7部隊の連中を殴ったと言う。
なぜよりによって自分の為に、とリューシは自問する。俺はそこまでされるような人間ではないというのに。
ノットが喧嘩の理由を話したがらなかったのは、自分を傷付けない為だろう。レイドの言葉の意味もそう取れば納得出来る。この心を守る為に口を閉ざしたのだ──そう思うのは自惚れだろうか。
だが、自分はそのように守られる存在であってはならない。
守るべきものをみすみす失った人間に、守ってやる価値はない。
ともかく、もう1度ノットから話を聞く必要がある。総督に報告を上げるのはその後だ。明日になるかも知れないが、それでも遅くはないだろう。
リューシは一旦引き返し、彼を探す事にした。
◇◇◇
「アグル」と、あの第7の兵士は言った。
許せなかった。
自分の敬愛する男を侮蔑する言葉を吐く輩を、どうしても見逃せなかった。
訓練の汗を流そうと共有浴場に入りかけた時、突然第7部隊の連中が絡んできたのだ。
「お前、第1隊長殿にご執心なんだってな」と馴れ馴れしく肩を組み、下卑た笑みを向ける兵士に吐き気を覚えた。振り切って浴場に入ろうとすれば、無理に引き留められる。いつの間にか5、6人に囲まれ、逃げ場は失われた。取り囲んでいる兵士全員がにやにやと下品な笑みを浮かべていた。
自分たち第1部隊に並ぶ精鋭である第7特別編成部隊の兵士ともあろう者が、こんな不快な真似をするのか。失望した。
自分に絡んでくるだけならまだいい。適当にあしらえばいいだけだ。それなのに、あいつらは──
『アグル風情がよく軍にいられるもんだよなぁ?』
気が付けば、拳を振るっていた。
一斉に応戦してきた兵士らをひたすら殴りつけた。骨を砕く感触があったが、止まらなかった。
通りがかったレイドがリューシを寄越してくれたのは英断だったと思う。駆けつけた彼の制止がなければ殺していたかも知れない。
恐らく今頃は上に報告が行っているだろう。除隊される事も有り得る。上司であるリューシにまで責任が問われる可能性も否定出来ない。自分の衝動に任せがちな短気さ故に、思慮に欠ける行動を取ってしまった。彼はこんな部下を何と思っただろうか。
共有浴場に戻る気にもなれず、ノットはぼんやりと訓練場で座り込んでいた。もう帰ろう。そう腰を上げようとして、誰かに呼び止められる。振り返り、目を疑った。
「ノット──話がある」
闇に溶けるような漆黒の髪。あの日から自分を捕らえてやまないその人が、静かに佇んでいた。
「俺の事を言われて殴ったそうだな」
どこでそれを。
断定する形で言われ、拳を固くする。爪が手のひらに食い込んだ。
黙りこくる部下にリューシは軽く嘆息し、隣に腰を下ろした。清涼な香りが鼻を擽り、どくりと心臓が跳ねる。それを意識しまいと努めていれば、「一つ言っておくが、」と切り出された。叱責される。そう身構えた。
「──俺は、“アグル”と言われる程度では何も感じない」
「え……」
思いもよらない話の展開に戸惑う。一番耳に入れたくなかった事を知られている。なぜ。
反射的に顔を見て、その距離の近さに勝手に狼狽した。隣に座っているのだから、近いのは当たり前だ。何をしているんだと自分に憤慨する。今重要なのはそれではない。
返す言葉を探していれば、相手の方が先に口を開く。
「お前が喧嘩をした理由を言わなかったのは、俺を傷付けると思ったからだ──と、解釈するのは都合が良すぎるか?」
ダークブラウンの瞳を真っ直ぐに向けて問われ、息が止まるような気がした。
「レイドにも尋ねたが、『ノットが言わないなら何も言えない』とはぐらかされた。あいつも“アグル”という言葉を聞いたんだろう」
レンドは自分が第7の兵士に囲まれているのを不審に思って近付いて来たのだ。その次の瞬間、乱闘が始まった。確かに、彼があの忌々しい台詞を聞いていてもおかしくない。
「お前達は勘違いしている」
「勘違い……?」
そうだ、とリューシが頷く。
「リューシ・ラヴォルは、言葉一つで傷付く事が出来る程、綺麗な人間ではない」
意味がわからず、じっとダークブラウンを見つめる。彼は強い視線をノットから外し、ふっと目を伏せた。
「言葉で傷付けられるのは、その人間の内が美しいからだ。美しいものの中で生きているから、醜いものを突き付けられると苦しむ」
俺は違う。
そう呟くように言い、どこか遠くに目を向ける。
「俺の内は、醜い」
気付いていないのか。
ノットはリューシの精悍な横顔を見た。
己を醜いと言うこの男は、誰より人に嫌悪され、誰より人を魅了する。その矛盾が俺を惹き付ける事に、この人は気付いていない。
──いや、俺だけではない。
あの赤毛の軍医長がいい例だ。酒場では上手く躱されたが、彼は間違いなく自分と同じようにリューシ・ラヴォルに捕らえられている。最も近い位置にいながら触れられない距離に苦悩しているはずだ。彼が見せた自分を牽制する目は今でも忘れない。
皆貴方に魅せられているというのに。
なぜだろう。
貴方には憎悪しか届かない。
「……あんたは、醜くない」
敬語の外れた口調に、リューシは外していた視線を流して寄越した。その深い色の瞳に映った自分はどんな顔をしているだろうか。
ほんの数秒、雲間から覗いた月に彼の顔が照らされる。くっきりと浮かび上がった輪郭が美しいと思った。
「──あんたは、誰よりも綺麗だ」
夜の中に溶けそうな瞳が微かに見開かれる。
触れたい。そう思う前に指先が白い頬を滑っていた。
「俺は……あんたを、見ていたい」
その奥深くに抱えた暗さを。秘めた闇を。
その雄々しい逞しさを。努力の結晶を。
その強い光を。この世で唯一の色を。
あの日から願う事はただ1つ。
俺は、貴方の目に映りたい。
「ノット」
やんわりと手を掴まれ、下ろされる。そのまま触れていて欲しい。だが、呆気なくそれは離れて行く。躊躇のない動作に、もう一度手を伸ばす事は赦されないのだと悟った。
「道を、誤るな」
諭すような声色にハッとする。
未練がましく彼の指先を追っていた目を向ければ、“鉄仮面”と比喩される顔があった。やはり、自分には軍人としてしか接してくれない。友人という立ち位置を持つ軍医長が無性に羨ましく思えた。
「お前が進むべき方向は……俺ではない」
すうっと猫のように細められたダークブラウンは鋭くノットを射抜く。
──何だ、これは?
背中にぞくりとしたものが駆け抜けた。
それは、その瞬間だけは、第1部隊隊長の表情ではなかった。リューシ・ラヴォルその人であった。深い哀しみと憎悪を内に閉じ込め続けた男の姿であった。
「隊長……」
何を問うわけでもないが、堪らず呼び掛ける。これは返答を求めるものではない。自分の中で潰れる程に締め付けられた何かを解放しようという苦悶が、絞り出すような呼び掛けとなって現れたに過ぎないのだ。
「隊長、」
なぜ俺には貴方の抱えるものが見えないのだろう。
「俺は……想われるような人間じゃねぇんだよ」
乱れた口調で苦々し気に呟き、リューシは顔を背けた。立ち上がり、背を向けたまま言う。
「明日、総督に報告する。謹慎以上の処分は覚悟しておけ」
さっさと風呂にでも入って寝ろ。いつもの硬い声で言い捨て、彼は屋内に戻って行った。
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