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第1部
神の示す運命
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ヒュンッ──
1本の矢が空を切る。
緩やかな軌道を描く。
その先はごく小さな的。
そこへ向かう。
ブレず、乱れず、真っ直ぐに。
──タンッ。
的が射抜かれた。
否、的が矢を吸い込んだ。
「見事だ」
重厚な響きの声が賞賛する。威厳に満ちた初老の男の周りには、数人の従者が控えている。
「いつ見ても見事なものだ。お前程腕の立つ者は他に居まい」
「は。勿体無きお言葉」
跪き、硬質な声で応えるのは、若い男。周囲が金髪や茶髪ばかりの中では、短く整えられた漆黒の髪が目を引く。
「リューシ、面を上げよ」
リューシ、と呼ばれた男がは、と短く応える。伏せていたその顔が正面を見た。鋭い眼光が初老の男に向けられる。
例えるなら鷹。隙のない、研ぎ澄まされた光。
「時に、リューシよ」
その瞳を真っ向から見返し、初老の男は顎に蓄えた豊かな髭を撫でながら問う。
「今度の戦はどうなる。お前の見解を聞きたい」
「は。あちらには名将がいると聞いておりますが、綿密に計画した戦を得意としているようです。ゲリラ戦を仕掛ければ壊滅させられます」
男の表情はピクリとも動かないが、その言葉には自信が滲んでいる。
「ふむ……勝てるか」
「はい」
この男は「恐らく」や「多分」等という言葉は使わない。口にする台詞はいつも確信めいている。
「期待しておるぞ」
「は。陛下のご期待に添えますよう」
──若い男の名は「リューシ・ラヴォル」。
齢24。若くして帝国軍を率いる、鬼才の軍人。
それと同時に、次期皇后である。
◇◇◇
リューシ・ラヴォルは、元々この世界の人間ではない。アジアの島国、日本で「須賀隆志」として生きた過去がある。故郷から遠く離れた地で死に、異世界の国の1つである「ルバルア帝国」に転生したのだ。
1つ説明を加えておくならば、この世界では生物学上の性別の区分が男と女だけではない。身体的にも頭脳的にも優れているとされる「α」、多数派で凡庸な「β」。そして、最も少数派で特異な「Ω」──この3つに区分される。
Ωは男女共妊娠が可能であり、思春期を過ぎれば定期的に発情期が来る。ただし、特定のαと「番」になる事でその発情は抑制される。妊娠中にも発情は抑えられるが、それは一時的なもので持続しない。番がいない限り、出産後にはまた発情期が訪れる。世界人口に占める割合は僅か数パーセント。Ωに出会わず一生を終える者も多くいる。
さて、そんな異世界で前世の記憶と容姿をそのまま受け継いだ赤ん坊は、由緒正しい貴族のラヴォル家に誕生した。
一族で唯一のΩとして──
◇◇◇
「坊ちゃん! また脱ぎっぱなし!!」
年配の女性がベッドの横で寝間着を振りながら叫ぶ。
「また使うんだから、いいだろ」
「いい加減、24にもなって坊ちゃんは勘弁してくれ」と軍服を身に付けながら言うのは、苦り切った表情のリューシである。
「幾つになろうと、わたくしは坊ちゃんの乳母なのですよ。このばあやには養育の義務がございます」
「それは13歳までの話だろ?」
「後の10年は好きでやっているのですから、勝手にさせて下さいまし」
てきぱきと寝間着を片付ながら、年配の女性──ヤスミーがバッサリ切り捨てる。
彼女はリューシの身の回りの世話をして24年のベテランである。もう60になろうというのに、その仕事ぶりは衰える気配がない。
「さあ坊ちゃん、お仕度は整いましたか?」
「ああ」
皺ひとつない軍服に身を包んだ姿に目を細め、ヤスミーが軍刀を手渡す。
「本当に、ご立派になられました。ばあやは誇らしゅうございます」
「またそれか。褒め言葉も聞き飽きると有り難みがなくなるぞ」
擽ったい気分で、わざとぶっきらぼうに言う。そうするとヤスミーはますます優し気に目を細めるのだ。
「いいですか、坊ちゃん。いつでも前に、真っ直ぐ、着実に。今日もお忘れなきよう」
「わかってる。……じゃ、行って来る」
「はい。行ってらっしゃいませ」
離れの部屋を出たリューシは本館のダイニングに向かわず、そのまま屋敷の外へ出る。αである他の一族の者と食卓を共にする事は、固く禁じられているのだ。起き抜けにヤスミーの手料理で腹を満たすのが長年の習慣となっている。今朝は得意のハムエッグだった。
裏口から出ると、いやに気取った服で煙草をふかす男がいる。
「これはこれは、次期皇后のリューシ様ではありませんか」
ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべ、「次期皇后」の部分を強調して言う。
──嫌な奴に会った。
ぐっと眉間に皺が寄るのを感じながら、その脇を通り過ぎようとした。が、男に行く手を遮られる。
「つれないな。次期皇后ともあろうお方が、そう無愛想ではいけないでしょう」
ねっとりとまとわりつくような口調。リューシの眉間の皺はますます深くなる。相手をしなければ放さないつもりなのだろう。
「……こんな早くに何の用だ──フォンド男爵」
ガスパール・フォンド。
公爵家であるラヴォル家のリューシに比べ、随分階級は下だ。が、フォンドはα。αこそが最も優れていると信じている。
「なあに、お父君のお呼び出しですよ…貴方と違って、私は愛想がいいですからねぇ」
そして、父のお気に入りである。
「……そうか。なら、俺に用はないだろう」
「いえいえ、ありますとも。ついでに伝言を預かって来ているんですよ」
何だ、と尋ねるのも面倒で、気に食わない相手の顔を睨むように見据える。
「皇帝直々に申し伝える事があるので早急に宮殿へ出向くように、と」
ニタニタと粘着質に笑う。
「とうとう、除隊でもされるんですかねぇ?」
──胸糞悪い。
とうとう、というのが何を指すのかは説明されずとも理解出来る。知りすぎる程に知っている。だが、賢明な現皇帝は自分を除隊するような真似はしない。もしされるとすれば、それは己が反逆者となった時だ。
「貴君に進退について言われる筋合いはない。失礼する」
抑揚のない声で言い捨て、無理矢理すれ違う。背後に見えなくなったフォンドはそれ以上何も言わなかった。紫煙を吐いて脂下がった顔でもしているのだろう。
知らぬ間に付着していた煙草の灰を払う。その灰でさえ絡み付いてくるようで、小さく舌打ちした。
◇◇◇
「今、何と?」
当惑した。
「除隊……と、仰いましたか?」
問い掛けると、玉座に着いた皇帝は重々しく首を縦に振った。肯定の仕草だった。
「しかし、陛下、一体なぜ……」
聡明な皇帝までが、フォンドのような見方をするというのか。
血の気が引いて行くのがわかる。感情的な方ではない自分が動揺している。
「リューシ……すまぬ」
いつも真っ直ぐにこちらに返されていた視線が、ふっと逸らされた。威厳の化身のような彼にはまず見た事のない、悲痛な表情で玉座の装飾を見つめている。
「すまぬ」
論理的な主君が、意味のない言葉を繰り返す。
「理由を……理由を仰って下さい」
苦悶に顔を歪め、皇帝は絞り出すように言った。
「神託があった」
──神託?
「『直ぐに皇太子の婚儀を挙げよ』と」
「まさか」
「いや……事実だ」
悲し気にかぶりを振る。
「わしの命は、もう長くないそうだ」
「そんな馬鹿な……! 陛下はまだご健在ではありませんか!!」
「だが、神がそう仰せなのだ。間違いはあるまい」
「そんなはずはありません。第一、神託は50年に1度です。前回は25年前。あまりにも早すぎる……!」
この世界には「神託」というものがある。それは50年に一度、聖なる泉の前で神官によって受け取られる。その時の皇帝は神託に従い、世を統べるのだ。これまでに神託が早まった例はなかった。
「神託があった以上、従うしかあるまい。婚儀は1週間後に執り行う」
婚儀。
それは言うまでもなく、皇太子とリューシのものである。それはわかる。だが、腑に落ちない。
「──しかし、なぜ除隊になるのですか。婚儀とは無関係でしょう」
そう、この国では皇太子に嫁ぐ者に対する規定は特にない。奴隷だろうが民間人だろうが、結婚しようとすれば出来る。ただ、大臣云々が体裁を気にして猛反対するだけの事だ。軍人でもそれは同じである。
「別に理由があると?」
尋ねると、皇帝は「それは違う」と首を振った。そして、やるせない表情で言う。
「神託に従った結果だ。わかってくれ……」
「神託に? どういう事です」
神が今更神託を変えるというのか。
「『皇后となるのは軍人ではない』。神は、そう仰せだ」
軍人ではない──
「だから……除隊するというわけですね?」
「そうだ」
この世界の神は、この国を滅ぼしたいのか。
ギリッと奥歯を噛み締める。
「……次の戦はどうするおつもりですか。今私が除隊されれば、指揮を失った前線の軍は壊滅し、国内に敵が侵入してしまいます」
「それは……」
口ごもる皇帝に、リューシは強い眼光をぶつけた。
「仰せの通り婚儀は挙げましょう。しかし、除隊は拒否します」
「リューシ……」
皇帝が呻く。
「神託がなかったとしても、同じ判断をした。皇后の仕事は生半可なものではないのだ。わかっているだろう。我が妻、ユリアナも……その心労が祟って死んだ」
皇后ユリアナ。
美しく、賢い女性だった。
お前までそうなって欲しくない。眉間に深く皺を刻んだ表情はそう訴えている。
だが、しかし……
「俺が潰れる前に、国が潰れてしまう……」
たかが転生先。されど現実。ゲームの世界ではない。
キッと顔を上げ、精一杯の抵抗を口にする。
「陛下。私は軍人としての役割も、皇后としての役割も、疎かにするつもりはございません」
「だがな、リューシ」
「──陛下」
ギラリとリューシの瞳が輝く。
「私が、貴方に偽りを申し上げた事が、一度でもございますか」
皇帝が大きな掌を広い額に当てる。長いため息の後、彼は彼のものとは思えない弱々しい声で言った。
「……ない。一度もない。……しかし、神託には誰も抗えぬ」
◇◇◇
「くそっ……!」
軍刀を絨毯じゅうたんに叩きつける。
「何で……!!」
軍からは除隊された。決定は覆らなかった。
「何で……っ」
掌に爪が食い込む程に握り締めた拳を壁に打ち付ける。
──運命は、この世界に生まれ直した時から決まっていた。母親が妊娠した時、神託があったのだ。
『皇太子が皇帝に即位する時は漆黒の髪を持つ皇后を迎えよ』
そういう内容のものであったと聞いている。それから暫くして、転生者リューシ・ラヴォルが誕生した。漆黒の髪を持った、Ωの男児として。
4歳になるまで前世の記憶はなかった。記憶を取り戻した時には、既に第1皇子との婚約が成立してしまっていたのだ。なぜ男の自分がと激しく反抗したが、誰にも聞き入れられなかった。もっとも、子供で、しかもΩの自分にそもそも拒否権などなかったのだが。
しかし──それだけならまだいい。
「何で、今なんだ……っ」
一段と強い力を込めて壁を殴り、荒い呼吸を整える。
結婚なら自分だけの問題。
だが、国は?
すぐそこに敵が迫っている状態で、軍が指揮を失ったら? 勿論、皇帝に進言した通りの事態になるだろう。大将は立派でも、向こうの下級兵は質が悪い。略奪に虐殺、強姦……どんな光景か容易に想像出来る。こちらの兵士達も捕虜にされ、戦闘もままならないはず。そうなったら相手を追い出すのは至難の業だ。それを、誰が止める?
自分のポストに誰かが収まるには違いない。だが、それで解決する事か?
今「世界最強の軍」と謳われるルバルア帝国軍は、元々は貧弱極まりないものだった。変えたのはこの自分。日本式のやり方を導入して改革をした。それでもまだ僅か3年前の事だ。とても他の誰かに引き継げる段階ではない。時間をかけて、ゆっくり後継者を育てるつもりだった。今回の除隊は想定外もいいところだ。それ故、現時点で大将が務まるのは自分の他いない。
忠誠心だの愛国心だの、そんなもの、転生者の自分には初めから欠けている。国が無くなっても、自分はどうという事はない。国家に固執するのが馬鹿馬鹿しいとさえ思っている。しかし、国民は? 一般人はどうなる。彼らには守ってくれる国家が必要だ。武力を持たない彼らには抵抗する術すべがない。
ならば、どうする? どうしようもない。
非戦闘員となった今では、戦には参加出来ない。ただ、指を咥えて見ているだけだ。
1本の矢が空を切る。
緩やかな軌道を描く。
その先はごく小さな的。
そこへ向かう。
ブレず、乱れず、真っ直ぐに。
──タンッ。
的が射抜かれた。
否、的が矢を吸い込んだ。
「見事だ」
重厚な響きの声が賞賛する。威厳に満ちた初老の男の周りには、数人の従者が控えている。
「いつ見ても見事なものだ。お前程腕の立つ者は他に居まい」
「は。勿体無きお言葉」
跪き、硬質な声で応えるのは、若い男。周囲が金髪や茶髪ばかりの中では、短く整えられた漆黒の髪が目を引く。
「リューシ、面を上げよ」
リューシ、と呼ばれた男がは、と短く応える。伏せていたその顔が正面を見た。鋭い眼光が初老の男に向けられる。
例えるなら鷹。隙のない、研ぎ澄まされた光。
「時に、リューシよ」
その瞳を真っ向から見返し、初老の男は顎に蓄えた豊かな髭を撫でながら問う。
「今度の戦はどうなる。お前の見解を聞きたい」
「は。あちらには名将がいると聞いておりますが、綿密に計画した戦を得意としているようです。ゲリラ戦を仕掛ければ壊滅させられます」
男の表情はピクリとも動かないが、その言葉には自信が滲んでいる。
「ふむ……勝てるか」
「はい」
この男は「恐らく」や「多分」等という言葉は使わない。口にする台詞はいつも確信めいている。
「期待しておるぞ」
「は。陛下のご期待に添えますよう」
──若い男の名は「リューシ・ラヴォル」。
齢24。若くして帝国軍を率いる、鬼才の軍人。
それと同時に、次期皇后である。
◇◇◇
リューシ・ラヴォルは、元々この世界の人間ではない。アジアの島国、日本で「須賀隆志」として生きた過去がある。故郷から遠く離れた地で死に、異世界の国の1つである「ルバルア帝国」に転生したのだ。
1つ説明を加えておくならば、この世界では生物学上の性別の区分が男と女だけではない。身体的にも頭脳的にも優れているとされる「α」、多数派で凡庸な「β」。そして、最も少数派で特異な「Ω」──この3つに区分される。
Ωは男女共妊娠が可能であり、思春期を過ぎれば定期的に発情期が来る。ただし、特定のαと「番」になる事でその発情は抑制される。妊娠中にも発情は抑えられるが、それは一時的なもので持続しない。番がいない限り、出産後にはまた発情期が訪れる。世界人口に占める割合は僅か数パーセント。Ωに出会わず一生を終える者も多くいる。
さて、そんな異世界で前世の記憶と容姿をそのまま受け継いだ赤ん坊は、由緒正しい貴族のラヴォル家に誕生した。
一族で唯一のΩとして──
◇◇◇
「坊ちゃん! また脱ぎっぱなし!!」
年配の女性がベッドの横で寝間着を振りながら叫ぶ。
「また使うんだから、いいだろ」
「いい加減、24にもなって坊ちゃんは勘弁してくれ」と軍服を身に付けながら言うのは、苦り切った表情のリューシである。
「幾つになろうと、わたくしは坊ちゃんの乳母なのですよ。このばあやには養育の義務がございます」
「それは13歳までの話だろ?」
「後の10年は好きでやっているのですから、勝手にさせて下さいまし」
てきぱきと寝間着を片付ながら、年配の女性──ヤスミーがバッサリ切り捨てる。
彼女はリューシの身の回りの世話をして24年のベテランである。もう60になろうというのに、その仕事ぶりは衰える気配がない。
「さあ坊ちゃん、お仕度は整いましたか?」
「ああ」
皺ひとつない軍服に身を包んだ姿に目を細め、ヤスミーが軍刀を手渡す。
「本当に、ご立派になられました。ばあやは誇らしゅうございます」
「またそれか。褒め言葉も聞き飽きると有り難みがなくなるぞ」
擽ったい気分で、わざとぶっきらぼうに言う。そうするとヤスミーはますます優し気に目を細めるのだ。
「いいですか、坊ちゃん。いつでも前に、真っ直ぐ、着実に。今日もお忘れなきよう」
「わかってる。……じゃ、行って来る」
「はい。行ってらっしゃいませ」
離れの部屋を出たリューシは本館のダイニングに向かわず、そのまま屋敷の外へ出る。αである他の一族の者と食卓を共にする事は、固く禁じられているのだ。起き抜けにヤスミーの手料理で腹を満たすのが長年の習慣となっている。今朝は得意のハムエッグだった。
裏口から出ると、いやに気取った服で煙草をふかす男がいる。
「これはこれは、次期皇后のリューシ様ではありませんか」
ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべ、「次期皇后」の部分を強調して言う。
──嫌な奴に会った。
ぐっと眉間に皺が寄るのを感じながら、その脇を通り過ぎようとした。が、男に行く手を遮られる。
「つれないな。次期皇后ともあろうお方が、そう無愛想ではいけないでしょう」
ねっとりとまとわりつくような口調。リューシの眉間の皺はますます深くなる。相手をしなければ放さないつもりなのだろう。
「……こんな早くに何の用だ──フォンド男爵」
ガスパール・フォンド。
公爵家であるラヴォル家のリューシに比べ、随分階級は下だ。が、フォンドはα。αこそが最も優れていると信じている。
「なあに、お父君のお呼び出しですよ…貴方と違って、私は愛想がいいですからねぇ」
そして、父のお気に入りである。
「……そうか。なら、俺に用はないだろう」
「いえいえ、ありますとも。ついでに伝言を預かって来ているんですよ」
何だ、と尋ねるのも面倒で、気に食わない相手の顔を睨むように見据える。
「皇帝直々に申し伝える事があるので早急に宮殿へ出向くように、と」
ニタニタと粘着質に笑う。
「とうとう、除隊でもされるんですかねぇ?」
──胸糞悪い。
とうとう、というのが何を指すのかは説明されずとも理解出来る。知りすぎる程に知っている。だが、賢明な現皇帝は自分を除隊するような真似はしない。もしされるとすれば、それは己が反逆者となった時だ。
「貴君に進退について言われる筋合いはない。失礼する」
抑揚のない声で言い捨て、無理矢理すれ違う。背後に見えなくなったフォンドはそれ以上何も言わなかった。紫煙を吐いて脂下がった顔でもしているのだろう。
知らぬ間に付着していた煙草の灰を払う。その灰でさえ絡み付いてくるようで、小さく舌打ちした。
◇◇◇
「今、何と?」
当惑した。
「除隊……と、仰いましたか?」
問い掛けると、玉座に着いた皇帝は重々しく首を縦に振った。肯定の仕草だった。
「しかし、陛下、一体なぜ……」
聡明な皇帝までが、フォンドのような見方をするというのか。
血の気が引いて行くのがわかる。感情的な方ではない自分が動揺している。
「リューシ……すまぬ」
いつも真っ直ぐにこちらに返されていた視線が、ふっと逸らされた。威厳の化身のような彼にはまず見た事のない、悲痛な表情で玉座の装飾を見つめている。
「すまぬ」
論理的な主君が、意味のない言葉を繰り返す。
「理由を……理由を仰って下さい」
苦悶に顔を歪め、皇帝は絞り出すように言った。
「神託があった」
──神託?
「『直ぐに皇太子の婚儀を挙げよ』と」
「まさか」
「いや……事実だ」
悲し気にかぶりを振る。
「わしの命は、もう長くないそうだ」
「そんな馬鹿な……! 陛下はまだご健在ではありませんか!!」
「だが、神がそう仰せなのだ。間違いはあるまい」
「そんなはずはありません。第一、神託は50年に1度です。前回は25年前。あまりにも早すぎる……!」
この世界には「神託」というものがある。それは50年に一度、聖なる泉の前で神官によって受け取られる。その時の皇帝は神託に従い、世を統べるのだ。これまでに神託が早まった例はなかった。
「神託があった以上、従うしかあるまい。婚儀は1週間後に執り行う」
婚儀。
それは言うまでもなく、皇太子とリューシのものである。それはわかる。だが、腑に落ちない。
「──しかし、なぜ除隊になるのですか。婚儀とは無関係でしょう」
そう、この国では皇太子に嫁ぐ者に対する規定は特にない。奴隷だろうが民間人だろうが、結婚しようとすれば出来る。ただ、大臣云々が体裁を気にして猛反対するだけの事だ。軍人でもそれは同じである。
「別に理由があると?」
尋ねると、皇帝は「それは違う」と首を振った。そして、やるせない表情で言う。
「神託に従った結果だ。わかってくれ……」
「神託に? どういう事です」
神が今更神託を変えるというのか。
「『皇后となるのは軍人ではない』。神は、そう仰せだ」
軍人ではない──
「だから……除隊するというわけですね?」
「そうだ」
この世界の神は、この国を滅ぼしたいのか。
ギリッと奥歯を噛み締める。
「……次の戦はどうするおつもりですか。今私が除隊されれば、指揮を失った前線の軍は壊滅し、国内に敵が侵入してしまいます」
「それは……」
口ごもる皇帝に、リューシは強い眼光をぶつけた。
「仰せの通り婚儀は挙げましょう。しかし、除隊は拒否します」
「リューシ……」
皇帝が呻く。
「神託がなかったとしても、同じ判断をした。皇后の仕事は生半可なものではないのだ。わかっているだろう。我が妻、ユリアナも……その心労が祟って死んだ」
皇后ユリアナ。
美しく、賢い女性だった。
お前までそうなって欲しくない。眉間に深く皺を刻んだ表情はそう訴えている。
だが、しかし……
「俺が潰れる前に、国が潰れてしまう……」
たかが転生先。されど現実。ゲームの世界ではない。
キッと顔を上げ、精一杯の抵抗を口にする。
「陛下。私は軍人としての役割も、皇后としての役割も、疎かにするつもりはございません」
「だがな、リューシ」
「──陛下」
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「私が、貴方に偽りを申し上げた事が、一度でもございますか」
皇帝が大きな掌を広い額に当てる。長いため息の後、彼は彼のものとは思えない弱々しい声で言った。
「……ない。一度もない。……しかし、神託には誰も抗えぬ」
◇◇◇
「くそっ……!」
軍刀を絨毯じゅうたんに叩きつける。
「何で……!!」
軍からは除隊された。決定は覆らなかった。
「何で……っ」
掌に爪が食い込む程に握り締めた拳を壁に打ち付ける。
──運命は、この世界に生まれ直した時から決まっていた。母親が妊娠した時、神託があったのだ。
『皇太子が皇帝に即位する時は漆黒の髪を持つ皇后を迎えよ』
そういう内容のものであったと聞いている。それから暫くして、転生者リューシ・ラヴォルが誕生した。漆黒の髪を持った、Ωの男児として。
4歳になるまで前世の記憶はなかった。記憶を取り戻した時には、既に第1皇子との婚約が成立してしまっていたのだ。なぜ男の自分がと激しく反抗したが、誰にも聞き入れられなかった。もっとも、子供で、しかもΩの自分にそもそも拒否権などなかったのだが。
しかし──それだけならまだいい。
「何で、今なんだ……っ」
一段と強い力を込めて壁を殴り、荒い呼吸を整える。
結婚なら自分だけの問題。
だが、国は?
すぐそこに敵が迫っている状態で、軍が指揮を失ったら? 勿論、皇帝に進言した通りの事態になるだろう。大将は立派でも、向こうの下級兵は質が悪い。略奪に虐殺、強姦……どんな光景か容易に想像出来る。こちらの兵士達も捕虜にされ、戦闘もままならないはず。そうなったら相手を追い出すのは至難の業だ。それを、誰が止める?
自分のポストに誰かが収まるには違いない。だが、それで解決する事か?
今「世界最強の軍」と謳われるルバルア帝国軍は、元々は貧弱極まりないものだった。変えたのはこの自分。日本式のやり方を導入して改革をした。それでもまだ僅か3年前の事だ。とても他の誰かに引き継げる段階ではない。時間をかけて、ゆっくり後継者を育てるつもりだった。今回の除隊は想定外もいいところだ。それ故、現時点で大将が務まるのは自分の他いない。
忠誠心だの愛国心だの、そんなもの、転生者の自分には初めから欠けている。国が無くなっても、自分はどうという事はない。国家に固執するのが馬鹿馬鹿しいとさえ思っている。しかし、国民は? 一般人はどうなる。彼らには守ってくれる国家が必要だ。武力を持たない彼らには抵抗する術すべがない。
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エウラ
BL
植物好きの青年が不治の病を得て若くして亡くなり、気付けば異世界に転生していた。
かつて管理者が住んでいた森の奥の小さなロッジで15歳くらいの体で目覚めた樹希(いつき)は、前世の知識と森の精霊達の協力で森の木々や花の世話をしながら一人暮らしを満喫していくのだが・・・。
※主人公総受けではありません。
精霊達は単なる家族・友人・保護者的な位置づけです。お互いがそういう認識です。
基本的にほのぼのした話になると思います。
息抜きです。不定期更新。
※タグには入れてませんが、女性もいます。
魔法や魔法薬で同性同士でも子供が出来るというふんわり設定。
※10万字いっても終わらないので、一応、長編に切り替えます。
お付き合い下さいませ。
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