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第四部

第二十五章 楪、照り輝く 其の七

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◆◇◆

 桜や紅葉もみじが色づいた庭を横目に、利勝は滑るように回廊を歩く。
 大姥局の部屋の前で一礼すると、ズカズカと入っていった。

「お加減はいかがにござりまするか?」 
 早々はやばやと火鉢を横に置き、一人、脇息けそくにもたれ掛かっている大姥局に、老中が声をかける。 
「ふふ、歳には勝てぬ。」 
 柔らかく微笑み、大姥局は利勝を迎えた。 
「らしゅうございませぬな。」 
 どかりと腰を下ろし、ニヤリと利勝が笑う。 
「さようか?」 
 老乳母もニンマリとする。 
「らしゅう、ございませぬ。」 
 太い眉毛を大きく動かし、利勝が優しく咎めた。 
「そうか。」 
 大姥局が「ふふふ」と柔らかに笑う。 
「しかし、大炊頭おおいのかみ殿が上様を支えて天下を動かすのじゃ。私も年を取ろう。」 
 微笑んだまま、大姥局がチロリと利勝を見た。 
「そのようなねぎらいのお言葉をくださるために呼んだのではありますまい?」 
 利勝も、チロリと大姥局を見る。 
「オホホホッ、さすがは大炊頭殿じゃ。」 
 大姥局が以前のような高笑いを響かせた。 
 その聞き慣れた響きに、(ご本復になられたようじゃ。)と利勝が安堵する。 
 大姥局の目配せに、控えていた由良たちも下がる。

「近う。」 
 前に座っている利勝を大姥局はさらに手招きし、利勝が大姥局のすぐ近くに寄った。 
「またなにやら面倒なご用にござりまするか?」 
「面倒?かの?」 
 口許を引き締める利勝に、大姥局は微笑む。 
「まぁ、お聞きいたしましょう。」 
 利勝が仕方なさそうな顔をした。 

 大姥局が脇息から体を起こす。 
「うむ。静がの、子を宿した。」 
 低い声で静かに大姥局が伝える。 
「はっ? 子を?」 
「うむ。」 
「上様のでございまするか?」 
「無論じゃ。」 
 目を剥いた利勝に、大姥局は淡々と返事をした。 

 (続いておったのか…) 
 近頃、まつりごとに忙殺され、奥の話を秀忠から滅多に聞かなかった。聞いたのは、御台所や子供の話…それも、豊臣に絡めての話だけであった。 
 (続いておったのか……) 
 利勝は、なんだか不可思議な感じがしつつ、(秀忠あやつもやはり男であったか……)と口角こうかくを少し上げた。 

「で、上様には。」 
 真面目な顔を作り、利勝が問う。 
「折を見て申し上げる。大御所さまからのごめいもあるゆえ、生ませる。」 
 大姥局らしく、必要なことをまず伝える。 
「しかし……」 
「無論、外へ出してじゃ。大御所さまは見性院さまの元でとおっしゃられたが、よい機会ゆえ、私も下がって私の屋敷で生ませようと思う。」 
 落ち着いた声で計画を打ち明ける大姥局に、再び利勝は目を剥いた。 
「下がられるのですか?」 
 尋ねる声が裏返っている。 
「うむ。」 
 利勝には、静が子をした以上に、大姥局が下がるとの方が予想外であった。 

「上様がお許しになりましょうや。」 
 自分の狼狽ろうばいを利勝は、秀忠に転嫁する。 
此度こたびばかりは、お許しいただく。」 
 利勝の言葉に、気を落ち着けるように一度目を閉じた大姥局が、しっかりと目を開き、重々しく宣言した。 
 誓うようなその響きに老女の決心が伝わる。 
 (侍女のために?) 
 利勝は秀忠一途に生きてきたはずの大姥局の言葉に、内心戸惑っていた。 

「静がの。」 
「静が?」 
 大姥局の言葉を利勝が反復する。 
「『一人で育てるゆえ、暇をくれ』と泣いての。」 
「静が?」 
 溜め息をつくような大姥局の言葉、そこで語られた静の言葉も、利勝には意外であった。 
 (将軍の子を宿したというのに? 自分から下がるじゃと?) 

「じゃが、そうもゆかぬ。上様のお子じゃ。」 
 老乳母が背筋を伸ばした。 
「…まこと、上様のお子でございまするか?」
 怪訝そうな利勝の顔に、大姥局は眉をひそめ、同じように怪訝そうな顔をする。 
 ひそやかな利勝らしくない言葉がなにを表すのか、大姥局は考え込んでいる。
 利勝が、皺深く怪訝そうな顔に申し開きをした。 
「いえ、上様の子を宿して自分から下がるなど……」 
「それが、静という女子おなごじゃ。」 
 大姥局がやんわりと微笑んだ。 
「それゆえ、私も下がろうと思うのじゃ。上様のお子であるからの。」 
 微笑んでいた顔が、きりりと引き締まる。 
 利勝が難しい顔で頷いた。 

「さようにございまするな。確かに上様のお子と知れれば……」 
「そうじゃ。その懸念もある。」 
 二人の脳裏に、長丸と呼ばれた秀忠の長男が浮かんだ。元気に生まれたものの、あっけなく死んでしまった。 
 あまりのあっけなさに、狙われたのではという噂までたったのである。 
 生まれる子が男か女かはまだわからない。しかし、男子で将軍の子だと分かれば、担ごうとする者が近づくだけではない。逆に、排除しようという不穏なやからが近づく恐れもあった。 

 大姥局が難しい顔をして、脇息に腕を置いた。 
「利勝殿、豊臣と戦になれば、上様はこの先、地獄を見られよう。御台様よりも辛い思いをなされるはずじゃ。そのようなときこそ、今まで以上に上様を支えて差し上げたいと思う。」 
 辛そうな顔で、静かに老乳母は利勝に打ち明ける。 
「ならば…」 
 利勝の言葉をさえぎり、大姥局がゆっくりとかぶりを振った。 
「しかしの、それはもう、とうに御台様のお役目じゃ。ことに豊臣と戦となれば、上様のお心の闇は御台様しか慰められまい。同じ悲しみを持つ御台様にしかの。」 
 少し微笑んだ大姥局が天を仰いで一息ついた。 
「私も静もそこには入ってゆけぬ。いや、私たちが慰めてはならぬ。邪魔になるだけじゃ。 荷は重いであろうが、御台様に負うていただかねばならぬ。 ……重荷を負われる御台様のためにも、上様のためにも静と子はここにおってはならぬのじゃ。」 
 乳母は小さな声であったが、威厳に満ちてきっぱりと言い切った。 
 利勝は大姥局の深い思いに、今更ながら何も言えずにいる。 

 庭でチチチと小鳥の声がした。 
「静かじゃの……」 
 感慨深げに大姥局が言う。 
 利勝はその言葉の裏に『戦がない』という思いを察する。確かに世は静かだが、まだ落ち着いてはいない。 
 大姥局が遠い目をして、再び口を開いた。 

「上様と大炊頭殿が豊臣との戦をなんとか避けようと奮闘しているのは存じておる。しかし、今は四分六、いや、三七さんななほどで上様の分が悪かろう。」 
 利勝が一旦いったん目を見開いて、唇をきゅっと結んだ。 
 一介いっかい乳母めのとだというのに、どのような情報網をもっているのかと、大姥局の顔をはたと見すえる。 
「それを上様もわかっておられるな。」 
 利勝の視線に気づき、大姥局もキリリとした顔で見返した。 
「…はい…。……しかし……」 
 うつむき加減で珍しく利勝が口ごもる。 
「『まだ諦めておらぬ』であろう?」 
「その通りにて。」 
 大姥局の言葉に、利勝は溜め息をつき、額をペチリと叩いた。 
 乳母の顔が優しく緩み、「ふふふ」と笑い声をたてる。 
「あの執念深さは、やはり大御所さまのお子じゃな。」 
「さようでござりまするな。」 
 二人は将軍を思いだし、どこか仕方無さそうに、しかし、愛しそうな笑顔になった。 
 うんうんと幾度か頷いた大姥局の顔が、再び真顔となる。 
「上様は世の習いなど目に入れず、最後の最後まで些細な望みにすがられるじゃろう。しかし、思うようにいかぬこともあるのが世の定め。」 
 戦国の有為転変ういてんぺんを目の当たりにしてきた老女は、さすがに溜め息をついた。 
「そうなったときの上様が心配なのじゃ。」 
 大姥局は額に手を当て、養い子を案ずる。皺の寄った目尻にキラリとしたものが光ったように利勝には見えた。 

「城に戻れば御台様が慰めてくれよう。しかし、戦場いくさばに御台様はついてはいかれぬ。 上様はお優しい方じゃ。様々なことを自分の身に重ねて悩み、惑われよう。」 
「確かに。」 
 利勝の相槌に、大姥局が祈るように目を閉じる。 
 利勝は、大姥局がこれまでいかに心を砕きながら秀忠を支えてきたかを、改めて感じとっていた。 

「甚三郎。」 
「はいっ。」 
 ゆっくり目を開けた大姥局が、懐かしい名で重々しく利勝を呼び、利勝は反射的に子供の頃のような返事をした。 
「城外で上様が頼れるはそなたしかおらぬ。戦場では、そなたが上様を助けてやってくれ。」 
「はっ。」 
 眉間に皺を寄せた大姥局の久方ぶりのめいに、利勝は礼儀正しく頭を下げる。 
「よい返事じゃ、甚三郎。くれぐれも頼みましたぞ。」 
「おまかせくださりませ。」 
 やっと微笑んだ乳母に、利勝は自信に溢れた笑顔で頷き返した。 

******* 
【有為転変[ウイテンペン]】 
世の中のことは同じでなく、常に移り変わること。諸行無常。

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