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第四部

第二十二章 紅梅、散り急ぐ 其の三

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 家康と話が終わったあと、秀忠は池田輝政と主上おかみへ書状を書いた。頻繁ひんぱんに溜め息をつく将軍を、利勝が絶妙の間で助ける。 
 書き上がったときには日の明るさもなかったが、すぐさま届けるよう指令を出した。 
 一通り終わらせた主従は、ふーっと大きく息をついた。 

「上様、一杯いかがでございますか。」 
 本多正信が、酒膳を持った侍女を従えて入ってきた。 
「おう、正信。酒もじゃが、腹が減っておる。」 
 秀忠は疲れた情けない声を出した。 
「餅でも焼きまするか。」 
「あるのか。」
市姫ひめ様へのお供えにもしておりまする。」
「さようか。では頼む。」 
 酒膳を置いた侍女が、餅の用意をしに下がった。 
「申し訳ございませぬ。江戸を留守にするのが長引きまして。」 
「気に病むな。ずっと、年賀の挨拶ができていないと、気を揉んでおったではないか。」 
 正月早々風邪を引いた正信は、如月きさらぎになってやっと、家康の元に参上し、年賀の挨拶を済ませた。すぐに帰るはずが、市姫の騒ぎでそのままになっている。 
まつりごとは滞りなく進んでおりまするゆえ、御案じめさるな。」 
 時々、必要以上に首を突っ込んでくる正信を煙たく思っている利勝が、思いやるように牽制けんせいする。 
「まぁ、このようなときじゃ。そなたがおってくれて、親父も心強いだろう。」 
「さようでございましょうか。」 
「ああ。江戸には少しゆっくりして戻ってくるがよい。」 
「ありがとうございまする。」 

 秀忠と正信ののんびりしたやり取りの中、餅と餅網を持った侍女が入って来た。 
「儂が焼くゆえ、そなたたちは下がっておれ。」 
 優しい笑みをして、正信が侍女を下がらせた。 
「私が焼こうか。」 
 秀忠が手を伸ばす。 
「盗み食いしようとお思いですな。」 
「そのようなことはせぬ。」 
「危のうござるな。じいが焼きまする。」 
 笑いながら餅を並べた正信だけでなく、利勝も、小さな頃から餅を焼いては頬張っていた秀忠を思い出し、口許が緩む。
 酒のさかな精進しょうじんの膳であったが、大根はほっこりと柔らかく煮てあり、蕗の薹ふきのとうの味噌がかけてあった。 
「うむ、うまい。」 
 秀忠はふんわりと湯気の立つ大根を口に運び、ほろ苦い春の香りに舌鼓したつづみを打つ。 
「上様も大人の味がわかるようになられましたか。」 
 正信が微笑みながら、真面目にからかった。 
「私とて、いつまでも子供ではない。」 
「さようでございまするなぁ。七人、いや、八人の子のお父上となられましたか。頼もしいものでございまするなぁ。」 
 老いた正信の悪気ない言葉に、菊菜きくなのゴマ和えを口に運びかけていた利勝がククッと笑う。 
 利勝を横目でにらんだ秀忠は、話題を変えなければと焦った。 

「正信、父上は太閤殿下のお手がつく前の淀の方様に会うたことがあるか。」 
 ふと思い出したように秀忠が尋ねた。今日、対峙したときの父の遠い目が気になったのである。 
御側室おへや様となる前のですか?」 
「そうだ。」 
「さようにございまするなぁ……、まだお小さい折り、信長公の御庇護ごひごの元のときなどにお見かけしているやもしれませんな。お母上のお市の方様は、我らのあこがれでありましたゆえ。」 
 のんびりと、やはりどこか遠い目をして、老臣は昔語りをする。 
「ふむ。そのあとは。」 
「さようでございまするなぁ……。大坂城に入られた後、お見かけするといたしましたら、高台院様のところぐらいではありますまいか。 利休様の茶席でもお名をあまり聞きませなんだ……。」 
 ふーむと、思い出をたぐり寄せる正信の話を、秀忠も利勝も黙って聴いている。
「小田原の時には、もうお側に上がってお子もお産みでしたゆえ、それくらいではございませぬかと。」 
「さようか。」 
「それが、なにか。」 
 ぼんやりと考え込む秀忠に、正信はなにか足らぬところがあったかと思った。 
「いや、よいのだ。」
 
 父は、もしや淀の方さまを想うていたのではないか。 
 あれほど固執するのは、想うている裏返しなのではないか。 
 父が多く側室を置くのは、想う人と結ばれていない、満たされない思いからではないか。 
 江を己の嫁にしたのも、淀の方さまと縁続きになりたいからではないか。 

 市の元で嘆き悲しむ、人間らしい家康を見たためか、秀忠の頭の中でそんな疑念が巡っていた。 
 (ふん、馬鹿馬鹿しい。あの親父に限って。) 
「焼けましたぞ、若。」 
 難しい顔をしている秀忠に、正信が懐かしい呼び掛けをした。 
 秀忠が、ふっと微笑んで餅をひょいと取り、てのひらの上で転がしながらフウフウと冷ます。 
 パクリとかじりついては、熱そうにホフホフと息をした。 
 子供の頃そのままの様子に、正信も利勝も思わずフフッと笑う。 
「相変わらず行儀が悪うございまするな。」
「これだけは、おばばさまも直せませなんだな。」
「これが一番美味いのじゃ。そなたたちも食べよ。」
 呆れる二人に、秀忠が笑顔を返した。 

「殿下が亡くなられたあと、淀の方さまが大御所さまを頼っておられれば、また違うたやもしれませんな。」 
 利勝も気になっていたのだろう、手を伸ばし、火鉢の上の餅をひとつ、くるりと裏返して言った。 
武士もののふが戦うは、女子おなごのためやも知れませんな。ならば、天下を動かしているのは、女子ということになりますな。」 
 チロンと秀忠を見て、「うわはははは」と豪快に声をたてたところで、利勝が急に手で口をふさいだ。市姫の喪中なのを思い出したのである。 
 珍しく慌てふためく利勝の様子に、今度はクククッと秀忠が笑った。 
「市もかわいそうであったな。」 
 膳に添えられた小さな蜜柑みかんが目に入り、秀忠がしみじみと言う。 
「あのように嘆く親父を初めて見た。」 
 呟くような秀忠の言葉に、正信が向き直る。 
「大御所様は、情の深いお方でござりまするぞ。」 
「親父が?」 
 秀忠は盃を持ったまま、怪訝けげんそうな顔を正信に向ける。 
「情が深いからこそ、非情になるのでございましょう。己が流されぬように。」 
 秀忠が黙って酒を飲んだ。利勝も黙っていた。 
 部屋の中をほのかに照らすあかりに、掛け軸の中の「天下」の文字が浮かんでいた。 

◆◇◆

 翌日、秀忠は利勝と共に龍泉寺に向かった。秀忠は一人で行きたかったが、利勝に 「ならば、後ろから勝手について参ります。」 と言われ、結局二人で向かっている。 
 駿府城からほど近いこの寺には、秀忠の母である西郷局さいごうのつぼねが眠っていた。 

「ここでよい。」 
 寺の門をくぐったところで、秀忠は利勝に待機を命じた。 
「私も参りさせていただきたいのですが。お世話になった方ですゆえ。」 
 利勝は、当然とばかりに秀忠の供を続ける様子である。 
「行かぬのですか?」 
「参る。」 
「では、参りましょう。」 
 利勝は渋い顔の秀忠を促し、その少し後ろを神経を張っていて行く。 
 いくらか花びらの残った白梅の木の隣で、母の墓標ぼひょうは穏やかな春の日差しを受けていた。 

 秀忠が一歩前に進み、五輪の塔の真正面で手を合わせる。 
 (母上…) 
 目を閉じ、静かに語りかけようとしたが、後ろからの大きな声に邪魔された。 
「西郷局様、いえ、お愛の方様。ご無沙汰いたしております。甚三郎じんざぶろうです。 甚三郎は息災ですが、長丸ながまるさまが、またなにやらウジウジと悩んでおりまする。泣き虫長丸さまに、『いかがした?大事ないぞ』と言うてやってくださいませ。」 
「利勝!」 
「あっ、それから、市姫という小さな姫がそちらへいきました。長丸さまの妹です。まだ四つになったばかりなので、まよい子になっているかもしれません。お愛の方様の御庇護をいただきますように、よろしくお願い致します。」 
 そう言うと、利勝は塔に向かって深く頭を下げた。 
 秀忠はあっけにとられて声も出せずにいる。 

「もうよいのですか?」 
 目を丸くして自分を見ている秀忠に、利勝が声をかけた。 
「いや、きちんとお参りする。」 
 改めて、秀忠は塔に手を合わせた。 
 (母上、私はたった一人の女子も幸せにできぬやもしれません…………母上…………) 

 秀頼殿を親父に挨拶させる。その願い文は、どう書いても豊臣を追い詰めるものでしかない。
 それは、江を苦しめるだけではないか。 
 しかし…… 
 『大御所様は情の深い方で深い方でございまする。だからこそ非情になるのでしょう。』 
 母上、まことにござりましょうや。あの父上が情が深いなど……。 

 秀忠は父と会ってから悩み、正信の言葉を聞いてさらに悩んでいた。 
 だから今日、母の元に来たのである。 

 利勝にはわかっていたか……。 

 まだひんやり冷たい風の中、水仙の甘い香りがどこからともなく運ばれてきた。 
 それはまるで、母にふわりと体を包まれたように感じた。 
 (母上……) 
 今一度、心の中で呟く。 
 (やってみせまする。) 
 秀忠はまなじりを見開き、石塔を見ると深々と頭を下げた。 
「帰るぞ。」 
 しっかりした声で利勝を呼びつけ、秀忠は歩き出す。 
 (腹をくくったか) 
 利勝は少し微笑みながら、背筋の伸びたあるじの後ろを附いて歩いた。 


******* 
【高台院】豊臣秀吉の正室、おね。
【龍泉寺】のちの宝台院
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